第一章 硝子越しの街
朝の街は静かすぎた。
静寂というより、何かが止まっている感じがした。風が吹いても埃が立たない。信号機の赤が濃く、空気の色を吸い取ってしまうような朝だった。
まるで、世界が息をするのをやめてしまったみたいに。
橘花音香は、窓を開けた。
ベランダの鉄柵に手を置くと、手のひらの裏から冷たさが伝わってくる。下の通りを見下ろすと、「女性住んでいます」と書かれた青いシールが貼られた郵便受けが、ずらりと並んでいた。どれも少し色褪せている。
道ゆく車には“ Woman in car”のステッカー。
街全体が恐怖に慣れてしまったような色をしていた。
昨夜もまた、ニュースは「女性武装許可証」の更新率について報じていた。
更新率九十二パーセント。つまり、この国の成人女性の九割以上が、なんらかの形で“防衛の権利”を持っているということだ。
ただ、それを権利と呼ぶか、呪いと呼ぶかは、人によって違う。
音香の部屋の机には、黒いケースがある。
免許証より少し大きい「携帯武装許可証」。それを開くと、拳銃のような形をした麻痺銃が納まっている。殺傷力はそこまで高くはないが、相手を行動不能にするには十分。
もちろん、相手が「害意を持った男性」である場合に限って、使用が許される。
つまり、使う前に“害意”を感じ取る力が、必要になる。
そこが、この制度の一番おそろしいところだった。
判断を誤れば、加害者にも、被害者にもなれる。
音香はその境界を、いつも手のひらの温度で測っていた。相手の体温ではなく、自分の手が冷たくなるかどうかで。
彼女は東京帝国学院の学生だ。
名は立派だが、いまや共学ではない。教室には女性しかおらず、窓の外に見える男子校の建物とは、高いフェンスで仕切られている。フェンスの向こう側で笑い声が聞こえることは、もう何年もなかった。
講義室で、教授が淡々と人口統計のスライドを映す。
──出生率低下、男女比率の偏り、人工授精申請者の増加。
聞き慣れた言葉が、生活音のように流れていく。
「この数値が、私たちの未来を作る」
教授の声に、音香は小さく息を吐いた。未来という言葉が、こんなに静かな響きを持つとは、いつからだろう。
放課後、校門を出ると、街の空気は夕暮れの匂いをしていた。
人通りは少ない。女性が多いせいか、歩く足音が軽く、規則的だ。男の声は遠く、テレビの中にしか存在しないように感じられる。
それでも時折、現実は隙間から顔を出す。音香は駅前のスクリーンに映るニュース映像に、思わず足を止めた。
“男性暴行事件。女性による正当防衛が認められ──”
ナレーションの途中で映像が切り替わる。何事も、淡々と処理される。
この街では、感情よりも手続きの方が早く動く。
音香はコンビニで夕食を買い、帰り道に細い路地を抜けた。
そのとき、すれ違いざまに、何かの影が彼女の肩に触れた。
反射的に体が動いた。
麻痺銃に手をかけ、振り向く。
──若い男が、驚いた顔で立っていた。
目が合った。
数秒の沈黙。風の音すら消える。
男は慌てて両手を上げた。
「す、すみません! 風で傘が──」
音香の心臓が、ひどく早く打っていた。
その瞬間、彼女の中で何かが揺らいだ。
恐怖とも違う、もっと曖昧な震えだった。
傘の骨が風に鳴る音。
男の頬にかかる雨粒。
そのどれもが、音香には現実の証拠のように見えた。
「……気をつけてください」
声が自分のものとは思えなかった。
彼女は背を向けて歩き出す。後ろから、男の声が追いかけてきた。
「本当に、すみません!」
音香は振り返らなかった。
でも、どこかで思った。
──この街にも、まだ“謝る”という言葉が残っているのだ、と。
***
未奈川葉介は、その夜、会社の冷蔵庫を開けた。
中身はペットボトルの水と、三日前の惣菜だけ。ため息が、白い冷気に溶けた。
広告代理店の末端にある小さなCM制作会社。そのアシスタントディレクターとして働く彼は、仕事に夢を持つよりも先に、胃腸薬の銘柄を覚えた。
街のどこを歩いても、女性の姿ばかりが目につく。
彼ら、つまり男性たちは、無意識に“隅”を歩く習慣がついた。
電車では端の車両に乗る。カフェでは入口近くの席。エスカレーターでは目を伏せる。
それが、自己防衛だった。
葉介は、この国の空気を「無音の監視」と呼んでいた。
誰も怒鳴らないし、誰も泣かない。ただ、見えない視線が街を満たしている。
誰も何もしていないのに、すべてが“気まずい”。
その感覚が、世界の標準になっていた。
昼休み、同僚の吉見がタバコをくわえながらぼやく。
「この前、電車でくしゃみしたら、前の席の女の人が警戒体勢に入ってさ。マジで心臓止まるかと思った」
葉介は笑う。
「生きづらいな」
「生きづらいって言葉がまだ言えるうちはマシだよ」
その言葉が妙に沁みた。
会社を出た帰り道、雨が降り出した。
葉介はコンビニでビニール傘を買い、信号を渡る。
そのとき、前から歩いてきた女性の肩に、傘の先が軽く触れた。
ほんの一瞬。
なのに、空気が凍った。
彼女の目が、刃物のように鋭く光った。
反射的に、葉介は両手を上げた。
「す、すみません! 風で傘が──」
声が裏返る。心臓の音が喉にまで響いていた。
相手は、少しの間、動かずにいた。
何かを判断しているような顔。
その沈黙が、何より恐ろしかった。
だが次の瞬間、彼女は小さく息を吐き、「……気をつけてください」
とだけ言って、背を向けた。
その横顔が、不思議なほど印象に残った。
まるで、現実よりも現実的な夢を見ているような。
葉介は、彼女が去っていく背中を見送りながら、
心のどこかで何かを取り戻した気がした。
──翌日、彼は知る。
その女性の名を。
そして、それが彼の人生を変えることになることを、そのときの葉介は、まだ知らなかった。
***
偶然というものを、音香は信じないほうだった。
それはロマンチックな言葉で飾られがちだが、実際のところ、人間の行動にはたいてい理由がある。角を曲がるのも、視線を逸らすのも、何かの積み重ねの結果だ。
だが、その日だけは違った。
校舎の掲示板に貼られたポスターが、風でめくれていた。
『学生向け映像制作ボランティア募集』──協賛・大和映像制作株式会社。
東京帝国学院の文化祭で、映像作品を撮るための外部スタッフ募集だという。
その会社名に、音香の目が止まった。
どこかで聞いたことがあった。そう、あの夜、傘を持っていた男が名乗ったのだ。「大和映像のアシスタントです」と。
ほんの気まぐれで、応募してみた。
自分でも驚くほど、あっけなく承認のメールが届いた。
──この国で、“男性と同じ空間にいる許可”が出ること自体が、もう奇跡に近い。
***
撮影当日。
学院の講堂。窓の外では雨が降っていた。
音香が現場に入ると、スタッフたちは明らかに緊張していた。女性スタッフは数名。男性スタッフは隅に固まり、必要最低限の言葉しか発さない。
その中に、葉介がいた。
彼は前日と同じ傘を持っていた。
音香を見つけた瞬間、葉介の手が止まった。傘を握る指先が白くなっている。それから、ぎこちなく頭を下げた。
音香も小さく会釈する。
──それが、彼らの再会だった。
昼過ぎ、撮影はトラブル続きだった。
照明が落ち、機材がうまく作動せず、女子学生の一人が不安そうに「もうやめませんか」と言った。
そんなとき、葉介は落ち着いた声で指示を出した。
「一回リハから戻そう。機材チェック、俺がやるから」
誰も反論しなかった。
その声が、奇妙に安心感を与えた。
音香は、その様子を見ていた。
思っていたよりも普通の人だった。
いや、「普通」という言葉が、こんなにも懐かしい響きを持つとは思わなかった。
午後、照明の調整で講堂の電源が落ちた。
暗闇の中で、ふいにドアが閉まる音がした。
外のスタッフがブレーカーを触ったのだろう。
数秒の沈黙。
音香と葉介だけが、講堂に取り残された。
闇の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。
それは奇妙に生々しく、まるで空気そのものが鼓動を持ったようだった。
葉介が先に口を開いた。
「この間は……本当にすみませんでした」
「いえ、もういいです」
「いや、あんな時代だからこそ、ちゃんと謝らないと」
「……“あんな時代”……」
音香は言葉を繰り返した。
「それって、どういう意味ですか」
「言葉通りの意味です。俺ら男は、何かしようとすると“意図”を問われる。何もしなくても“意図”を疑われる」
沈黙。
暗闇が、二人の間に立ちはだかるようだった。
「……あなたは、怖くないんですか」
音香が呟いた。
「女性を前にして、怖くないんですか?」
「怖いですよ」
即答だった。
「でも、あなたが怖がってるのは"男"でしょう? 俺が怖がってるのは"システム"です」
「それ、同じことじゃないんですか」
「違います」
葉介の声が、暗闇の中で少し強くなった。
「あなたは俺を撃てる。でも俺は、撃たれないように祈ることしかできない。その非対称を、"同じ"とは呼べません」
沈黙。
音香は何も言えなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
葉介は苦笑した。
「あなたが悪いわけじゃない。でも、誰も悪くないこの状況が、いちばん怖いんです」
光が戻ったのは、その直後だった。
ブレーカーが復旧し、蛍光灯が一斉に点く。
目が眩んで、一瞬何も見えなかった。
視界が戻ると、二人は近い距離にいた。
あと少しで、互いの手が触れそうだった。
音香は一歩、下がった。
その動作は、ほとんど反射だった。
けれどその後で、彼女は自分でも気づかないほど小さく呟いた。
「……そうね」
葉介は何も言わなかった。
ただ、微かに笑ったような顔をした。
その笑みが、悲しいほど優しかった。
夕方、撮影が終わり、スタッフが解散した。
雨は止んで、街には薄い霧がかかっていた。
葉介は、音香が駅へ向かうのを見ていた。声をかけようか迷ったが、やめた。
── この街では、声をかけること自体が告白に等しかった。
葉介には、それが何よりも怖かった。
駅へ向かう音香は振り返らなかった。
けれど、歩く足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。
***
風が、街の音をさらっていった。
春と夏の境目、東京の空は淡く、どこか落ち着かない色をしていた。
硝子の外側にある世界が、薄い膜を通してゆらいで見える。
音香は講義を終えて歩いていた。
交差点の反射ガラスに映る自分の顔が、知らない誰かのようだった。
少し笑って、少し怯えている。
──その表情を、自分では制御できなかった。
昨日の夜、葉介からメッセージが届いていた。
明日、昼過ぎ、話せませんか。
渋谷の裏通りにあるカフェ「LUNA」。
“会う”という単語が、こんなにも重い響きを持つとは思わなかった。
あの事件の夜から、彼の声が、心のどこかに残っていた。
***
カフェ「LUNA」は、曇り硝子の向こうで淡く光っていた。
音香が扉を開けると、コーヒーの香りがゆっくりと肺に沈んだ。
葉介はすでに席にいて、窓の光の中で小さく息を吸った。
「来てくれて、ありがとうございます」
「少しだけなら」
「少しで、十分です」
言葉の合間に、沈黙が何層にも重なっていく。
外の雨が、硝子を叩いていた。
「──仕事、辞めようと思ってるんです」
「いきなりですね」
音香は視線を逸らした。
「それは……逃げですか?」
「逃げ?」
葉介の声が少し硬くなった。
「そう聞こえたなら、そうかもしれません。でも、どこに逃げればいいんでしょう。この国のどこに行っても、俺は"疑われる性別"なんです」
「……ごめんなさい」
「いえ。あなたが疑うのは、正しいことです。この社会では」
その「正しい」という言葉が、妙に冷たく響いた。
彼の声は静かだった。
静かすぎて、音香は呼吸の仕方を忘れそうになった。
「あなたにぶつかったあの日、俺、死ぬかと思いました」
「……」
「でも、謝らなきゃって思ったんです。怖い相手なのに、守りたくなるって、変ですよね」
その瞬間、音香の中で何かがきしんだ。
“恐怖”という硝子に、細い亀裂が入る音がした。
そのとき、外の路地から怒鳴り声が響いた。
硝子の向こうで、人の影が揉み合っている。
「やめてよ!」「触ってないって!」
通行人が立ち止まり、空気が一気に張りつめた。
次の瞬間、短く乾いた音が鳴った。
──銃声。
店内の空気が、爆ぜたように止まる。
音香は反射的に立ち上がった。
身体が先に動いていた。
扉を開ける。
硝子の冷たさが掌に刺さった。
外の空気は熱く、雨が混じっていた。
路地の中央に、ひとりの男が倒れていた。
その傍らに立つのは制服姿の女性。
麻痺銃の煙が、ゆらりと白く揺れていた。
「正当防衛です!」誰かが叫ぶ。
「害意を感じた!」
「記録して! 証拠になるから!」
群衆の声が、世界を塗りつぶしていく。
それは怒号ではなく、“正義の声”の形をしたノイズだった。
葉介が前に出た。
「救急車を──」
その声に、女性の視線が動く。
麻痺銃の銃口が、わずかに彼へと向いた。
その一瞬の“判断”を、音香は見た。
恐怖が、理性より早く動く。
「違う、待って!」
音香の叫びが風に裂かれた瞬間、二発目の銃声が響いた。
葉介が崩れた。
世界が一拍遅れて動いた。
音香は駆け寄り、彼の体を抱きとめた。
「大丈夫……?」
「ええ、ちょっと掠っただけです」
「そんなこと言って……!」
声が震えていた。
涙が視界を曇らせる。
“泣いてはいけない”という理性が、それを押し戻す。
「放っておいたら、もっと怖くなる気がして」
葉介の言葉が、掠れた声で零れた。
音香はその意味を、すぐには理解できなかった。
サイレンが近づく。
上空の警察ドローンが光を放ち、「記録を開始します」と無機質な声が告げた。
その光に照らされながら、音香は思った。
──この国では、恐怖も優しさも、同じ形式で記録されるのだと。
彼女は彼の手を握りしめた。
その温度だけが、現実だった。
その夜、ニュースでは「女性による正当防衛事件」と報じられた。
男性の軽傷。社会秩序の維持。
すべては“適切に処理”された。
ただ一つだけ、報道には載らなかった。
現場にいた女学生が、倒れた男の手を握り続けていたことを。
***
病室の窓は小さく、外の光はいつも鈍かった。
朝が来ても、昼のような顔をしていない。
ガラス越しに見える街は、白く霞んでいて、音のない映画のようだった。
葉介は、ベッドの上で静かに息を吐いた。
肩の傷は浅かったが、入院は続いている。
病室のモニターが、一定のリズムで音を刻んでいた。
その規則正しさが、かえって不安を増幅させた。
扉が小さく開いた。
白い光の中に、音香が立っていた。
手には、小さな白い花束。
それを、ぎこちなく持っていた。
「……入ってもいいですか」
「もちろん」
椅子に腰を下ろすと、音香は窓を見つめた。
街の上を、ドローンが低く飛んでいる。
それが、鳩の代わりに空を管理する時代の象徴のようだった。
「ニュース、見ました」
「俺も。“女性による正当防衛、男性軽傷” ……簡潔で便利な言葉ですよね」
葉介は笑ったが、その笑みはどこか壊れていた。
音香は視線を落とした。
指先が、花びらの端を震わせていた。
「私も、あの瞬間──」
音香は一度言葉を切った。
「撃つことを、想像しました」
「……あなたが?」
「ええ。あなたを撃った彼女と、私の境界は、ほんの数秒の距離でした」
沈黙が、部屋を包んだ。
その沈黙の中に、いくつもの“もしも”が沈んでいた。
「……どうして外に出たんですか」
音香が聞いた。
「放っておくのが、怖かった」
「でも、撃たれたじゃないですか」
「ええ」
「それでも?」
葉介は窓を見た。
「あなた、あのとき俺の前に出ましたよね」
音香の呼吸が止まった。
「どうしてですか? 俺を庇う理由なんて、ないのに」
「それは……」
「あなたも、放っておけなかったんでしょう?」
音香は唇を噛んだ。
葉介の言葉が、胸に刺さる。
「私が庇ったから、あなたは撃たれた」
「違います」
葉介は首を振った。
「あなたが動いたから、俺はまだ人間でいられる。感謝してます」
「……意味がわからない」
「この国では、"守られる"経験をする男はもういないんです。でも、あなたは俺を守ろうとした。それだけで、十分すぎるくらい」
音香の目に、涙が滲んだ。
「私、何もできなかった」
「いいえ」
葉介は微笑んだ。
「あなたは、境界線を越えた」
その言葉に、音香は小さく息を呑んだ。
心の奥で、何かがほどけた。
「この国では、もう恋なんてできないのかもしれませんね」
「でも、“誰かを見つめる”ことまで禁止されてませんよね」
その返しに、音香は小さく笑った。
笑うという行為が、硝子を割る音のように響いた。
別れ際、葉介が言った。
「また、会えますか」
「わかりません」
「そうですか」
「でも……」
音香は少し間を置いた。
「もし会えたら、そのときは、もう少しちゃんと笑える気がします」
葉介は頷いた。
葉介にはそれだけで十分だった。
病室を出ると、廊下に朝の光が差し込んでいた。
灰色の街が、少しずつ透明になっていく。
音香はバッグから許可証を取り出した。
その黒いケースに、指先で触れる。
そして、そっとバッグの奥にしまった。
今日は、触れないでおこう。
その小さな決意が、硝子をひとつ外す音のように思えた。
通りに出ると、風が吹いた。
ポスターがめくれ、新しい広告が現れる。
──『あなたの意図が、世界を変える』
どこかの企業のコピー。
音香は微かに笑った。
意図なんて、誰にも分からない。
でも、それでも生きていく。
風の中に、雨の匂いが混じっていた。
あの日と同じ匂いだった。
音香は顔を上げ、歩き出した。
街の喧騒が遠のく。
遠くで、誰かの笑い声がした。
その声が誰のものか、確かめようとは思わなかった。
──世界はまだ、終わっていない。
硝子の朝が、ゆっくりと明るくなっていった。




