第八章 ニュースにならない男
夜の街は、昼間よりも正直だった。
警告音は減り、ドローンの数も間引かれている。
その代わり、街のあちこちに"沈黙"が落ちていた。
それは安らぎの沈黙ではない。
息を潜めた沈黙。
誰もが、誰かを怖がりながら、同時に自分も怖がられていることを知っている。
人の少ない歩道。
閉まったままの店。
必要以上に距離を取る視線。
恐怖が、形を変えて沈殿している。
橘花音香は、自分の足音だけがやけに大きく響くのを感じながら歩いていた。
許可証はバッグの奥で静かだ。
だが、"静かなまま"ということが、逆に不安を増幅させる。
まるで、嵐の前のような静けさ。
──今日は、撃たなかった。
──今日も、撃たなかった。
その事実が、安心よりも緊張を伴って胸に残る。
撃たない選択は、もう「例外」ではなくなりつつある。
そして例外は、必ず記録される。
スマホが震えた。
『今、会社出ました。少し遠回りします。……誰かにつけられてる気がして』
未奈川葉介からだ。
音香は立ち止まり、すぐに返信する。
『無理しないで。人の多い通りに出て。私も向かう』
送信した直後、胸の奥がざわついた。
──“向かう”って、どこに?
約束の場所なんて決めていない。
それでも、彼が今ひとりでいることだけは分かる。
そのときだった。
背後で、靴音がひとつ、遅れて止まった。
音香は、ゆっくり振り返る。
街灯の届かない暗がりから、ふらりと人影が滲み出した。
若い男だった。顔色は土色で、右腕を不自然にかばい、肩をすくめている。まるで、目に見えない巨大な手に上から押し潰されているような歩き方だった。
「……すみません」
その声は小さく、ひどく疲れていた。
音香の手が、バッグの口に触れる。
だが──その人の目を見た瞬間、手が止まった。
その目は、怯えていた。
襲う者の目ではない。
逃げ場を探す目だ。
「……どうしました?」
声は、思ったより落ち着いていた。
「ここ……安全ですか」
その問いは、あまりにも弱かった。
襲う者の声ではない。
逃げ場を探す声だ。
「……何があったんですか」
男は、少し迷ってから言った。
「俺……三日前、撃たれました」
その一言で、空気が凍った。
音香は、息を呑んだ。
「誤判定です」
藤崎の声は、淡々としていた。
「通勤途中でした。イヤホンして、音楽聴いて、歩いてただけで」
彼は、右腕をさすった。
「誰かが転んだ。誰かが叫んだ。そしたら、HazardEyeのスコアが跳ね上がって……」
言葉が、途切れる。
「気づいたら、ドローンが……」
藤崎の目が、遠くを見た。
──あの日の音が、今も耳に残っている。
警告音。
悲鳴。
そして、乾いた銃声。
痛みは、一瞬遅れてきた。
右腕が痺れ、地面が近づいてくる。
周りの人々は、誰も助けなかった。
ただ、遠巻きに見ているだけだった。
──俺は、"危険"だから。
「銃声が聞こえた。そのあとは……覚えてない。気づいたら病院でした」
現在に戻った藤崎の声は、震えていた。
音香の胸が、痛んだ。
「麻痺銃でした。死ななかった。だから……」
藤崎は、苦笑した。
「──ニュースにもならなかった」
音香は、喉が鳴るのを感じた。
「……今は?」
「会社、辞めました。“トラブルを招く体質”だって。家族にも……距離を置かれました」
淡々とした語り口が、余計に現実味を帯びている。
「……名前、聞いてもいいですか」
男は、少しだけ驚いた顔をしてから答えた。
「──藤崎 恒一です」
音香は、その名前を胸の中で繰り返した。
藤崎。
ニュースに出ない男。
記録されない被害者。
「……あなた、今、どこに行くつもりだったんですか」
「正直……わからない。人のいない場所を探して……でも、人がいないと余計に怖くて」
その矛盾に、音香は小さく息を吐いた……この街そのものだ。
「……よかったら」
言葉が、自然に出ていた。
「少しだけ、一緒に歩きませんか。人のいる方へ」
藤崎は、目を見開いた。
「……いいんですか」
「はい。私“撃たない人”なので」
冗談のつもりだった。
だが、その言葉は思いのほか真実に近かった。
藤崎は、しばらく迷ってから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
二人は並んで歩き出した。
数歩進んだところで、音香のスマホが再び震える。
『今、後ろに黒い車。減速してる。……普通じゃない』
葉介だ。
音香は立ち止まり、周囲を見回した。
遠くの交差点。
確かに、黒い車が一台、ゆっくりと走っている。
警察車両ではない。
ナンバーも、一般。
だが──直感が告げている──これは偶然じゃない。
音香は、藤崎に小さく言った。
「……もしかしたら、少しだけ、危ないかもしれません」
「……慣れてます」
その答えが、あまりにも悲しかった。
音香は、スマホに短く打ち込む。
『路地に入って。左三本目。合流できる』
送信。
そして、胸の奥で、はっきりと理解した。
これは、もう「個人の選択」じゃない。
撃たなかった人間。
撃たれた人間。
撃つことを疑い始めた人間。
それらが、静かに繋がり始めている。
それは、まだ組織でも運動でもない。
名前すらない。
けれど……確実に“反逆の芽”だった。
路地に入った瞬間、街の音が一段落ちた。
ネオンの反射も、ドローンの羽音も、細い壁に遮られて鈍くなる。
音香は足を緩め、後ろを振り返った。
藤崎恒一が、少し距離を取って歩いている。
その歩き方には、癖のような警戒心が染みついていた。
「……さっきの車、追ってきてます?」
「まだ……分からない。でも、葉介が“普通じゃない”って言う時は、だいたい当たってる」
藤崎は、かすかに笑った。
「……未奈川さん、ですよね。あなたの“撃たなかった話”、病院で聞きました」
音香は足を止めた。
「……どうして?」
「同じ病棟でした。俺は三日で出されましたけど。“軽傷の男性”は、長居しちゃいけないらしい」
言葉は淡々としている。
だが、その淡々さが、逆に傷の深さを語っていた。
路地の奥で、誰かのシャッターが閉まる音がした。
夜が、少しだけ濃くなる。
「……藤崎さんは」
音香は、言葉を選びながら聞いた。
「撃たれたあと……どうしました?」
藤崎は、少し間を置いた。
「最初は、“運が悪かった”って思うようにしました。そう思わないと……生きていけなかった」
歩きながら、ゆっくり言葉を続ける。
「でも、職場で言われたんです。“君がいると、周りが緊張する”って」
「……」
「会社としては正しい判断でしょうね。危険因子を遠ざける。HazardEyeの思想そのままです」
音香は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
「家族は……?」
「母は、“男に生まれたのが悪い”って“生きてるだけで、誰かを怖がらせてしまう”とも言いました」
短い沈黙。
「責めてるんじゃないんです。母も、怖いだけなんです。でも……それで、俺の居場所はなくなった」
藤崎は、空を見上げた。
ビルに切り取られた夜空は、やけに狭い。
「だから今は……人に近づくのも怖いし、離れるのも怖い」
「……それでも、声をかけてくれた」
「あなたが、怖がってなかったから」
その一言が、音香の胸に深く沈んだ。
自分は、誰かにとって“安全だった”。
その事実が、重く、そして温かかった。
そのとき、スマホが短く震えた。
『合流できそうだ。地下駐車場、Cブロック。今なら人も少ない』
葉介だ。
音香は藤崎に目配せした。
「……信じてくれますか」
「もう、信じるしかない」
二人は足早に角を曲がり、古いビルの地下入口へ滑り込んだ。




