#8−4:影、三たび刺す
✦✦✦ 《影鬼の夜》 ✦✦✦
魔王市場のざわめきは、もう誰にも止められなくなっていた。
バルゴンが死に、ロズマールも不審な最期を遂げた。
そして今夜――新たな名が、選ばれる。
Kの拠点。
半端な闇の中、円陣を組んだホログラムが、かすかに灯り……部屋の空気を揺らしていた。
Kは、机に指を置いた。思考の歯車が、ゆっくりと回り出す。
指先がわずかに跳ねた。沈黙の奥で、彼の無意識が再び目を覚ました。
「……次に“盤面”から消す駒は……誰だ?」
ホログラムが淡く瞬いた。
アルカナの指が動くたび、像がにじむように現れた。
そこに現れたのは……ゼグラント市場の要を担う魔王――ダガルト。
「ダガルト……か」
Kは、その名を――ほとんど聞き取れない声で、吐き捨てた。
エリシアが顎に手を添え、思案するように……微笑んだ。
「ふふ。あの男が崩れ落ちる……素敵ね。想像しただけで、胸の奥が熱くなるわ」
「あいつらも……もう疑ってかかっている。たぶん、ね」
――Kの理性を守る“知の女王”。影鬼軍の戦略を司る、彼の影の参謀だ。
アルカナが慎重に言葉を選びながら指を滑らせると、別のデータが展開される。
ダガルトの周囲は、もはや常軌を逸した警備に包まれていた。
「次の一手は……慎重に運ばねばなりません」とアルカナは助言を続けようとした。
Kは静かに椅子から立ち上がる。
ホログラムの光が彼の目元を照らした。
「慎重……? そんな余裕はもう残されていない」
彼は続ける。
「撒け。恐怖だ。混乱は……俺たちの資本だ」
Kの視線が影鬼たちを射抜く。彼らは一瞬ためらい、すぐに沈黙の闇へと姿を消した。
静寂が戻る。次の標的は、もう決まっている。
闇が、にじんだ。
そして、静かに……次の標的へと忍び寄っていった。
✦✦✦《心臓に棲む影》 ✦✦✦
魔王市場の北端――。
まるで古代の遺跡を思わせる、荘厳な建築がそびえていた。
内部では、ダガルトが市場の取引スクリーンを睨んでいた。
赤い線が、ひどく脈打つ。
画面には、不安がじわじわと滲んでいた。
「……バルゴンの死、ロズマールの死、市場の変動。どれも不可解だ」
彼は椅子に深くもたれ、グラスを傾ける。
赤ワインが、グラスの中で静かに揺れた。
そして――その液体の奥に、影が滲んでいた。
ダガルトはワインを口に運ぶ。
冷えた液体が喉を通るが、わずかな違和感を覚える。
ワインの底にまぎれた影が、静かに……舌の裏に滲んだ。
魔力は粘膜をすり抜け、音もなく血流に乗って――心臓の奥へと沈んだ。
――ドクン。
心臓が、一度だけ強く、跳ねた。
体内のどこかに“異物”が流れ込んだことを、反射的に感知したのだ。
だが彼の意識は、まだそれに気づかない。
ダガルトの指が微かに震える。
違和感――確かにあった。
だが、それに気づくには、もう遅すぎた。
胸の奥を、何かが突き破った。
……目には見えない、鋭い“針”のようなものが。
視界が揺れる。
息を吸おうとするが、肺が動かない。
何かが心臓の奥で弾けた。
次の瞬間――。
胸の奥で、誰かが笑った気がした。
……体の芯が、遠くから嗤われているような、そんな感覚。
痛みよりも先に、寒気が体の芯を蝕む。
「……これが、“例の影”か……」
そう呟いた唇が、震えたまま止まる。
鼓動が一瞬止まり、全身に強烈な圧迫感が広がる。
鋭い痛みが胸を貫き、内側から押し広げられるような感覚。
何かが砕けた。
ダガルトの体は、重みを失ったように……ソファへ沈んでいった。
外傷は……ない。
呪殺の痕跡も――どこにも、ない。
ただ……彼の心臓だけが。
内部から、静かに……壊されていた。
それは呪でも毒でもない。
影そのものが、実体を得て“刺した”のだ。
貫いたのは、見えない刃。
魔力ではなく――暴力だった。
三人目が消えたことで、市場の疑念は、ついに確信へと変わった。
ゼグラントの名でさえ、それを抑える術を持たない――そんな現実が、静かに市場全体を締めつけていく。
……運命は、勇者の味方をするものとされている。
選択は、なぜかいつも魔王に微笑む。
だがKは――そのどちらにも、選ばれなかった。
残ったのは、ただひとつ――。
無慈悲の底で、静かに蠢く“覚悟”だった。
魔王取引所には……沈黙だけが、残されていた。
空気は、硬く尖り、誰にも触れさせなかった。
「バルゴン、ロズマール、ダガルト……次々に市場の要が消えていく」
「これは偶然ではない。誰かが市場を蝕んでいる」
沈黙の中で、ゼグラントはゆっくりと椅子にもたれた。
Kの仕業だ。
確信があった。
「影鬼だけが市場を脅かしてると思うなよ」
「恐怖は広がる。だが、その恐怖をどう操るかが重要だ」
ゼグラントはゆっくりと目を閉じ、息を吐く。
「だがな、K」
彼の唇がわずかに歪んだ。
「K……お前は、恐怖を解き放ったつもりだろうが、それは“支配”ではない。
恐怖は、制御できる者だけのものだ。だからこそ――俺が王で、お前は影なんだ」
ゼグラントの声は、微かな嘲りを含んでいた。
「K……お前は、恐怖を解き放ったつもりだろうが、それは“支配”ではない。
恐怖とは――制御できる者だけが使える力だ」
「踏みつけるつもりが、すでに呑まれていた……それがお前だ」
✦✦✦《恐怖の支配者》 ✦✦✦
Kの拠点――。
Kは、静かに市場の混乱を見つめていた。
そして――口を開く。
「恐怖は、市場全体に広がっている。
投資家たちは動揺し、……新たな秩序を、探し始めている」
エリシアは口元に微笑を浮かべた。
「ゼグラントの支配……揺らぎ始めてるわ。
魔王たちの不在が……市場の足元を崩しているのよ」
アルカナはデータを確認しながら頷いた。
「このまま進めば、ゼグラントの支配構造は――完全に崩れるでしょう」
セリアは静かに微笑んだ。
指先でグラスの縁をなぞりながら、冷ややかな視線をKに向ける。
「秩序なんて幻想よ。市場が本当に信じてるのは、“恐怖”と“期待”だけ」
セリアは冷ややかに言ったが、その言葉の奥に、わずかな焦燥も滲んでいた。
淡々とした口調。それは彼女の揺るぎない投資哲学だった。
「K。……今あなたがすべきは、投資か。
それとも、いまさら“撤退”を選ぶのかしら?」
グラスを軽く傾け、琥珀色の液体がわずかに揺れる。
「――決めるのよ、K。もう、時は来てる」
しかし、その瞬間、ホログラムのグラフが……突然、跳ね上がった。
「……ッ!?」
Kが反応するよりも早く、拠点の通信機が突然鳴り響く。
アルカナが素早く操作し、映し出された映像に目を見開いた。
「嘘……?」
アルカナの指が画面を叩くように操作する。
市場グラフが狂ったように跳ね上がり、
各地の投資家たちが錯乱している様子が映し出された。
「市場が……崩れ始めました。
この変動――制御できません」
Kが画面を凝視する。
魔王たちの銘柄が、乱高下を繰り返す。
そして魔王株は、何かに吸い寄せられるように……次々と買われていった。
『大規模買収』の警告が、赤く点滅し続けていた。
街のカフェでニュース画面を見ていた投資家が、震える手でカップを落とした。
地下バンカーでは、魔王派の代理人が通信に叫んでいる。
ホログラムが赤く染まる。市場の各銘柄が、まるで悲鳴を上げるように跳ねていた。
数値ではなく、“恐怖”そのものが可視化されたような異常グラフ。
Kは目を細め、低く呟いた。
「これは……買いではない。“支配の再定義”だ」
アルカナが息を呑み、小さく呟いた。
「……つまり、ゼグラントは“恐怖の拡大”を逆手に取って、Kの作戦を読んでいたのね」
「魔王株を一気に買い戻すことで、Kの“影の連鎖”に楔を打ったってわけだ」
Kの口元がわずかに歪んだ。
その歪みは、どちらともつかなかった。
「……なるほど、やられたな」
Kは口元を引きつらせた。皮肉とも、悔しさともつかぬ声音だった。
ホログラムのデータが、狂ったように揺れていた。
Kは、じっと見つめたまま……わずかに、眉をひそめる。
「……ゼグラントの反撃か」
Kは、重たく椅子に腰を下ろす。
机を叩いていた指は……不規則に、止まった。
(沈黙)
Kは目を閉じた。
思考を整理しようとした――だが、その瞬間。
胸の奥に、妙な違和感が走った。
先ほどの市場データ。
ゼグラント派の逆襲。
Kは、わずかに目を伏せた。
恐怖は、すでに手を離れた――だが、それでも消える気配はなかった。
「もう俺は、“戻る”ことも、“託す”こともできないんだな……」
その思いが、心の底で静かに響いた。
選択肢は、とうに断ち切ってきた。残されたのは、進むという一点のみ。
迷う時間は終わった――それが、Kの答えだった。
だからこそ、立ち止まっている暇などなかった。
考えるより早く、Kの体が、立ち上がっていた。
エリシアが目を細める。
「……どうしたの?」
Kは、何も答えなかった。
その目に、迷いはなかった。
風の声が止んだ。
草木の囁きが聞こえる。
月が……笑った。
ただ、一言。
「……決めた」
Kの声は、静かだった。
だがその言葉が放たれた瞬間、空気の密度が変わった。
感情を燃やすのではない。
理性を冷たく研ぎ澄ませ、心を締め直すような感覚――。
覚悟は、熱ではなく“冷たさ”として胸に宿った。
Kの視線がゆっくりと前を向く。
迷いは、もうなかった。
その背を見つめながら、エリシアはふっと口元を歪めた。
どこか挑発的な、いつもの笑み。
「やっと……あなたらしくなったわね。そんなふうに、すべてを背負う顔……久しぶりに見た」
「恐怖はKの武器だった。でもゼグラントはそれを“通貨”に変えた。
彼は恐怖で市場を脅かすのではなく、恐怖ごと売買してきたのよ――その違い、分かる?」
彼女の声は低く、どこか寂しげだった。
けれどその瞳の奥には、誰よりもKを知る者の静かな信頼が宿っていた。
【次回予告 by エリシア】
「市場が崩れる音って……聞いたことある?
私はあるわ。誰よりも近くで、あの音を――Kと共に、何度も聞いてきた」
「ゼグラントが“支配”を語るなら、私たちは“淘汰”を始めるだけ。
古い秩序は崩れ、影が律する時代が来る。それが、Kの望み……でしょう?」
「でもK、あなたはまだ迷っている。
“破壊”と“再生”、どちらが本当にあなたの意志なのか……まだ決め切れていない」
「……ふふ、大丈夫よ。私はそのどちらも愛してる。
あなたが選んだ未来を、私はすべて支配してみせる」
「次回、《影の秩序》。
混沌の果てに見えるのは、“恐怖”か、“希望”か――。
でもね、K……あなたが笑うなら、どちらでもいいのよ」




