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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第四章 沈黙の灯

名前変更しました。

国家女性保安庁の「伊佐見 朱音」 → 「伊佐見 亜弓」




 雨が止んだ翌朝、東京の空はひどく薄かった。

 色が抜けたような灰白色の光が街を覆い、どこか、地表のすべてを均質にしてしまうような朝だった。


 橘花音香たちばな おとかは、窓辺に立って外を見下ろしていた。

 昨夜のこと——許可証の強制シャットダウン。

 NWAAからの通知。

 行動ログに残った“数値としての自分”。


 胸の奥に、不安が小さな金属片のように沈んでいた。

 それは痛みではなく、重さだった。

呼吸のたびに、肺の奥で擦れるような感覚。


 昨夜のこと——許可証の強制シャットダウン。

 NWAAからの通知。

 行動ログに残った"数値としての自分"。


 自分という存在が、もう自分だけのものではなくなっている。

 その事実が、朝の光の中でより鮮明になっていた。



 わずかな振動がテーブルで鳴った。

 スマホが震えている。


『おはようございます。昨日のこと、気になって眠れないかもと思って……大丈夫ですか?』

 ──未奈川葉介みながわ ようすけ


 短い言葉なのに、不思議と息が楽になる。

 音香は、親指が震えるのを抑えながら返信した。


『大丈夫……ではないけど、話したいです。今日の夕方、少し時間ありますか?』


 すぐに返事が来た。


『もちろん。誰かと話せるなら、それだけで救われます』


 その言葉に、胸が痛んだ。

 “救われる”という響きが、今の街には重すぎる。

 でも同時に、その重さが欲しかった。


 音香は深く息を吸った。

 今日、学院へ行く理由ができた気がした。



 ***



 東京帝国学院の構内は、いつもより人が少なかった。

 交差点での“軽微な誤作動”が大きく報じられた影響だろう。


 講義前、木原すずが駆け寄ってきた。


「ちょっと! 昨日のニュース見た? やっぱHazardEye壊れかけてるんだってば。だから言ったじゃん、誤判定率ゼロじゃないって」


 すずは声を潜めるわりに興奮していた。


「なんか、またバージョンアップ来るらしいよ。『恐怖応答の個人差を補正する』とか。意味わかんないよね」


 音香は、胸の奥が鋭く締めつけられる感覚に襲われた。


「恐怖……補正?」


「そう。人によって“怖い”の基準が違うから、統一値に合わせるんだって。すごくない? AIって。」


 恐怖を“統一値”──。


 その言葉が、氷のように刺さった。


 もし、昨日の“撃たなかった選択”が、“誤った恐怖判断”として補正されるのだとしたら──?


「……すず」

「ん?」


 音香は少しだけ迷った。

 言うべきか、言わないべきか。

 でも、言わなければ、この違和感は消えない。


「私……昨日、許可証を、強制的に切ったの」


 すずの手が、止まった。

 ペンが宙に浮いたまま、数秒が過ぎる。


「……なんで?」


 声のトーンが、わずかに変わった。

 明るさが、一段階落ちている。


「そうしないと——」


「音香、それ、マジで危ないよ」

 すずは声を潜めた。

「"怖さを正しく感じられない人"って、マークされるって聞いたことある」


「でも、私が感じた怖さは"正しくない"ってこと?」


「……そういうことじゃなくて」

 すずは視線を逸らした。

「システムと違う判断するのが、危ないってこと」


 音香は、何も言えなかった。

 すずは悪意で言っているわけじゃない。

 むしろ、心配してくれている。


 でも、その「心配」が、システムへの服従と区別がつかなくなっている。


「……ありがとう。気をつける」


 音香はそれだけ言って、会話を切った。


 すずは、少しだけ不安そうな顔をしていた。

 でも、それ以上は何も聞かなかった。




 講義室へ移動する途中、ふと振り返る。

 構内の空に、昨日より多くのドローンが浮かんでいた。


 それは、まるで街全体が「怖がるべき対象」を探し続けているようだった。



 ***



 昼休み、裏中庭を通ると、あの日の少年——日野遼太ひの りょうたが、また掃除をしていた。


 音香を見ると、彼は小さく頭を下げた。


「あの……この前は、ありがとうございました」


「いえ……何もしてないですよ」


「いえ、もしあのままだったら、俺……」


 言葉が詰まり、俯く。

 その肩が、ひどく細いのが見えた。


「今日、少し変だったんです」


「変?」


「俺が通ったら、学生の端末が一斉に音を出して……なんか、“警戒レベル上昇”とか……。俺、何もしてないのに」


 音香は、一瞬息が止まった。


 ——恐怖の“補正”。


 あれが導入されたのだろうか。

 数値が変われば、周囲の感じ方まで変わる。


「怖かった?」


 そう聞くと、日野は小さく頷いた。


「俺、何が“怖がられているのか”もう分かりません。自分が、何を間違えているのかも」


 その言葉は、音香の胸に深く刺さった。


「日野くん、あなたは……何も間違ってない」


 言いながら、自分にも言っている気がした。


「でも——」

 日野は、小さく首を振った。

「間違ってないって言われても、周りが"間違ってる"って感じたら……それが現実になるんです」


 音香は、息を呑んだ。


「この国では、"どう思われるか"のほうが、"実際に何をしたか"より強いから」


 その言葉が、音香の胸に深く刺さった。


 ——そうだ。

 私も、そうだった。


 あの日、何もしていない男性を撃ちかけたのは、

 彼が何かをしたからではなく、

 システムが「怖がるべきだ」と告げたから。


「……ごめん」


 音香は、思わず謝っていた。


「え?」


「私も……あなたみたいな人を、怖がっていたかもしれない。何もしていないのに、ただ"怖がるべき"って言われたから」


 日野は、驚いたように目を瞬かせた。


「でも……橘さんは、あのとき、俺を庇ってくれたじゃないですか」


「それは——」

 音香は言葉に詰まった。

「それは、もう我慢できなかっただけ。怖がることに、疲れたから」


 日野は、少しだけ笑った。

 その笑みは、どこか大人びていた。


「橘さん、強いですね」


「強くなんて——」


「いえ。"疲れた"って認めることが、もう十分強いです。この街では、誰も"疲れた"って言えないから」



「今日は——許可証、持ってますか?」


 彼はぎこちなく首を振った。


「持ってないです。未成年の男子は、持てないですから。だから、ただ……避けられるしかできない」


「……そうだよね」


 音香は思った。

 撃つ側の恐怖と、撃たれる側の恐怖は、きっと違う。

 でも、その重さは比べられないのだと。


「気をつけて帰ってね」


「はい。橘花さんも……気をつけてください」


 彼の言い方は、どこか大人びていた。

 “自分を守れない人間の目”をしていた。



 ***



 放課後。

 夕暮れの渋谷。

 音香は、葉介と待ち合わせた。


 薄い霧のような光がビルの谷間を漂い、

 歩く人々の影が溶けていく。


 葉介は、駅近くの細い通りで待っていた。


 顔色はよくない。

 でも、目だけはしっかりとこちらを捉えている。


「来てくれて、ありがとうございます」


「来たかったから」


 言って、少し照れた。

 その言葉が、自分でもこんなに素直に出るとは思っていなかった。


 しばらく並んで歩いた。

 人通りの少ない裏道へ入る。


「……今日は、少し話をしませんか」

 葉介が言う。


「うん」


「撮った映像を、見せたいんです。あの、誤作動の——“赤ラベルの映像”。あなたに……見てほしい」


 音香の胸が跳ねた。


 ——見たい。

 見なきゃいけない。


 その両方の感情が、同時に湧き上がる。


 音香が頷こうとした瞬間——


 街頭スピーカーが突然、低く唸った。


『——注意。

 警告:この区域において害意レベルが上昇しています。

 付近の男性は速やかに隅に寄り、女性は許可証を準備してください。』


 通りを歩く人々が、ざわりと動いた。


 葉介の表情が凍る。


「……また、始まった」


 音香の許可証が、バッグの奥で震え始めた。


 ——まただ。


 数字が上がる。


 恐怖が、伝播する。


 誰のものでもない恐怖が。


 音香は息を吸い、葉介の腕を掴んだ。


「行こう。ここ、危ない。隠れられる場所……!」


 彼は小さく頷いた。


 二人は駆けだし、

 夜の渋谷の細い路地へ消えた。


 背後では、またひとつ警告音が鳴り始めていた。




 雨上がりの路地は、湿ったアスファルトの匂いが濃く残っていた。

 人混みのざわめきよりも、上空のドローンの羽音のほうがよく聞こえる。


 音香は葉介の腕を掴んだまま、ビル横のメンテナンス通路へ駆けこんだ。

 表通りよりも暗い。

 けれどその暗さが、逆に守られているように感じられた。


「ここなら、一時的に——」


 言いかけたところで、スマホが震えた。


『HazardEye区域警戒:レベル2 推定害意源:識別中』


 識別中。

 その単語が、肺の奥を冷やした。


 周囲のどこかに、“誰か”ではなく、“恐怖の原因”があると判定されている。

 しかしそれは——本当に存在しているのか?


「とにかく、動かない方がいい」


 葉介が、声を潜めて言った。


 彼もまた、肩の包帯の下で震えている。

 あの日撃たれた痛み——ではなく、記憶の痛みが。


 数秒の沈黙。


 上空を、一機のドローンが低く横切る。

 視界認識用レーザーが薄く地面を撫でるように流れる。


 “見られている”という感覚が、肌にまとわりつくようだった。


「……ここで、映像、見せてもいいですか」


 葉介が、小さく息を吸った。


「こんな状況で……?」


「こんな状況だから、です。“怖さ”がどこから来るのか、確かめたいんです」


 音香は、迷いながらも頷いた。


「わかった。見せて」


 彼はバッグから小さなデバイスを取り出し、イヤホンを二つに分けて片方を音香に渡す。

 画面が光り、動画のサムネイルがいくつも並んだ。


 赤いラベルのついた映像。


 “使ってはいけない現実”。


「これは……」


「交差点の、別角度です。放送では流れなかった部分」


 再生。


 昼の雑踏。

 歩く人々。

 突然鳴り始める警告音——。


 映像の中の男性が、ただ振り向くだけで害意スコアが跳ね上がる。

 女性たちが叫び、ドローンが侵入し——

 その瞬間、画面が揺れ、閃光とともに男が崩れ落ちた。


 だが、続きがあった。


 倒れた男の傍で、幼い女の子が泣き叫びながら父親の手を掴んでいる。

 父親は微かに動く。

 息もある。

 しかし、周囲の誰も彼らに近づかない。


 女の子は父の胸に縋りつき、肩を震わせ——

  画面が切れた。


 音香は、涙が浮かぶのを必死に堪えた。


「これ……どうして、放送されなかったの?」


「"混乱を招くから"だそうです」


「混乱してるのは……もう、街全体なのに」


 音香は、震える手で画面に触れた。

 冷たいガラスの表面に、自分の指紋が残る。


「あの子……今、どこにいるんだろう」


「わかりません。でも……」

 葉介は、画面を見つめたまま言った。

「たぶん、誰も教えてくれません。"その後"は、ニュースにならないから」


「……それって」


「そう。"安心した後"に、何が残るかは、誰も気にしない」


 音香の喉が、詰まった。


 あの子の泣き声が、まだ耳の奥に残っている。

 それは映像の音ではなく、心が作り出した音だった。



 少し間が空いて、別の映像が流れ出した。


 薄暗い地下通路。

 フードをかぶった男が歩く。

 害意スコアは低い。


 そこへ、後ろから走る足音。

 息を切らした女性が迫って来る。


 HazardEyeの表示が乱れ、数値が跳ね上がる。

 ——誤判定。

 ——撃発。


 男は倒れ、女性は叫ぶ。

 「違う、違う、そんなつもりじゃ——」


 そこまで見たとき、音香は画面を閉じた。


「もう……いい」


 喉が痛かった。

 呼吸も浅くなる。


「これが……“危険だから見せない”って、そういうことなの?」


「危険だからじゃない。“見られると不都合”だからです」


 葉介の声は、酷く静かだった。


「誤作動は、想像よりずっと多い。でも、ニュースは全部“適切な処理”に変換する。街は、おとなしく安心していてほしいから」


 音香は、自分の手が震えているのに気づいた。


 恐怖の震えではない。

 怒りに近い震えだった。


「……私、今日、自分を撃ちそうになった」


 葉介が、驚いたように顔を上げた。


「許可証が勝手に作動して……。目の前の男性が少し怖く見えただけで、スコアが上がって……あれ……もし私が、もう少し迷っていたら——」


 言葉が喉に詰まる。


「俺も、危なかった。今日、また誤作動の現場を撮った。逃げ遅れてたら、今ここにいなかったと思う」


 静寂が路地の奥に積もっていく。


 ドローンが、また一つ通り過ぎた。

 やけに低い位置を飛んでいる。


 葉介はイヤホンを外し、小さく言った。


「……俺たち、そろそろ限界なんじゃないでしょうか」


「限界?」


「街が、です。人間じゃなくて、システムのほうが。“恐怖”を正しく扱えていない」


 その言葉が、胸の奥に溜まっていたものと一致した瞬間——


 スマホが再び震えた。


 今度は——“緊急速報”。


『HazardEye広域警戒:レベル3 渋谷区内にて連続誤作動の可能性。全女性は防衛準備、男性は退避区域へ——』


 音香は息を呑んだ。


 広域誤作動。


 そんなもの、ニュースでは聞いたことがない。


「葉介……!」


「わかってます。ここにいたら危ない」


 二人は顔を見合わせた。


 胸の鼓動が速い。

 でも、走らなければならない。


「このまま駅のほうに——」


 言いかけた瞬間。


 通りの奥で、女性の叫び声が上がった。


「やめて!違うの、撃たないで!!」


 続いて、乾いた銃声が二発。


 路地全体が、凍りつくように静まった。




 銃声が響いたあとの世界は、妙に静かだった。

 風も、遠くの車の音も、すべてが一瞬、薄い膜の向こう側に押し込められたように感じられた。


 音香は、反射的に葉介の腕を掴んだ。


「今の……麻痺銃の音……だよね?」


「間違いありません。近い……この路地の奥です」


 音香の心臓が、喉の奥で跳ねた。

 逃げる? 近づく?

 選択を迫られているのに、足だけが固まって動かない。


 そのとき。


 暗い路地の向こうから、ひとりの女性がよろめきながら出てきた。

 制服姿。

 腰には、警備員用の許可証ホルスター。


 紅林実倭くればやし みわ——

 あの交差点で誤作動に巻き込まれ、撃つ寸前だった女性。


 息が荒く、目は焦点を失っている。


「……違うの……違うの……! 私は……私は、撃つつもりじゃ……!」


 手に握られた麻痺銃が、微かに震えていた。


 その後ろの路地には、倒れた男性がひとり。

 動いているのかどうか、遠目には分からない。


 女性は、自分の手を見つめながら震えていた。


「HazardEyeが……スコアが……」


 紅林の声は、壊れかけたスピーカーのように震えていた。


「私……私じゃないの……っ」


 その言葉を聞いた瞬間、音香は理解した。


 ——この人は、自分の意志を失っている。


 恐怖が、判断が、行動が——

 全部、システムに委ねられている。


「私のせいじゃ……私のせいじゃないの……スコアが……跳ねたの……勝手に……私は……ただ……従っただけ……」


 紅林は、自分の手を見つめていた。

 その手が、今さっき何をしたのかを、

 彼女自身が信じられないでいる。


「私……正しいことをしたの……? 教えて……誰か……教えて……」


 音香の胸が、締めつけられた。


 ——この人は、私だったかもしれない。


 あの日、もし引き金を引いていたら。

 あの日、もし数ミリだけ指が動いていたら。


 今、ここにいるのは私だった。


 彼女の問いに答えられなかった。

 正しいかどうかなんて、今の街には定義できない。


 音香は、ゆっくりと紅林に近づく。


「紅林さん……銃を下ろして」


「だめ……下ろしたら……“怯えていた”って……判断される……。私、仕事、なくなる……。撃たなかったら、責められる……。撃ったら、責められる……。じゃあ……私は……私は、どうすれば……」


 紅林の声が、涙と混じって途切れる。


 そして——


 彼女の許可証が突然震えた。


『警告:周辺害意反応を検知 再撃発準備——』


 時間が、止まった。


 音香の視界の中で、すべてがスローモーションになる。


 紅林の指が、引き金にかかっていく。

 葉介が、咄嗟に身を伏せる。

 上空のドローンが、赤いライトを点滅させる。


 そして——


 音香の身体が、勝手に動いた。


「やめて!!」


 叫びながら、紅林の腕を掴んだ。

 許可証のリリースボタンを、渾身の力で押し込む。


 ——もう誰も、撃たせない。


 その思いだけが、音香を動かしていた。


 カチン、と硬い音。


 許可証の光が一瞬強く点滅し——

 次の瞬間、すべての表示が消えた。


 世界が、音を取り戻した。


 紅林の身体から力が抜け、銃が地面に落ちる。

 金属が石を叩く音が、やけに大きく響いた。


 そのまま、女性は崩れるようにしゃがみ込み、両手で顔を覆った。


「……こわいの……私は、何が怖いのか……もう……わからない……」


 音香は、ゆっくりとしゃがんで、紅林の肩に手を置いた。


「怖いのは……あなたじゃない。“何を怖がればいいかを決める街”のほうが、よっぽど怖い」


 言葉は自然に出た。

 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。


 そのとき——


 背後で、複数のブーツ音が響いた。


「警備隊です!そこを動かないで!」


 路地の入り口を、黒い制服の女性たちが塞いでいた。


 その中心に——

 国家女性保安庁 第三課の伊佐見亜弓いさみ あゆみが立っていた。


 冷たい光を反射する目。

 迷いのない歩幅。

 揺れのない声。


「橘花音香さん。あなたの行動ログ、確認しています。"二度目の強制シャットダウン"ですね」


 亜弓の声は、感情を排した報告書のようだった。


 でも——


 音香は気づいた。

 亜弓の目が、わずかに揺れていることに。


 それは恐怖でも怒りでもない。

 もっと複雑な、名前のつけられない感情。


「あなたは、自分が何をしたか分かっていますか?」


 その問いには、罰を意味する響きがあった。

 けれど——


 音香は、下を向かなかった。


「はい。わたしは……"撃たないこと"を選びました」


 亜弓の表情が、わずかに揺れた。

 ほんの一瞬だけ。


 その揺らぎの中に、音香は何かを見た。


 ——この人も、迷っている。


 完璧な監視者のように見えて、

 その奥には、何かが引っかかっている。


「その選択は……この国では、危険です」


「——でも、必要です」


 音香の声は、震えていなかった。


「怖がりすぎる街で、怖がらない選択は……誰かがしないと。わたしは、あの人を撃ちたくなかった。誰も撃ちたくない。──それは、間違いじゃないと思う」


 数秒の静寂。


 亜弓は、ゆっくりと息を吸った。


 その息の音が、まるで何かを飲み込むようだった。


「……あなたの言葉には、答えられません」


 亜弓の声が、わずかに低くなった。


「でも——」


 そこで亜弓は、わずかに目を伏せた。


 その仕草が、初めて「人間」を見せた瞬間だった。


「“撃たなかった女性のログ”は、非常に貴重です。後日、正式に面談があります。今日のところは、帰りなさい。……あなたも、未奈川葉介さんも」


 葉介は驚いたように身を固くした。


「俺も……監視対象ですか?」


「はい。あなたは“危険な映像”を複数所持している。その事実は変わりません」


 言葉は冷たい。

 だが、攻撃性はなかった。


 亜弓は最後に、紅林を部下に預けながら、小さく言った。


「橘花さん。今日のあなたのログ……“危険行為”にも“違反行為”にも分類できません。ただし——“前例のない行為”として、記録されます」


 それは、警告ではなく事実の告知だった。


 亜弓たちが路地から出ていくと、空気が急に軽くなったように感じられた。


 葉介が、ゆっくりと音香に近づく。


「……大丈夫ですか?」


「うん……大丈夫……」


 震えている自分の声が、妙に遠く感じられた。


「音香さん……あなた、本当に……すごい人だ」


 その言葉に、音香は首を振った。


「すごくなんてない……ただ……怖かっただけ。撃つのが怖くて……撃たないのが怖くて…… でも……誰かが止めなきゃ、もっと怖いことになる気がして……」


「その気持ちがあれば、十分です」


 葉介は、静かに微笑んだ。

 雨も、霧も、ドローンの光も、その表情の温度を奪えなかった。


 音香は、胸の奥で小さく息を吐いた。


「……行こう。ここ、もう危ない」


「ええ」


 二人は並んで歩き始めた。

 路地を抜ける風が、少しだけあたたかかった。


 その夜、街は緊急警戒のまま明かりを落としていった。


 ドローンの光が、いつもより多く空を埋めている。

 人々は、いつもより早く家に帰る。

 路地は、いつもより静かだ。


 でも——


 その静寂の中で、ひとつだけ、灯ったものがあった。



 国家女性保安庁のデータベース。

 無数の記録が積み重なるその中に、

 小さな、でも消えない一行が刻まれた。


 行動分類:未定義

 内容:"撃たない"という選択

 評価:保留


 それは、危険行為でも違反行為でもなく、ただの「前例のない行為」として記録された。


 その記録を見つめる亜弓の目に、

 わずかな揺らぎがあった。


 ——もしかしたら。


 彼女は思った。


 ——もしかしたら、この選択が正しいのかもしれない。


 その思考を、亜弓はすぐに打ち消した。

 でも、完全には消せなかった。


 その小さな揺らぎが、

 硝子の街に、最初の亀裂を刻んでいた。




 音香も、葉介も、まだ知らない。

 自分たちの選択が、どこまで届くのかを。


 でも、一つだけ確かなことがあった。


 今夜、誰も撃たれなかった。

 今夜、誰も撃たなかった。


 その事実だけが、暗闇の中で静かに輝いていた。





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