#5−6:数字は剣を超える
✦✦✦ 《鉄壁の魔王》 ✦✦✦
魔王候補カストールの要塞は、白い高壁を掲げていた。
ただそれを見上げるだけで、胸の奥が、鷲掴みにされるようだった。
……重い。
城壁は、動かぬ山脈のように重たく横たわり、
鋼鉄の門は、ただそこに在るだけで、すべての攻撃を跳ね返しているかのようだった。
要塞の周囲を兵士たちが巡回している。
彼らの視線は鋭く、風の音すら聞き逃さない。敵の影を許さぬように。
市場ではカストールの安定感が評価されていた。
「リスクの少ない投資先だ」
「あの防衛陣を破れる魔王はまずいない」
投資家たちの評価は高かった。
だが、Kには見えていた。
その安定の裏に隠れたひび割れのような脆さが。
「安定は、崩れるときこそ容赦がない」
崩れるときは――容赦なんか、してくれない。
彼は冷静な目で要塞を見上げ、唇を薄く引き締めた。
影鬼がKの足元から立ち上がる。
黒い煙がうねり、形を変えた。
まるでKの思考そのものだ。
市場の流れを地図に映し出すように、静かに広がっていく。
「……見えるな」
Kは影鬼の地図に浮かぶ複雑な資金の流れをじっと見つめた。
そこには資金が流入し、補給ラインを支える構造が緻密に絡み合っている。
だが、その一部に微かな滞留が見られた。
それはまるで川の中に落ちた小石が生む渦のようだ。
「……この滞留。資金が、微かに詰まってる」
「……崩壊の始まりは、いつもこうだ」
Kは影鬼が映した市場地図の一点を指し、静かに呟いた。
「どれほど強固な防壁でも、維持に必要な金が止まれば機能しない。
市場の信頼さえ崩せば、“内側から崩れる城”になる」
彼の言葉には迷いがなかった。
影鬼たちはKの命を受け、要塞内部に潜入した。
彼らの動きは無音であり、影と影の間を自在に移動する。
訓練された兵士たちも、彼らの存在を察知することはできない。
影鬼が捉えたのは、兵士たちの疲弊した声だった。
「最近、補給が遅れている……」
「食糧が足りないなんて聞いてないぞ」
影鬼はその情報を持ち帰った。
黒い指先が、静かに地面をなぞる。
そこに浮かび上がったのは、市場の流れと、噂の広がりだった。
「……補給が遅れている」
影鬼の地図が微かに揺れた。
「さて、どう市場が動くか……見ものだな」
Kは冷静にセリアを見やった。
「噂を広める準備はできているな」
セリアは優雅に頷いた。
「もちろん。影市場に流れる情報は、私の手で確実に操作されるわ」
セリアが目を細めた。
「……K、注意して。これ、わざとこちらを踊らせる“逆情報操作”の可能性もあるわ」
Kはわずかに目を細めた。
「……分かってる。だから、俺も一手打った」
彼の背後で、もう一体の影鬼が動いていた。
「先に、“こっちの作戦”をカストール陣営にわざと漏らした」
「警戒されればされるほど、噂は“真実”に見える」
Kは影鬼の地図を指でなぞる。
「補給難の“匂い”だけでいい。崩れるのは――市場自身だ」
Kは地図を指でなぞり、セリアに目を向けた。
「次の一手を頼む」
影鬼の地図に描かれた資金の流れが、徐々に乱れ始める。
Kの計画通り、市場は不安定になりつつあった。
「強固な要塞ほど、維持には莫大な資金が必要だ。投資家はそんなリスクを嫌う」
Kはふと、影鬼が持ち帰った兵士の声を思い出した。
「……俺の仕掛けで、あの兵士たちは飢えるかもしれない」
Kは拳をゆっくりと握りしめた。
「でも……勝たなきゃいけない。この戦いには、それだけの価値がある」
――そして、その価値を守れるのは、自分だけだ。
維持に金がかかれば……投資家ってやつは、そういう重荷がリスクで嫌がるだろうな。
市場速報が次々と影市場を駆け巡った。
『魔王候補カストールの要塞、維持リスクが指摘される』
『影鬼の奇襲戦術、対応不能との声も? 投資家たちに広がる懸念』
『カストールの市場評価、じわりと下落 - 影鬼の噂に投資家はどう動く?』
「……確かに不穏な動きだが、まだ確定的じゃない」
「影鬼側の過剰演出って話も出てる。慎重に見ないと逆張りチャンスを逃すぞ」
「ただ……この下落が本物なら、要塞の信頼性に疑いが出る」
投資家たちの間に、一瞬の静寂が流れた。
✦✦✦《崩れる威光 》 ✦✦✦
影市場の中で、カストールへの投資が急速に冷え込んでいく。
噂に尾ひれがつき、投資家たちは次々と資金を引き上げた。
「カストールは終わりだな」
セリアが冷たく笑みを浮かべた。
「刀じゃなく、数字で落とす。それがこの“市場戦争”の本質よ」
Kは地図を見つめ、わずかに眉をひそめた。
……これで終わるなら、カストールらしくない。
影鬼が地図の上に、新たな流れを描き出す。
それは――カストールが最後の手段として資金をかき集めようとしている動きだった。
Kのまなざしが鋭くなる。
……何かが、動いている。
「動きがある。カストール……仕掛けてくるか」
影市場を騒がせる速報が、Kのもとに届いた。
『カストール陣営、東部連合から緊急資金調達か?』
Kは眉をひそめた。
「……まさか、東の連中まで動くとはな。防衛特需ってわけか」
セリアが肩をすくめる。
「火消しの金ってやつね。でも、どうする?」
Kは唇を苦々しく引き締めた。
「安心しろ。影鬼がその取引ルートをすでに裏で押さえている。金は動かない。動いても、帳簿に痕跡が残るだけだ」
彼は地図の一点を指でなぞる。
「こっちの工作も、すでに“あちら”には伝えてある。焦って資金を注ぎ込めば、かえって市場は“問題があると認識”する」
セリアがにやりと笑った。
「自滅を誘う手筋ね。あんたらしい」
要塞の奥深く、カストールは報告書を握りしめていた。
「なぜだ……なぜ投資家たちが去る……?」
その目には焦りと怒りが混じっていた。
「俺は最強の防衛を築いたはずだ……!」
補給物資が減り、兵士たちの士気が下がっている現実を前に、
カストールの焦燥は募るばかりだった。
「……K……貴様の仕業か」
低く震える声で呟く。
市場が動き出した以上、カストールはそれを止める術を持たなかった。
数日後――。
『速報:魔王カストール、評価急落!』
『補給難・資金枯渇で要塞の崩壊は時間の問題か』
Kはカストールの要塞に影鬼たちと足を踏み入れた。
Kは影鬼の地図を眺めたが、心の奥には針のような違和感が刺さっていた。
カストールは資金だけでは倒れない。
何か別の策を講じているはずだ。警戒は続けるべきだ。
市場はカストールを見限り、すべてを失わせた。
これが市場戦の恐ろしさだ、な。
影鬼の地図には、再び静かな市場の流れが描かれていた。
Kはその流れを見つめながら、静かに言った。
「市場は数字で動くと思われている。
だが実際は、人の“心”だ。冷たくて……脆いものが、動かしている」
Kは要塞の廃墟を見渡しながら言葉を続けた。
「ゼグラントに勝つには、ただの要塞じゃ足りない。
もっと広く、もっと深く――市場そのものを揺るがすしかない」
セリアが横で、ふっと微笑んだ。
「次は――どんな戦略を見せてくれるの?」
「慎重にいくさ」
Kは地図を握りしめ、影鬼に新たな指示を出した。
「狙うのは、ゼグラントの“心臓”だ」
「資金の流れを止めれば……あいつの脚も、止まる」
影鬼が静かに蠢き、新たな市場戦の幕開けを告げた。
【次回予告 by セリア】
「――“見られてる”ってことは、まだ“信じられてない”ってことよ。市場って、そういう場所」
「信用されない影の魔王が、ついに“価値”を問い返す。次回《影、名乗りを上げる》、『数字を裏切る沈黙』。
見上げた石碑の中で、信頼と投資の境界線が滲み始めるわ」
「セリアの小言? そうね……“売らない”って言い張るうちは、誰にも“買わせられない”のよ。K、覚悟ってのは、最初に手放すものなのよ」




