#10−5:市場と戦場の臨界点
✦✦✦《進軍の兆しと逆転の種》✦✦✦
冷たい朝靄が地平線を覆い尽くしていた。
湿った空気が肌にまとわりつく。不快なほど濃密な沈黙が戦場に広がり、まるで何かが戦の行方を見守っているかのようだった。
しかし、その静寂を破るように、一定のリズムを刻む音が響く。
金属が擦れ合う音、甲冑をまとった兵士たちの足音、重厚な装備が揺れるわずかな音。
それらが、一つの巨大な波となり、戦場の空気を押し潰していく。
ゼグラント派軍の進軍。
霧の奥から黒い影がゆっくりと浮かび上がる。
統率の取れた兵士たちが陣形を崩さず前進し、槍の穂先と剣が朝日に照らされ、不吉に煌めいた。
それはまるで、死の行進だった。
「Kの市場価値が暴落した今こそ、仕留める時だ!」
先頭に立つ将軍の咆哮が、戦場に響き渡る。
軍旗が翻り、重騎兵が轟音とともに前進する。
槍を構えた歩兵たちが、規則正しく陣形を整える。
魔法兵の詠唱が戦場に響き、張り詰めた空気が震えた。
「市場がKを見限った以上、戦場での勝敗も見えている!」
確信に満ちた声。
この世界では、**市場価値こそが戦場の勝敗を決める絶対的な指標**だった。
だが、その確信の裏に、目に見えない綻びが忍び寄っていた。
敵軍の中で、ただ一人、沈黙する男がいた。
ゼグラント軍の戦略参謀――エルドリック。
彼は馬上からKの要塞を見つめ、眉を寄せた。
「……待て」
「何か問題でも?」
横にいた副官が首を傾げる。
エルドリックは唇を噛み、鋭い視線を要塞へ向ける。
「Kの市場価値が落ちたというのは確かに事実だ。だが……なぜKは未だに動かない?」
市場と戦場は連動している。
それならば、Kはすでに**市場の混乱を逆手に取る策を用意しているはず**だ。
「このまま進軍すれば、奴の策に嵌まる可能性が高い」
エルドリックの声に、周囲の将校たちがざわめく。
「しかし、Kは沈黙を保っています」
「それが問題なんだ」
エルドリックの目が鋭く光る。
「Kのことだ。……ただ大人しく市場の崩壊を受け入れるはずがない」
「何かが動いている……」
Kの拠点は依然として沈黙していた。
城壁の上で、Kは静かに戦場を見下ろしている。
その表情には、焦りも恐れもない。
敵の大軍を前にしても、彼は微動だにしない。
隣に立つセリアは、あえてKの顔を見なかった。
その沈黙が、彼女の信頼を物語っていた。
セリアは微かに唇を動かす。誰にも聞こえないほどの声で、ただ一言。
「……あなたは、やっぱり変わらないのね」
そしてほんの少し、唇に笑みを浮かべる。
「……ほんと、どこまで露骨なの、これ」
Kは冷笑する。
「ならば、俺も市場と戦場を両方動かすまでだ」
彼の指が、ゆっくりと城壁の石を叩く。
トン……トン……トン……。
そのリズムは、何かを計算しているようにも聞こえた。
次の瞬間――Kの全身から黒い魔力が溢れ出した。
漆黒の靄が、肉体から噴き上がるように拡散し、空を裂くように広がっていく。
風景の色さえも飲み込むような暗さ――まるで、戦場そのものがKという存在に“染まって”いくかのようだった。
風が唸る。
城壁の上で、黒い靄がKの体を包み込み、影のようにうごめく。
「始めるか……」
Kの目がゆっくりと開く。
「戦奴――発動」
✦✦✦《暴走する本能》✦✦✦
瞳の奥に宿るのは、人間のものではない――狂気と破壊の赤い光だった。
「市場は数字で戦うが、戦場では肉体で勝負する」
その言葉を最後に、Kの身体が爆発的な魔力とともに変異する。
Kの意識が沈む。
余計な思考が、すっと消える。
いま、この戦場だけが――世界のすべてだった。
ただ、いまこの瞬間の最適解だけが脳内に刻み込まれる。
彼の思考は、戦闘そのものと一体化する。
戦奴。
戦奴――それは、知略も駆け引きも切り捨てるスキル。
市場操作も、戦術も、この状態では一切の価値を持たない。
Kの脳内は、ただひとつ――“敵を屠る”ための思考だけで満たされていく。
肉体と本能が直結し、戦場そのものと融合していく感覚。
戦奴発動後、Kの動きは異常なまでに無駄がなくなった。
予測ではない。“次の一手”が見えているような精度だった。
まるで、戦いに囚われた奴隷。
だがこの瞬間だけは、その狂気こそが最も純粋な強さになる。
Kの体が裂ける。
槍が脇腹を貫き、剣が背中を引き裂く。
……痛みは、ある。
だが、それすらも――戦う理由になる。
だが――。
彼は動きを止めなかった。
Kの体は、限界を超えながらも動こうとしていた。
その刹那、Kの体が自らを修復し始めた。
致命傷であればあるほど、より強くなる。
それが、限界突破回復の本質。
血が蒸発する。裂けた肉が脈動し、うごめいた。
骨が軋み、瞬く間に繋がる。――強化された筋繊維が、それに追随した。
砕けた肋骨が、逆再生のように滑らかに接合し、皮膚が焼け焦げたような蒸気を立てながら再生していく。
筋繊維は、まるで獣のように脈動しながら肥大化し、瞬時に戦闘体勢へと進化していった。
Kの瞳が赤く光る。
戦奴モードと限界突破回復の組み合わせ――それは、もはや"戦場における悪夢"に他ならなかった。
「消えた……!? いや、違う――!」
最前線の兵士たちが慌てて周囲を見渡したその瞬間。
轟音。
突風のような衝撃波が、最前線の兵士たちを無差別に吹き飛ばす。
Kが踏み込んだ地点には 巨大なクレーターが生まれ、周囲の地面がひび割れていた。
「ぐああああっ!」
槍を構えていた兵士が、視界の端に何かを捉えた瞬間――。
彼の鎧が砕け散る。
そして、さらに恐怖が広がる。
「……さっきの傷が……消えている!?」
Kは、血まみれの口元を歪め、笑った。
「ああ、まだ足りない。……命なんてな、人も家畜も変わりはしない。さあ、俺を終わらせてみろ」
……そして、その遥か後方。
廃墟の影――朽ちた塔の頂に、金の装飾が施された白き武具に身を包んだ人影たちが立っていた。
その姿は風に揺らぐことなく、まるで空間から切り離されたかのように静止している。
誰も気づかない。だが彼らは確かに、この戦場を――Kを、黙して見下ろしていた。
白き武具は儀礼的な意匠に満ち、戦装束には見えなかった。
それは、力を使う者ではなく――力を決める者の服装だった。
足元の空間が、わずかに歪む。
空気のひび割れから滲み出す紫の魔素が、地を這うようにしてKの方角へと伸びていく。
……この戦場の“真の監視者”は、すでに動き始めていた。
――そして、第一部・完




