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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第三章 亀裂の街(後編)




 その夜。


 橘花音香は、一人で街を歩いていた。


 学院から駅へ向かう、いつもの道。

 だが、心の中の風景は、いつもよりざらついていた。


 街灯の光が、歩道に薄い輪を落とす。

 その輪を一つずつ踏んでいくように、足を運ぶ。


 バッグの中で、黒いケースがかすかに動いた気がした。

 許可証。

 ここ数日は、触れないようにさえしていたもの。


 ——今日は、触れないでおこう。


 病室を出た日、そう決めたはずだった。

 だが、世界はその決意を待ってはくれない。


 カチ、と小さな音がした。


 バッグの内ポケットの中で、許可証が自動認識モードに切り替わった音だ。

 HazardEyeが近くのセンサーと同期したのだろう。


『周囲環境をスキャン中——』


 低い振動とともに、機械音声が耳に届く。


 と、同時に。


 前方から、一人の男性が歩いてきた。

 背広姿、ネクタイを緩め、肩に疲労の色を漂わせたサラリーマン風の男。


 偶然だ。

 ただ、それだけの。


 はずだった。


『害意予測:四十二パーセント』


 耳元で、音声が囁いた。


「……え?」


 音香の足が止まる。


 四十二パーセント。

 低くはない。

 ニュースで見る危険人物の数字に近い。


 男は、まだこちらに気づいていないようだった。

 ただ、スマホを見ながら、何気なく歩いているだけに見える。


 ——本当に?


 心臓が、喉の奥で跳ねた


 バッグの中で、許可証がさらに強く振動する。


『防衛行為を推奨します。あなたの安全のために』


 何かが、自分の意志とは別に動き出している感覚。

 音香は、慌ててバッグのチャックを開け、中を探った。


「ちょっと、やめて……」


 指先が許可証に触れる。

 ひやりとした感触。

 その瞬間、画面に文字が浮かび上がった。


『自動連携モード:ON』

『周辺害意スコアに基づき、防衛行為を補助します』


 ——勝手に、決めないで。


 喉元まで出かかった叫びは、音にならなかった。


 前方の男性との距離が縮まっていく。

 十メートル。

 七メートル。

 五メートル。


 音香の手が、許可証を握りしめる。

 引き金にかかる指を、必死で抑え込む。


『害意予測:四十八パーセント』

『相手の視線が接近——』

『相手の歩行速度が変化——』


 数字が、矢のように突き刺さってくる。


 男が、顔を上げた。

 偶然、視線が交わる。


 音香の指が、引き金に触れた。


 その瞬間、別の記憶がフラッシュバックした。


 ——あの日の路地。

 ——倒れた男。

 ——葉介の肩から流れる血。


「やめて」


 誰に言っているのかわからなかった。

 自分にか。

 許可証にか。

 それとも、この街全体にか。


 男が、こちらを見た。

 その目には、何の害意も見えなかった。

 ただ、少しだけ怯えている。


 ——ああ、この人も。


 音香は気づいた。


 ——この人も、私を怖がってる。


 自分が"撃てる側"の人間だと、相手はわかっているのだ。

 その恐怖が、HazardEyeのスコアを上げているのかもしれない。


 恐怖が、恐怖を生む。

 その連鎖の中で、誰が最初に怖がったのかなんて、もうわからない。


「これは、私の恐怖であって——」


 音香は、はっきりと呟いた。


「あなたの"害意"じゃない」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

 男か。

 HazardEyeか。

 許可証か。

 あるいは、自分の心そのものか。


 許可証の電源ボタンを、ぐっと押し込む。

 システム的には推奨されない、強制シャットダウン。


 画面が一瞬、警告色に染まり——

 次の瞬間、すべての光が消えた。


 振動が止む。

 指先の痺れだけが残る。


 男は、何も知らない様子で、彼女の横を通り過ぎていった。

 視線が交わることもなく。

 ただ、少しだけ歩幅を狭めて。


 音香は、その場に膝をついた。

 足に力が入らない。


 肩で大きく息をする。

 肺に入った空気が、熱くて苦しい。


 ——今、私の指は、本当に止めたの?


 ほんの数ミリ。

 引き金は、その程度の距離でしかなかったはずだ。


 数ミリの“やめておこう”と、“正当防衛です”の差。

 その薄さが、初めて全身を貫いていく。


 怖い。

 男が怖いのではない。

 HazardEyeが怖いのでもない。


 ——自分が、一番怖い。


 自分の恐怖が、人を殺しかけた。

 その事実が、何よりも重かった。



 部屋に戻ったときには、夜のニュースがちょうど始まるところだった。


 リビングの薄型スクリーンには、交差点の空撮映像が映っている。

 昼間の大規模誤作動事件は、すでに「制御下の軽微なトラブル」としてまとめられていた。


『市民に怪我人は出ませんでした。一部の男性が軽度の麻痺を訴えていますが、命に別状はなく、HazardEyeの迅速な判断が——』


 いつものフレーズ。

 いつもの安心。


 音香は、テレビを消した。


 部屋の静寂が、逆にうるさく感じる。

 椅子に腰を下ろし、バッグから許可証を取り出した。


 黒いケースの表面には、薄く指紋が残っている。

 それを親指でなぞる。


「……あなたに、全部押しつけるのは、ずるいよね」


 誰にともなく呟く。


 許可証は何も答えない。

 ただ、電源を落とされた機械として、そこにあるだけだ。


 テーブルの上に、静かに置く。

 もう少し強く机に押し当てれば、簡単に壊れるだろう。


 けれど、壊せない。

 壊した瞬間、自分が“義務を放棄した危険人物”になることを、制度が保証しているから。


 逃げ場は、最初から用意されていない。


 スマホの画面を開く。

 連絡先一覧をスクロールし、一つの名前で指が止まる。


 ——未奈川葉介。


 さっきまでの自分なら、ここで画面を閉じていたかもしれない。

 それが一番安全だから。


 けれど、今は。


 許可証の重さを、誰かに見ていてほしくなった。

 自分以外の誰かに。


 迷いは、あった。

 でも、指は動いた。


『今夜、少しだけ話せませんか。あなたの言っていたこと、少しだけわかった気がします』


 文章を打ち終えて、送信ボタンに触れる。

 次の瞬間、メッセージは青い泡になって画面の右側に並んだ。


 送ってしまった。


 胸の奥で、何かが落ちるような感覚。

 もう後戻りはできない。


 数分後。

 スマホが震えた。


『大丈夫ですか。俺も、今日いろいろ見てしまって。話せるなら、話したいです』


 続けて、もう一通。


『俺、もう逃げたくない。ちゃんと、この街を撮りたい。何が起きているのか、見えないままにしたくないから』


 画面の文字が、じんわりと滲んで見えた。

 涙なのか、疲労なのか、自分でも分からない。


 返信を打とうとした、そのとき。


 スマホが、別の通知音を鳴らした。


 画面の上部に、小さなウインドウが現れる。


『NWAAよりお知らせ』

『あなたの本日の行動ログが、国家女性保安庁に送信されました』

『理由:防衛装置の強制シャットダウン操作検出』


 時間の記録。

 場所の記録。

 相対位置情報。

 全てが、事務的な文字列になって並んでいる。


 数分前の、自分の震える指の動きまで、数字として残されているのだろう。


 さらに、もう一つ小さな追記が表示された。


『関連通信ログ:一件』


 心臓が、どくりと鳴る。


 関連通信。

 おそらく、それは——


 未奈川葉介とのメッセージのやり取りだ。


 喉が乾く。

 部屋の空気が急に薄くなった。


 ——見られている。


 わかっていたはずの事実が、突然、現実の厚みを増す。


 硝子越しに眺めていた街が、急にこちらを見返してくる感覚。

 自分が“見る側”から“一つのログ”に落とされる瞬間。


 画面の隅には、小さなリンクが表示されている。


『詳細の確認は、NWAAポータルへ』


 指を伸ばそうとして、止めた。


 知りたくなかった。

 自分の一日が、どんな風に切り分けられ、評価され、保存されるのか。


 音香は、スマホを伏せた。

 テーブルの上に、許可証と並べて置く。


 どちらも、静かだ。

 ただの物体として、そこにある。


 でも、その沈黙の向こう側で、この街のどこかの部屋では——。




 ***




 白い壁と、無機質なデスクが並ぶ部屋。


 国家女性保安庁、監視・評価部 第三課。

 伊佐見亜弓いさみ あゆみは、ディスプレイに表示されたログ一覧を、淡々とスクロールしていた。


 表情はほとんど動かない。

 癖のない黒髪をひとつに束ね、制服の襟元はきっちりと詰められている。


「……強制シャットダウン」


 小さく呟く。


 今日だけで、複数件。

 誤作動を恐れて許可証を切る女性が、じわりと増えている。


 その中の一件に、伊佐見の目が止まった。


『ID:WADL-39-TEA-******

 氏名:橘花 音香

 年齢:二十歳

 所在:東京帝国学院 女子部』


 行動ログ。

 位置情報。

 数分後に送信された通信ログ——。


 伊佐見は、しばらくその画面を見つめていた。

 何かを“怪しんで”いるわけではない。

 彼女の仕事は、ただパターンを識別し、数字を積み上げることだ。


 だが、画面の隅に表示されているキーワードに、僅かに眉が動いた。


『過去の関与事件:女性による正当防衛・男性軽傷事件(渋谷地区)』


 あの日の記録。

 カフェ「LUNA」の近くでの騒ぎ。


 静かに、亜弓はメモを一つ付け足した。


『要推移観察』


 それだけだ。

 それ以上の感情も、興味も、表には出さない。


 ただ、監視の網の目が、もう一段階細かくなっただけ。


 亜弓は、次のログに視線を移した。


 その前に、一度だけ、橘花音香のファイルに戻った。

 画面には、彼女の顔写真が小さく表示されている。


 普通の、どこにでもいそうな女子学生の顔。

 笑ってもいないし、怯えてもいない。

 ただ、少しだけ疲れているように見えた。


「……」


 亜弓は、無意識に自分の腰のホルスターに手を置いた。

 そこには、彼女自身の許可証が納まっている。


 何年も前から持っている。

 使ったことは、一度もない。


 でも、使わずに済んでいるのは、この仕事をしているからだ。

 "見る側"にいるから。


 ——もし、私が橘花音香の立場だったら。


 その思考を、亜弓はすぐに打ち消した。


 そんなことを考えるのは、この仕事にとって有害だ。

 感情は、データを歪める。


 彼女は、画面を閉じた。


 でも、その夜。

 帰宅してから、亜弓は自分の許可証を取り出して、しばらく見つめていた。


 何を考えているのか、自分でもわからなかった。




 ***




 その頃、橘花音香の部屋では。


 窓の外で、夜の街がゆっくりと明るさを変えていた。

 遠くの交差点には、まだ警備ドローンの光がちらちらと浮かんでいる。


 スマホの画面には、未送信の返信メッセージが残されたままだ。


『私も、逃げたくないです。でも、どうやって“撃たないでいるか”が、まだ分かりません』


 送るか、消すか。

 指は、まだ決められないでいる。


 天井を見上げる。

 そこには何もない。ただの白い塗装。

 けれど、その向こう側には、HazardEyeの網が広がっているのだろう。


 この部屋で考えたことも、感じたことも、いつか数値に変換されるかもしれない。


 ——それでも。


 胸の奥で、小さな声がした。


 ——それでも、誰かと話したいと思ってしまう自分を、消したくない。


 その願いが、世界にとってどれほど危険で、どれほど些細なのか、自分でも分からない。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


 今日は、許可証を使わなかった。

 撃たなかった。

 撃たないことを選んだ。


 それは、この街では、最もささやかな“反逆”だった。


 窓の外、ガラス越しの街に、薄い亀裂が走っている気がした。

 誰の目にも見えないほど細い線だ。

 だが、一度入った亀裂は、決して元には戻らない。


 世界はまだ、終わっていない。

 けれど、“このままではいられない”という予感だけが、静かに膨らんでいく。


 音香は、スマホをもう一度手に取り、送信ボタンに指を置いた。


 街のどこかで、同じ夜空を見上げている誰かを思いながら。


 亀裂の走った硝子の向こうで、夜がゆっくりと深くなっていった。




名前変更しました。


国家女性保安庁の

伊佐見朱音

  ↓

伊佐見亜弓


音香と朱音、誤読を避けるため。

(……ホントはわたしが間違えそうになるので)

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