#6−3:裏切りの城
✦✦✦ 《崩れる支配》 ✦✦✦
夜空に散らばる光は、墓標のように、Kの城を冷たく見下ろしていた。
Kが築き上げた城は、今や、ただ冷たく見下ろされるだけの存在だった。
尖塔は闇に溶け、輪郭は、もはや影と区別がつかなかった。
風が石壁をなぞるたび、瓦礫が、かすかに鳴った。
その音が、胸の奥の痛みを呼び覚ました。
崩れかけた壁面には、かつてKの紋章が、風に剥がれ落ちそうに残っていた。
折れた王冠。
その頂には、絡みつく鎖が、まるで王冠そのものを縛り、引きずり落とそうとしていた。
つい先日までは、そんな意匠すら、当然のものとして掲げられていた。
誇りでも、警告でもない。
知略がすべてだった――誰も、それに疑問を抱かなかった。
……以前は、目にも止めなかった。
紋章も、城も、市場戦の結果にすぎなかった。
だが今――。
剥がれかけたその印が、やけに痛ましく映った。
目の前を漂う影鬼たちは、かつてKの意志そのものだった。
今でこそ霧のようだが、かつてはKの指先一つで城を制圧する“兵器”だった。
いまや、彼らは実体を持たず、霧と見まごうほどに彷徨っていた。
まとまりなどなく、ただ風に煽られる煙のように揺れていた。
彼らはKの存在を認識しているのか、それとももう――忘れてしまったのか。
Kには、確かめる気力も、方法も、もう残っていなかった。
「……これが、俺の“力”の成れの果てか……」
かすれた声が、問いかけにもならず、ただ漏れた。
冷たい風が黒いマントを舞い上げる。
そのとき、胸の奥で、何かが静かに砕けた。
目の前の影鬼たちは、もはや力の象徴ではなかった。崩れた残骸にしか見えない。
Kは無意識に、自分の手を見つめた。
あの手が、すべてを築いたのだ。支配すら。
しかし、今はただ冷たさだけが残っている。
風の感触だけが、いやに鮮明だった。
「何が起きている?」
Kの声は静かで掠れていた。夜の闇に溶け、誰にも届かない。
その問いに応える影鬼は一体もいなかった。
かつてなら、この一言で全てが動き出していたはずだ。
今では、Kがそこに立っていることにすら、誰も気づかないかのようだった。
その時、足元の影鬼の一体がわずかに震えた。
かすかな音がした。
訴えるような、かすかな音。
けれど、Kには――その意味が、どうしても、つかめなかった。
……もう、俺の力は届かないのか。
その実感が、静かに胸の底に沈んだ。
吐き出した言葉は、夜風に紛れ、闇に飲まれていった。
その言葉に応えるものは、何もなかった。
軍議の間には、異様なまでの静けさが沈んでいた。
壁の燭台が揺れ、幹部たちの影を、脈打つように歪めていた。
かつてここでは、Kの一声で忠誠が跳ね、命令が刃のように飛び交った。
だが今や、忠誠のかけらすら、風にさらわれたかのようだった。
Kは幹部たちを見渡したが、誰一人として視線を合わせようとしなかった。
全員が俯き、何かに怯えているようにも見えた。
幹部たちの影は、床に縋りつくように、かすかに震えていた。
その光景に、胸の底で不安がじくじくと滲みはじめた。
「……何の話だ」
Kの声は冷たく響いた。
だが、それでも幹部たちはすぐには答えなかった。
沈黙を切り裂くように、一人の幹部が、重い足を引きずって前へ出た。
その歩みには、決意と後悔が入り交じり、影は頼りなく揺れていた。
「……K様。もう、私たちでは……支えきれませんでした」
その一言に、場の空気がさらに沈んだ。
「……ふざけるな。何を……言ってる」
Kの声は低く抑えられていたが、そこには苛立ちが滲んでいた。
幹部はなおも顔を伏せたまま続けた。
「K様……市場――この合理だけが支配する世界では、“異端”は排除される運命です。
私たちも……生きるには、“選ばざるを得なかった”のです」
それは冷たさではない。Kが刻み込んだ、“合理”だった。
けれど同時に、迷いも確かにあった。
「K様……私たちは……生き残るために……」
Kにすがっていた者たちも、戸惑いを隠しきれずに揺れていた。
「影鬼はもう、以前のようには動かない……K様、どうすれば……?」
言葉が途切れ、沈黙だけが、Kの胸をじわりと押し潰していった。
「……市場が……俺を……?」
Kは言葉を失い、拳を握りしめた。
震える拳が、無意識に壁を叩いた。
Kの内側で、呪詛のような言葉が浮かんだ――生ゴミどもめ。
鈍い音がしたが、誰も顔を上げなかった。
胸の奥に広がるのは、怒りでも、悲しみでもない。ただ、拭いきれない虚しさだった。
部屋の隅に設置された魔導スクリーンが、赤い警告を放ちながら脈打っている。
その画面には、Kの市場価値が急落する様子が映し出されていた。
冷たい数値が、Kという存在そのものを否定していた。
「Kの市場価値、大暴落!」
「影鬼市場、信頼度の崩壊――市場消滅の危機!」
その無情な数字は、K自身の存在を否定しているかのようだった。
幹部たちは沈黙し、ただその画面を見つめている。
誰も何も言葉を発しなかった。その影が揺れ、床に不規則な模様を描いていた。
「K様が……終わるのか……?」
「市場が消えたら……俺たちは……?」
囁き声がKの耳に届く。それらの声が、彼の胸に新たなひびを刻んでいく。
✦✦✦ 《離反と孤独》 ✦✦✦
幹部たちはKに深々と頭を下げた。それは、謝罪と決別の儀式だった。
しかし、誰一人としてすぐには動かなかった。重い沈黙が続く。
やがて、一人の幹部が微かに肩を震わせながら、無言で部屋を出た。
他の者たちも、Kの視線を避けるように足早に去っていく。
だが、最後の一人は戸口で足を止め、何かを言いかけた――だが、結局、何も言わずに闇へ消えた。
「お前たちもか……」
Kの声が掠れ、虚無感を伴って響いた。
「“数字”か……。俺のすべてより、そっちを選ぶのか……」
だが、彼らは何も答えず、その背中が遠ざかるたびに、Kの胸の中で何かが崩れていった。
軍議の間に残ったのは、Kただ一人だった。
冷えきった静けさが、じわじわと彼を押し潰していく。
「……俺は……何も持っていなかったのか」
その声は、夜の中に消えていった。
そして――その瞬間だった。
黒く沈んだ床の影が、わずかに波打った。
Kの背後に、音もなく、一つの影が膝をついて現れる。
「ようやく……この姿で、K様の前に立てました」
それは祈りとも告白ともつかない、静かな感情の滲む声だった。
静かに、だが異様な熱を孕んだ声。
その声主は、影に仕える忠臣――カゲコ。
だがその眼差しには、かつての従順さとは別のものが宿っていた。
「……でも私たちは、神の道具。神が沈黙しても、それが……祝福であるべきなら」
囁くように言いながら、その唇は歪んだ笑みを刻む。
Kは声も発せず、ただ振り向いた。
だが、カゲコはすでに彼の意志を待たぬように、言葉を続けた。
「証明できないのなら……私が、その神性を“証明させて”さしあげます」
「神であることを、K様自身の血と業で……世界に刻ませてみせましょう」
その目は狂気ではなく、確信に満ちていた。
歪んだ忠義――それが、信仰の仮面を被った破壊衝動に変質した瞬間だった。
Kが言葉を返すよりも早く、カゲコの影はふわりと舞い、床の影に吸い込まれるように消えていった。
そこに残ったのは、「信仰のための反逆」という、矛盾に満ちた余韻だった。
Kはただその場に立ち尽くし、今や自分が何を信じ、何を導いてきたのかを見失いかけていた。
「策を巡らせれば勝てる。ずっと、そう信じていた……
だが“市場”は、理屈すら通じない……のか……?」
その時、静かな声が背後から響いた。
「K、あなたはまだ市場を理解していない」
Kは振り返り、セリアを睨んだ。
「……何が言いたい?」
セリアは冷静に彼を見つめ、静かに言った。
「市場では、支持を得られない者は生き残れない。それが現実よ」
✦✦✦ 《奪う者として蘇る》 ✦✦✦
長い沈黙の果てに、Kは、静かに顔を上げた。
「――なら、俺が価値を定義する側になる」
その声に、微かながらも、かつての力が戻っていた。
影の魔王K――目を覚ます。
影の魔王K――すべてを失ったこの地で、ふたたび歩き始める。
今度は、市場の法則すら、塗り替えるために。
闇の底から、わずかに灯る火――それは、まだ誰にも測れぬ“新たな市場”の気配だった。
【次回予告 by セリア】
「――背を向けられるのって、痛いわよね。しかもそれが、自分の“影”だったら……もっと、痛い」
「次回《背を向けた影》、『支配が剥がれる音、聞こえる?』
信じられなかったんじゃないの。Kが、“信じさせられなかった”だけ――市場って、そういうとこ」
「セリアの小言? 言っとくわね。
支配するって、命令を聞かせることじゃないのよ。“一緒に沈む覚悟”を信じさせられるかどうか――それが、“王”の条件でしょ?」




