#8−1:黒の序章
✦✦✦ 《覆い尽くす影》 ✦✦✦
闇に沈む旧王城の中央。そこに、ただひとり、Kが立っていた。
音も、光も、すべてが後退した世界の“中心”に――。
空気が震えた。
Kは、浅く息を吸った。目を閉じる。
……冷たい。静かすぎる。
空気が、何かを告げるように肌を撫でた。
黒い霧が床を這い、音が静かに消えた。
「市場を――覆え」
声が落ちる。次の瞬間、空気がひときわ深く震えた。
命令と同時に、Kの胸に微かな痛みが走る。
Kは、支配と被支配の違いが、思った以上に冷たく胸に貼りつく感覚に気づいていた。
影鬼たちは、Kの命令を合図に、無音で動き出した。
それはKの虚無の力から影を通じて生まれた存在であり、
戦闘と情報収集、軍勢の運用を担う、影の化身たちだった。
それは、ただの「影」ではない。
意志を宿した細い獣のように、黒い筋が市場の隙間へと這い込んでいった。
市場の奥深く、鼓動のような響きがひとつ、静かに鳴った。
屋敷の廊下を這い進んだ。
影鬼は、“契約管理局”――魔王たちの盟約や投資が記録される、金融の心臓部。その奥深く、影鬼が忍び込む。
さらに魔王たちの出資金が眠る、鉄壁の保管庫をすり抜ける。
鈍く濁った呼吸が、どこかで震えた。
市場が、重々しく息を吸い込んだ。
冷気が金属をかすかに震わせる。
市場全体が、黒い血管に包まれた心臓のように脈打った。
――どくん。ひとつ、重たい鼓動が響く。だった。
「……これが……あなたの影鬼……真に、影の王に相応しい……」
エリシアは、息を呑んだ。
あの王たちの狂気――その無惨な末路を、ふと脳裏によぎらせながら。
セリアは、Kを“管理すべき存在”として見ていた。
だが、内心ではその制御不能さに惹かれている自分を、否定しきれなかった。
あたしの方がKを支配してる。――そう信じていたかった。
でも、本当はもうとっくに、目を逸らせないほど惹かれていた。
セリアは、口元を歪め、ゆっくりと笑った。
怖い。だけど、たまらなく胸が高鳴る。
――これが、見たかった。
「……理屈で追いつける世界なら、面白くない。K、あなたはずっと、面白い男だと思ってた」
市場の中心――魔王取引所の拠点。
ゼグラントの配下たちが、異変に気づき始めた。
「……影鬼の動きが、おかしい!」
「行き先は?」
「市場全域に拡散中――魔王の拠点、投資家の居城、魔王間に交わされた「黒契」の記録庫――堅牢にして冷たい意志の砦。……裏取引ルートにまで!」
報告を受けたゼグラントの側近たちは、
顔ににじむ汗さえ拭えず、ただ震えていた。
「市場全体が……もう、包囲されて……いる……?」
そして――Kが静かに目を開いた。
闇の底、その奥に――微かに、黄金の光が生まれる。目だとは、誰もすぐには気づけなかった。
「表ではなく……裏だ」
Kは知っていた。市場の本質は“表”ではない――。
背後に隠された“心臓”――そこを、自らの影で喰らい尽くす。それが彼の答えだった。
闇に沈んだ市場は、ゆっくりと、浅く呼吸していた。
だがその息は、影に侵され、少しずつ濁っていく。
――静かだった。
それなのに、空気は、きしむような音を立てた。
その一言が、夜の静寂を断ち切った。
Kの言葉に、誰も声を返さなかった。
だが空気が震え、影鬼たちの影がわずかに蠢いた。
恐怖と期待――そのどちらでもない、もっと深い“服従”の気配が漂っていた。
そのとき、Kの視界には、かつての瓦礫が焼きついていた。
✦✦✦《恐怖による支配》 ✦✦✦
――数時間前。Kは、瓦礫の山の上に立っていた。
かつての拠点――ゼグラントの策略により信用が暴落し、崩壊した象徴。
魔王市場では、情けなど通じなかった。
「評価を失えば、生きていても死んだも同然だ」
Kは静かに拳を握った。未来を――ゼグラントに食い破られた。
彼を支えていた投資家たちの裏切り、嘲笑。
それらすべてが、彼の復讐心を燃え上がらせた。
Kは瓦礫を見下ろした。
市場がすべてを奪うなら、自分はその全体を塗り潰すしかない。
……それが、Kの“創造”だった。
泣け! 喚け! 叫べ! そして最後に沈め!
二度と死体を浮かばせるな。
Kは、略奪者にこそ創造の恐怖を味わわせるべきだと考えていた。
死の叫び――それが彼の報酬となる。
影鬼たちが、Kの命を待っていた。
彼らはもはや単なる兵器ではない。
Kの意志の具現化そのものだった。
「お前たちは、戦うための軍隊ではない」
「市場の骨組みごと、切り裂く刃になれ」
影鬼たちは、一つの生命体のように、わずかに影を震わせ、静かに頷いた。
Kは静かに宣言した。
Kは宣言する。
「恐怖こそが、市場を動かす新たな通貨だ。信頼では動かない」
影鬼たちは静かに頷いた。その命に従い、市場の奥へと沈み込んでいく。
セリアが片手を腰に当て、肩をすくめる。
「ふふっ、怖いってやつはね……理屈じゃ止められないのよ。体が勝手に言うこと聞くの。
K、あんたの影鬼、とうとう市場の奥まで届いちゃったんだ」
……まあ、Kが何を考えてるかなんて、あんまり知りたくないけどね。怖すぎて、投資失敗しそうだし。
Kは微かに視線を上げた。
その目には、冷徹な計算と燃え上がる執念が同居していた。
その視線がセリアとエリシアに向けられた瞬間、二人の背筋がわずかに震えた。
言葉はなくとも、支配の意志は確かに届いていた。
恐怖……それは、支配の形を変える鍵。
Kは一瞬、記憶の底に残る“信じる”感覚を思い出しかけた。
だが、その思考を即座に押し潰した。
静かに目を細めた。
恐怖――それが、今この市場を動かす唯一の力だった。
影鬼たちに命じた。
「魔王たちを、ひとりずつ消せ」
「偶然に見せかけろ」
……もう、誰も許せない。
「だが――誤魔化すな。これは“裁き”だ」
影鬼たちは無音で頷き、闇へと溶けていった。
✦✦✦《闇に沈む支配者》 ✦✦✦
ゼグラント派の魔王・バルゴン。
市場の支配層に位置し、投資家たちの絶対的な信頼を集める男。
Kの市場価値がゼロにされたとき、彼は高らかに嘲笑した。
「Kは終焉を迎えた。影鬼の時代も、私の計算どおり、ここで幕を引く」
だが、彼は知らなかった。
その自信が、最初に断罪される理由となることを。
バルゴンは寝室に籠もり、契約書の束に目を走らせていた。
ペンをつまんだ指が、力を緩めていた。余裕の笑みが漏れる。
「Kの市場価値が消えた……。当然の摂理だ」
しかし、その余裕はすぐに凍りついた。
隙間風が忍び込み、ロウソクの炎を怯えさせた。
書類の間から、黒い影が滲み出る。
黒い霧は静かに這い、やがて不定形な影になった。
「……っ?」
バルゴンは息を呑んだ。
彼の耳元で、氷の破片のような声が砕けた。
「……終わりだ」
バルゴンは反射的に立ち上がろうとした――が、すでに遅かった。
喉元に、氷のような感触が忍び込んだ。
喉奥を冷たく満たす何かが、気道を押し潰した。
呼吸が、途切れる。
心臓を走る電流が、ふっと断ち切られた。
次の瞬間、胸の奥で脈打つものが痙攣し、引きつけるように一度、跳ねた――。
そして、心臓の止まる音が聞こえ、沈黙した。
喉に侵入した影が、肺を潰し、心臓を締め上げる――。
ただ、音もなく。
恐怖だけが、壁にも床にも染みついていた。
まるで、自分の意識だけが後に取り残され、
体の奥から死が這い上がってくるようだった。
次の瞬間、胸の奥で、何かが“掴まれる”ような感覚。
足掻きもがく心臓は、狂ったように鼓動を刻み――そして、止まった。
市場取引の失敗による衰弱死――それが、公式発表となった。
✦✦✦ 《恐怖が価値を決める世界へ》 ✦✦✦
「市場取引のミスが原因……?」
誰も声を上げなかった。ただ、市場の空気だけが、わずかに軋み、恐怖が口を開いた。
投資家たちの間に、無言の疑いが膨らんだ。
「バルゴンの死は本当に事故なのか?」
「いや……市場操作による暗殺では?」
ゼグラント派の魔王たちも、その沈黙の中で震えていた。
「これは……偶然か?」
「それとも、何かが動き始めている……?」
Kは、エリシアとセリアを見下ろして、口元だけで笑った。
その笑みが誰にも届かないはずの空間で、ひとつの視線が、それを確かに“視て”いた。
すず――この世界を観測する役目を負った少女は、ひっそりと気配を消し、会議室のテーブルに腰を下ろしていた。
誰にも見られない。そう信じていたからこそ、少し気が緩んでいたのかもしれない。
ふと、Kの視線が動いた。
まっすぐに――こちらを向いているような錯覚。
息が止まる。心臓が跳ね、全身がこわばった。
……え? 見えるはずがないのに?
Kの目は、何かを見透かしているかのようだった。
射抜かれたような感覚が、胸の奥に残る。
羞恥とも、緊張ともつかない感情が込み上げる。
“支配”とは、視線ではなく、意志で伝わるのかもしれない。
そう思った瞬間、すずはただ静かに瞬きをした。
自分でも理由はわからなかった。ただ、動けなかった。
それは傷じゃない。印だった。……もう、消せない。
――視線ひとつで、刻まれてしまった。忘れられるはずがない。
✦✦✦《暗殺の余韻と対面》 ✦✦✦
バルゴンの死は、静かに、だが確実に市場を濁らせた。
その余波の中で、一人の魔王が、静かに歩み出た。
ロズマール――魔王間の取引と出資を仲介する商会を束ねる、ゼグラント派の経済支配者。
かつてKの市場評価を真っ先に「ゼロ」と断じ、最初に“売り”を仕掛けた男。
彼の動きは連鎖を呼び、他の投資家たちも雪崩のように手を引いた。
――それが、Kの市場追放の引き金となった。
その男が今、Kの前に立つ。
腹に豊かさを湛えた体格。厚みのあるローブの奥で指輪が重く揺れる。
だが、その目だけは、帳簿の中のズレすら逃さぬ冷徹な光を宿していた。
「K……まさか、お前が本当に動くとはな。
影鬼で殺すなど、もはや市場に交渉の余地すら残さないつもりか?」
椅子に座るでもなく、ロズマールは堂々と立ったまま語った。
声は落ち着いていたが、足先がわずかに床を軋ませる。
その音を、Kは確かに聞いた。
Kは一歩、彼に近づいた。ゆっくりと、静かに。
「……お前、震えてるのに、よく喋るな」
その言葉に、場の空気が凍った。
皮肉でも怒りでもなかった。ただの“観察”だった。
ロズマールの目が見開かれ、唇が引きつる。
何かを返そうと口を開きかけたが、結局――言葉は出なかった。
Kは、その沈黙を見下ろしながら、静かに続けた。
「市場はもう、“信頼”なんかじゃ動かない」
Kは一歩踏み出す。
「信頼は選ばれる。だが、恐怖は刻まれる。――通貨にふさわしいのは、どちらだ?」
ロズマールは何も言えず、その場に立ち尽くしていた。
影鬼の気配が空間を染めていく中、彼の背にはじっとりと汗がにじんでいた。
影鬼たちは、静かに、しかし確実に、次なる標的へと忍び寄っていく。
まだ、市場は知らなかった。
――恐怖はすでに、市場の奥で、静かに息をしていた。
通貨の顔をした“死”が、価値を揺らがせる。
その夜、市場は静かに――だが確かに震えた。
Kは、ただ一度だけ、肩を落とした。
【次回予告 by すず】
「……だって、Kの影が動いたら、市場なんて壊れるに決まってるじゃない」
「次回《信用の死》――『たった一文字で、全部が崩れる』
数字も信用も、情報も……Kの“声”ひとつで、世界が動いたの。
……ううん、ちがう。動いたんじゃない、跪いたの。 みんな、彼に……」
「わたし、知ってるの。Kはね、たった一言で、わたしの心臓だって止められる。
笑って、怒って、黙ってても……全部、刺さるの。……痛いの。
でも、痛いのが、うれしいの。だから――」
「“ビジネスパートナー”って言ったのに……
また顔見たら泣きそうになるんだけど……どうして?
……ねぇ、K。どうして、わたしを壊すの、こんなに優しく?」




