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#10ー4:市場を制す者、戦場を制す



 ✦✦✦《情報が支配する戦場》✦✦✦

 

 魔導スクリーンの青白い光が、作戦室の壁に不規則な影を落としていた。


 作戦卓を中心に、円形に配置された椅子はすべて空席のまま。

 奥の書架に積もった古い戦術書の背表紙さえ、光の揺れで一瞬だけ息を吹き返したように見える。

 空間には、人の熱よりも機械の記憶だけが残っていた。

 

 低く唸る機械音が、戦況の変化を知らせるように響く。


 Kは椅子に身を預けたまま、スクリーンへ指を滑らせる。

 無数の数値が流れ、戦場の映像が次々と切り替わる。

 静かな部屋に、Kのわずかな呼吸音だけが残る。


 市場が揺れる。戦場も揺れる。

 Kの頭の中で、その因果が複雑に絡み合っていく。


「……市場が揺れれば、戦場も崩れる。ならば、揺らすのは俺だ」


 その言葉が、密やかに部屋の空気を震わせた。


 エリシアが指でテーブルを軽く叩き、僅かに口角を上げる。

 その笑みには、確信と揶揄の両方が混ざっていた。


「Kらしい考えね。でも、それってゼグラントも同じことを考えてるんじゃない?」


 Kの視線はスクリーンを離さない。

 指が止まり、データの流れに集中する。


「当然だ。問題は、その先だ」


 セリアが腕を組み、険しい顔をした。

 スクリーンには、ゼグラントの市場操作がほぼ完璧な防御態勢をとっていることが示されている。


「敵の市場防御が、かなり強固になってるわ。影鬼が流した情報が、完全に打ち消されてる」


「……」


 Kは指を軽く曲げ、こめかみに当てた。

 考えを巡らせる。思考の糸を紡ぎ、編み直す。


 すべてが封じられているように見える。だが――Kは思った。

 ……完璧? いや、そんなはずはない。

 Kは小さなズレを探し始める。


 呼吸が深くなる。

 指先がスクリーンを滑るたび、映像が切り替わる。


 その時、画面の端に映る補給ルートの映像に、Kの目がわずかに細まった。


 崩れかけた橋。

 小さな損傷だが、時間と共に広がる可能性がある。


 Kはそこを指し示した。


「……ここを利用する」


 声は落ち着いていた。だが、わずかに言葉が遅れた。

 決断に迷いが混じっていた。K自身、それを認めたくはなかった。


 エリシアが目を細める。


「……あら? Kが即決しないなんて、天変地異の前触れ?」


 Kは短く息をつき、椅子の肘掛けを軽く叩いた。


「今回は状況が違う。敵は市場と戦場の連動を完全に理解している。

ここを狙うことは、相手も予測している可能性が高い」


 セリアが腕を組み直し、深く頷く。


「つまり、これは賭け……?」


「そうだ」


 Kの指がスクリーンをゆっくりと滑る。

 僅かに震えているようにも見える。


 だが、次の瞬間、その震えは静かな決意に変わった。


「……影鬼を送り込め。最悪の事態を想定しつつ、動くしかない」


 部屋の空気が、張り詰めたものへと変わった。


 影鬼のネットワークが動き出す。

 敵が市場を守るのなら、Kはその防壁の内側に入り込む。


 戦場と市場の綱引きが、静かに、そして確実に始まろうとしていた。



✦✦✦《潜入者の静寂》✦✦✦


 影鬼は静かに影へと溶け込んだ。


 夜の帳が降りる中、敵軍の作戦室の明かりが揺れている。

 室内から漏れる話し声は、張り詰めた空気に満ちていた。


 影鬼は息を潜め、壁際の暗闇に身を伏せる。


 月光がわずかに差し込む窓辺には、鉄格子の影が斜めに走っていた。

 影鬼の衣の裾と床の闇が一体化し、視線を向けても人の形を認識できないほど溶けている。

 まるで、最初から“存在していない”かのように。

 

 遠くで兵士たちの巡回する足音が響く。


 隠しマイクがかすかにノイズを発し、耳の奥に響いた。

 これ以上近づけば危険だ……だが、情報を得るにはここしかない。


 影鬼は微動だにせず、耳を澄ませた。

 


 ――敵軍の作戦室。


「Kの市場価値が低下している。今こそ叩くべきだ」


 重い机を指で叩く音が響く。

 その声には、焦りと勝機を掴んだ興奮が同居していた。


「市場価値が落ちれば、投資家はKを見限る。資金が尽きれば、軍隊の維持は不可能だ」

 

 現場叩き上げの将校らしく、話し方に容赦はない。結果しか見ていない。


「しかし……Kの影鬼部隊の情報操作能力は無視できません」


 声の主は、数字よりも情報の流れに重点を置く戦術将校。情報の一滴が戦場を傾けると信じている男だ。


 別の将校が言葉を挟んだ。

 彼は腕を組み、鋭い目つきで戦略図を睨んでいる。


「前回もそう言っていたな。しかし、結果はどうだ?」


 最初に話した将校が鼻で笑った。

 彼は椅子に深く腰を下ろし、グラスを傾ける。


「Kがどんなに市場を操作しようと、こちらが市場全体を握ってしまえばいい」


「……確かに。しかし、影鬼の動きを完全に封じられる保証はない」


「問題ない」


 声の主が立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。

 その動きに、場の空気が微かに変わった。


「Kの小細工など、通貨の流れには勝てん。資本は安定を欲し、リスクを嫌う。数字は、裏切らない」


 数字しか信じていない男だった。戦略よりも、市場心理よりも、“動かぬ数”こそが彼の神だった。


 将校たちは黙ったまま、言葉の意味を噛み締めるように視線を交わした。


 だが、一人だけ、微かに眉をひそめた男がいた。

 他の将校たちが勝利の算段に酔う中、彼だけは沈んだ目で全体を俯瞰していた。

 忠誠心よりも、論理に従う男だ。空気に飲まれることを忌避する、観察者のまなざし。


「……本当に、そうか?」


 その疑問は、空間を震わせるほどの重さを持っていた。


 影鬼はその瞬間、息を止めた。

 胸が一度だけ、強く上下する。皮膚の下で鼓動がざらつくように響いた。

 気づかれたのか? それとも……ただの疑念か?

 喉が乾くのを自覚しながら、影鬼は微動だにせず暗がりに溶け込んだ。


「何を言いたい?」


「もし、Kが市場の動きそのものを操作していたら?」


 沈黙が落ちる。


「つまり?」


「例えば、影鬼がすでにこの会議の情報を外部に漏らしていたとしたら……?」


 鋭い視線が、部屋の隅々を這うように走った。


 影鬼は動けなかった。


 気づかれたのか? それとも、ただの疑念か……?


「くだらん」


 最初の将校が舌打ちし、椅子を乱暴に引いた。


「影鬼の諜報能力は確かに厄介だが、我々の市場支配の前では無意味だ。

彼らは、こちらの動きを止めることはできない」


 その確信が、本当かどうかは、まだ分からない。


 影鬼は慎重に、静かに後退した。

 ――今は退く。それが最適解。

 呼吸を整えながら、己の存在が影に溶けていく感覚に集中する。

 焦りはない。ただ、静かに熱を孕んだ思考が次の手を描き始めていた。

 この情報は生かせる。必ず次に繋げてみせる――Kの判断に、意味を持たせるために。



✦✦✦《混乱の連鎖》✦✦✦


 影鬼の囁きは、影市場の管理人の耳元に忍び込んだ。


「次の補給は4日後の予定だ」


 管理人は一瞬、訝しげに眉をひそめた。

 だが、そのまま無言で記録を書き換える。


 些細な改変。

 だが、このわずかなズレが、連鎖的な混乱を引き起こすことになる。



 隊長は報告書を手にしたまま、こめかみを強く押さえていた。

 部屋の中には、苛立ちと焦燥が渦巻いている。


「……おい、どうなってる!? なぜ食料が届かない!」


 怒声が室内に響き、部下たちは怯えたように書類を見つめた。

 副官が紙束をめくりながら、慎重に答える。


「隊長、昨日の報告では、食料は本日到着予定でした。しかし、最新の指令によると……」


 副官は言葉を詰まらせた。


「……到着は4日後に変更されていたようです」


「何?」


 隊長の拳が机を叩く音が響いた。

 報告書が跳ね上がり、部下たちは思わず身を強張らせた。


「誰がそんな指示を出した!?」


「それが……本部の指令書が二重に発行されていた可能性があります」


 副官の言葉に、隊長は険しい表情を浮かべた。

 乱雑に机の上の紙をかき集め、目を走らせる。


「……ふざけるな。『3日後に到着』と『4日後に到着』の二通りの記録があるだと?」


「はい。本部の伝令係も混乱しているようで……」


「混乱? そんな間抜けな話があるか!」


 隊長は椅子を蹴り倒した。


 周囲の兵士たちは息を飲み、次第に不安な表情を浮かべ始める。


「本部の伝令係を呼べ! 今すぐ確認を――」


 その瞬間、隣の部屋から別の兵士が怒鳴り込んできた。


「隊長! 運搬業者から連絡がありました! 配送がさらに遅れると……!」


「……なんだと?」


「理由は不明ですが、資金の決済が遅れているとかで、商人側が契約を再調整したようです!」


 隊長は奥歯を噛みしめ、手にしていた報告書を握りつぶした。


「どいつもこいつも……! 何がどうなってるのか分からん……!」


 副官が冷静に書類を整理しながら口を開く。


「影鬼の仕業かもしれません」


「……影鬼?」


 隊長の目が細められる。


「市場の混乱が影響している可能性が高い。ここまで広範囲に遅延が発生するのは偶然ではないでしょう」


「……くそっ!」


 隊長は荒々しく髪を掻きむしった。


「ならば、影鬼がどこまで手を回しているかを調べろ。補給の遅れを最小限に抑えなければ、最前線が崩れる!」


「ですが、すでに影鬼は……」


 副官が言葉を切った瞬間、扉の向こうでまた怒声が飛んだ。


「隊長! 迂回ルートでの補給を試みた部隊から報告が!」


「どうなった!」


「敵の動きを察知し、一部の商隊は早めに動いたようです。しかし、それでも完全な補給は不可能です!」


「……ちっ、影鬼め……完璧に封じたつもりだったか?」


 隊長は息を吐き、目を閉じた。


 影鬼の工作が成功している。しかし、それでも敵の一部は動いていた。

 すべてを狂わせることはできていない。


「……市場が揺れても、必ず全てが崩れるわけじゃない。資金よりも士気が先に落ちる隊と、逆の隊がある」


 冷静な思考が戻ってきた隊長の顔に、決意の色が宿る。


「よし、ならば、こちらも市場を利用する」

 

 周囲の兵士たちが顔を上げる。


「こちらの商隊と契約を結び、影鬼に逆に情報を流せ。彼らの情報操作を混乱させるんだ!」


「……!」


 影鬼の策略が、敵の対抗策によって揺さぶられ始めた。

 物流の混乱が、戦場をより深い混沌へと引きずり込んでいく。



✦✦✦《誤算の兆し》✦✦✦


 影鬼からの報告が届いた。


「K、問題が発生した」

 

 Kはスクリーンをなぞる指を止めた。

 微かに眉が動く。


「市場で異常な動きを察知した交易商が、ゼグラント側に密告した。すでに彼らは調査を開始している」


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 Kの目がスクリーンを鋭く見つめる。


「……ゼグラント側が気づいたか?」


 言葉は冷静だったが、その声にはわずかな歪みがあった。


「はい。補給部隊内で、内部の裏切り者を探す動きが出ています。指揮官同士の間でも対立が生じ始めました」


 Kの指が肘掛けを叩く。リズムが乱れている。


「……そうか」


 エリシアがKの表情を覗き込み、眉をひそめる。


「K、これって逆に利用できるんじゃない?」


 Kは視線を上げたが、その目には迷いが残っていた。


「影鬼を使え。ゼグラント内部に『本当に裏切り者がいる』という情報を流せ」


 Kの言葉は静かだった。だが、その静けさがかえって不安を煽った。


「合わせて補給ルートにある橋をすべて崩れる直前まで工作しろ。通過中に破損し、可能な限り自然な劣化に見せるんだ」


 影鬼たちはすぐに動いた。

 しかし、Kはまだスクリーンを見つめたまま、微動だにしなかった。


「……K?」


 エリシアが声をかける。

 Kは短く息を吐き、低く呟いた。


「おかしい」


「何が?」


「ゼグラントが動くのが早すぎる」


 Kの指がスクリーンを叩く。

 情報が次々と切り替わる。


「交易商がゼグラントに密告した? だが、それが本当なら、ゼグラントはもっと慎重に動くはずだ」


 エリシアが腕を組みながら考える。


「……つまり?」


「ゼグラントは最初から影鬼の市場操作を見越していた可能性がある」


 Kの視線は、スクリーンの中の情報群を貫いたまま動かない。

 まるで答えがすでにそこにあるかのように、じっと何かを見定めていた。

 状況は予想以上に深く読まれていた――その可能性が、胸の奥で静かに重く沈んでいく。


 

 ✦✦✦《反撃と漂う不確実性》✦✦✦


 その瞬間、スクリーンが点滅し、新たな報告が届いた。


「K! 補給部隊の一部が橋の崩壊を察知し、迂回ルートに変更した!」


 Kの表情が硬くなる。


「……くそ」


 珍しく、Kが舌打ちをした。


「読まれていた……か?」


 指が肘掛けを強く握りしめる。


「いや、まだ分からない」


 スクリーンには、新たな情報が映し出されていた。


 ゼグラント内部で、影鬼の情報が「誤った裏切り者」を指していると疑い始めた将校たちがいる。


 疑念が広がっているが、それが影鬼の狙いどおりに進むとは限らない。


 Kは指を口元に当て、深く考え込んだ。


「……状況を見極める。敵がどこまで読んでいるか、もう少し泳がせろ」


 影鬼の策略が、敵の計算を狂わせるのか。

 それとも、Kの誤算が新たな局面を生むのか。


 誰が歯車を壊し、誰が回すのか。

 ……それすら、市場が決める時代なのかもしれない。


 Kはスクリーンを閉じることなく、そのまま指先を止めた。

 その視線の先で、数値は静かに脈を打ち続けている。


 沈黙が落ちる。


 そして――Kはぽつりと呟いた。


 「……まだ“動かされてる”。俺たち全員が」


 誰も言葉を返さなかった。


 スクリーンの最奥では、戦場の俯瞰図がかすかに揺れていた。

 静止したように見えても、情報と兵が動く音は止まっていない。

 まるで嵐の前の海――次のうねりがどこから来るか、誰にもわからない。


 ただ、赤いスクリーンだけが、じわじわと色を濃くしていく。

 まるで次の戦場を映すかのように。





 【次回予告 by セリア】

「力を振るうことと、力に呑まれることは――紙一重よ」


「市場が沈黙し、戦場が吠え始めたわ。

Kはついに“戦奴”を発動し、自分すら制御できない力に身を委ねた。

臨界点を超えるのは、市場? それとも、彼自身かしら」


第一部・最終話

次回《市場と戦場の臨界点》

――《制御なき支配は、破滅か進化か》


「理性を捨ててなお進むなら……私たちの“賭け”は、もう引き返せないのよ。K――聞こえてる?」

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