第二章 〇・〇三パーセント
2025/11/22 第一章追加修正いたしました。
退院日は、よく晴れていた。
未奈川葉介は、病院の玄関で一度だけ空を見上げた。
思っていたよりも青くて、思っていたよりも静かだった。ドローンの羽音だけが、遠くでかすかに聞こえる。
肩の包帯は薄くなっていた。
「もう無理をしなければ大丈夫ですよ」 医師は教科書のような笑顔でそう言った。
——無理をしなければ。
葉介は心の中で繰り返した。この国で、それがどれほど不可能な条件か。
道を歩くこと、視線を上げること、咳をすること。そのすべてが「無理」の範囲内にある。
病院の前の道は、女性の姿が多かった。
歩道を歩く足音は軽く、男性たちは相変わらず“隅”を選んで歩いている。フェンス沿い、ビルの影、ベンチから一歩離れたところ。
葉介も、無意識にそうしていた。
ガラス扉の影をなぞるように歩き出す。背後から、何本もの視線が刺さるような気がする。実際には誰も彼を見ていなくても、その感覚だけは消えない。
肩の傷が、じくりと鈍く疼く。
痛みの何割が肉体で、何割が記憶なのか、それを測る方法はなかった。
病院の塀の外で、彼は一度立ち止まった。
ポケットの中のスマートフォンを取り出す。そこには、未送信のメッセージが数件、下書きのまま残っている。
——橘花さんへ。
——先日は、来てくれてありがとう。
——また、どこかで——
どれも途中で途切れていた。
画面の下に浮かぶ名前を見つめる。
「橘花音香」という文字列は、まだ彼にとって現実感が薄い。雨の中で見た横顔のほうが、ずっと鮮明だった。
送信ボタンに伸びた指は、結局何も押さなかった。
代わりに、葉介はスマホをポケットに戻し、前を向く。
この街では、声をかけることそのものが、危険信号になり得る。
彼の足取りは、自然と駅のいちばん端の階段を目指していた。
***
朝の教室には、蛍光灯の白い光が均一に降り注いでいた。
東京帝国学院の大講義室。
橘花 音香は、前から三列目の席に座り、プロジェクターの光をぼんやりと眺めていた。
スクリーンには、「害意判定AIの基礎」と書かれたスライドが映し出されている。
HazardEyeシステムの模式図。街頭カメラ、ドローン、携帯端末——無数のセンサーが線で繋がれ、一つの目になっている。
「HazardEyeの誤判定率は、最新の統計で〇・〇三パーセントです」
前方で、人口倫理学を担当する古賀教授が、いつもの調子で言った。口調は穏やかだが、そこに疑いの余地は想定されていない。
「つまり、ほとんど誤射は起こりません。ニュースで報じられる事例は、ごくごく一部です。システムが都市の安全を守っているということを、まず理解してください」
——ほとんど。
教授の言葉の中にあった「ほとんど」という一語が、音香の耳に引っかかった。
肩に残る感覚が、ふと蘇る。
雨、怒号、麻痺銃の音。倒れた男の体重。彼の手の温度。
あのとき撃たれたのは、HazardEyeの判断ではなく、人間の恐怖だった。
だが、その恐怖もまた、じきにシステムに組み込まれていくのだろう。
「橘花さん」
隣の席から、小さな声がした。
木原すずが、ノートを覗き込みながら囁く。
明るい髪を一つに束ねた、クラスメイト。いつも流行のニュースに詳しく、制度にも疑いを持たない、多数派の代表のような存在だ。
「ねえ、これテスト出ると思う? 誤判定率の数字とか、絶対暗記させてくるよね」
「……そうかもね」
音香は、曖昧に笑って返した。
「でもさ、〇・〇三パーって、すごくない? ほぼゼロじゃん。前に教授言ってたけど、人間の警備員より全然安全なんだよ。昔はさ、もっと無茶苦茶だったんでしょ?」
すずはペンをくるくる回しながら続ける。
「私、HazardEyeわりと好きだよ。だって、“怖い”って感じた時に、ちゃんと味方してくれるじゃん。それだけで十分じゃない?」
——十分。
その言葉が、音香の胸に、うっすらと重く沈んだ。
「橘花さんは? 怖くないの?」
音香は少し間を置いた。
「怖いよ」
「でしょ? だったらAIあったほうがマシじゃない?」
「でも——」
音香は言いかけて、止めた。
「でも?」
「何を怖がってるのか、自分でもわからなくなる時がある」
すずが、ペンを止めた。
「え? どういうこと?」
「AIが"これは怖い"って言ってくれると、それを信じちゃう。でも、本当に私が怖がってるのか、AIが怖がらせてるのか……」
「ちょっと難しくない? それ」
すずは笑った。
「そうかも」
音香も笑ったが、その笑いは心の底まで届かなかった。
すずの言っていることは、論理としては正しいのかもしれない。
けれど音香の中には、別の感覚が芽生え始めていた。
——あの日、私と“撃った彼女”を分けたものは、本当に何だったんだろう。
講義の最後、教授はこう締めくくった。
「結局のところ、皆さんに求められているのは、『自分の恐怖を正しく運用すること』です。HazardEyeは、その補助をするだけ。責任は、常に人間側にあります」
黒板に書かれる文字が、白く滲んで見えた。
責任。
その二文字は、麻痺銃の引き金よりも冷たく思えた。
昼休み、食堂のテレビがニュースを流していた。
『HazardEyeシステム、導入都市での犯罪件数三年連続減少——』
画面の下には、「安全な都市ランキング」などというポップなテロップが踊っている。
すずが弁当を広げながら、画面を指差した。
「ほら、見て。やっぱ効果あるんだよ。ほら、“女性の安心度指数”も上がってるし」
「……うん」
音香は相槌だけ打ち、スマホの画面をそっと開いた。
SNSのタイムラインには、別のニュースが流れている。
公式には流れない、小さな動画や匿名の告発文が、点々と。
『#HazardEye誤判定』『#撃たれたのは兄です』
『#何もしていないのに』
ほんの十秒の揺れた映像。
走る足音、倒れる人影、悲鳴は途中で途切れている。
動画の信憑性は確かではない。加工かもしれない。
だが、心のどこかで、あの日の男の倒れる音と重なってしまう。
「見ないほうがいいよ、そういうの」
すずが言った。声は柔らかいが、その裏にかすかな苛立ちがある。
「変な噂に振り回されるとさ、不安になるだけだよ。“怖い”って気持ちに、変な形で餌をあげるの、危険だって教授も言ってたでしょ?」
「……そうかも」
音香は、画面を閉じた。
けれど閉じた画面の裏で、数字にならない“違和感”だけが、じわりと残っていた。
***
大和映像制作株式会社のフロアには、いつもと変わらない静かなざわめきがあった。
キーボードを叩く音、編集マシンのファンの低い唸り。
その中を、久慈理央は紙コップのコーヒーを片手に歩いていた。
「未奈川くん、ちょっと時間ある?」
編集ブースの扉が少し開いて、久慈が顔を覗かせる。
軽く癖のついた髪、スーツのジャケットは皺ひとつない。笑っているのかどうか分かりづらい目元をしている。
「はい、今レンダリング中なので」
椅子を回して立ち上がると、肩の傷がかすかに軋んだ。
久慈は一瞬だけ視線をそこに落としたが、何も触れなかった。
「さすがに、まだ痛む?」
「まあ、天気が悪い日は少し」
「この国は、男が天気痛を言い訳にできるほど優しくないからね」
軽口とも本音ともつかない言葉を残し、久慈はUSBメモリを一本差し出した。
「新しい案件。政府広報。HazardEyeの特集だ」
「……政府、ですか」
「そう。『あなたの安心を、見守る目』っていうシリーズ。分かりやすいでしょ?」
メモリを受け取りながら、葉介は心の中で、何かが冷えるのを感じた。
「編集、任せても?」
「はい」
「ただし——」
久慈は少し声を落とした。
「使う素材は、全部こちらでマークをつけてある。青タグのものだけ。赤タグは見ないでいい」
「赤タグ……?」
「ほら、念のためね。現場っていうのは、どうしても“絵にならないもの”も写してしまうから。俺たちの仕事は、『安心させる絵』だけを届けることだよ」
にこりと笑い、久慈は背中を向けた。
その笑顔は、嫌味ではなかった。
むしろ、良識ある大人のものだった。
だからこそ、葉介は余計に息苦しさを覚える。
編集室に戻り、メモリを差す。
画面にサムネイルがずらりと並び、そのいくつかには赤いラベルが付いていた。
——見るな。
頭ではわかっていた。
見なければ、この仕事は続けられる。見なければ、久慈の信頼も失わない。見なければ、朝起きて会社に来て、帰って寝る、そのループは壊れない。
でも。
肩の傷が、じくりと疼いた。
あの日、路地で倒れた男の顔が、記憶の底から浮かんでくる。
——あの人も、「赤いラベル」の中に消されるのだろうか。
カーソルが動いた。
止めようとした理性よりも、指のほうが早かった。
赤いラベルのついたファイルの上に、ぴたりと。
クリックする指は、止まらなかった。
映像が始まる。
高架下の暗い通路。
少し前かがみで歩く一人の男性。フードをかぶり、手にはコンビニの袋。
画面端に、HazardEyeのインターフェースが重ねられている。
顔認証、行動パターン、周囲の人流——複数の情報が数値に変換されていく。
“害意予測:三パーセント”
低い。限りなく、日常の範囲。
そのとき、画面右奥から、女性が走ってきた。
息を切らし、後ろを振り返りながら。
HazardEyeのウインドウが一瞬バグる。
数値がぱらぱらと変動し——
“害意予測:六十二パーセント”
警告音。
次の瞬間、通路の天井に設置された防衛ユニットが作動した。
乾いた音。
男が、袋を落とし、そのまま倒れ込む。中身のパンとペットボトルが床に転がる様子まで、鮮明に映っている。
女性の悲鳴。
「違う、違う、そんなつもりじゃ——」
映像はそこで切れた。
編集室の空気が、急に薄くなった気がした。
葉介は、無意識に右肩を押さえる。
画面の中の倒れた男が、自分の未来の可能性と重なって見えた。
赤いラベルは、こういう映像に付けられるのだろう。
“使ってはいけない現実”に。
マウスを握る手が、汗ばんでいた。
フォルダを閉じる前に、葉介は一瞬だけ迷った。
そして、ごく自然な動作のように、赤いラベルの動画を数本、自分の個人ストレージにコピーした。
誰かに見つかれば、処分されるかもしれない。
それでも、消したくなかった。
——誰かが見ていなかったことにされるのが、一番怖い。
心臓の鼓動が、モニターのファン音に紛れていく。
***
雨が降り出したのは、夕方だった。
渋谷の裏通り。テナントビルの隙間を縫うような細い道。
ビニール傘の透明な膜の向こうに、ネオンの色がぼやけていた。
音香は、学院からの帰り道を少しだけ変えて、この道を選んでいた。
理由は、自分でもよく分からない。ただ、人の少なさと、硝子に映る自分の顔が見えづらいことが、今の気分に合っていた。
傘の先から落ちる雫が、アスファルトに小さな輪をつくる。
通りの端には、小さなカフェや古着屋が肩を寄せ合うように並んでいる。
その一角で、見覚えのある背中が、ふと視界に入った。
浅い色のコート。少し猫背気味の姿勢。
透明な傘越しに、彼の右肩の包帯がうっすら透けて見えた。
——未奈川さん。
名前が、心の中で先に浮かぶ。
声にする前に、呼吸が止まった。
彼も、こちらに気づいた。
驚いたように目を見開き、それから、ぎこちなく笑う。
「……橘花さん」
あの日のカフェ、その後の病室。
何度も心の中で繰り返した場面が、目の前に重なる。
「退院、したんですね」
「ええ。なんとか、“軽傷”で済んだみたいです」
ニュースで使われた言葉を、敢えて口にすると、どちらともなく苦笑になった。
傘と傘が、ぎりぎり触れない距離。
雨の音が、会話の隙間を埋めていく。
「……どうですか、その、街は」
「相変わらず、ですね。でも、前より少しだけ、音がうるさくなった気がします」
「音?」
「ドローンとか、警告アナウンスとか……。それに、ニュースのテロップの文字数も増えた気がして」
彼は冗談めかして言ったが、その目は真面目だった。
「橘花さんは?」
「私は……」
答えに迷う。
“普通です”と笑ってみせることもできた。
けれど、口がその形を取らなかった。
「この前、授業でHazardEyeの話を聞きました。誤判定率は〇・〇三パーセント。ほぼゼロだって」
「ほう」
「でも、ゼロじゃないってことですよね」
雨粒が、彼の肩の包帯の上に落ちて、すぐに吸い込まれていく。
「あなたの映像の仕事って、そういう“ゼロじゃない何か”も、撮っているんですか?」
自分でも驚くほど、まっすぐな質問だった。
葉介は、少しだけ目を伏せた。
どこまで言うべきか、一瞬だけ迷ってから、言葉を選ぶ。
「本当は、撮っちゃいけないものなのかもしれません。撮って、残しておくと、誰かが安心できなくなるから」
「安心できないものは、残しちゃいけないんですか?」
「この国のルール的には、多分そうなんでしょうね」
雨音が、僅かに強くなる。
「でも、俺は——」
彼は一度だけ息を吸い、雨の匂いを肺に入れた。
「俺は、自分が怖がった証拠を、ちゃんと見ていたいんです。“怖い”って感情を、誰かの都合で編集されたくない」
その言葉は、音香の胸に、思いがけない形で響いた。
あの日、自分の手が、引き金にかかりかけたこと。
あの日、自分の恐怖が、人を撃つ側にも回り得たこと。
それらを、彼は知らないはずだ。
けれど、彼の言葉は、その記憶にどこか触れていた。
「……危ない仕事ですね」
やっとのことで出てきた言葉は、ありふれていた。
「ええ。危ないですね」
葉介は、あっさり認めた。
「でも、何もしないでいるのも、危ない気がするんです。何も見ないで、“安全です”って言われるほうが、俺は怖い」
音香は、彼の顔を真正面から見た。
以前より少し痩せたように見える頬。それでも、目の奥には不思議な明るさがあった。
「橘花さんは?」
「……私は」
言葉が喉でつかえる。
「私は、自分の恐怖を、あまり信じられなくなってきました」
彼の眉が、すこしだけ動いた。
「この前、あなたを撃った彼女と、私の間にあった距離って、本当にあの数秒だけだったんだと思うんです。もし少し違うタイミングで、もし少し違う場所で——撃っていたのは、私だったかもしれない」
自分で口にして、初めて、その事実の重さに気づく。
「それでも、許可証は持ち歩かなきゃいけない。“怖い”と思うたびに、何かを選ばなきゃいけない。正直、疲れました」
雨が、二人の間に薄い幕を作る。
葉介は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。無理に明るくしようとした笑いではない、どこか理解の混じった笑いだった。
「俺たち、種類は違うけど、同じものに疲れてるのかもしれませんね」
「同じもの?」
「“意図を疑われ続けること”と、“意図を証明し続けること”。どっちも、終わりがない」
言われてみれば、その通りだった。
沈黙が一つ分、二つ分、降り積もる。
「……巻き込みたくないんです」
その沈黙の後で、葉介が言った。
「俺、今けっこう危ないものを持ってると思うんで。あなたを、その近くにいさせるのは、良くない気がして」
「私も同じです」
音香も、正直に言った。
「私の傍にいること自体が、たぶん危険です。私は、“撃つ側”の人間だから」
傘を持つ手が、僅かに震えていた。
その震えに気づいたかどうか、葉介は目を細めて言った。
「また、メッセージ、してもいいですか」
音香は、一瞬だけ迷った。
メッセージは記録される。
誰かに見られる。
それが、二人とも危険にさらすかもしれない。
でも。
「……はい」
その一言が、どれほどの重さを持つか。
二人とも、理解していた。
未来形の願望は、嘘ではなかった。
けれど、現実感も薄かった。
互いに軽く頭を下げて、すれ違う。
傘と傘がかすかにぶつかり、小さな音を立てた。
その音が、妙に耳に残る。
背中合わせに離れていく足音が、雨に消えていった。
***
数日後。
街は、突然の悲鳴で満たされた。




