第三章 亀裂の街(後編)
その夜。
橘花音香は、一人で街を歩いていた。
学院から駅へ向かう、いつもの道。
だが、心の中の風景は、いつもよりざらついていた。
街灯の光が、歩道に薄い輪を落とす。
その輪を一つずつ踏んでいくように、足を運ぶ。
バッグの中で、黒いケースがかすかに動いた気がした。
許可証。
ここ数日は、触れないようにさえしていたもの。
——今日は、触れないでおこう。
病室を出た日、そう決めたはずだった。
だが、世界はその決意を待ってはくれない。
カチ、と小さな音がした。
バッグの内ポケットの中で、許可証が自動認識モードに切り替わった音だ。
HazardEyeが近くのセンサーと同期したのだろう。
『周囲環境をスキャン中——』
低い振動とともに、機械音声が耳に届く。
と、同時に。
前方から、一人の男性が歩いてきた。
背広姿、ネクタイを緩め、肩に疲労の色を漂わせたサラリーマン風の男。
偶然だ。
ただ、それだけの。
はずだった。
『害意予測:四十二パーセント』
耳元で、音声が囁いた。
「……え?」
音香の足が止まる。
四十二パーセント。
低くはない。
ニュースで見る危険人物の数字に近い。
男は、まだこちらに気づいていないようだった。
ただ、スマホを見ながら、何気なく歩いているだけに見える。
——本当に?
心臓が、喉の奥で跳ねた
バッグの中で、許可証がさらに強く振動する。
『防衛行為を推奨します。あなたの安全のために』
何かが、自分の意志とは別に動き出している感覚。
音香は、慌ててバッグのチャックを開け、中を探った。
「ちょっと、やめて……」
指先が許可証に触れる。
ひやりとした感触。
その瞬間、画面に文字が浮かび上がった。
『自動連携モード:ON』
『周辺害意スコアに基づき、防衛行為を補助します』
——勝手に、決めないで。
喉元まで出かかった叫びは、音にならなかった。
前方の男性との距離が縮まっていく。
十メートル。
七メートル。
五メートル。
音香の手が、許可証を握りしめる。
引き金にかかる指を、必死で抑え込む。
『害意予測:四十八パーセント』
『相手の視線が接近——』
『相手の歩行速度が変化——』
数字が、矢のように突き刺さってくる。
男が、顔を上げた。
偶然、視線が交わる。
音香の指が、引き金に触れた。
その瞬間、別の記憶がフラッシュバックした。
——あの日の路地。
——倒れた男。
——葉介の肩から流れる血。
「やめて」
誰に言っているのかわからなかった。
自分にか。
許可証にか。
それとも、この街全体にか。
男が、こちらを見た。
その目には、何の害意も見えなかった。
ただ、少しだけ怯えている。
——ああ、この人も。
音香は気づいた。
——この人も、私を怖がってる。
自分が"撃てる側"の人間だと、相手はわかっているのだ。
その恐怖が、HazardEyeのスコアを上げているのかもしれない。
恐怖が、恐怖を生む。
その連鎖の中で、誰が最初に怖がったのかなんて、もうわからない。
「これは、私の恐怖であって——」
音香は、はっきりと呟いた。
「あなたの"害意"じゃない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
男か。
HazardEyeか。
許可証か。
あるいは、自分の心そのものか。
許可証の電源ボタンを、ぐっと押し込む。
システム的には推奨されない、強制シャットダウン。
画面が一瞬、警告色に染まり——
次の瞬間、すべての光が消えた。
振動が止む。
指先の痺れだけが残る。
男は、何も知らない様子で、彼女の横を通り過ぎていった。
視線が交わることもなく。
ただ、少しだけ歩幅を狭めて。
音香は、その場に膝をついた。
足に力が入らない。
肩で大きく息をする。
肺に入った空気が、熱くて苦しい。
——今、私の指は、本当に止めたの?
ほんの数ミリ。
引き金は、その程度の距離でしかなかったはずだ。
数ミリの“やめておこう”と、“正当防衛です”の差。
その薄さが、初めて全身を貫いていく。
怖い。
男が怖いのではない。
HazardEyeが怖いのでもない。
——自分が、一番怖い。
自分の恐怖が、人を殺しかけた。
その事実が、何よりも重かった。
部屋に戻ったときには、夜のニュースがちょうど始まるところだった。
リビングの薄型スクリーンには、交差点の空撮映像が映っている。
昼間の大規模誤作動事件は、すでに「制御下の軽微なトラブル」としてまとめられていた。
『市民に怪我人は出ませんでした。一部の男性が軽度の麻痺を訴えていますが、命に別状はなく、HazardEyeの迅速な判断が——』
いつものフレーズ。
いつもの安心。
音香は、テレビを消した。
部屋の静寂が、逆にうるさく感じる。
椅子に腰を下ろし、バッグから許可証を取り出した。
黒いケースの表面には、薄く指紋が残っている。
それを親指でなぞる。
「……あなたに、全部押しつけるのは、ずるいよね」
誰にともなく呟く。
許可証は何も答えない。
ただ、電源を落とされた機械として、そこにあるだけだ。
テーブルの上に、静かに置く。
もう少し強く机に押し当てれば、簡単に壊れるだろう。
けれど、壊せない。
壊した瞬間、自分が“義務を放棄した危険人物”になることを、制度が保証しているから。
逃げ場は、最初から用意されていない。
スマホの画面を開く。
連絡先一覧をスクロールし、一つの名前で指が止まる。
——未奈川葉介。
さっきまでの自分なら、ここで画面を閉じていたかもしれない。
それが一番安全だから。
けれど、今は。
許可証の重さを、誰かに見ていてほしくなった。
自分以外の誰かに。
迷いは、あった。
でも、指は動いた。
『今夜、少しだけ話せませんか。あなたの言っていたこと、少しだけわかった気がします』
文章を打ち終えて、送信ボタンに触れる。
次の瞬間、メッセージは青い泡になって画面の右側に並んだ。
送ってしまった。
胸の奥で、何かが落ちるような感覚。
もう後戻りはできない。
数分後。
スマホが震えた。
『大丈夫ですか。俺も、今日いろいろ見てしまって。話せるなら、話したいです』
続けて、もう一通。
『俺、もう逃げたくない。ちゃんと、この街を撮りたい。何が起きているのか、見えないままにしたくないから』
画面の文字が、じんわりと滲んで見えた。
涙なのか、疲労なのか、自分でも分からない。
返信を打とうとした、そのとき。
スマホが、別の通知音を鳴らした。
画面の上部に、小さなウインドウが現れる。
『NWAAよりお知らせ』
『あなたの本日の行動ログが、国家女性保安庁に送信されました』
『理由:防衛装置の強制シャットダウン操作検出』
時間の記録。
場所の記録。
相対位置情報。
全てが、事務的な文字列になって並んでいる。
数分前の、自分の震える指の動きまで、数字として残されているのだろう。
さらに、もう一つ小さな追記が表示された。
『関連通信ログ:一件』
心臓が、どくりと鳴る。
関連通信。
おそらく、それは——
未奈川葉介とのメッセージのやり取りだ。
喉が乾く。
部屋の空気が急に薄くなった。
——見られている。
わかっていたはずの事実が、突然、現実の厚みを増す。
硝子越しに眺めていた街が、急にこちらを見返してくる感覚。
自分が“見る側”から“一つのログ”に落とされる瞬間。
画面の隅には、小さなリンクが表示されている。
『詳細の確認は、NWAAポータルへ』
指を伸ばそうとして、止めた。
知りたくなかった。
自分の一日が、どんな風に切り分けられ、評価され、保存されるのか。
音香は、スマホを伏せた。
テーブルの上に、許可証と並べて置く。
どちらも、静かだ。
ただの物体として、そこにある。
でも、その沈黙の向こう側で、この街のどこかの部屋では——。
***
白い壁と、無機質なデスクが並ぶ部屋。
国家女性保安庁、監視・評価部 第三課。
伊佐見亜弓は、ディスプレイに表示されたログ一覧を、淡々とスクロールしていた。
表情はほとんど動かない。
癖のない黒髪をひとつに束ね、制服の襟元はきっちりと詰められている。
「……強制シャットダウン」
小さく呟く。
今日だけで、複数件。
誤作動を恐れて許可証を切る女性が、じわりと増えている。
その中の一件に、伊佐見の目が止まった。
『ID:WADL-39-TEA-******
氏名:橘花 音香
年齢:二十歳
所在:東京帝国学院 女子部』
行動ログ。
位置情報。
数分後に送信された通信ログ——。
伊佐見は、しばらくその画面を見つめていた。
何かを“怪しんで”いるわけではない。
彼女の仕事は、ただパターンを識別し、数字を積み上げることだ。
だが、画面の隅に表示されているキーワードに、僅かに眉が動いた。
『過去の関与事件:女性による正当防衛・男性軽傷事件(渋谷地区)』
あの日の記録。
カフェ「LUNA」の近くでの騒ぎ。
静かに、亜弓はメモを一つ付け足した。
『要推移観察』
それだけだ。
それ以上の感情も、興味も、表には出さない。
ただ、監視の網の目が、もう一段階細かくなっただけ。
亜弓は、次のログに視線を移した。
その前に、一度だけ、橘花音香のファイルに戻った。
画面には、彼女の顔写真が小さく表示されている。
普通の、どこにでもいそうな女子学生の顔。
笑ってもいないし、怯えてもいない。
ただ、少しだけ疲れているように見えた。
「……」
亜弓は、無意識に自分の腰のホルスターに手を置いた。
そこには、彼女自身の許可証が納まっている。
何年も前から持っている。
使ったことは、一度もない。
でも、使わずに済んでいるのは、この仕事をしているからだ。
"見る側"にいるから。
——もし、私が橘花音香の立場だったら。
その思考を、亜弓はすぐに打ち消した。
そんなことを考えるのは、この仕事にとって有害だ。
感情は、データを歪める。
彼女は、画面を閉じた。
でも、その夜。
帰宅してから、亜弓は自分の許可証を取り出して、しばらく見つめていた。
何を考えているのか、自分でもわからなかった。
***
その頃、橘花音香の部屋では。
窓の外で、夜の街がゆっくりと明るさを変えていた。
遠くの交差点には、まだ警備ドローンの光がちらちらと浮かんでいる。
スマホの画面には、未送信の返信メッセージが残されたままだ。
『私も、逃げたくないです。でも、どうやって“撃たないでいるか”が、まだ分かりません』
送るか、消すか。
指は、まだ決められないでいる。
天井を見上げる。
そこには何もない。ただの白い塗装。
けれど、その向こう側には、HazardEyeの網が広がっているのだろう。
この部屋で考えたことも、感じたことも、いつか数値に変換されるかもしれない。
——それでも。
胸の奥で、小さな声がした。
——それでも、誰かと話したいと思ってしまう自分を、消したくない。
その願いが、世界にとってどれほど危険で、どれほど些細なのか、自分でも分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
今日は、許可証を使わなかった。
撃たなかった。
撃たないことを選んだ。
それは、この街では、最もささやかな“反逆”だった。
窓の外、ガラス越しの街に、薄い亀裂が走っている気がした。
誰の目にも見えないほど細い線だ。
だが、一度入った亀裂は、決して元には戻らない。
世界はまだ、終わっていない。
けれど、“このままではいられない”という予感だけが、静かに膨らんでいく。
音香は、スマホをもう一度手に取り、送信ボタンに指を置いた。
街のどこかで、同じ夜空を見上げている誰かを思いながら。
亀裂の走った硝子の向こうで、夜がゆっくりと深くなっていった。
名前変更しました。
国家女性保安庁の
伊佐見朱音
↓
伊佐見亜弓
音香と朱音、誤読を避けるため。
(……ホントはわたしが間違えそうになるので)




