第九章 静かなる反逆者
地下駐車場は、ひんやりとした空気に満ちていた。
天井の蛍光灯が、ところどころで瞬いている。
「こっち」
柱の陰から現れた葉介が、小さく手を振った。
顔色は冴えないが、目は異様に冴えている。
「……やっぱり、追われてました」
「誰に?」
「分かりません。警察でもNWAAでもない。でも、映像を持ってるのは、たぶん知られてる」
藤崎が、息を呑んだ。
「……あの映像って、そんなに危ないんですか」
葉介は、しばらく黙ってから言った。
「危ないのは……映像そのものじゃない。“つながる”ことです」
「つながる?」
「誤判定は、点じゃない。線なんです。ある区域、ある時間、ある条件で──似たような誤射が、連続して起きてる」
葉介はタブレットを取り出し、簡易的な地図を表示した。
赤い点が、都市の一角に集中している。
「これ……」
音香は息を呑んだ。
「……学院の周辺」
「そう。しかも、時間帯は夕方から夜に集中してる」
藤崎が、低く言った。
「……人が、一番“怖がりやすい”時間だ」
沈黙が広がり、地下の空気が重く沈む。
「偶然じゃない」
音香は、確信に近い声で言った。
「誰かが……“恐怖が最大になる条件”を作ってる」
葉介は、ゆっくり頷いた。
「俺も、そう思ってます。HazardEyeが“間違えてる”んじゃない。“間違えやすくされてる”」
藤崎の手が、震えた。
「……じゃあ、俺は」
「……“試行データ”かもしれない」
葉介の言葉は残酷だったが、嘘ではなかった。
「それでも」
音香は、はっきり言った。
「藤崎さんは、生きてる。数字じゃない。撃たれた事実は、消えないけど……“なかったこと”にもさせない」
藤崎は、深く息を吸った。
「……俺、逃げるの、やめます」
二人が彼を見る。
「一人で逃げても、どうせ“危険な男”で終わる。だったら……“撃たれた証拠”として、ここにいます」
その言葉は、決意というより、静かな諦めに近かった。
だが、同時にそれは“選択”だった。
そのとき。地下駐車場の入口で、硬い足音が響いた。
複数人。
訓練された歩幅。
音香の心臓が跳ねる。
「……来た」
葉介が、低く言った。
その瞬間、別の方向から、落ち着いた声が響いた。
「動かないでください」
柱の陰から現れたのは、黒いコートを着た女性──伊佐見亜弓だった。
銃は構えていない。
だが、その場を制圧する空気をまとっている。
「……亜弓さん」
「追っていたのは、私ではありません」
そう前置きしてから、彼女は続けた。
「あなたたちを狙っているのは──
“HazardEyeの外部委託先”です」
三人の息が、同時に止まった。
「正式名称は言えません。でも……恐怖予測アルゴリズムの“補正部分”を担当している組織」
葉介が、唇を噛む。
「……つまり」
「ええ」
亜弓は、静かに言った。
「誤判定は、“利益”になる」
沈黙が、重く落ちた。
「……私がここに来たのは」
亜弓は、一歩前に出た。
「あなたたちを止めるためじゃない。“逃がす”ためです」
音香は、はっきりと理解した。
彼女は、もう“観測者”だけではない。
亜弓もまた、境界線を越えようとしている。
地下駐車場の空気は、張りつめたまま動かなかった。
蛍光灯の明滅が、時間の感覚を曖昧にする。
伊佐見亜弓は、三人と藤崎を見渡し、低く言った。
「ここには、三分しかいられません。その間に、選んでください」
「……何を?」
音香が問う。
「逃げるか、残るか」
葉介が苦笑した。
「ずいぶん……はっきり言いますね」
「曖昧な言葉は、人を撃たせる」
亜弓の言葉は、短く、鋭かった。
「外部委託組織は、HazardEyeの“恐怖補正値”を調整しています。女性の恐怖が強く出る時間帯、場所、属性──それを利用して、治安改善の“成果”を作る」
「……成果?」
藤崎が、掠れた声で聞く。
「犯罪件数の減少。検挙率の上昇。“安心度指数”の改善」
亜弓は、目を逸らさずに続けた。
「その裏で、誤射された男性は“統計的に無視できるノイズ”として処理される」
藤崎の肩が、小さく震えた。
「……じゃあ、俺は——」
声が、掠れている。
「俺は、何だったんですか」
亜弓は、一瞬だけ目を伏せた。
それから、はっきりと言った。
「"必要な誤差"です」
その言葉に、藤崎の顔が歪んだ。
「あなたは──」
音香は、亜弓を睨んだ。
「そんな言い方、ひどすぎます」
「ひどいのは、事実です」
亜弓は、表情を変えなかった。
「私が優しい言葉で包んでも、現実は変わりません。彼は、システムにとって"統計的に無視できるノイズ"として処理された」
藤崎は、震える声で言った。
「……わかってた」
全員が、彼を見る。
「どこかで……わかってたんです。俺は、カウントされない。記録されない。"いなかったこと"にされるって」
その声は、諦めと怒りが混ざっていた。
「だから──」
亜弓は一歩、音香に近づいた。
「あなたの存在は、邪魔なんです」
音香は、息を呑んだ。
「撃たない。恐怖を即座に行動に変えない。HazardEyeの補正モデルから外れた“例外”。あなたは、誤判定を可視化してしまう」
「……だから、観測対象に?」
「そう。表向きは“研究”。でも、裏では──」
亜弓は言葉を切り、はっきり言った。
「“排除”も検討されています」
空気が、凍る。
葉介が、一歩前に出た。
「……だったら、尚更逃げません」
その声は、静かだった。
でも、揺るぎなかった。
「逃げたら、"例外"は消える。全部、なかったことにされる」
「……あなたも、危険だと分かって言っていますか」
亜弓の問いに、葉介は頷いた。
「はい。でも……」
葉介は、タブレットを握りしめた。
「俺は、もう"安全な傍観者"じゃいられない。撮った映像を、消せと言われても消さない」
彼は、音香を見た。
「音香さんが撃たなかった。藤崎さんが撃たれた。その事実を、俺は記録した。この記録が、いつか──」
言葉を切り、深く息を吸った。
「いつか、この街を変えるかもしれない。そう信じたいから」
藤崎が、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺、逃げるの、やめます」
藤崎は、震える手を握りしめた。
「一人で逃げても、意味がない。どうせ"危険な男"で終わる。どこに行っても、誰かに怖がられる」
彼は、自分の右腕を見つめた。
「だったら……"撃たれた証拠"として、ここにいます」
その言葉は、決意というより、静かな諦めに近かった。
「でも……俺みたいな人間が、他にもいるなら……俺は、その一人として残る。"いなかったこと"にはさせない」
そう言った藤崎の目に、初めて光が宿った。
それは、希望ではないかもしれない。
でも、確かに──生きる理由だった。
亜弓は、三人を見つめた。
その目には、葛藤があった。
だが、同時にかすかな安堵も。
長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。
「……分かりました。では、私も──」
その声は、いつもより低かった。
「……戻れない側に立ちます」
音香が、目を見開いた。
「それって……」
「職務違反です」
亜弓は、淡々と言った。
「この後、あなたたちを"見失った"ことにします。記録には、別の動線を書き込む。内部ログにも、細工をする」
「そんなこと……!」
「できます」
短く、断言する。
亜弓は、しばらく誰も見なかった。視線を落とし、制服の袖口に触れる。
「……私は」
その声は、これまでで一番低かった。
「撃ったことがあります」
音香は、何も言わなかった。
「HazardEyeが今ほど強制的でなかった頃。判断は“人に委ねられている”と言われていた」
亜弓は、淡々と語る。
だが、その淡々さは、長年かけて作られた鎧だった。
「相手は、今のあなたたちと同じでした。怯えていて、何もしていなくて……それでも、周囲の恐怖が数値を押し上げた」
彼女の指が、わずかに震える。
「私は、撃ちました。“迷わなかった自分”を、今でも覚えています」
沈黙が、重く落ちる。
「そのあと……誰も、私を責めなかった。“正しい判断だった”と、記録された」
亜弓は、音香を見る。
「でも……“正しい”と言われた瞬間から、私は自分の恐怖を信じられなくなった」
彼女は、深く息を吸った。
「だから、観測者になった。撃つ側に戻らないために」
そして、はっきりと言った。
「今日、あなたを見て気づいた」
音香と目が合う。
「私は、逃げていた。“撃たない人”を記録することで、自分が撃った事実から目を逸らしていた」
亜弓は、決意を込めて続ける。
「だから……今回は、逃げません」
しばしの沈黙がその場を支配した。
地下の奥で、エンジン音が近づいてくる。
「時間がない」
亜弓は、壁際の非常扉を指した。
「そこを出て、地下鉄の旧連絡通路へ。今は使われていないけど、人目を避けるには十分」
音香は、最後に問いかけた。
「亜弓さんは……どうするんですか」
亜弓は、一瞬だけ目を細めた。
「私は、観測を続けます。ただし──」
視線が、音香に向けられる。
「“撃たせる側”ではなく、“撃たせない側”として」
その言葉は、静かな誓いだった。
葉介が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「感謝はいりません」
亜弓は背を向けた。
「あなたたちは、もう“個人”じゃない。それを、忘れないで」
非常扉が開く。
湿った空気と、暗い通路。
音香は、一歩踏み出す前に振り返った。
亜弓は、もうこちらを見ていなかった。
黒い影の中で、ひとり立ち、元の“観測者の場所”へ戻ろうとしていた。
それが、彼女なりの反逆だった。
通路に足を踏み入れると、街の音が、完全に遮断された。
葉介が、小さく言った。
「……始まりましたね」
「うん」
音香は頷いた。
「静かだけど……確かに」
藤崎が、ゆっくりと歩きながら呟いた。
「反逆者って……もっと派手なものだと思ってました」
音香は、かすかに笑った。
「たぶん……この街では、撃たないでいること自体が反逆なんだと思う」
葉介が、付け加えた。
「撃たせない、記録する、証拠として残る。それが、俺たちにできる抵抗」
暗い通路の先に、微かな明かりが見えた。
それは、出口かもしれない。
あるいは、次の監視かもしれない。
それでも、足は止まらなかった。
彼らは、まだ何も壊していない。
何も奪っていない。
武器も持っていない。
ただ……
撃たなかった。
撃たせなかった。
記録される側に立った。
その小さな選択が、街の硝子に入った亀裂を、確実に広げていた。
音香は、前を歩く二人の背中を見つめた。
葉介。藤崎。
そして、今頃は元の場所に戻っているであろう亜弓。
彼らは、もう一人ではない。
静かなる反逆者たちは、もう引き返さない。
通路の先で、光が少し強くなる。
それは、出口かもしれない。
それでも、誰も立ち止まらなかった。
彼らはもう、“撃つか撃たれるか”の物語の外に足を踏み出している。
静かで、名もなく、それでも確かな──希望を伴った反逆として。




