#9−9:淘汰の幕開け
✦✦✦ 《恐怖を価値に変える》 ✦✦✦
影鬼たちは水面下で、市場の監視網に静かにアクセスした。
そこで、通常とは異なる“異常な取引”を拾い上げていく。
特定の投資家の不正が検出されると、その情報は市場へ拡散された。
やがて、影響力のある投資家たちの信頼は次々と崩れていく。
Kはスクリーンを軽く指差し、低く言った。
「ゼグラント派の投資家を監視しろ。
不正があれば、影鬼を使って資金の動きを追跡し、証拠とともに市場に知らせる。
仕掛けを続ければ、奴らは抵抗もできずに消えていく」
エリシアが楽しそうに微笑む。
「つまり……影鬼が、ゼグラント派の投資家を“市場から消し去る”ということね?」
Kは頷く。
「ただし、影鬼の名は使うな。
“市場が自然に排除した”って形にしろ。
……見えないほうが、皆恐る。誰を敵にすればいいかも、わからなくなるからな」
そうは言ったが、影鬼が“どこまで従うか”――本当に誰にも、わからない。
✦✦✦ 《会議:沈黙の中の証明》 ✦✦✦
会談の場は、冷え切った空気の中にあった。
無垢な白を基調とした会議室は、光すら沈黙を強いられているようだった。
壁際には無人の記録用魔導装置が、赤いランプを灯している。
窓はなく、外界との接続を一切断たれた空間だった。
椅子の金属脚が、硬い床に微かに触れて冷たい音を立てる。
丸卓に集まったのは、Kと複数の市場関連派閥の代表。
名目は「流動市場の安定化についての非公開協議」。
だが本当の目的は、Kの統制力を示すことだった。
Kには、その場の空気が止まっているように感じられた。
周囲に息を飲む音すらない。魔導冷却装置の駆動音のポコポコと
水泡が弾けるような音だけが、小さく壁際で囁いている。
Kは椅子に深く座ったまま、無言でテーブルの向こうを見ていた。
一人の男――協議に参加したばかりの、新顔の市場担当者が、咳払いをした。
その声は小さく、場違いに響いた。
男の視線が一瞬、テーブルの下へと滑った。
Kの目線は動かない。ただ、微かに眉が寄る。
男の右手が、書類の影に隠れるようにして、何かを握ろうとしている。
通信端末か、薬物か、それとも護身具か――確かめる時間は要らなかった。
一瞬だけ、時が止まったように思えた。
男の指先が震え、書類の影に隠れたその手は、まるで何かを探る獣のようだった。
会議室全体が息を呑んだように、わずかに光が揺れる。
Kは、手元に置かれていたメモ用のペンを取り上げる。
それはあまりに自然な動作だった。書類に何かを記すような、ゆるやかさ。
だが次の瞬間、ペン先が一直線に空気を裂き、男の首元を穿った。
男の体が弾かれたように跳ねた。
瞬時に息を吸い込みかけた音が、喉の中で詰まる。
椅子が軋んだ。だが誰も声を上げない。
Kは立ち上がる。
背後の椅子を片手で取り、重心を流れるように切り替え――。
一拍の間を置かず、椅子の脚が男の右腕を叩き折るように打ちつけられる。
肉と骨がずれる音が、小さく部屋に響いた。
Kは再びペンを構えると、男の眼窩に迷いなく突き立てた。
脳まで貫通した感触を確かめると、男の体がのけぞるように跳ねて静かに崩れた。
Kは息ひとつ乱さず、それを引き抜いた。
そこに残されたのは糸が切れた操り人形だった。
Kは目を伏せ、わずかにペン先の赤を見つめた。
ゆっくりと姿勢を戻し、椅子を元の位置へと戻す。
まるで何もなかったかのように。
「インクは赤色でも問題ないか?」
書類に何か滑らかにサラサラと描き始めた。
他の参加者は、一切目を合わせようとしなかった。
音がすべて吸い込まれたような、静寂だけが残っていた。
Kは、テーブルの隅に残ったペンを静かに拭った。
「……処理済みだ。続けろ」
誰かが頷いたのか、ただ震えたのか、確認する者はいなかった。
恐怖は、言葉より早く伝わる。
この場にいる全員が理解した――“ここでは、間違いすら許されない”のだと。
協議は淡々と再開され、やがて無言のまま終えられた。
出席者たちは一人、また一人と部屋を後にしていった。
会議室に残されたのは、魔導冷却装置の音と、処理済みのペンのインクの匂いだけだった。
Kは、ひとり椅子に座ったまま、静かに目を閉じた。
今も思い出す――あのとき、自分が迷ったことで、何が壊れたかを。
だからこそ、躊躇いはもう許さない。
ただ“正確に恐怖を使う”ことだけが、彼に残された仕事だった。
その後、会議室にて再び仲間だけで検討を始めた。
Kは一呼吸した。
それが安堵なのか、別の何かなのか――誰にも分からなかった。
Kは一度だけ、影鬼のログへ視線を落とした。
ほんのわずか、昔の“声”がそこに重なった気がした――すぐに打ち消す。
あの時、美月が言っていたことだ……。
待てよ……。
どうして俺は、その女を知っているんだ――。
息も思考も止めた。
情報収集と操作を担う“影鬼”が、魔導スクリーンへと素早くデータを送り込んでいく。
異常取引の兆候は即座に可視化され、監視網がそれを捕捉した。
ゼグラント派の主要投資家たちが、次々と市場から姿を消し始めた。
最初は、ただの偶然に見えた。だが、それにしても早すぎた。
短期間で破産者が続出し、資金凍結も相次ぐようになった。
影鬼が裏で何をしているのか――誰にもわからなかった。
そこで、市場にはある噂が流れ始めていた。
投資家たちは、次第にざわめき始めていた。
「ゼグラント派がまた一人消えた」
「こんなに続くなんて、不自然だな」
「これは偶然なのか? それとも……」
投資家たちの疑心暗鬼が、影鬼の存在をさらに神格化する。
誰が仕掛けたのか、明確な証拠はどこにもなかった。
誰もその正体を語れないまま、“何かが動いている”という漠然とした恐怖だけが、
静かに、だが確実に、市場の中心を蝕んでいた。
「……影鬼は見てる。ずっと、逃さずにな。
そして、奴らは――考えるより先に動く。
恐怖が、理屈を飛ばすからな……」
恐怖は、思考を飛ばす。考えるより先に、手が動く。
だからこそ、誰よりも早く“動いた”者が、生き残る。
Kの声は冷静だった。
だが、その指先は、ごくわずかに震えていた。
恐怖を使うたび、何かが少しずつ削れていく――そう、Kは感じていた。
それが何なのかは、まだ言葉にできない。だが、それは確かに存在する。
✦✦✦ 《新たな秩序の胎動》 ✦✦✦
その言葉の奥に、一瞬だけ“見張られているのは自分かもしれない”という疑念がよぎった。
それは、ほんのかすかな錯覚だったのか――あるいは、“影鬼”の視線を感じたせいか。
この投資家の心理こそが、Kの市場価値を再び上昇させる鍵だった。
エリシアは掲示板の数字を見つめ、口元に笑みを浮かべた。
「……Kの仕掛け、想像以上に効いてるのね」
掲示板の数値が、じわじわと――濃く染み出すように――上昇を始めた。
投資家たちの間にざわめきが広がり、歓声を上げながら、お互いの肩を叩き合った。
それでも、Kの指先はふと止まり、何かを探すように、宙をさまよった。
まるで、予定よりも早く、何かが進みすぎている。
肌がざわついた。だが、理由までは分からなかった。
今、スクリーンの奥には――何も映っていない。
けれど、その直後――。
「待て、何だこれは……?」
ある投資家が突然スクリーンを指さす。
市場の動きが突如として停滞し、一部の銘柄が不自然に急落していた。
「ゼグラント派が逆襲に出たのか?」
「いや、違う……市場の一部が、突然売りに転じてる。誰だ、こんな仕掛けを……?」
投資家たちの顔に、次第に混乱の色がにじみ始めた。
Kの影鬼が市場を押さえかけていた。だが、それは“完全”とは程遠い状態だった。
「市場は生き物だ。こっちの都合なんか、知らない顔で動く」
……そうだ。どれだけ仕掛けに時間をかけようと、市場は、関係のない顔で通り過ぎる。
Kはスクリーンを見つめたまま、わずかに眉をひそめた。
まだ足りない――。
✦✦✦ 《新たな秩序の胎動》 ✦✦✦
一方そのころ、セリアはワイングラスを傾けながら、静かに魔導スクリーンを見つめていた。
映るのは、いままさに形を変えつつある“支配の構造”――市場の力関係そのものだ。
「……ふふ、K、あなたらしい手ね」
彼女の指がスクリーンを滑ると、投資家たちの取引データが一覧で表示された。
市場が揺れるたび、Kの影鬼市場に金が吸い寄せられる。
ゼグラント派の崩壊が進むほど、Kの市場価値は高まり、影鬼の影響力が拡大していく。
「……市場まで巻き込むなんて。ほんと、Kってやることが極端よね」
だが――。
「覚えておきなさい、K。市場ってね、浮気性の恋人みたいなもの。
今はあなたに夢中だけど――すぐに飽きるかもしれない。
だからこそ、今を楽しむのよ」
彼女はグラスを傾け、淡く微笑んだ。
……今のKは、乗るにはちょうどいい波。
いつか崩れるかもしれないけれど――それはそのとき。
投資には少し刺激が必要なのよ。
……けれど、Kが気づく頃には、市場はもう“次の支配者”を探しはじめているかもしれないわね。
その“支配者”が、人であるとは限らないことを――誰も、まだ知らない。
魔導スクリーンに映る市場データが、大きく動いた。
セリアは軽く目を細めると、ゆっくりとワイングラスを置いた。
「……ふふ、K、あなたのことを市場は“お気に入り”だなんて思ってないわ。
今はたまたま乗ってるだけ。
……でも、見て。市場は、もう次を探してる。
従順で、壊れにくくて――自分の意志など持たない“影”をね」
動揺の中にいた投資家たちは、Kが示した“揺らがない秩序”にすがり始めた。
「ゼグラントに付くより、Kに従った方が安全だ」
そんな空気が、気づけば市場全体に広がっていた。
Kの影鬼による市場操作が、彼らに“今、ここにある秩序”を信じさせたのだ。
投資家にとって、未来は「信じられる今」の延長でしかない。
安心できる“秩序”――それが、Kの提示した唯一の答えだった。
一方、ゼグラント派の投資家たちは顔を青ざめさせていた。
「こんなはずでは……」
「影鬼はただの恐怖の象徴のはずだ……なぜ、これほど市場に影響を……」
彼らの目の前で、Kの市場価値が急速に上昇し、ゼグラントの市場支配は崩れ始めている。
「我々は撤退すべきなのか……?」
「いや、だが……それでは全てを失う!」
不安と焦燥が彼らを支配し、ゼグラント派の中でも意見が割れ始める。
誰が言い出したわけでもない。けれど、市場はもう、新しい支配者の気配にざわつき始めていた。
次第に、投資家たちの心理が変化し始める。
「Kは確かに市場の脅威だ……でも、ゼグラントに付くよりは安全かもしれない」
「影鬼を制御できるのは、Kしかいない」
……だからこそ、逆らえない。誰もが知っているのに、それを口にするのが一番怖い。
「もし彼を排除したら……制御不能な“恐怖”だけが残るかもしれない」
この心理が、Kの市場価値を回復させた。
――Kの影鬼市場評価:回復【中↑】
――投資家信頼度:回復【中↑】
ただの数値――だが、その波に、人は期待を賭ける。
……だが、市場は感情を持たない。
誰を選び、誰を切り捨てるかは、ただ“数字”が決める。
Kの手が、その数字を操れるうちは――まだ、支配者でいられる。
スクリーンに映る数値は、まるで生き物のように脈打っていた。
赤、青、緑。無機質な光の粒子が、Kの表情を淡く染めては消える。
指先がわずかに動くたび、世界の均衡が揺らぐ――そんな錯覚さえあった。
だが、数字は従わない。
どこまでも中立で……数字は、誰にも気づかれぬまま流れていく。
届く機会は、一度きり。
その“次”が来るとき、Kがまだ市場に立っていられる保証は、どこにもない。
……そして、Kの知らぬところで、影鬼のログに“独自判断”の痕跡がひとつ、刻まれていた。
“恐怖”を土台にした支配は、常に崩れかけている。
それが、彼の居場所の不確かさを決定づけているのだ。
Kは、椅子の背にもたれたまま、ふと目を伏せた。
「……それでも、動くしかない」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
魔導冷却装置の駆動音だけが、また静かに鳴り始めていた。
【次回予告 by セリア】
「支配って、案外“瞬間”なのよね。一度掴めば、あとは“そうだった気がする”だけ」
「一瞬の支配。影鬼が基準となる市場に、ゼグラントの綻びが忍び込む」
次回《一瞬の支配》、『Kの決断』。
“恐怖”と“信頼”がねじれるとき、秩序の根っこが試されるのよ。
「セリアの小言? 聞きたいならひとつだけ。
“誰かを信じる”ってのは、支配される覚悟とセットじゃないと危ないわ。
……その“影”、本当にあなたが選んだのかしら?」




