表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
更新率九十二パーセント ─武装する乙女─  作者: 真野真名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

第一章 硝子越しの街



 朝の街は静かすぎた。

 静寂というより、何かが止まっている感じがした。風が吹いても埃が立たない。信号機の赤が濃く、空気の色を吸い取ってしまうような朝だった。

 まるで、世界が息をするのをやめてしまったみたいに。


 橘花音香たちばな おとかは、窓を開けた。

 ベランダの鉄柵に手を置くと、手のひらの裏から冷たさが伝わってくる。下の通りを見下ろすと、「女性住んでいます」と書かれた青いシールが貼られた郵便受けが、ずらりと並んでいた。どれも少し色褪せている。

 道ゆく車には“ Woman in car”のステッカー。

 街全体が恐怖に慣れてしまったような色をしていた。


 昨夜もまた、ニュースは「女性武装許可証」の更新率について報じていた。

 更新率九十二パーセント。つまり、この国の成人女性の九割以上が、なんらかの形で“防衛の権利”を持っているということだ。


 ただ、それを権利と呼ぶか、呪いと呼ぶかは、人によって違う。


 音香の部屋の机には、黒いケースがある。

 免許証より少し大きい「携帯武装許可証」。それを開くと、拳銃のような形をした麻痺銃が納まっている。殺傷力はそこまで高くはないが、相手を行動不能にするには十分。

 もちろん、相手が「害意を持った男性」である場合に限って、使用が許される。


 つまり、使う前に“害意”を感じ取る力が、必要になる。

 そこが、この制度の一番おそろしいところだった。

 判断を誤れば、加害者にも、被害者にもなれる。


 音香はその境界を、いつも手のひらの温度で測っていた。相手の体温ではなく、自分の手が冷たくなるかどうかで。


 彼女は東京帝国学院の学生だ。

 名は立派だが、いまや共学ではない。教室には女性しかおらず、窓の外に見える男子校の建物とは、高いフェンスで仕切られている。フェンスの向こう側で笑い声が聞こえることは、もう何年もなかった。


 講義室で、教授が淡々と人口統計のスライドを映す。

 ──出生率低下、男女比率の偏り、人工授精申請者の増加。


 聞き慣れた言葉が、生活音のように流れていく。

「この数値が、私たちの未来を作る」

 教授の声に、音香は小さく息を吐いた。未来という言葉が、こんなに静かな響きを持つとは、いつからだろう。


 放課後、校門を出ると、街の空気は夕暮れの匂いをしていた。

 人通りは少ない。女性が多いせいか、歩く足音が軽く、規則的だ。男の声は遠く、テレビの中にしか存在しないように感じられる。

 それでも時折、現実は隙間から顔を出す。音香は駅前のスクリーンに映るニュース映像に、思わず足を止めた。


 “男性暴行事件。女性による正当防衛が認められ──”

 ナレーションの途中で映像が切り替わる。何事も、淡々と処理される。

 この街では、感情よりも手続きの方が早く動く。


 音香はコンビニで夕食を買い、帰り道に細い路地を抜けた。

 そのとき、すれ違いざまに、何かの影が彼女の肩に触れた。


 反射的に体が動いた。

 麻痺銃に手をかけ、振り向く。


 ──若い男が、驚いた顔で立っていた。


 目が合った。

 数秒の沈黙。風の音すら消える。


 男は慌てて両手を上げた。

「す、すみません! 風で傘が──」


 音香の心臓が、ひどく早く打っていた。

 その瞬間、彼女の中で何かが揺らいだ。

 恐怖とも違う、もっと曖昧な震えだった。


 傘の骨が風に鳴る音。

 男の頬にかかる雨粒。


 そのどれもが、音香には現実の証拠のように見えた。


「……気をつけてください」

 声が自分のものとは思えなかった。


 彼女は背を向けて歩き出す。後ろから、男の声が追いかけてきた。

「本当に、すみません!」


 音香は振り返らなかった。

 でも、どこかで思った。

 ──この街にも、まだ“謝る”という言葉が残っているのだ、と。



***



 未奈川葉介みながわ ようすけは、その夜、会社の冷蔵庫を開けた。

 中身はペットボトルの水と、三日前の惣菜だけ。ため息が、白い冷気に溶けた。


 広告代理店の末端にある小さなCM制作会社。そのアシスタントディレクターとして働く彼は、仕事に夢を持つよりも先に、胃腸薬の銘柄を覚えた。


 街のどこを歩いても、女性の姿ばかりが目につく。

 彼ら、つまり男性たちは、無意識に“隅”を歩く習慣がついた。

 電車では端の車両に乗る。カフェでは入口近くの席。エスカレーターでは目を伏せる。


 それが、自己防衛だった。


 葉介は、この国の空気を「無音の監視」と呼んでいた。

 誰も怒鳴らないし、誰も泣かない。ただ、見えない視線が街を満たしている。

 誰も何もしていないのに、すべてが“気まずい”。

 その感覚が、世界の標準になっていた。


 昼休み、同僚の吉見がタバコをくわえながらぼやく。

「この前、電車でくしゃみしたら、前の席の女の人が警戒体勢に入ってさ。マジで心臓止まるかと思った」


 葉介は笑う。

「生きづらいな」

「生きづらいって言葉がまだ言えるうちはマシだよ」

 その言葉が妙に沁みた。


 会社を出た帰り道、雨が降り出した。

 葉介はコンビニでビニール傘を買い、信号を渡る。

 そのとき、前から歩いてきた女性の肩に、傘の先が軽く触れた。


 ほんの一瞬。

 なのに、空気が凍った。


 彼女の目が、刃物のように鋭く光った。


 反射的に、葉介は両手を上げた。

 「す、すみません! 風で傘が──」


 声が裏返る。心臓の音が喉にまで響いていた。


 相手は、少しの間、動かずにいた。

 何かを判断しているような顔。

 その沈黙が、何より恐ろしかった。


 だが次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、「……気をつけてください」

 とだけ言って、背を向けた。


 その横顔が、不思議なほど印象に残った。

 まるで、現実よりも現実的な夢を見ているような。

 葉介は、彼女が去っていく背中を見送りながら、

 心のどこかで何かを取り戻した気がした。


 ──翌日、彼は知る。

 その女性の名を。


 そして、それが彼の人生を変えることになることを、そのときの葉介は、まだ知らなかった。



***



 偶然というものを、音香は信じないほうだった。


 それはロマンチックな言葉で飾られがちだが、実際のところ、人間の行動にはたいてい理由がある。角を曲がるのも、視線を逸らすのも、何かの積み重ねの結果だ。


 だが、その日だけは違った。


 校舎の掲示板に貼られたポスターが、風でめくれていた。


『学生向け映像制作ボランティア募集』──協賛・大和映像制作株式会社。


 東京帝国学院の文化祭で、映像作品を撮るための外部スタッフ募集だという。


 その会社名に、音香の目が止まった。

 どこかで聞いたことがあった。そう、あの夜、傘を持っていた男が名乗ったのだ。「大和映像のアシスタントです」と。


 ほんの気まぐれで、応募してみた。

 自分でも驚くほど、あっけなく承認のメールが届いた。


 ──この国で、“男性と同じ空間にいる許可”が出ること自体が、もう奇跡に近い。



***



 撮影当日。

 学院の講堂。窓の外では雨が降っていた。

 音香が現場に入ると、スタッフたちは明らかに緊張していた。女性スタッフは数名。男性スタッフは隅に固まり、必要最低限の言葉しか発さない。


 その中に、葉介がいた。

 彼は前日と同じ傘を持っていた。


 音香を見つけた瞬間、葉介の手が止まった。傘を握る指先が白くなっている。それから、ぎこちなく頭を下げた。

 音香も小さく会釈する。


 ──それが、彼らの再会だった。


 昼過ぎ、撮影はトラブル続きだった。

 照明が落ち、機材がうまく作動せず、女子学生の一人が不安そうに「もうやめませんか」と言った。

 そんなとき、葉介は落ち着いた声で指示を出した。

「一回リハから戻そう。機材チェック、俺がやるから」


 誰も反論しなかった。

 その声が、奇妙に安心感を与えた。


 音香は、その様子を見ていた。

 思っていたよりも普通の人だった。

 いや、「普通」という言葉が、こんなにも懐かしい響きを持つとは思わなかった。


 午後、照明の調整で講堂の電源が落ちた。

 暗闇の中で、ふいにドアが閉まる音がした。

 外のスタッフがブレーカーを触ったのだろう。


 数秒の沈黙。


 音香と葉介だけが、講堂に取り残された。


 闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。

 それは奇妙に生々しく、まるで空気そのものが鼓動を持ったようだった。


 葉介が先に口を開いた。

「この間は……本当にすみませんでした」

「いえ、もういいです」


「いや、あんな時代だからこそ、ちゃんと謝らないと」


「……“あんな時代”……」

 音香は言葉を繰り返した。

「それって、どういう意味ですか」


「言葉通りの意味です。俺ら男は、何かしようとすると“意図”を問われる。何もしなくても“意図”を疑われる」


 沈黙。

 暗闇が、二人の間に立ちはだかるようだった。


「……あなたは、怖くないんですか」

 音香が呟いた。

「女性を前にして、怖くないんですか?」


「怖いですよ」

 即答だった。

「でも、あなたが怖がってるのは"男"でしょう? 俺が怖がってるのは"システム"です」


「それ、同じことじゃないんですか」


「違います」

 葉介の声が、暗闇の中で少し強くなった。

「あなたは俺を撃てる。でも俺は、撃たれないように祈ることしかできない。その非対称を、"同じ"とは呼べません」


 沈黙。

 音香は何も言えなかった。


「……ごめんなさい」


「謝らないでください」

 葉介は苦笑した。

「あなたが悪いわけじゃない。でも、誰も悪くないこの状況が、いちばん怖いんです」


 光が戻ったのは、その直後だった。


 ブレーカーが復旧し、蛍光灯が一斉に点く。

 目が眩んで、一瞬何も見えなかった。

 視界が戻ると、二人は近い距離にいた。

 あと少しで、互いの手が触れそうだった。


 音香は一歩、下がった。

 その動作は、ほとんど反射だった。

 けれどその後で、彼女は自分でも気づかないほど小さく呟いた。

「……そうね」


 葉介は何も言わなかった。

 ただ、微かに笑ったような顔をした。

 その笑みが、悲しいほど優しかった。



 夕方、撮影が終わり、スタッフが解散した。

 雨は止んで、街には薄い霧がかかっていた。

 葉介は、音香が駅へ向かうのを見ていた。声をかけようか迷ったが、やめた。


 ── この街では、声をかけること自体が告白に等しかった。

 葉介には、それが何よりも怖かった。



 駅へ向かう音香は振り返らなかった。

 けれど、歩く足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。



***



 風が、街の音をさらっていった。

 春と夏の境目、東京の空は淡く、どこか落ち着かない色をしていた。

 硝子の外側にある世界が、薄い膜を通してゆらいで見える。


 音香は講義を終えて歩いていた。

 交差点の反射ガラスに映る自分の顔が、知らない誰かのようだった。

 少し笑って、少し怯えている。


 ──その表情を、自分では制御できなかった。


 昨日の夜、葉介からメッセージが届いていた。



 明日、昼過ぎ、話せませんか。

 渋谷の裏通りにあるカフェ「LUNA」。



 “会う”という単語が、こんなにも重い響きを持つとは思わなかった。

 あの事件の夜から、彼の声が、心のどこかに残っていた。



***



 カフェ「LUNA」は、曇り硝子の向こうで淡く光っていた。


 音香が扉を開けると、コーヒーの香りがゆっくりと肺に沈んだ。

 葉介はすでに席にいて、窓の光の中で小さく息を吸った。


「来てくれて、ありがとうございます」

「少しだけなら」

「少しで、十分です」


 言葉の合間に、沈黙が何層にも重なっていく。

 外の雨が、硝子を叩いていた。


「──仕事、辞めようと思ってるんです」

「いきなりですね」

 音香は視線を逸らした。

「それは……逃げですか?」


「逃げ?」

 葉介の声が少し硬くなった。

「そう聞こえたなら、そうかもしれません。でも、どこに逃げればいいんでしょう。この国のどこに行っても、俺は"疑われる性別"なんです」


「……ごめんなさい」

「いえ。あなたが疑うのは、正しいことです。この社会では」

 

 その「正しい」という言葉が、妙に冷たく響いた。


 彼の声は静かだった。


 静かすぎて、音香は呼吸の仕方を忘れそうになった。


「あなたにぶつかったあの日、俺、死ぬかと思いました」

「……」


「でも、謝らなきゃって思ったんです。怖い相手なのに、守りたくなるって、変ですよね」


 その瞬間、音香の中で何かがきしんだ。

 “恐怖”という硝子に、細い亀裂が入る音がした。



 そのとき、外の路地から怒鳴り声が響いた。

 硝子の向こうで、人の影が揉み合っている。


「やめてよ!」「触ってないって!」


 通行人が立ち止まり、空気が一気に張りつめた。

 次の瞬間、短く乾いた音が鳴った。


 ──銃声。


 店内の空気が、爆ぜたように止まる。

 音香は反射的に立ち上がった。

 身体が先に動いていた。


 扉を開ける。

 硝子の冷たさが掌に刺さった。

 外の空気は熱く、雨が混じっていた。


 路地の中央に、ひとりの男が倒れていた。

 その傍らに立つのは制服姿の女性。

 麻痺銃の煙が、ゆらりと白く揺れていた。


「正当防衛です!」誰かが叫ぶ。

「害意を感じた!」

「記録して! 証拠になるから!」


 群衆の声が、世界を塗りつぶしていく。

 それは怒号ではなく、“正義の声”の形をしたノイズだった。


 葉介が前に出た。

 「救急車を──」


 その声に、女性の視線が動く。

 麻痺銃の銃口が、わずかに彼へと向いた。

 その一瞬の“判断”を、音香は見た。

 恐怖が、理性より早く動く。


「違う、待って!」

 音香の叫びが風に裂かれた瞬間、二発目の銃声が響いた。



 葉介が崩れた。

 世界が一拍遅れて動いた。

 音香は駆け寄り、彼の体を抱きとめた。


「大丈夫……?」

「ええ、ちょっと掠っただけです」

「そんなこと言って……!」


 声が震えていた。

 涙が視界を曇らせる。

 “泣いてはいけない”という理性が、それを押し戻す。


「放っておいたら、もっと怖くなる気がして」

 葉介の言葉が、掠れた声で零れた。


 音香はその意味を、すぐには理解できなかった。


 サイレンが近づく。

 上空の警察ドローンが光を放ち、「記録を開始します」と無機質な声が告げた。


 その光に照らされながら、音香は思った。

 ──この国では、恐怖も優しさも、同じ形式で記録されるのだと。


 彼女は彼の手を握りしめた。

 その温度だけが、現実だった。



 その夜、ニュースでは「女性による正当防衛事件」と報じられた。

 男性の軽傷。社会秩序の維持。

 すべては“適切に処理”された。


 ただ一つだけ、報道には載らなかった。

 現場にいた女学生が、倒れた男の手を握り続けていたことを。



***



 病室の窓は小さく、外の光はいつも鈍かった。

 朝が来ても、昼のような顔をしていない。

 ガラス越しに見える街は、白く霞んでいて、音のない映画のようだった。


 葉介は、ベッドの上で静かに息を吐いた。

 肩の傷は浅かったが、入院は続いている。


 病室のモニターが、一定のリズムで音を刻んでいた。

 その規則正しさが、かえって不安を増幅させた。


 扉が小さく開いた。

 白い光の中に、音香が立っていた。

 手には、小さな白い花束。

 それを、ぎこちなく持っていた。


「……入ってもいいですか」

「もちろん」


 椅子に腰を下ろすと、音香は窓を見つめた。

 街の上を、ドローンが低く飛んでいる。

 それが、鳩の代わりに空を管理する時代の象徴のようだった。


「ニュース、見ました」

「俺も。“女性による正当防衛、男性軽傷” ……簡潔で便利な言葉ですよね」


 葉介は笑ったが、その笑みはどこか壊れていた。


 音香は視線を落とした。

 指先が、花びらの端を震わせていた。


「私も、あの瞬間──」

 音香は一度言葉を切った。


「撃つことを、想像しました」


「……あなたが?」

「ええ。あなたを撃った彼女と、私の境界は、ほんの数秒の距離でした」


 沈黙が、部屋を包んだ。

 その沈黙の中に、いくつもの“もしも”が沈んでいた。


「……どうして外に出たんですか」

 音香が聞いた。


「放っておくのが、怖かった」

「でも、撃たれたじゃないですか」


「ええ」

「それでも?」


 葉介は窓を見た。

「あなた、あのとき俺の前に出ましたよね」


 音香の呼吸が止まった。


「どうしてですか? 俺を庇う理由なんて、ないのに」

「それは……」

「あなたも、放っておけなかったんでしょう?」


 音香は唇を噛んだ。

 葉介の言葉が、胸に刺さる。


「私が庇ったから、あなたは撃たれた」


「違います」

 葉介は首を振った。

「あなたが動いたから、俺はまだ人間でいられる。感謝してます」


「……意味がわからない」

「この国では、"守られる"経験をする男はもういないんです。でも、あなたは俺を守ろうとした。それだけで、十分すぎるくらい」


 音香の目に、涙が滲んだ。

「私、何もできなかった」


「いいえ」

 葉介は微笑んだ。

「あなたは、境界線を越えた」


 その言葉に、音香は小さく息を呑んだ。

 心の奥で、何かがほどけた。


「この国では、もう恋なんてできないのかもしれませんね」

「でも、“誰かを見つめる”ことまで禁止されてませんよね」


 その返しに、音香は小さく笑った。

 笑うという行為が、硝子を割る音のように響いた。



 別れ際、葉介が言った。


「また、会えますか」

「わかりません」

「そうですか」

「でも……」


 音香は少し間を置いた。


「もし会えたら、そのときは、もう少しちゃんと笑える気がします」


 葉介は頷いた。

 葉介にはそれだけで十分だった。



 病室を出ると、廊下に朝の光が差し込んでいた。

 灰色の街が、少しずつ透明になっていく。

 音香はバッグから許可証を取り出した。

 その黒いケースに、指先で触れる。

 そして、そっとバッグの奥にしまった。


 今日は、触れないでおこう。

 その小さな決意が、硝子をひとつ外す音のように思えた。


 通りに出ると、風が吹いた。

 ポスターがめくれ、新しい広告が現れる。

 ──『あなたの意図が、世界を変える』

 どこかの企業のコピー。


 音香は微かに笑った。

 意図なんて、誰にも分からない。

 でも、それでも生きていく。


 風の中に、雨の匂いが混じっていた。

 あの日と同じ匂いだった。

 音香は顔を上げ、歩き出した。


 街の喧騒が遠のく。

 遠くで、誰かの笑い声がした。

 その声が誰のものか、確かめようとは思わなかった。


 ──世界はまだ、終わっていない。


 硝子の朝が、ゆっくりと明るくなっていった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ