#9−2:最後の賭け
✦✦✦ 《秩序を喰う影》 ✦✦✦
魔王市場を支配する男――ゼグラント。
魔王取引所の最上階、『黒耀の塔』。
その広すぎる執務室の片隅で、ゼグラントは魔法スクリーンを見つめていた。
魔王市場・最新データ
――Kの市場価値:上昇(+82%)⬆
――ゼグラントの市場支配力:低下(▲45%)⬇
――影鬼の影響力:市場全域に拡大
スクリーンには、Kの影鬼による市場への影響が詳細に表示されていた。
支配体制は、ゆっくりと……だが、確かに崩れ始めていた。
Kの影は、音もなく――それでも、市場をじわりと覆い始めていた。
魔法スクリーンの中では、都市全域にじわりと広がる黒い霧のような陰影が、街路や取引所の塔を舐めるように覆っていく。
まるで影そのものが呼吸し、生きているかのように。
明滅する市場データの上に、その黒が濁った血のように滲み、塗りつぶしていく。
「これは……予測の範囲を逸脱しているのか?」
ゼグラントは低く呟いたが、その声はすぐに空気に溶けて消えた。
指先が微かに震えている。確かに、それは恐れだった。
冷静でいなければならない……なのに、
指が肘掛けを叩く音が止まらない。
K……思った以上か、いや、想定の枠すら超えている。
だが、まだ負けではない。
昔、恐怖だけで支配しようとしたあの男が、いかに脆く崩れたか……忘れたわけではない。
しばらく沈黙したのち、ゼグラントは眉間の皺に気づき、深く息を吐いてそれをなだめた。
動かし、守り、導いてきた市場だ。
他の誰の手にも渡すつもりはない。
眉間に皺が寄る。ゼグラントはそれを、意識して押し戻した。
肘掛けをなぞる指が一瞬止まる。
ゼグラントは深く息を吐き、思考を整えた。
「……市場の動揺は一過性だ。混乱の裏に潜り込めば、Kの排除も、支配の再構築も可能になる」
気づけば、口元がわずかに歪んでいた。
負ければ、すべてが終わる。勝たねば、この秩序は崩れる。
Kではなく、自分がこの世界の“軸”であるべきだ。ゼグラントはそう信じていた。
焦りは確かにあった。――だが、それを悟らせるわけにはいかない。
市場の支配は揺らぎ始めたが、まだ崩れない。
自らの手で築き上げたこの市場の安定を失うわけにはいかない。
ゼグラントは心の中で、誰かに問いかけるように、椅子に深く腰掛けた。
✦✦✦ 《神を気取る支配者》 ✦✦✦
ゼグラントの側近たちが緊迫した表情で彼を見つめていた。
最側近の一人、マーキス・エレクトラが慎重に口を開く。
エレクトラが苦笑いを浮かべた。
「……それにしても、影鬼を“合理的な災厄”と捉える日が来るとはね。
そのうち“規格外リスク”とか、新しい投資指標でも生まれるんじゃありませんか」
ゼグラントは一瞬だけ眉を動かすと、すぐ無表情に戻る。
「市場は定義より先に、感情で動く。お前も忘れるな」
ゼグラントは椅子に深く腰掛け、指を組んだ。
「市場は本質的に“臆病者の集まり”だ。恐怖を忌避し、安心という幻にすがる。
その本性に“安定”という檻を与えた。――俺は、その檻の鍵を持つ者であり続けてきた」
「Kのような“希望”は、裏返せば最大の恐怖だ。だから俺は、それを“変革”ではなく“錯乱”として処理する」
ゼグラントは目を閉じた。脳裏に焼きついている、かつての街の光景――。
規制を緩め、自由に任せたあの都市は、暴走と略奪に呑まれ、わずか三日で機能を喪失した。
怒号と炎の中で、誰もが誰かの責任を探していた。
泣きじゃくる子どもを背負った商人が、壊れた屋台を見下ろしてうずくまっていた。
それでも、誰も助けなかった。秩序のない街では、正義すら値札に変わっていた。
――後に『レンティア自由暴走事件』と呼ばれる、あの地獄。
結局、信じられていた“市場の自浄作用”など幻想だったのだ。
だから俺は、選んだのだ。恐怖ではなく、“安定”という支配を。
――それが、唯一、自分にできた「正しさ」だった。
側近たちは沈黙する。
「Kを市場から追い出すには、“変革”を“破壊”と見せかけることだ」
ゼグラントは薄く微笑んだ。
「理屈で動く市場……そう信じることで、俺は秩序を維持してきた」
ゼグラントの指が肘掛けを軽く叩く。
「だが、それを決めるのは“市場”ではない。……俺だ」
彼は乾いた笑みを浮かべた。
「俺の作った秩序の中で育った連中が、自分の判断で動いていると錯覚している。……哀れなものだ」
再び、肘掛けを叩く音が響いた。
「それでいい。枠組みは俺が与えた。市場はその中でしか、動けない。
その秩序に逆らう者がどうなるか……Kに思い知らせてやる」
ゼグラントは冷笑をゆっくりと噛み締めるように浮かべた。
「……奴を、許すわけにはいかない」
ゼグラントの口元がかすかに引きつる。わずかに握った拳が、肘掛けを軋ませた。
拳に込められた力が、肘掛けの金属部をわずかに凹ませ、静かな室内に“ミシ”と鈍い軋みが響く。
額には滲む汗が一筋、無意識のうちに頬を伝っていた。
「Kの存在が“市場リスク”だと認識されれば、投資家たちは一斉に奴から手を引くだろう。
混乱を恐れる市場は、常に安定を求める。俺が与える“安定”の方が、Kの“変革”よりも魅力的だとな」
彼の視線が側近たちを鋭く射抜く。
「投資家は皆、“利益”だけを見て動く。
だが、その利益を誰が握っているか……いや、“握らせている”か。そこまでは、教えない」
ゼグラントは椅子から立ち上がり、スクリーンを見上げた。
「Kの市場価値を引きずり下ろすだけでなく、奴の“変革”という武器そのものを無力化する。
その先に待つのは、奴の完全な消滅だ」
その頃――。
取引所下層の広場では、
情報端末にかじりつく魔族たちの間で不安のざわめきが広がっていた。
「影鬼が暴れた? またデマじゃないのか?」
「いや、南部の取引所が本当に封鎖されたって……」
その混乱の渦中に、静かに事態を見つめる者もいた。
セリアは通路の影に立ち尽くし、魔導スクリーンを見上げていた。
数字が街の呼吸を少しずつ狂わせていくのを、肌が覚えていた。
魔導スクリーンの中で踊る赤い文字が、通りの明かりと交差するたびに、壁や床に不規則な光の影を落とす。
誰もいないはずの路地が、一瞬何かの気配でざわめいたように感じて、セリアは振り返った。……だが、誰もいない。
何かが、おかしい。
肌を這う寒気が、思考の芯まで染みてくる。
それは、空気に、どこか見知らぬ法則が混じっている気がした。
この空気に、飲まれてはいけない。
――数字に表れない、何かが動いている。そう思えてならなかった。
セリアの中に、かすかだが、確かな“拒絶”の灯が灯った。
抗うためじゃない。ただ、確かめたかった。
セリアの胸の奥で、その想いは――予感のように、微かに灯っていた。
“ゼグラントの秩序”は、守っているようで、支配しているだけ――。
そう、セリアには思えた。
✦
薄闇の監視室に、Kとセリアの影が並んでいた。
静まり返った部屋に、魔導スクリーンの微光だけが瞬いている。
セリアが口を開く。
「あなたって、いつも何もかも読んでるつもりなのね」
セリアは、Kの横顔に言いようのない苛立ちを覚えた。
感情の芯を見せようとしないその沈黙が、どこか――恐ろしかった。
Kは無言のまま、スクリーンを指でなぞった。
「読めるだけだ。撃てば終わる。読むだけなら、終わらない」
セリアは肩をすくめた。
「……皮肉なだけなら、まだ人間だったって思えるけどね」
✦✦✦《“合理”という名の破壊》 ✦✦✦
ゼグラントは指を軽く鳴らした。
魔法スクリーンが瞬時に切り替わり、Kの影鬼に関するデータが映し出された。
魔王市場速報 - ゼグラントの市場操作開始!
ゼグラント銘柄・影響指数:-5.7% ⬇
魔株流通量の急増(売り圧力 +15.2%)
Kの支配領域評価:下落(▲25%)⬇
影鬼の信頼度:急落(▲30%)⬇
しかし、それだけではなかった。
ゼグラントはもう一つの策を準備していた。
側近のマーキス・エレクトラが口を開く。
「ゼグラント様、影鬼の影響は確かに深刻です。
ですが、完全に“信頼”を壊すには、あと一撃――強烈な恐怖が必要です」
その声には、わずかなためらいが混じっていた。
計画の規模に、心の奥底で怯えているのかもしれない。
ゼグラントは小さく笑った。
「ああ、分かっている。市場操作だけでは十分ではない。
だからこそ、“物理的な力”を用意している」
魔導スクリーンが切り替わると、そこには南部市場を進軍するゼグラント軍――黒い軍旗を掲げ、
整然と進む兵列の姿があった。
魔導監視眼が捉えたのは、闇の中を無音で進む影の軍列。
市場街区の空を這うように張られた魔法障壁が、彼らの足音に合わせて波打ち、
都市の空気までもが硬直していた。
前線の兵たちは無言のまま、金属の仮面をつけ、同じ歩幅で地を叩きつける。
その背後には、整然とした四列の軍勢が、黒い軍旗を風に翻しながら沈黙を保っていた。
音を立てないその歩みは、まるで死を運ぶ儀式のように、不気味な静寂を引きずっていた。
商会の塔から逃げ出す商人たち。
情報伝達に使われる《魔導投影板》が砕け、その光の残像が空を切り裂いた。
一瞬だけ、“過去の秩序”が名残を示すように――滲み、消えていく。
街の鼓動は止まり、ただ軍靴だけがその上を踏み鳴らしていた。
マーキス・エレクトラが息を呑み、視線をスクリーンに貼りつけた。
エレクトラが思わず漏らす。
「……本気で、そこまでやるおつもりですか?」
胸の奥がざわめいた。
あのゼグラントがここまで追い詰められている――そう感じた瞬間だった。
ゼグラントは構わず言い放った。
「南部市場の混乱は、“影鬼の暴走”として演出する。それで十分だ」
「そうすれば、投資家たちは影鬼を“制御不能な災厄”と見なすようになる」
彼の唇が不敵に歪んだ。
「市場が何で動こうと……最後に決めるのは、俺でなくては、ならない」
彼の冷たい声が部屋に響く。
影鬼が市場を危機に陥れる存在だと、投資家に思わせればいい。そのためなら、犠牲も辞さない。
「皮肉なものだな……Kの影鬼を、“俺の罠”に組み込む日が来るとは」
恐怖だけで支配しようとした、あの男の末路は……いまでも、思考の底に沈みつづけている。
――ヨルヒムと名乗る者が残した言葉を、俺は忘れていない。
「恐怖は支配の足場にはなっても、永続する秩序の礎にはなり得ない」。
あのときは戯言だと思ったが……Kの影鬼を見る限り、あの男の理も否定できん。
俺は違う。恐怖ではなく、“合理”で導く。
冷酷であることも――秩序に必要な、ひとつの構成だ。
最後の指示を下すゼグラントの目に、迷いはなかった。
“合理”の名の下に、彼は決壊を選んだのだ。
秩序が揺れるとき、人々の信頼は――音もなく崩れていく。
【次回予告 by セリア】
「数字が揺れると、人はすぐに“信じていたもの”を見捨てるわ。
でも、本当に崩れているのは……その人自身よ」
「暴走する影、揺れる忠誠」
次回《影が裂ける時》、『暴かれる信頼』。
市場が歪み始めたとき、秩序は“誰がそれを握っているか”を問われるの。
影鬼の信頼、Kの覚悟、そして――私たちの中の裏切りまでも。
「セリアの小言? そうね……“信じる”ことに、値札をつける時代だなんて。
でもそれでも、誰かはきっと、“信じる”しかできないのよ」




