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更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


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第九章 静かなる反逆者




 地下駐車場は、ひんやりとした空気に満ちていた。

 天井の蛍光灯が、ところどころで瞬いている。


「こっち」


 柱の陰から現れた葉介が、小さく手を振った。

 顔色は冴えないが、目は異様に冴えている。


「……やっぱり、追われてました」


「誰に?」


「分かりません。警察でもNWAAでもない。でも、映像を持ってるのは、たぶん知られてる」


 藤崎が、息を呑んだ。


「……あの映像って、そんなに危ないんですか」


 葉介は、しばらく黙ってから言った。


「危ないのは……映像そのものじゃない。“つながる”ことです」


「つながる?」


「誤判定は、点じゃない。線なんです。ある区域、ある時間、ある条件で──似たような誤射が、連続して起きてる」


 葉介はタブレットを取り出し、簡易的な地図を表示した。


 赤い点が、都市の一角に集中している。


「これ……」


 音香は息を呑んだ。


「……学院の周辺」


「そう。しかも、時間帯は夕方から夜に集中してる」


 藤崎が、低く言った。


「……人が、一番“怖がりやすい”時間だ」


 沈黙が広がり、地下の空気が重く沈む。


「偶然じゃない」


 音香は、確信に近い声で言った。


「誰かが……“恐怖が最大になる条件”を作ってる」


 葉介は、ゆっくり頷いた。


「俺も、そう思ってます。HazardEyeが“間違えてる”んじゃない。“間違えやすくされてる”」


 藤崎の手が、震えた。


「……じゃあ、俺は」


「……“試行データ”かもしれない」


 葉介の言葉は残酷だったが、嘘ではなかった。


「それでも」


 音香は、はっきり言った。


「藤崎さんは、生きてる。数字じゃない。撃たれた事実は、消えないけど……“なかったこと”にもさせない」


 藤崎は、深く息を吸った。


「……俺、逃げるの、やめます」


 二人が彼を見る。


「一人で逃げても、どうせ“危険な男”で終わる。だったら……“撃たれた証拠”として、ここにいます」


 その言葉は、決意というより、静かな諦めに近かった。

 だが、同時にそれは“選択”だった。


 そのとき。地下駐車場の入口で、硬い足音が響いた。


 複数人。

 訓練された歩幅。


 音香の心臓が跳ねる。


「……来た」

 葉介が、低く言った。


 その瞬間、別の方向から、落ち着いた声が響いた。


「動かないでください」


 柱の陰から現れたのは、黒いコートを着た女性──伊佐見亜弓だった。


 銃は構えていない。

 だが、その場を制圧する空気をまとっている。


「……亜弓さん」


「追っていたのは、私ではありません」


 そう前置きしてから、彼女は続けた。


「あなたたちを狙っているのは──

 “HazardEyeの外部委託先”です」


 三人の息が、同時に止まった。


「正式名称は言えません。でも……恐怖予測アルゴリズムの“補正部分”を担当している組織」


 葉介が、唇を噛む。


「……つまり」


「ええ」


 亜弓は、静かに言った。


「誤判定は、“利益”になる」


 沈黙が、重く落ちた。


「……私がここに来たのは」


 亜弓は、一歩前に出た。


「あなたたちを止めるためじゃない。“逃がす”ためです」


 音香は、はっきりと理解した。

 彼女は、もう“観測者”だけではない。

 亜弓もまた、境界線を越えようとしている。



 地下駐車場の空気は、張りつめたまま動かなかった。

 蛍光灯の明滅が、時間の感覚を曖昧にする。


 伊佐見亜弓は、三人と藤崎を見渡し、低く言った。


「ここには、三分しかいられません。その間に、選んでください」


「……何を?」

 音香が問う。


「逃げるか、残るか」


 葉介が苦笑した。

「ずいぶん……はっきり言いますね」


「曖昧な言葉は、人を撃たせる」

 亜弓の言葉は、短く、鋭かった。


「外部委託組織は、HazardEyeの“恐怖補正値”を調整しています。女性の恐怖が強く出る時間帯、場所、属性──それを利用して、治安改善の“成果”を作る」


「……成果?」

 藤崎が、掠れた声で聞く。


「犯罪件数の減少。検挙率の上昇。“安心度指数”の改善」


 亜弓は、目を逸らさずに続けた。

「その裏で、誤射された男性は“統計的に無視できるノイズ”として処理される」


 藤崎の肩が、小さく震えた。

「……じゃあ、俺は——」

 声が、掠れている。

「俺は、何だったんですか」


 亜弓は、一瞬だけ目を伏せた。


 それから、はっきりと言った。

「"必要な誤差"です」


 その言葉に、藤崎の顔が歪んだ。


「あなたは──」

 音香は、亜弓を睨んだ。


「そんな言い方、ひどすぎます」


「ひどいのは、事実です」

 亜弓は、表情を変えなかった。


「私が優しい言葉で包んでも、現実は変わりません。彼は、システムにとって"統計的に無視できるノイズ"として処理された」


 藤崎は、震える声で言った。


「……わかってた」


 全員が、彼を見る。


「どこかで……わかってたんです。俺は、カウントされない。記録されない。"いなかったこと"にされるって」


 その声は、諦めと怒りが混ざっていた。


「だから──」

 亜弓は一歩、音香に近づいた。


「あなたの存在は、邪魔なんです」


 音香は、息を呑んだ。


「撃たない。恐怖を即座に行動に変えない。HazardEyeの補正モデルから外れた“例外”。あなたは、誤判定を可視化してしまう」


「……だから、観測対象に?」


「そう。表向きは“研究”。でも、裏では──」

 亜弓は言葉を切り、はっきり言った。


「“排除”も検討されています」


 空気が、凍る。


 葉介が、一歩前に出た。


「……だったら、尚更逃げません」


 その声は、静かだった。

 でも、揺るぎなかった。


「逃げたら、"例外"は消える。全部、なかったことにされる」


「……あなたも、危険だと分かって言っていますか」


 亜弓の問いに、葉介は頷いた。

「はい。でも……」


 葉介は、タブレットを握りしめた。

「俺は、もう"安全な傍観者"じゃいられない。撮った映像を、消せと言われても消さない」


 彼は、音香を見た。

「音香さんが撃たなかった。藤崎さんが撃たれた。その事実を、俺は記録した。この記録が、いつか──」


 言葉を切り、深く息を吸った。

「いつか、この街を変えるかもしれない。そう信じたいから」


 藤崎が、ゆっくりと顔を上げた。

「……俺、逃げるの、やめます」


 藤崎は、震える手を握りしめた。

「一人で逃げても、意味がない。どうせ"危険な男"で終わる。どこに行っても、誰かに怖がられる」


 彼は、自分の右腕を見つめた。


「だったら……"撃たれた証拠"として、ここにいます」


 その言葉は、決意というより、静かな諦めに近かった。


「でも……俺みたいな人間が、他にもいるなら……俺は、その一人として残る。"いなかったこと"にはさせない」


 そう言った藤崎の目に、初めて光が宿った。


 それは、希望ではないかもしれない。

 でも、確かに──生きる理由だった。


 亜弓は、三人を見つめた。

 その目には、葛藤があった。


 だが、同時にかすかな安堵も。


 長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。


「……分かりました。では、私も──」

 その声は、いつもより低かった。


「……戻れない側に立ちます」


 音香が、目を見開いた。

「それって……」


「職務違反です」

 亜弓は、淡々と言った。


「この後、あなたたちを"見失った"ことにします。記録には、別の動線を書き込む。内部ログにも、細工をする」


「そんなこと……!」


「できます」

 短く、断言する。


 亜弓は、しばらく誰も見なかった。視線を落とし、制服の袖口に触れる。


「……私は」


 その声は、これまでで一番低かった。

「撃ったことがあります」


 音香は、何も言わなかった。


「HazardEyeが今ほど強制的でなかった頃。判断は“人に委ねられている”と言われていた」


 亜弓は、淡々と語る。

 だが、その淡々さは、長年かけて作られた鎧だった。


「相手は、今のあなたたちと同じでした。怯えていて、何もしていなくて……それでも、周囲の恐怖が数値を押し上げた」


 彼女の指が、わずかに震える。


「私は、撃ちました。“迷わなかった自分”を、今でも覚えています」


 沈黙が、重く落ちる。


「そのあと……誰も、私を責めなかった。“正しい判断だった”と、記録された」


 亜弓は、音香を見る。


「でも……“正しい”と言われた瞬間から、私は自分の恐怖を信じられなくなった」


 彼女は、深く息を吸った。


「だから、観測者になった。撃つ側に戻らないために」


 そして、はっきりと言った。

「今日、あなたを見て気づいた」


 音香と目が合う。


「私は、逃げていた。“撃たない人”を記録することで、自分が撃った事実から目を逸らしていた」


 亜弓は、決意を込めて続ける。


「だから……今回は、逃げません」


 しばしの沈黙がその場を支配した。



 地下の奥で、エンジン音が近づいてくる。


「時間がない」


 亜弓は、壁際の非常扉を指した。


「そこを出て、地下鉄の旧連絡通路へ。今は使われていないけど、人目を避けるには十分」


 音香は、最後に問いかけた。


「亜弓さんは……どうするんですか」


 亜弓は、一瞬だけ目を細めた。


「私は、観測を続けます。ただし──」


 視線が、音香に向けられる。


「“撃たせる側”ではなく、“撃たせない側”として」


 その言葉は、静かな誓いだった。


 葉介が、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」


「感謝はいりません」

 亜弓は背を向けた。


「あなたたちは、もう“個人”じゃない。それを、忘れないで」


 非常扉が開く。

 湿った空気と、暗い通路。


 音香は、一歩踏み出す前に振り返った。


 亜弓は、もうこちらを見ていなかった。

 黒い影の中で、ひとり立ち、元の“観測者の場所”へ戻ろうとしていた。


 それが、彼女なりの反逆だった。


 通路に足を踏み入れると、街の音が、完全に遮断された。


 葉介が、小さく言った。


「……始まりましたね」


「うん」


 音香は頷いた。


「静かだけど……確かに」


 藤崎が、ゆっくりと歩きながら呟いた。


「反逆者って……もっと派手なものだと思ってました」


 音香は、かすかに笑った。


「たぶん……この街では、撃たないでいること自体が反逆なんだと思う」


 葉介が、付け加えた。


「撃たせない、記録する、証拠として残る。それが、俺たちにできる抵抗」


 暗い通路の先に、微かな明かりが見えた。


 それは、出口かもしれない。

 あるいは、次の監視かもしれない。


 それでも、足は止まらなかった。


 彼らは、まだ何も壊していない。

 何も奪っていない。

 武器も持っていない。


 ただ……


 撃たなかった。

 撃たせなかった。

 記録される側に立った。


 その小さな選択が、街の硝子に入った亀裂を、確実に広げていた。


 音香は、前を歩く二人の背中を見つめた。


 葉介。藤崎。

 そして、今頃は元の場所に戻っているであろう亜弓。


 彼らは、もう一人ではない。


 静かなる反逆者たちは、もう引き返さない。



 通路の先で、光が少し強くなる。


 それは、出口かもしれない。

 それでも、誰も立ち止まらなかった。


 彼らはもう、“撃つか撃たれるか”の物語の外に足を踏み出している。


 静かで、名もなく、それでも確かな──希望を伴った反逆として。







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