プロローグ
プロローグ
バケツをひっくり返したような豪雨の夜。
一山まるごと私有地になっている葛城財閥の屋敷にて、血塗られた惨劇が幕を開けた。
8月8日、20時20分。
葛城邸の廊下にて。
葛城財閥の当主、葛城歳三のかかりつけ医である草野達郎は、帰り支度を済ませて屋敷の玄関の前に向かっていた。
槍を持った悪魔と裸の女が絡み合う、悪趣味な装飾が目立つ重厚な扉越しにも伝わる激しい風雨が、草野の足をその場に縛り付けた。
屋敷の診療室に泊まろう。
こんな土砂降りの中、山道を走りたくない。
当主の息子、葛城伸二に「血も繋がっていなければ使用人でも無いクセに、お前は屋敷で夜を明かすのか?」と嫌味を言われてからは、雨が降ろうが雪が降ろうが、日付を跨ぎそうな遅い時間になったとしても、意地でも山の麓にあるアパートに帰っていた。
だが、この日の風雨は台風を思わせる程に強烈で、どうしても玄関の扉を開ける気になれなかった。
踵を返した草野は、誰にも見つからないことを祈りながら、一階にある自分が休憩室代わりにも使っている診療室に向かって歩を進めた。
パァン。
乾いた音が廊下に響き、少し間を開けて、もう一度乾いた音が廊下に響いた。
「”銃声”?」
思わず疑問を口にした草野だったが、”歳三は夜は銃を撃たない”事を思い出し、「風で飛んできたナニカが、窓にぶつかった音だろう」と、誰もいない廊下で呟いた。
乾いた音の正体が気がかりだったものの、伸二に見つかりたくなかった草野は、音の正体を確かめずに診療室へと戻り、脱いだ白衣を診療室のベッドの枕元に置き、目を瞑って横になった。
同日、21時13分。
葛城邸の診療室にて。
「草野先生ッ! まだいらっしゃいますかッ!? すぐに来てくださいッ! 御父様がッ!」
扉を激しく叩く音と女性の叫び声で目を覚ました草野は、急いで白衣を身に纏い、診療道具一式が入った鞄を掴んで急いで扉を開けた。
「歳三様が、どうかされましたかッ!?」
「お、御父様が、銃で撃たれて」
「銃? 銃だって!? どういう事ですかっ!?」
「と、とにかくッ! すぐに来てくださいッ!」
興奮状態で部屋を訪れた当主の娘、葛城一美は、草野の腕を痕が残るぐらい強く握り、当主の部屋がある二階に上がる階段に向けて腕を引っ張った。
同日、21時15分。
葛城邸の当主、歳三の部屋にて。
一美に連れられて草野が歳三の部屋の前に着いた時、この屋敷の関係者が全員揃っていた。
五十年以上、葛城家に仕えている使用人の花巻ウメ子は、取り乱した素振りも見せず、耳元に当てていた折りたたみ式の古い携帯電話をエプロンのポケットにしまった。
入って一年にも満たない新人の使用人、如月あやの(きさらぎ あやの)は、”歳三のコレクションの一つであるナイフ”を胸に抱えて、何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。どちらともとれない呆然とした表情で立ち尽くしていた。
当主の息子、葛城伸二は腕を組み、パタパタと床を小刻みに踏みながら、ふんぞり返っていた。
「ど、どうか、お願いします」
一美の言葉で我に返った草野は、急いで部屋の中へと足を踏み入れた。
「と、歳三様ッ!?」
何度嗅いでも慣れることのない、生臭さと鉄臭さの混じった不快な臭いが草野の鼻腔を強く刺激した。
意を決して部屋に入った草野は、本棚に寄りかかりながら床に座る歳三の元へ駆け寄った。
「し、失礼します」
バスローブを羽織っていた歳三の左胸と左脇腹の辺りからの出血が酷いことを確認した草野は、血に触れないように首元に手を当てた。
”脈が無い”。
鞄から懐中電灯を取り出し、瞳孔の確認を行うも結果は変わらない。
「緊急通報はされましたか?」
「はい。110番と119番には連絡してあります」
使用人のウメ子は、当たり前だと言わんばかりに即答した。
「草野先生。御父様は?」
不安そうな一美の問いに対し、草野は大きく深呼吸をし、首を小さく横に振った。
「既に亡くなっています」
「そ、そんなッ!?」
一美は顔を手で覆い、嗚咽を漏らしながらその場に座り込んだ。
一方、歳三の息子である伸二は、品の無い笑みを浮かべながら机や本棚の物色を始めた。
「親父が死んだって事は、俺が葛城財閥の当主ってわけだ。ククッ。こりゃあ忙しくなるぞ。確か、この辺りに仕事の資料があったはずだよな」
皆とは一歩引いたところに立っていたウメ子が、数歩前に出て伸二を見つめた。
「伸二様。三十分もすれば警察がここに来ます。無闇矢鱈と部屋の物に触れない方が宜しいかと」
ウメ子の言葉を聞いた伸二は、持っていた本をウメ子の足元に投げ捨てた。
「なんだよ、花巻。使用人の分際で、俺が犯人だって言いてぇのか?」
威嚇するようにウメ子に迫る伸二だったが、ウメ子は臆する素振りを見せずに「伸二様が犯人のはずがありません。ですが、部屋の彼方此方に伸二様の指紋があったとしたら、警察は伸二様を疑うかもしれません」と、口にした。
「わぁったよ。まぁ、”警察が俺を疑うわけがない”んだが、話の通じねぇヤツがいたら面倒だからな。花巻の言う通りにしてやるよ。俺は自分の部屋にいるから、あとは”上手いことやれよ”」
伸二は一方的にそう告げると、ウメ子や草野にわざと肩をぶつけながら自室へと戻って行った。
翌日、01時48分。
葛城屋敷の来賓用駐車場のパトカー車内にて。
「安井警部補、事情聴取は終わりました。今から報告書作ります」
山の麓の交番に新しく配属になった新川が、パトカーに乗り込みながら上司の安井に報告すると、安井は面倒くさそうに煙草をくわえた。
「あぁ。ちゃんとまとめとけよ。だが、提出用のは俺がもう作っておいた」
安井はダッシュボードの上に無造作に置いてある報告書を顎で示した。
「ありがとうございます。ですが、自分が聴いてきた事を反映させた方が良いのでは?」
「必要なくなった。今回のは”自殺で処理されることになった”からな」
「え!? どういうことですか!?」
安井はライターで煙草に火を点け、窓を開けずに煙を吐いた。
煙が車内に充満し、新川は思わず顔を歪めた。
「そのまんまの意味だよ。今回の件は自殺。”そういう事になった”んだよ」
自殺?
自殺だって?
”あの現場を見て、自殺だと思う人がいるだろうか”?
「じ、”自殺”ですかッ!? おかしいですよッ!」
いくら自分が新人で、相手がベテランの上司だからといって、新川の正義心は安井の言葉に逆らわずにはいられなかった。
「一体、何がおかしいんだ?」
安井のドスの効いた声に思わず言葉を失った新川だったが、今更訂正しても意味が無いと腹をくくった新川は、湧き上がる思いを吐き出した。
「『何がおかしい』って、色々ですよ。
まず、”亡くなった葛城歳三さんは左胸と左脇腹を前から撃たれていた”んですよ。
”現場にあった歳三さんのコレクションの一つである拳銃”で」
「”自分で撃った”んだろうな」
「普通の人は、銃で撃たれた激痛で、二発目を撃てるとは思えません」
「葛城歳三は撃てたんだろうな」
「か、仮に自分で自分の胸と腹に発砲したとしてもですよ。
”使用された拳銃には誰の指紋も無かった”んですよ!
自殺だとしたら、歳三さんの指紋が残っているはずですよね?」
安井は、吸い終わった煙草を吸い殻入れに押し込み、新しい煙草を咥えて火を点けた。
指先まで染み渡らせるようにゆっくりと肺に煙を入れた安井は、焦らすようにゆっくりと煙を吐いた。
「”指紋を残さない方法”なんていくらでもあるだろ。”拭き取ったのか、手袋か何かを使って直接触らなかった”のかは分からねぇが」
「自殺する人間が、わざわざそんなことをするはずがないですよ」
「何か理由があって、葛城歳三は指紋を残さない工作をしたんだろ」
警察であれば見逃すはずが無い違和感について、曖昧な返答ばかりの安井に苛立ちを感じ始めた新川は、一番の謎を口にした。
「極めつけは”血の付いたナイフの存在”です。歳三さんの娘の一美さんがこう言ってました。
『”血塗れのナイフが御父様の近くに落ちていた”』
『そのナイフは”警察が到着する前に、使用人の如月あやのが綺麗に洗ってしまった”』
怪しいと思いませんか?」
「何でも鵜呑みにするのも良くないが、何でも疑うのも良くねぇなぁ」
「で、ですが、”葛城歳三さんにナイフによる傷は無い”んですよ!」
「はぁ?」
それまで余裕の表情を浮かべていた安井の顔が歪んだ。
新川は「それ見たことか」という思いを何とか飲み込み、話を続ける。
「ですから、”歳三さんにはナイフによる傷は無かった”のです。
”ナイフに付いていた血は誰の血だったのか”?
僕は犯人の血だと思っています。
安井警部補は、今回の件について本気で自殺だったと考えているのですか?」
安井は半分も吸っていない煙草を吸い殻入れに突っ込むと、パトカーの周囲に人がいないことを確認してから口を開いた。
「新川。お前、結婚したばかりだろう?」
「は、はい」
「だったら、それ以上首を突っ込まない方が良い」
冗談を言われていると思った新川は「な、なんですか? そんな脅迫めいた事を言われても」と返したが、安井の目は全く笑っていなかった。
「良いか、新川。自分や嫁さんの命を賭けてまで、この件に首を突っ込む必要も価値も無い。
もう一回言うぞ。『葛城歳三が亡くなった件は、自殺で処理されることになった』んだよ。
後のことは、”それでも真相を追い求める奴”に任せりゃ良いんだ」
「それでも真相を追い求める奴って誰のことですか? 僕らがやらないで、誰がやるって言うんですか?」
「誰かは知らない。”それでも真相を追い求める誰か”だ」
これじゃあ殺人の隠蔽じゃないか!?
警察官は、警察という組織は、弱きを助け、悪を捕まえるのが仕事では無かったのか?
まだ経験の浅い新川にとって、これ程の疑問点がありながら、自殺として片付ける事など到底納得出来なかった。
しかし、新人の交番勤務の自分が、組織が決めた方針に逆らって出来ることなどたかが知れている。
新川は血が出るのではないかという程に唇を強く噛み締め、込み上げてきた怒りと正義心を、すんでの所で抑え込み、吐き捨てるように「分かりました」と、呟いた。