#8−2:信用の死――情報操作で魔王を殺す方法
✦✦✦ 《闇に沈む支配者》 ✦✦✦
ロズマールの拠点は、魔王市場の中心部にあった。
結界と警護に守られたその拠点は、一見、侵す隙などなかった。
ところが、影鬼の手口は「防ぐ」ことのできる範疇にはない。
標的を殺すのは、剣でも毒でもない。“市場を操る情報”こそが、影鬼の刃だった。
市場の片隅で囁かれた噂が、瞬く間に市場全体を駆け抜けた。
市場は、誰にも気づかれないまま、静かに……でも確かに、どこかが腐り始めていた。
売買記録に影を落とし、流れた数字を少しだけ歪めた。それだけで、市場は静かに病み始めた。
それだけで、市場はパニックに陥る。誰も気づかないほど静かに、だ。
影鬼の仕事は一撃必殺ではない。
数値の“重み”を知り尽くした者の手による、静かな毒殺だった。
ロズマールの商会が保有する資源量を意図的に誤表示し、
まるで在庫が枯渇しているかのように見せかけた。
最初に狙われたのは、投資家たちの不安だった。
匿名の市場分析報告書を流布し、「ロズマールの財務が危険」と示唆する情報を広めた。
投資家と商人の間で、「資金繰りの悪化」や「債務不履行」の噂が広がった。影鬼の仕掛けた数字は、静かに信用を侵した。
信用なんて、息を吸っただけで砕けそうな、霧のような硝子細工だった。
ロズマールの背後で、ささやかな声が広がる。
「あそこはもう終わりだ」――確証もない噂が、確信へと変わる瞬間だった。
市場の隅で、ゼグラント派の資産だけが、不自然に跳ね上がった。
グラフの一本線が跳ね上がるだけで、投資家たちは雪崩のように資金を移した。
ロズマールはふと窓の外に視線を向けた。
資料の端に、陽が透けていた。
紅茶は冷めていて、口には合わなかったが――それが、最後に感じた“現実”だった。
ロズマールの額に、じわじわと汗が滲み出した。
「何かがおかしい」――そう思っても、動く金の流れには逆らえない。
さらに、影鬼たちは、取引記録そのものに影響を与えた。
ロズマールの商会が支払った金額を実際より少なく見せかけ、
『踏み倒された』という疑念を取引相手に植え付けた。
また、ロズマールが行った大口契約の一部を『無効』として処理し、
信用の失墜を加速させた。
投資家たちは次々とロズマールから手を引き、売りが売りを呼び、
資産価値は一気に急落した。
商人たちは疑念を抱き、結果的に彼の市場価値は崩壊した。
そして、最後の一手として、ロズマールの信用を完全に崩壊させた。
彼の名義で「市場崩壊の危機」を示唆する偽の声明を発表し、混乱を引き起こした。
さらに、財務報告書を書き換え、「ロズマールの資産はすでに危機的状況だ」と見せつけた。
そして、彼の支援者たちに偽の密告を送り、「ロズマールはすでに撤退を考えている」と信じ込ませた。
市場の信用は完全に崩れ去った。
「投資家たちが資本を引き始めています!」
「ロズマール様、このままでは市場価値が崩壊します!」
その中には、かつてロズマールに支援され、商人として独り立ちできた者もいた。
だが、資本は恩義を秤にかけてはくれない。
背後で、低く湿ったざわめきが広がり始めた。
誰の声かもわからない、絶望に満ちた囁き。
「売れ、今すぐだ……」「もう間に合わない……!」
数字の波が、現実の空気を切り裂いていく。
ロズマールは額の汗を拭いながら、背中をつたう寒気に息を詰まらせた。
犯人も、手口も――何一つ、掴めない。
だが、これは“人間の仕業”ではないと、直感していた。
これは……呪いの仕業か?
彼の喉の奥で渦巻いていたのは、怒りじゃない。
ただ、理解すらできない“不気味さ”だった。
報告を受けたロズマールは、顔面蒼白になった。
必死に市場を安定させようとするが、影鬼はすでに情報の流れを制御していた。
「違う……違う、こんなはずじゃ……!」
ロズマールは喉の痛みを覚えながら、浅く呻いた。
思考が途切れた——いや、砕けたのだ。
……こんな速度、あり得ない。
市場の法則を逸脱している。Kの手口か?
ロズマールは、冷えきった額に汗を滲ませた。
言葉にならない呻きが、歯の裏から漏れた。
ロズマールは、喉を焼くような息を何度も吐き出した。
その口内に、言葉を潜めたまま沈黙する“影”が潜んでいた。
微細な闇は、舌の裏を這った。
氷片のような冷たさが、粘膜を破りながら、喉奥へと侵食してくる。
喉の裏側を、何かが這いまわっている――そんな、耐えがたい感覚。
息が止まり、喉がふさがれた。声帯は凍りついたように沈黙を貫いていた。
ひとしずくの冷たい汗が、額を滑り落ちた。
次の瞬間、言葉すら奪うように――影が刃と化し、心臓を貫いた。
ズブリ……!
瞬間――空間の叫び声と机が笑った……。
「……ぐっ……!」
ロズマールの体が硬直し、机に突っ伏す。
喉元には傷一つない。
しかし、内部から心臓が貫かれていた。
彼の瞳は、恐怖と理解不能のまま、動かなくなる。
微小な影鬼は、ロズマールの体内から液体のように溶け出し、
足元の影へと吸い込まれるように消えた。
外傷は、どこにもなかった。即死だった。
市場は――またしても「偶然の死」として処理するだろう。
……本当に、あれ――影鬼の仕業だと、誰も気づかなかったのか。
影が消えた後、空気は、ひときわ重たく冷えた。
✦✦✦《市場に広がる恐怖 》✦✦✦
ロズマールの死は、公式には「市場変動による心臓発作」 とされた。
だが、ゼグラント派の魔王たちは知っていた。
これはただの偶然ではない。
「……バルゴンに続いて、ロズマールまで……」
「市場の動きが不自然すぎる……」
「誰かが意図的に市場を操作している!」
さらに、不気味な噂が広がり始める。
「……遺体に、外傷がないらしい」
先週、ロズマールの魔素は安定していた。体内を巡る魔力の流れ――それが異常なしと診断されていたのだ。
それが数日で心臓発作など、あり得るはずがない。
「それが数日で心臓発作? そんな魔法医がいるなら、俺の寿命も読んでほしいね……」
「……影鬼だ。あれに潜られたら……もう、終わりだ……!」
だが、誰一人として“確証”を持っていたわけではない。
目撃者も証拠もなく、ただ恐怖と噂だけが先に広がっていった。
「ロズマールが沈んだ」と聞いたとき、
市場の片隅で野菜を売っていた若い商人は、背筋を凍らせた。
彼は、昔ロズマールから「始めたばかりの商売なら」と、棚代をまけてもらったことがある。
恩人の死は、数字よりずっと冷たかった。
心への衝撃が大きく、手にしていた大根を落としかけ、あわてて両手でキャッチする。
「……こりゃ、大根どころの騒ぎじゃねぇな……」とつぶやき、隣の屋台の婆さんに白い目で見られた。
信用と数字――それが市場のすべてのはずだった。
だが最近、誰ともなく囁かれていた言葉が頭をよぎる。
「……影に潜まれたら、終わりだ」
……影鬼の仕業かなんて、誰にも分かるはずがなかった。
けれど、“何か”が這い寄ってきている――そんな気がしてならなかった。
市場の不安定化は止まらない。
影鬼の存在は、まだ確定されていないものの、
魔王たちの間では恐怖の象徴になりつつあった。
「……どこに潜んでいるかも分からない」
「奴らは“影”の中にいる……!」
市場の隅々に、じわじわと疑念が染み込み、やがて誰ともなく低いうめき声が漏れ始めた。
✦✦✦《ゼグラントの焦り》 ✦✦✦
魔王取引所の最上階。
ゼグラントは最上階のバルコニーから、市場の混乱を見下ろしていた。
K……貴様は、ただの反逆者ではない。
秩序を内側から喰い破る“異物”だ。
ゼグラントは、無数の数字が流れる画面を、じっと睨みつけた。
そこに流れる異常な動きの中に、Kの“息遣い”を感じ取っていた。
それは、合理でも策略でもなく、理すら逸脱する――“存在の歪み”だ。
バルゴンの死で、市場は揺れた。
ロズマールの死で、情報の秩序は崩壊した。
それは偶然か?
否。
「……やはり、Kか。市場の崩壊速度が、常軌を逸している」
ゼグラントは静かに息を吐いた。
K……もはや、敵と呼ぶのも無意味か。
あれは“破壊の意思”ですらない。
ただ秩序を食む、存在の歪み……それが、Kという男。
側近たちが焦った様子で報告を続ける。
「……報告いたします。異常反応、五箇所。すべて市場内部にて発生中です」
「ロズマールが発作? ふん、次は誰が“神の気まぐれ”に殺される番なんだか……」
「……ま、信じた奴らから順に逃げ出してますよ。市場なんて、砂の城でしたねぇ」
ゼグラントは手を組み、目を細めた。
「Kの狙いは……市場のルールそのものを破壊することか」
だが、焦りの奥で、名状しがたい寒気が背筋を撫でた。
本当にそれだけか? 何か、見落としてはいないか……?
一瞬の沈黙の後、彼は立ち上がる。
「……ならば、次は……こちらが仕掛ける番だ」
静寂が、刃物のように広がった。
気づけば、震えていたのは自分の声だった。
「……影が動いた? ならば、焼き尽くしてやる。光の届く場所など残さずにな」
部屋の空気が、刃のように細く、重くなった。
市場を支配する者の眼光が、ゆっくりと鋭さを増していく。
――その頃、Kは。
市場内のモニターでロズマールの下落を眺めていた。
「生きるための唯一の方法か? ――殺されないことだ」
そういい、Kは踵を返した。
それが真理のように口をついて出た。だが、どこかで自分でも“なぜそう思ったのか”を思い出せないままだった。
ロズマールの名が消えた瞬間、画面には静かな閑散が映るだけだった。
Kは、それすら確認せず、まるで“終わりの空白”を見届けるかのように立ち去った。
【次回予告:記録ログ断片《残留人格ロズマール》】
「――なぜ、俺の信用が、一夜で瓦解した?」
「取引は正常だった。財務も、安全だった。
だが……ある日、魔法円の数値が狂い始めた。
資本の流れが乱れ、信頼が、溶けていった。俺の名と共に」
「次回、《影に潜む数値》。“経済殺し”は静かに牙を剥く。
……K。お前は数字を操ったのではない。俺の価値そのものを、殺したんだな」
「……これは敗北ではない。これは、解体だ。
そう思い知った時には、すでに“声すら持たない”俺がいた」
「――Kよ。貴様の支配は、静かすぎる。だからこそ……恐ろしい」




