#8−5:影の秩序
✦✦✦ 《崩れる帝国》 ✦✦✦
市場に潜んだ影が、じわじわと世界を捻じ曲げ始めた。
要人たちが姿を消し、主要銘柄が連鎖的に売り崩される。
けれど、勝者の名を刻むには――まだ、時間が足りなかった。
魔王取引所・ゼグラントの拠点――。
重厚な扉の奥、広大な円卓を囲むようにゼグラント派の魔王たちが沈黙していた。
誰もが、わずかな音すら出せずに身じろぎしていた。
要人たちの失踪が重なり、市場の不安は破裂寸前だった。
床に響く重い足音。ホログラムには、荒れ狂う数字が滲んでいた。
投資家たちは混乱し、一部は資本を引き上げ始めていた。
『魔王市場速報』
ゼグラント派の市場評価:-5.7% ⬇
魔株流通量の急増(売り圧力 +15.2%) ⬆
「市場が揺れている……このままでは支配が崩れます!」
巨大な取引スクリーンには、売り注文が洪水のように流れ込んでいた。
投資家たちは混乱し、取引所の外へ殺到し始めていた。
ゼグラントはホログラムを見つめる。数字が脈を打ち、市場が呻いていた。
巨大ホログラムに、Kの名が浮かび上がる。
『魔王市場・最終ランキング(影響力指数)』
1位 K(影響力指数:92.3%)⬆ +5.6%
2位ゼグラント(影響力指数:78.5%)⬇ -4.8%
数字を見た瞬間、会議室に張りつめた沈黙が走った。
ゼグラントは目を細め、低く呟く。
「K……ここまで這い上がるとはな」
ゼグラントの声には、怒りや焦りはなかった。
それどころか、どこか嬉しそうにさえ聞こえる。
「……面白くなってきたな。
この局面、全力で臨むとしよう」
ゼグラントはゆっくりと視線を上げホログラムの数字を睨み、声を荒げた。
「影鬼を放っておけば……市場の“秩序”は崩れる」
しばらく沈黙した後、低く呟いた。
「Kを象徴にするな。“終焉そのもの”にしろ。市場そのものを、叩き壊せ」
その言葉に、側近たちは一斉に顔を上げる。
「市場のリスク、ですか?」
「そうだ」
ゼグラントは薄く笑う。
「市場で最も恐れられているもの……それは“価値の消失”だ」
「影鬼が評価されているのなら……その“評価”ごと、武器に変えるだけだ」
側近のひとりが即座に理解し、低く呟いた。
「……つまり、影鬼そのものを『制御不能な怪物』に仕立て上げる……?」
ゼグラントは頷いた。
『影鬼市場動向』
“影鬼”――Kが率いる魔力生命体は、戦力でありながら市場で契約商品としても流通する。
契約破棄が相次ぎ、レンタル契約は-8.7%、ゼグラント陣営の軍事評価も-4.3%と下落。
「数字が動くのは、恐怖が先に走った時だ。それこそが最も強力な手段だ。
……完成させてやる。
影鬼という名の、怪物をな」
その夜、魔王市場の情報網に――異変が生じた。
✦✦✦ 《支配の再定義》 ✦✦✦
『市場速報 - 影鬼市場急落』
影鬼の制御リスク浮上、Kの市場評価下落 -6.2%
投資家が影鬼軍の評価を見直し。
「影鬼市場に不安の声――長期的な安定性に疑問」
「Kの支配、実績不足の指摘も」
「ゼグラント陣営、“影鬼市場はバブル”と警鐘」
拳を握る。Kの耳に、報道の冷たい声が残響していた。
ゼグラントの市場操作が始まった。
数字ではない、恐怖で市場は動く。
Kはそれを、何度も見てきた。
……負ければ、終わりだ。
ただ、それだけだった。
だが、Kの目は静かに冷えていた。
「恐怖は素材だ。加工すれば武器になる」
『魔王市場・支配領域更新』
Kの支配領域拡大 +10.8%(魔株価 +14.2%)
ゼグラント軍撤退(市場評価 -7.5%)
Kは静かに瞳を伏せた。
……勝つために、選んだだけだ。
どう見られようが構わない。
終わらせる。……それだけのことだ。
それでも、何かを“選び続けてきた”という自覚は、確かに残っていた。
「俺は、秩序を望んだことはない。ただ、“選別”を繰り返してきただけだ」
だが、考えている時間はなかった。
彼の瞳が冷たく光る。
「ゼグラントは、“影鬼が暴走する”と噂を流した……。
その噂が本当に“現実”になれば、恐怖は――支配に変わる」
Kはふと目を伏せた。壊したいものと、いま築いているもの。
どちらの方が、より深い牢獄なのか――答えは見つからなかった。
昔の空の色など、もう覚えていない。ただ、あの日の空だけが、胸の奥に焼き付いていた。
だが、答えなんて、出るわけがなかった。
彼は静かに顔を上げた。
「ならば、その風聞を事実に変えてみせる」
「これは統治ではない。選別だ。不要なものは排除されるのみ。要は――断捨離だな」
Kの視線は、どこか遠くを見ていた。
そこに王座はない。あるのは、誰も望まぬ秩序の残骸。
彼にとって支配とは、ただの副産物だった。
「支配は要らない。誰も選ばなければ、そこに“真の統治”が生まれる」
――この時、轟音が響き足元が揺れた。
拠点の防壁がわずかに震えた。
その直後、遠くで爆音――“敵の侵入”を告げる警報が響き始める。
まだ距離はある。けれど、迷っている時間はない。
やつらはもう、こちらに向かっている。
Kは、無言で目を閉じた。
「……もう、言葉は届かないか」
Kは、静かに姿勢を起こした。
影が彼の足元からにじみ、空気が一瞬“止まった”。
「昔、誰かが言った。筋肉は裏切らない、と。
だがKは知っている。
――肉体が理性を殺す瞬間だけ、本当の忠誠が宿る」
Kは、それを止めなかった。
筋肉が理性を捨てようとしている。
だがその“裏切り”こそが、今の彼に必要な忠実さだった。
次の瞬間、骨の軋む音と共に、Kの呼吸が変わる。
引き締まった筋肉が躍動し始めた。
五指を顔の前に広げてかざすと、その隙間から赤くひかる目がぎらつく。
――戦奴、発動。
彼の意識は、数値と効率だけに染まり、じわじわと沈んでいく。
脳が数値に染まり、視界の輪郭が曖昧になる。
Kの指先が震えていた。
――これは、“効率”ではない。どこか、理性のかけらが……音もなく崩れていく感覚。
……おれは、何を“選んで”いる? この選択に、誰の意思が残っている?
それでも止まらない。止めようともしない。
「K。その状態は長くなると戻れなくなるわ」
エリシアの声に、Kはほんの一瞬だけ目を伏せた。
そのわずかな躊躇を、彼女は見逃さなかった。
けれど、Kは何も言わず、ただ扉を開けて――駆けた。
その背を、遠巻きに見ていたセリアは、端末のモニターから目を離した。
「……また、限界を超えていく……せめて、戻ってこられるうちに」
制御側である自分ですら、今のKを止められない。その事実が、セリアの胸に鈍く響いた。
もう誰も、“戻ってきてほしい”なんて、言えないのかもしれない……。
――俺は。
脈拍、反応速度、攻撃予測。
脳は思考を捨て、“殺す”という一点に集約された。
掌底一撃。肉体が吹き飛び、壁に叩きつけらミンチとなる。
首筋への手刀。地面に転がる頭。骨が崩れた音。時間は三秒。すでに七人が倒れていた。
その一瞬、戦場の空気が止まる。
影が揺れ、血飛沫の先に、誰かの視線を感じた。
薄い魔素のような揺らぎが、Kの背後を漂っていた。
肉体を持たぬまま、魔素の揺らぎの中に浮かぶエリシアが、虚空の端から彼を見下ろしていた。
干渉もせず、ただ静かに見ていた。
影の気配が、一度だけKの肩に触れたように見えた。
「……やっぱり“必要悪”ね、あなた」
その声は、風に乗って届いた――冷たく、どこか優しく。
Kは振り返らない。ただ、戦場を見据えたままだった。
一瞬、音が止む。
床を這う影が揺れた。
Kの視線が、誰か一人の目の動きに引っかかる。
恐怖。……それだけが、まだ戦場に残っていた。
Kは、誰も見ていなかった。
「……次」
その声すら、感情を失っていた。
◇
同時刻、Kの知らぬところで――魔王市場取引所では異変により、普段以上に情報が交錯していた。
取引所の管理者は、魔導モニターの異常データを凝視していた。
「……影鬼が、命令もなく市場を“監視”? 本当に……?」
隣の部下も、沈黙するだけだった。
「おい、これはどういうことだ? 不正な契約が次々と暴かれている……取引が一時停止されたぞ!」
まるで、誰かが裏から手を突っ込んで、数字そのものを書き換えているようだった。
「市場のルールが勝手に書き換えられている……?」
「……秩序が? 影鬼が、市場のシステム自体に?」
彼は手元の端末を握りしめた。
何かがおかしい。
影鬼は、市場を独自に監視し始めた。
不正な契約は自動的に破棄され、
影鬼を持つ投資家の口座に、いつの間にか見慣れぬ配当が落ちていた。
モニターに映る数値を、Kは無言で見つめていた。
「秩序とは意思じゃない。……情報の流れだ」
命じずとも、彼の周囲には“整う”という現象が生まれ始めていた。
何も命じないまま、影鬼たちは静かに動いていた。
エリシアは、隣でその様子をじっと見つめ――ほんのわずか、息を吸った。
「……もう命令すら、いらないのね。あなたがそこにいるだけで、秩序が走るなんて」
取引所のデータに、異常値が並び始めた。
不正契約が次々に無効化され、新たな投資が――影鬼市場に集中していく。
それは誰の指示でもなかった。
数字が語っていた。
魔王市場が、“あなたの秩序”に、自ら従い始めたということを。
市場の空気が、どこか、よそよそしくざわついていた。
『市場速報 - 影鬼市場の評価回復』
影鬼の監査機能により、投資家の信頼回復 +8.5%
契約詐欺の摘発件数増加 +12.3%(影鬼による市場監視効果)
ゼグラントはホログラムを見つめながら呟いた。
「K……。貴様……」
「……まさか、本当に影鬼が市場を“動かしている”のか……?」
ゼグラントの目が鋭く光る。
「これは、想定外だ……」
ゼグラントは唇を噛んだ。
「このままでは、Kに市場を“奪われる”……」
わずかな沈黙。ホログラムを睨みつけたまま。
「……ならば、この市場もろとも――灰にしてやる」
魔導スクリーンに映る数値が、ひとつ、静かに消えた。
ゼグラントは、魔導ホログラムから目を逸らし、手元の端末に何かを入力した。
その操作内容は、誰にも見えなかった。
「Kに全てを集中させろ……“他の者たち”に気取られぬようにな」
彼は微かに笑った。
「この市場は、ただの前哨戦にすぎん。……本命は、別にある」
Kの影鬼たちが、市場の秩序を掌握し始める。
市場のデータが静かに変動を始めていた。
影鬼の介入により、取引の流れが変わりつつある。
投資家たちはそれを注視しながらも、次の動きを見極めようとしていた。
音はなかった。けれど、何かが確かに、動いていた。
取引所のモニターに映る数値が――。
影鬼が描いたのは、ただの市場地図じゃない。
それは“支配の再定義”であり、無数の契約と恐怖で綴られた、見えざる憲章だった。
【次回予告 by セリア】
「Kってさ……“冷たい”って、よく言われるでしょ?」
「でも私は知ってるの。あの沈黙の奥に、どれだけの言葉と想いが詰まってるか」
「誰にも見せないのは、強さじゃない。ただ……抱えすぎてるだけなのよ」
「次回、《必要悪(前編)》――」
「Kが剣を抜いた理由。その一歩が、市場を、私を、変えていくの」
「お願い、見ていて。あの背中は、もう“選ばされた者”じゃない」
「――“選んだ者”の、覚悟よ」




