#9−1:数字が選ぶ王
✦✦✦ 《数字の嵐》 ✦✦✦
ここは、魔王取引所の中心。
闇を裂くように、魔導スクリーンが青白い光を放っていた。
冷たい光が、魔王たちと投資家の顔を浮かび上がらせていた。不安の色だけが、そこにあった。
群衆は息を呑み、点滅する数字に釘づけになっていた。
静けさの中で、数字の点滅音だけが鳴っていた。広場の空気は、音もなく締めつけられていく。
「ゼグラントの支配力……マイナス55パーセント……!?」
ひとつの震え声が、静寂を裂いた。次の瞬間、広場の底からざわめきが湧いた。
一方で、Kの市場評価は+92%。影鬼の影響力は、すでに+105%にまで達していた。
✦✦✦《【A】刃の介入》 ✦✦✦
そのときだった。
広場の空気に、わずかな“音”が差し込んだ。
ざわり、と風のような音。だがそれは、データノイズとは異なる――存在そのものを削るような、違和感のある揺らぎだった。
魔導スクリーンが一瞬だけ乱れ、数字の列が歪んだ。
「……スクリーンに、干渉が……? いや、これは――」
観測者の声が終わるより先に、それは現れた。
黒ずくめの細身の男。だが、その存在はどの契約にも、どの市場記録にも存在していない。
市場法で禁止された“物理干渉型存在”――ゼグラントが放った、契約の外からの刃だった。
ざっ……と、空気が裂ける。
男の手に握られた刃が、情報を断ち切るように波紋を広げた。魔王たちが一斉に後退する。
「……市場での、武装殺人行為……?」
「いや、それは記録に……ない……!」
恐怖と混乱が、静かに広場を包む。
Kは立ったまま、まったく動かなかった。
刃の男がセリアに向かって進んでくる。
「K、下がって……!」
セリアが咄嗟に防御魔術を展開するが、それさえも刃は容易く裂いた。
だが、その瞬間――魔導スクリーンに“追加契約文書”が浮かび上がる。
《対象:「無所属暗殺者」→契約外行為により“違反”認定》
市場では、あらゆる行為が「契約文書」で縛られている。それを外れた者は、即座に排除対象だ。
――チン。
どこか軽い音が響いた直後、空間の一角がねじれる。
「僕、妖精だよ?」
ふわりと現れたのは、小太りで背の低い神官姿の男。手のひらをぱたぱたさせながら、無邪気に笑っていた。
「悪い子、見〜つけた。契約違反、しちゃダメだよ?」
ふわりと現れた神官姿の中年小太りの小男。淡い光に浮かぶその姿は、影でも光でもなかった。
半透明の巨大なハンマーが、彼の背後に静かに漂っている。
笑顔は無邪気だが、目の奥にだけ濃い影が落ちていた。
広場では誰一人、声を発せず凍りついている。
セリアは防御魔術の陣を張ったまま硬直し、Kだけが沈黙のまま男を見据えていた。
「自殺はダメだよ〜? ボクが殺せなくなっちゃうじゃん」
無邪気な笑顔のまま、彼は片目だけを細めた。
その瞬間、場の温度がほんのわずかに下がった――笑っているのに、どこにも温もりはなかった。
その声は楽しげだが、まるで空気を凍らせるような冷たさがあった。
次の瞬間、彼の手元に浮かんだ巨大な半透明のハンマーが、影の男に向けて振り下ろされる。
黒い契約文字が男の身体に浮かび上がり、焼き印のように刻まれていく。
Kはその光景を見ていた。だが一言も発しなかった。
セリアが小声で呟く。
「……市場そのものの意思……“裁定神官”」
妖精神官は振り返ると、Kにウィンクした。
「ボクね、いつも見てるから。Kくん、ズルはダメだよ?」
ふざけた口調とは裏腹に、その背後には市場全体を律する不可視の圧力があった。
影の男が崩れ落ち、黒い契約文字の残滓が空中を漂って消える。
妖精神官はそれをじっと見つめ、ぽんっと手を叩いた。
「うん、おしまい。ルールは守らなきゃね」
Kに向き直ると、にやりと笑って指を立てる。
「ボク、妖精だからね。わかっちゃうのさ」
そう言い残し、ふっと空間に溶け込むように姿を消した。
空気だけが、どこか温度を失ったまま残された。
Kは一歩も動かないまま、刃の消滅を見つめた。
ひとつ、静かに息をついた。
彼の周囲だけ、時間の流れが止まっているかのようだった。
スクリーンには依然として数字が踊り続けていたが、誰もがその男の“沈黙”から目を逸らせなかった。
「……力を信じるのはいい」
数秒の間を置いて、低く言葉を続ける。
「だが今は、“契約”がすべてだ」
市場がそれを肯定するように、スクリーンの数字が異常な速度で跳ね始めた。
だが――Kだけが、その跳ね方の“パターン”に気づいていた。
数字のリズムは、影鬼が動く時と同じ。まるで、裏で命令が流れているかのように。
誰もが、その跳ね方から目を逸らせなかった。
数字が跳ねる。そのたびに、息を飲む音が重なった。
誰もが、無言で視線を交わしていた。
「……こんな数値、見たことない。いや、誤作動か? でも……」
誰かが呟くと、隣の魔族が顔を青ざめて首を振った。
「……いや、本物だ。影鬼が……市場の奥に牙を立ててる。なあ、聞こえるか? まだ、噛んでる」
その瞬間だった。崩れ落ちた秩序の隙間から、何か新しい“支配の気配”が、市場全体にしみ出してきた。
秩序の骨組みが、音もなく軋み始めていた。
「……あれって、本当に“淘汰”なんだろうか。いや、もっと……もっと底の見えない何かじゃ……?」
「これまでゼグラントの支配が絶対だったが、今は違う……」
「もはや、影鬼の存在を無視できない……」
魔王たちは、まだ口には出さない。だが、誰もがわかっていた。あれは――新しい支配の気配だ。
一人が消えるたびに、空気が冷えた。
投資家たちの目に、じわじわと濁りが広がっていく。
――影鬼が、市場の根を軋ませている。
誰もが、言葉にはできずとも、その“気配”を感じていた。
✦✦✦ 《恐怖の秩序》 ✦✦✦
市場の空気が、わずかに揺れた。何かが変わり始めていた。
これまで、ゼグラントの支配は「安定」という名札をぶら下げていた。
だがKの影鬼が動き出すと、市場の肌触りはがらりと変わった。
『影鬼関連銘柄の市場動向』
影鬼市場 急上昇
ゼグラント陣営の評価 減少
「市場に競争が戻るなら、Kの方が合理的な選択かもしれない……」
「ゼグラントの支配は長すぎた。今の市場には新しい動きが必要だ」
影鬼による暗殺が続くたびに、ゼグラント派の魔王たちは一人、また一人と姿を消していく。
その中でも、特に「契約監査」――影鬼が契約書データの隙間を這い、改ざんや偽装を暴く行為――は、市場に衝撃を与えた。
影鬼たちは、取引データの継ぎ目を這いまわり、
隠された契約や偽装文書を、冷たく暴いていった。
まるで、市場の奥に“ひとつ目”が開いたようだった。どんな隙も、そいつから逃れられない。
「影鬼に見つかれば、不正は終わる」――その言葉が、噂として広がった。投資家の視線が、静かにゼグラントから逸れていく。
暗殺も、契約の破綻も。投資家たちは、もう誰も眉を動かさなかった。
「恐怖じゃない……これは“選別”だ」
その声には、理解と諦め、そしてどこかの共感が混じっていた。
冷えきった空気の中、どこからともなく囁きが生まれた。
魔王たちは言葉を失い、魔導スクリーンに映る冷徹な数字の列を、
未来の答えが、あの冷たい数字の中に潜んでいる気がした。
空気が張り詰め、静寂が重くのしかかる。
魔導スクリーンには、ゼグラント派の名前が一つずつ消え去り、
新たな力が台頭していく様子が映し出されていた。
セリアがわずかに息を呑む。
その気配が、Kの視線を一瞬だけ揺らがせる。
✦✦✦《記録に刻まれた亡霊》 ✦✦✦
刃が消え、場が静まったその直後――。
Kの視線が、ある一点で止まった。
魔導スクリーンの右下。数値の列に混じって、ひとつの取引コードが表示された。
スクリーンの右下に浮かぶコードが、かすかに赤黒く点滅していた。
数字の羅列とは異なる“何か”が、そこにだけ滞留している。
あたかも死んだはずの契約が、扉の隙間からこちらを覗いているかのように。
《NOVA-09》
その文字列は、古く、もう存在しないはずの契約番号。
かつて、Kが創った“最初の影鬼”。
だが、感情に呑まれ暴走し、彼の手で“無効化”された失敗作。
Kは息を止めた。
肩の筋肉が、ごく僅かに強張る。
目線が、スクリーンではなく“その名”の一点に釘づけになっていた。
かつて、自らの手で“無効化”した影鬼の名だった。
呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
セリアはちらりとKの横顔を盗み見た。
滅多に揺れを見せないその瞳が、確かに“曇った”のを見た気がした。
――ああ、あの名が、彼を刺している。
滅多に揺れを見せない彼の瞳が、一瞬だけ曇った気がした。
Kもその気配を感じ取ったのか、わずかに指先を動かした。
――過去に、一度だけ彼の“刃”を止めた女。
だが今、隣に立っている。それだけで、言葉はいらなかった。
それでも今、隣に立っている。だからこそ、言葉は不要だった。
「K……その影、あなただったのね」
Kは静かに、セリアにだけ聞こえるように答えた。
「……あれは、俺の影だった。“力に溺れた模倣”だ」
Kはスクリーンの点滅に目を細めた。
それはまるで、死者が扉の隙間から彼を見つめているようだった。
だが、Kは次の瞬間には、もう何事もなかったかのように姿勢を戻していた。
「……過去は、記録として残せばいい」
彼の指先が、いつもよりわずかに“強く”スクリーンを叩いた。
その一撃で、表示コード《NOVA-09》が記録の底へと滑り落ちていく。
Kはそれ以上、語らなかった。
次第に、投資家の目が変わった。Kの影鬼を恐れるより、頼るような色が混じっていた。
「影鬼が動けば、“腐敗に依存する者”から順に市場から消えていく――」
「……恐怖だけじゃない。あいつら、秩序ごと崩して……それでも何か、形を作ろうとしてる……そんな風に見える」
誰かがそう呟くと、周囲の魔王たちは一斉に沈黙し、魔導スクリーンの光を凝視した。
そこに映し出されているのは、旧来の支配が崩壊し、新たな力が台頭する瞬間だった。
影鬼は、恐怖の象徴ではなくなりつつあった。今では――それ自体が、公平の名を持っていた。
✦✦✦ 《崩れゆく支配 》✦✦✦
魔王取引所の最上階――。
ゼグラントの広大なオフィスに、緊迫した声が飛び交っていた。
『魔王市場・最終ランキング(影響力指数)』
K(影響力指数:96.4%)⬆ +8.1%
ゼグラント(影響力指数:68.9%)⬇ -9.6%
「Kの市場価値、跳ね上がってます!」
「影鬼の影響力が広がり、投資家たちがゼグラント様の支配に疑問を持ち始めました……!」
ゼグラントは、何も言わずスクリーンを見つめていた。その視線は、氷のようだった。
「……何が、起きている……?」
彼の市場支配に亀裂が入り始めた。
だが、それは単なる勢力争いではない。
Kがやってるのは……乗っ取りじゃない。あれはもう、市場の骨組みごと――作り直してる。
影鬼が市場の淘汰システムとなり、市場のルールがKを中心に再編され始めている。
沈黙を引き裂くように、ゼグラントの拳が机を打った。
それは音というより、部屋の空気を割る圧だった。
「……俺が築いてきた秩序は、恐怖の上だった。それを……影鬼なんかに、いや……こんな、形で……!」
――彼は目を閉じ、思考を巡らせた。
市場の支配を確立したのは、長年の計画と恐怖を軸にした秩序だ。
その秩序が崩れるなど、あり得ないはずだった。
だが、Kは違う。
ゼグラントは、彼がただの「影鬼の支配者」でないことを悟り始めていた。
「Kは市場そのものを再構築しようとしているのか……?」
胸の奥で、何かが冷たく沈んでいった。名もない恐怖だった。
ゼグラントの声は、低く平坦だが、わずかに震えていた。
瞳の奥で燃え上がる焦りを隠すことはできない。
スクリーンの『96.4%』が赤く点滅するたび、ゼグラントの胸が締めつけられていった。
点滅する赤が、ゼグラントにだけ聞こえるように告げていた。
“あと少しで、すべてが呑まれる”――そんな現実を。
「……やばい。このままじゃ、本当に……全部、奴に……!」
スクリーンには「K(影響力指数:96.4%)」の赤が踊り、
ゼグラントの支配が、音もなく崩れていく様が、そこに突き立っていた。
「この流れを断ち切らなければ、気づけば全部、Kの足元に転がってる」
ゼグラントの眉間に深い皺が刻まれる。
一瞬の沈黙の後――。
「Kを排除しろ。……秩序が奴に呑まれきる前に、切り落とせ」
声は冷たかったが、どこか自分に言い聞かせるようにも聞こえた。
ゼグラントの声は、氷の中で割れた音のようだった。
赤く点滅するスクリーンが、ゼグラントの瞳に映り込んでいた。
額にはわずかに汗が浮かび、だが誰よりも冷たい眼差しだけがそこにあった。
広大な執務室の中で、彼一人だけが“音のない破滅”を見つめていた。
彼は立ち上がり、冷酷な声で命じた。
「市場ルールの修正を実行しろ。
Kの影鬼を、“市場取引のルール外の存在” として排除する」
✦✦✦《【C】沈黙する影》 ✦✦✦
Kが市場支配の仕上げを進める中――異変が起きた。
次なる標的に対して、影鬼の一体が投入されるはずだった。
だが。
動かなかった。
命令は確かに発信されていた。
市場契約に則った合法行動。影鬼たちに拒否権はない。……そのはずだった。
「……おかしい。反応が、ありません」
セリアがモニターを睨む。エラーではない。ただ、“応答なし”。
Kもその現象を見つめていた。
応答のない影鬼の姿に、わずかに視線が揺れる。
――まるで、かつてのNOVA-09がまた目の前に現れたかのように。
「……拒否じゃない。応答もしない。“従属”じゃないのか」
影鬼は、命令に逆らったわけではなかった。
ただ、そこに“意志”のような何かが見えた。
「K様……まさか、影鬼に、自我が?」
「……そんな不安定なものを許したつもりはない」
Kはそう言いながら、視線を落とす。
彼の背後で、他の影鬼たちが静かに姿を揺らしていた。そこに、微かだが“波”があった。
Kは考える。あの反応は、従属ではない。
どこかで、共存という形に近い。
それは支配ではなく、もっと得体の知れない何かだった。
市場そのものの力を使い、Kを排除するための最終手段だった。
✦✦✦ 《黒き覇者の宣言》 ✦✦✦
『戦争の影響 - 魔王市場速報』
Kの支配領域拡大 +18.7%(魔株価 +20.1%)⬆
ゼグラント軍撤退(市場評価 -12.4%)⬇
魔導スクリーンの閃光が、闇を裂いた。Kの目が、その中央で光っていた。
広場全体がその存在に引き込まれるように静まり返る。
その瞳は、冷たいままに光っていた。低く、静かに。けれど圧だけは、逃げなかった。
「ゼグラント。……ここで、お前の支配は、終わる」
その一言が広場全体に響き渡ると、影鬼たちがざわめき、
不気味な気配を漂わせながら蠢き始めた。
広場に、息の音さえなかった。
音という音が、どこかに隠れてしまったようだった。
光でも闇でもなかった。ただ、“圧”だけが、その場を満たしていた。
Kが、ゆっくりと一歩踏み出す。
魔導スクリーンを、まっすぐに指した。
その視線の奥には、一瞬だけ過去の苦闘がよぎる。
あのとき、俺はすべてを失った。
影鬼を従える力さえも、市場から追放された存在として価値をゼロにされた……だが、今は違う。
深く息を吐き出すように、彼は低く続けた。
「骨の髄まで、契約を影で書き換えてやる」
秩序も、ルールも。
ぜんぶ、影で――塗りつぶす。
影鬼たちが黒煙となって地を這い、Kの背後から市場を覆っていく。
スクリーンの光は次第に黒に塗り潰され、数値だけが明滅していた。
Kはその中心に立ったまま、何一つ感情を漏らさずに全てを見据えていた。
その言葉を境に、空気が変わった。
スクリーンに映るゼグラントの影響力が急速に縮んでいく。
Kは、それを見ながら静かに微笑んだ。
「お前たちが築き上げた全てを、影の中に葬り去る。
そしてその“墓標”こそが、新たな市場の礎となる――これが、俺の答えだ」
影鬼たちは黒煙のように渦を巻き、Kの背後から地面を這うように広がっていく。
空気がねじれた。何かが反転する、その瞬間の手前――そんな匂いが、音のように広がっていた。
始まりじゃない。終わりの奥で、まだ名前すらない“何か”が、こちらを見ていた。
その声には、揺れがなかった。ただ、終わりを宣言する音だけがあった。
影鬼たちが、音もなくうねる。
波紋のように、市場の底へと染み込んでいく。
未来が、軋みを上げはじめた。
市場は、静かに――戦争の扉を押し開く。
この市場を握るのは、影に立つKか。あるいは……崩れかけた玉座にしがみつくゼグラントか。
市場の運命が定まるその瞬間が、いま訪れようとしている。
【次回予告 by セリア】
「恐怖で動く市場ほど、脆いものはないのよ」
「崩壊と操作、そして最後の賭け」
次回《最後の賭け》、『合理という名の暴走』。
歪められた秩序の中で、“信じる価値”が試されるのよ。
「セリアの小言? そうね……正しさって、いつも静かに潰されるもの。
でも、それでも見るわ。希望が残っている限りは」
「――あなたは、何を信じる?」




