#9−10:一瞬の支配
✦✦✦《Kの決断》 ✦✦✦
Kの口元が、かすかに歪んだ。
それだけで、場の空気がひやりとした。
「ルール? その言葉が使われる時点で、もう誰かが仕掛けてる。
ゼグラントの支配なんて、投資家の怯えが作り出した幻にすぎない」
大きくため息を吐き伝える。
「恐怖と欲なんて、結局は損得に主観を足しただけだ。煽れば動く」
Kは一呼吸置き、スクリーンに目を落とす。そこには、かすかな揺れ。乱れか、それとも兆しか。
「損得を基準にした倫理ほど、壊しやすいものはない。
損しそうになれば、“正しさ”なんて簡単に捨てる。逆に、得できるなら“間違い”にもすがる」
異常な動きの裏に影鬼の気配はある。だが、Kの思惑を逸れる兆しもあった。
そのかすかな歪みが何を告げているのか――Kは目を細めた。
「恐怖の中に、拠り所を作る。それが影鬼の役目だ」
声は静かだったが、そこに宿った一瞬の迷いを、誰も拾えなかった。
「市場が揺れるたび、影鬼が整える。
投資家はこう思う――『安心できる』。
その時点でもう、支配は始まってる」
エリシアはスクリーンに目をやった。
ある銘柄が影鬼の干渉後に一気に買い戻されている。
――“安心”は与えられたのではなく、望まれている。
影鬼の動きに安心して群がる投資家たちが、それを証明していた。
もはや彼らはKに従わされているのではない。
“秩序の象徴”を、自分たちで欲している。
エリシアの口元が、意味ありげにわずかに緩んだ。
「最近の市場……反応が妙なのよ。
影鬼に、ただの脅威じゃない“気配”を感じてる人が増えてる……そんな空気があるわ」
アルカナの指がスクリーンを滑った。
「Kの影鬼市場……数字上は回復してる。
でも、“いつもの動き”と微妙に違う。経験則が通じない、そんな不安定さがあるのよ」
エリシアが眉をひそめた。
「何か仕掛けられてる……?」
不審な空気が漂う。
補佐官が、不安の色を隠しきれない声で呟いた。
「……市場のブレーキが必要かと。少し、影鬼の影響を抑えるべきかもしれません」
Kは静かに椅子から立ち上がった。
誰もがその動きを“休憩”と錯覚したほど、流れるような自然さだった。
彼は机の上に残されていた果皿へ視線を落とす。
食べ終えられた痕跡のなかに、乾いた二つのりんごの芯が残っていた。
誰も手をつけず、ただの“残骸”としてそこにある。
Kは無言でそれを摘み取った。
右手に一本、左手に一本。まるで儀式の道具を選ぶかのように、指先で重さを確かめる。
そして――。
一歩前に出ると、反論を始めかけた補佐官の襟を掴み、抵抗もなく机上へと叩きつけた。
仰向けになったその顔に、Kは静かに両手の芯をそっと押し当てる。
左右の眼窩へ、寸分違わぬ距離で。
誰も動けなかった。言葉も息も止まる。
Kは両手を重ね、低く息を吐きながら――掌底。
バキッ――ッ
乾いた音が、左右から重なるように響いた。
芯は抵抗なく沈み込み、脳まで突き抜けるように貫通した。
補佐官の身体が一度だけぴくりと跳ね、そのまま静かに沈黙する。
Kは芯に添えた手を静かに離し、その死体を一瞥した。
血はほとんど出ていない。だが、完全な静寂が会議室を覆っていた。
エリシアは視線を落とす。
――“慎重な声”が混乱を呼ぶ場では、それはもうノイズにすぎない。
Kが排除したのは人ではなく、不協和だった。
「……りんごが好きなら言ってくれ。もう喋れないだろうけどな」
それは問いでも、皮肉でもなかった。
ただ、死の直後に置かれた――不快なほど冷静な一言。
誰もその言葉に返さなかった。
その沈黙すら、すでに恐怖の秩序に組み込まれているようだった。
――沈黙。
Kの視線が、影鬼の奥へ沈むように落ちていった。
一瞬、脳裏にあの夜の静寂がよぎる。
――「K……お前の“虚構の制御”は、終わったんだよ」
ゼグラントの声が、あざ笑うように残響する。
あの時、自分の市場は崩れた。投資家たちは沈黙し、背を向けた。
だが、本当に痛んだのはそこではない。
召喚制度を揺るがすための舞台――その“手段”が奪われた瞬間、
Kの手の中から、最大の目的が遠ざかっていくのがわかった。
あの夜、魔王市場は沈黙していた。
空中に浮かぶチャートが一斉に消え、虚空に震える金属光が灯りを失っていく。
風すらなかった。――ただ、Kの背後で崩れ落ちた一人の投資家が、音もなく転げた。
それでも――存在意義を賭け、今に至る。
「ようやく芽吹いたか……あの夜、ゼグラントにすべてを奪われたあの時、俺が選んだ“恐怖”という種が」
「だが――恐怖だけじゃ、届かない」
Kはスクリーンに揺れる光を見つめたまま、低く口を開いた。
「次は、影鬼に“根”を持たせる。これで影鬼が市場の“基準”になる。
いずれ、影鬼がなければ何も始まらなくなる。
それが異常だと思う感覚すら、いつか失われていく」
それでいい――今は。
支配は“終わらせるための始まり”だ。
本当に壊すべき召喚制度に手を届かせるには、まずこの秩序を、従わせなければならない。
Kの視線がエリシアとアルカナを捉えた。
「ここからが本番だ。ゼグラントの支配は強固だが、
その基盤に影鬼を静かに忍び込ませることで、彼の支配力を切り崩す」
エリシアが微笑みを浮かべる。
「……ふふ、静かに蝕まれてるって気づかれた時には、もう戻れない。いい流れよ」
けれど――本当にKが壊れてしまわないか、それだけはずっと心に引っかかっている。
彼が恐怖にのまれない限り、私は何度でも支える。それが“選んだ側”の責任だから。
……もし彼が、あの夜のようにすべてを背負い込んでしまったら。
私は、もうあの時のように黙って見てはいられない。
ふと、エリシアの目に映るKの背中が揺れた気がした。
魔導灯の淡い光が、彼の影だけを長く引き伸ばしていた――まるで、重荷の形に。
アルカナは、どこかKを試すような視線を送りながら、皮肉を交えて言った。
「影鬼が市場の“基準”になる頃には、誰も異常だなんて思わなくなる……ってわけね」
Kは影鬼を見つめた。
Kの脳裏に、かつて“支配していたつもり”の自分がよみがえる。
信頼を得ていたと思い込んでいたあの頃――。
だが、俺の本当の敵はそこにはなかった。
市場の支配は、ただの踏み台だ。目的はただ一つ――召喚制度、そのものだ。
だがその実、信頼という名の足元はとっくに崩れていた――あの過ちを、
もう繰り返すわけにはいかない。
……その視線の奥に、“命令ではない何か”を返されている気がした。
意志か、意思の模倣か。Kには判断できなかった。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば――“見られている”という感覚だった。
あの時、すべてを失った。だからこそ、今度は見誤らないと決めたはずなのに――。
あの光景が再び繰り返されるかもしれないという不安が、心の奥底に残響した。
一瞬、胸の奥にわずかな引っかかりを覚えた。
戦略が市場を安定させるのか、それとも混乱の火種になるのか――Kはその行く末を読み切れずにいた。
「秩序は変化を拒む。だが、恐怖はそれを壊す。……だが、壊したあとに残るものは?」
Kは自らに問いかけるように呟いた。
……何のために、俺はここまで来た?
ゼグラントを超えるためか? 市場を奪うためか? ――違う。
この手で、召喚制度を終わらせる。それだけが、最初から変わらない答えだ。
影鬼の瞳は、Kの“決意”をそのまま映し出しているようだった。
まるで、Kの心の奥を覗き返してくるかのように。
Kは冷たく笑った。
「ゼグラント、お前の“過去のやり方”では、もうこの市場は制御できない」
エリシアはワインを回しながら、ちらりとKを見た。
「ねえ、K。あなたはどこまで計算してるの?」
Kは目を細める。
「……何が言いたい?」
「あなたの戦略、確かに市場を動かしてる。でも、それは意図通りなの?」
アルカナが頷く。
「つまり、Kの影鬼が市場の新たな基準となる、ということね」
静まり返った空間の中、魔導スクリーンの光だけがちらちらと瞬いていた。
数字の揺れが、何かを告げているようだった。
Kは魔導スクリーンに映る市場データを見つめた。
グラフは激しく揺れ、点滅する数値が乱舞している。
「市場は毒にも薬にもなる。差は使い方次第だ。境界を見誤った奴から、淘汰される」
✦✦✦ 《ゼグラントの逆襲》 ✦✦✦
その頃、ゼグラントは市場の変化を見つめ、薄く微笑んだ。
「影鬼が市場の根を突き始めた……Kは支配しているつもりらしいが、どうだろうな」
側近が眉をひそめる。
「影鬼の影響で市場は揺れていますが、これがどこまで続くかは……」
「いいや、これは好機だ」
ゼグラントは静かにスクリーンに手を伸ばした。
「影鬼のデータは、市場に揺らぎを植えつけるには十分だ。疑念は、水のように沁みていく」
側近が息を呑む。
「つまり……Kの市場を、影鬼の支配ではなく、"暴走" しているように見せる?」
「ああ。投資家たちに"Kの市場は制御不能" という疑念を抱かせればいい。
市場が恐怖を求める? ならば、本物の恐怖を見せてやるさ」
ゼグラントの薄い笑みが、スクリーンの光に照らされていた。
「影鬼の色に慣れれば、いずれ誰かが気づく。
今は秩序にすがっても、それが長く続くとは思えん」
側近が頷きながら答える。
「それにはまず、影鬼の制御が及ばない不安定な取引を増やし、
恐怖の市場に疑念を植え付ける必要があります」
ゼグラントは静かに微笑み、続けた。
「K……恐怖で縛った秩序は、かえって脆い。
信じている者ほど、不安に足をすくわれる。
お前の支配は、もう揺れ始めてる」
Kは静かに目を閉じ、深呼吸した。
「この市場を恐怖で満たす覚悟はできている……ゼグラント、お前にそれができるか?」
Kはふっと笑みを浮かべ、ほんの一瞬だけ、目を閉じた。
沈黙が戦略会議室を支配する。
どこかで風が吹いた気がした。閉じた扉の隙間から、誰かの気配のように。
そして、彼は静かに口を開く。
「安心に見える依存を与える。恐怖はその中で強化される。剥がせば、あとは勝手に縛られていく」
誰も口を開かなかった。その静けさの中に、Kの言葉だけが浮かんでいた。
影鬼たちが静かに動き出し、Kの意志を映すように、その気配だけを残して姿を消した。
……そして、影鬼たちは静かに市場へと溶け込んだ。
その動きは、すでにKの意志を離れていた。
……影鬼の気配は、もはやKの意思だけでは測れない。
恐怖の中で生まれた秩序は、静かに意思を持ち始めていた。
だがKは気づいていた。
影鬼の反応が、時折、自分の判断よりも一瞬だけ先を行くことに。
それは予測された動きではなかった。
まるで、影鬼が市場の“変化”を、自ら“選んで”動いているかのように。
Kは表情を変えないまま、静かに息を吐く。
――道具が、自律を始めた。
ふと、ひとつの影鬼が壁に映った数式に触れた瞬間――。
スクリーンの光が、Kの思考より一手先に反応した。
まるで意思を持つ者のように、未来の値動きを先に“告げた”かのように。
Kは何も言わなかった。ただ、わずかに指先が震えていた。
静かな室内に、スクリーンの点滅がひとつ、心音のように脈を打つ。
Kの手元に落ちるその青い光が、一瞬だけ、影鬼の“目”のように見えた。
その震えが、恐怖か、期待か、それすら彼自身にもわからない。
「……次は、“誰の意思”で動く?」
その問いに、影鬼たちは何も応えなかった。
だが、市場の奥深く――新たな“注文”がすでに動き始めていた。
【次回予告 by セリア】
「市場って、思ったよりも素直なのよ。“怖くない方”じゃなく、“怖くても信じられる方”を選ぶから」
「市場が選ぶ王。信頼と恐怖の狭間で、Kが“選ばれる側”になる」
次回《市場が選ぶ王》、『影鬼が支配から守護へ変わるとき』。
それは支配じゃない。選択の顔をした、もう一つの“操作”なのよ。
「セリアの小言? 言っておくわね。
選ばれた王が王であり続けるには……選ばせた事実を、ずっと気づかせないことよ」




