#10ー2:その影に、名前を
✦✦✦《戦火の始まり》 ✦✦✦
黒煙が立ち上り、遠くから重厚な軍靴の響きが地を揺るがすように近づいてくる。
その音はまるで死の足音。
騎兵の蹄が石畳を砕く音が近づく。
……血の匂いが風に乗っていた。
その瞬間――ゼグラント派の魔王軍が、動き出した。
城壁の上に立つKは、月明かりに照らされた戦場を静かに見下ろした。
彼の足元には、かつて城壁を染めた無数の召喚者の血が、風にさらわれた灰となって残っていた。
遠くの地平には、火を灯した敵軍の軍旗がゆらゆらと揺れている。
それらすべてをKの漆黒のマントが無言で受け止めていた。
敵軍の槍の穂先が、淡く鈍い光を放っている。
まるで死神の鎌のように、一斉に動き出すその影は圧倒的な軍勢を象徴していた。
遠くから、戦鼓が響く。
鼓動のように鳴り続けるその音が、戦場の血の匂いをより際立たせる。
Kはゆっくりと息を吐いた。
彼の市場価値が急落したことで、軍事的な標的となった。
市場において、価値の下がった魔王は、
その領地を奪われるのが常識――それがこの世界のルールだった。
Kは眉をひそめる。
戦場と市場――この世界では、切り離せないものだった。
自我も名前も失った召喚者が、樽の中で、ただKを見ていた――。
目も、声も、感情も、すでに削がれたまま。
この制度がある限り、誰かが“素材”として搾られ続ける――。
……だから、制度そのものを解体する。
ひとつ、息を吐く。
報告書を握る拳に、無意識の力がこもる。指の関節が白くなるほどに。
ゼグラントの冷笑が脳裏をよぎった。Kは、ゆっくりと目を閉じる。
次の一手は、もう決まっていた。
✦✦✦ 《影の反転作戦》 ✦✦✦
日が沈み、静寂が訪れた瞬間、**轟音が夜空を引き裂いた。
「攻撃開始!」
地平線の向こうから、無数の火球が飛来する。
魔法砲弾が要塞へと降り注ぎ、轟音とともに石壁を砕いた。
爆発の衝撃で瓦礫が飛び散り、灰と砂塵が宙を舞う。
火球が着弾した瞬間、地面がめくれ上がり、濁流のような砂塵が兵士たちを呑み込んでいく。
空は一瞬、真っ赤に染まり、視界は灼熱と煙で塗りつぶされた。
硝煙の臭いが鼻を刺し、熱された石の破片が皮膚を焼くように飛び交う。
耳をつんざく爆音に兵士たちの悲鳴が混じり、死の気配が辺りを包み込む。
「防衛部隊、即座に補修を!」
Kの指示が飛ぶや否や、影鬼たちが闇から現れ、崩れた城壁の穴を影の結界で覆う。
影鬼――Kが創り出した“虚無の眷属”。
魔力ではない、虚無――存在の空白から生まれた眷属たちは、防衛と処理に特化した、文字通り“影の軍”だ。
「……まったく、壊すのも芸術的だな」
一体の影鬼がぽつりと呟く。
「いやマジで、あれ何発ぶち込めば気が済むんだよ……もはや美学の暴力だろ、ゼグラント派」
別の影鬼が早口で嘆くと、隣の影鬼が黙って拳を振り上げ、無言の“静かにしろ”ポーズ。
一瞬の沈黙――その場の空気に、妙な静けさが落ちた。
しかし、その瞬間、さらなる衝撃が要塞を襲った。
ドォォォン!
石が砕ける音。
兵士の絶叫。
崩れた壁の向こうから、敵軍の騎士団が突撃を開始するのが見えた。
「敵騎兵が突撃態勢に入りました! 右翼へ向かっています!」
「影刺部隊、城壁の裏手に回り込みました! 潜入型の暗殺師団です、K様!」
Kは目を細める。
「……なるほど。焦らせる戦術か」
敵はKの防衛線を完全に突破しようとしていた。
しかし、Kはまだ動じない。
彼の脳内にはすでに、戦場を支配するためのシナリオが浮かんでいた。
「何だと……!? 我々が逆に包囲されただと!?」
影刺部隊の隊長が驚愕の声を上げる。
彼らは隠密行動のプロであり、敵に気づかれることなく戦場を支配することが本来の役割だった。
だが、Kの影鬼たちは違った。
影鬼が兵士の影に忍び込み、次の瞬間には首が落ちる。
死に際にすら、何が起こったのか理解できない。
恐怖が波のように広がる。
兵士たちは叫び声を上げながら、闇へと消えていった。
足元が急に冷え込んだように感じた。
背中に、誰かの息がかかったような感覚――その直後には、もう遅かった。
「撤退! 影鬼が多すぎる! くそっ、これがKの戦術か……!」
影刺部隊の隊員たちは混乱しながらも後退を試みるが、すでに遅かった。
影鬼たちの黒い刃が、一人、また一人と敵を呑み込んでいく。
「ゼグラント様に報告を! 影鬼の数が異常です!」
影鬼の力を過小評価していたゼグラント派の将軍たちは、次第に焦りを見せ始めた。
爆発の応酬が一瞬止み、戦場に重い静寂が落ちた。
Kは風の音だけが残った空を見上げる。
……時間だ。
その瞬間、影が動いた。
Kは戦術マップを睨みながら、さらに指示を出す。
火の粉の向こうに、敵の指揮官らしき影が見えた。
戦況を見据えながら、Kは静かに思考を巡らせる。
熱狂は、崩壊の兆しだ。
市場も戦場も、それは変わらない。
「前線部隊には撤退戦を強いる。あえて一度城壁を突破させ、内部で包囲する戦術を取る」
「市場と同じ。……期待を吊り上げて、落とす。それでいい」
城壁が一部破壊されたのを見たゼグラント派の兵士たちは、一気に突入を開始する。
彼らは勝利を確信していた。
しかし、それこそがKの仕掛けた罠だった。
「ここで締める」
Kの声は低く、静かに響いた。影鬼たちは、一斉に動き出した。
Kの静かな声とともに、影鬼部隊が敵軍の背後に出現。
地面に延びていた無数の影が、刃のように立ち上がる。
敵兵の足元から突如現れた影の刃が、四方八方へと走り抜け、地を斬り裂いていく。
空気が引き裂かれる音とともに、戦場は影に飲まれていった。
突入した敵軍は、逆に四方を囲まれる形になった。
「なっ……!? 罠だ!?」
ゼグラント派の兵士たちは、恐怖に震えた。
✦✦✦ 《勝利の兆し、そして宣戦布告》 ✦✦✦
戦闘が長引くにつれ、敵軍の士気が低下し始めた。
「Kの軍勢は崩れない……!」
「市場価値――K様の“信頼値”、つまり市場での信用スコアが、戻り始めています! どうなっている!?」
投資家たちも混乱していた。
戦場での勝敗が市場に影響を与え、Kの市場価値が急回復しているのだ。
「撤退だ! これ以上戦闘を続けるのは危険だ!」
ゼグラント派の指揮官たちは、ついに撤退を決定した。
Kは要塞の上から、撤退する敵軍を見送る。
影鬼たちが戦況を報告する。
「影、鎮静完了。市場評価、回復曲線に乗りました」
✦✦✦ 《その影に、名前を》 ✦✦✦
報告を終えた影鬼のひとりが、わずかに視線を動かした。
Kの方へと、真っ直ぐに。
「……許されるなら」
その声は、他の影鬼たちの無機質な調子とは異なり、どこか輪郭を帯びていた。
「私は、名を持ちたい。ここに“いた”という証を、残したい」
Kは目を細めたまま、その影を見つめる。
わずかに風が吹いた。影鬼の輪郭が揺れる。
他の影鬼たちが静まり、戦場の余韻が引き締まる。
「……願う意思があるなら、拒む理由はない」
Kが静かに答える。
その言葉を受け取った瞬間、影の身体がふわりと浮かび上がるように揺らぎ――。
黒い靄が形を変え始めた。
ゆっくりと、少女の姿が浮かび上がる。
黒い靄はまるで水面のように揺らめき、次第に滑らかな曲線を描き始める。
一筋の光が靄の中心を走り、輪郭が焼き付けられたように定まっていく。
肌が、髪が、瞳が生まれ――最後に残ったのは、風に揺れる高いポニーテールの少女だった。
長い髪を高く結い上げた、凛とした眼差し。
肌は透き通るように白く、表情には硬質な静けさがあった。
生まれたての、曖昧で、それでも確かな“個”の気配。
Kは一瞬だけその変化を見つめたのち、自らのコートを脱ぎ、そっと彼女に差し出す。
「まずは、それを纏え。ここは戦場だ」
少女は驚いたように目を瞬き、しかしすぐに黙って頷いた。
コートを羽織り、少しぎこちない動きで前に進み出る。
そして、まっすぐにKを見上げ、初めて、静かに口を開いた。
「……私は、“リゼ”と名乗ります」
その瞬間、空気が変わった。
他の影鬼たちが、どこか誇らしげにリゼを見つめる。
もう彼女は、ただの影ではなかった。
Kは、リゼだけではないことに気づいていた。
周囲の影鬼たち――その眼差しに、かすかな“憧れ”の光が宿っていた。
Kは、かつての召喚者の“目”を思い出す。
生まれたばかりのリゼの瞳には、まだ色があった。
――これは、終わりじゃない。変化の、始まりだ。
スクリーンに映る数値が、ゆるやかに、確かに上昇し始めていた。
Kは静かに呟いた。
「ゼグラントに伝えろ」
間を置かず、続ける。
「奪われるなら、それはもうすでに価値じゃない」
ひと息。
Kの眼差しはまっすぐ前を見据えていた。
「……召喚制度が定義する“価値”じゃ、意味がない。以上だ」
影鬼が黙って頷き、闇の中へと消えていった。
そして――。
「……マスターって、怒ってるとき無口になるよな」
「お前、それ今言うか?」
「……いや、ちょっと言ってみたかっただけだ」
影鬼たちは、揃って黙り込んだ。
「……俺たちも、いつか“名前”を欲しがるんだろうな」
Kは答えない。ただスクリーンに目を戻す。
遠く、影鬼たちの間を歩くリゼの背中が見えた。
その姿が、どこか光に向かっているように見えて――。
Kは黙って、空を見上げた。
空にはもう、火の粉はなかった。
月はまだ空にあったが、雲間からこぼれる星の光がようやく地上に届いていた。
Kの肩越しに映る空には、もう炎も煙もなかった――ただ、静かな夜が戻っていた。
リゼの背中を見送りながら、Kはほんの一瞬だけ目を細めた。
その瞳には、過去ではなく“これから”が映っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……これは、壊すためじゃない」
その言葉は、誰にも届かなくていい。
ただ、確かに彼自身が“変わった”ことを示すには――それで、十分だった。
【次回予告 by セリア】
「戦場を動かすのは剣じゃない。……数字と、噂と、策略よ」
ゼグラントの情報操作に対抗するため、Kは“市場心理”そのものを操作し始めた。
でもそれは、ゼグラントと“同じやり方”……違うの? 違わないの?
Kが憎んだものと、K自身の境界線が、いま揺らいでいる。
次回《情報が戦場を支配するとき》
――《問いの中に潜む答えを、誰が口にするのか》
「ねぇK、あなただけが“誰にも拾われたくない”なんて顔してるけど、
……拾いたいって思う誰かのこと、ちゃんと見えてる?」




