#5−4:リスクと名を持つ者
✦✦✦ 《壊れた支配》 ✦✦✦
闇が揺らいだ。
影鬼の輪郭が溶け、空間には痛いほどの沈黙が沈み込んだ。
Kは目を細めた。
影鬼の体は、触れたら砕ける冬の薄氷みたいに脆く見えた。
手を伸ばすだけで、形が崩れそうだった。
まるで、自分自身すら留めておけないみたいだった。
——次の瞬間。
影は砕け、黒い霧だけが残った。
Kは動けなかった。
何が起きたのか。
なぜ影鬼は止まり、消えたのか。
沈黙が、耳の奥を刺した。
冷たい汗が指先を伝う。
ゆっくりと立ち上がるK。
違和感は、空気より濃かった。
……違う。こんな壊れ方、暴走とは呼べない。
市場ではざわめきが広がっていた。
静寂に包まれた広間の中で、視線はKに集中している。
影鬼ではなく、K自身に向けられた注目。
投資家たちの目に映るのは、「異常」。
まるでK自身が、「制御不能な存在」だと見なされ始めていた。
だがその眼には、恐れと、かすかな期待が同居していた。
ゼグラントは影鬼を恐怖の象徴に仕立て上げようとしている。
……それでも、俺は、恐怖を価値に変えるしかない。
恐怖は、使いこなせば“欲望”に変わる。
だが、扱いを誤れば――自分を壊す“毒”になる。
むしろ、それを見せることで市場価値は上がるかもしれない。
だが、胸の奥にわずかな違和感。
ゼグラントの動きが早すぎる……俺が動く前に仕掛けていた?
「……もう市場は揺れてる。俺たちが動く前に、誰かが波紋を投げ込んだ」
セリアが答える。
「混乱は起きてるわ。でも、恐怖の先に利益があると見れば、彼らは賭けに出る」
Kは頷いた。
「欲しいのは、手に負えない混乱じゃない。掌で転がせる恐怖だ」
暴れまわる混乱じゃない……掌の上で踊らせる――これがあれば、うまくいくはずだ、きっと。
「まあ……ちょっと絞れば、逆に喉が渇く。ってことでしょ?」
セリアの声に、Kは影鬼を見つめる。
この動き……単なる暴走ではない。明確な意図がある。
「この異常さすら、利用するつもり?」
セリアの目に警戒が走る。
Kはわずかに口元を歪めた。
「どういう意味だ」
「“見せびらかすだけ”で動くほど、市場は単純じゃないわよ?」
Kの指がわずかに動く。
「動かす」
その言葉には確信が宿っていた。
勝っただけじゃ、終わりだ。続けて勝つ。その中に、物語が生まれなきゃいけない。
「勝てばいい。それだけだ」
セリアがため息をつく。
「そうやって生きてきたのね。でも、勝つだけじゃ市場は動かない」
Kが問う。「市場は、どう動く」
しばしの沈黙。
セリアは答える。
「どう見せるかは、あなた次第」
セリアは、ただワイングラスを傾けた。
「影鬼を“恐怖の象徴”で終わらせるか、“欲望の的”に変えるか」
Kは黙ったまま。
セリアはワイングラスの縁をなぞりながら続ける。
「市場で価値を持つのは、“一度勝った奴”じゃない。“何度も勝ち続けて、語られる奴”なのよ」
セリアの視線が、鋭く、どこか哀しげにKを射抜いた。
「ねえK、あなたが欲しいのは……ただの勝ち星? それとも、誰も逆らえない“支配の物語”?」
Kの指が皮膚に食い込み、わずかに震えた。
だが力は緩めない。
影鬼はただの兵器じゃない。“信じられる物語”として、価値を持たせなければ。
だがそれは賭けだ。
市場が影鬼の価値を拒めば——全ては終わる。
ゼグラントはすでに市場を握っている。俺は……まだそこに届かない。
一瞬、影鬼の輪郭が揺れた。
セリアが不安げに言葉をかける。
「どうしたの、K……?」
Kは拳を握り直す。
迷いは不要だ。恐怖を価値に変える。それが俺のやり方。
その眼差しには、怒りと決意が宿っていた。
✦✦✦ 《仕掛ける者》 ✦✦✦
同じ頃。
ゼグラントはワイングラスを傾け、窓の外を見つめていた。
「影鬼の噂が市場に流れれば……面白い展開になる」
低く命じる。
「広めろ」
部下は、返事もなく、静かに消えた。
ゼグラントの笑みが深くなる。
「市場は不安と恐怖で動く。影鬼は、そのための餌だ」
その言葉は、静かに市場の奥へと広がっていった——。
市場の取引所では、ざわめきが起きていた。
「影鬼は制御不能?」
「Kの指示は誤っていた?」
「軍事運用は危険すぎるのでは?」
投資家たちの声が交錯し、空気が揺れる。
影鬼の価値は、見えない速度で揺らいでいた。
報告はすぐに、Kの元にも届いた。
Kは拳を握った。
……ゼグラント。
最初から、俺を“リスク”に仕立て上げるつもりだったのか。
「たった一つの噂で、価値は崩れる。“真実”より“印象”が優先される。それが市場よ」
「暴走……か……」
Kはその言葉を繰り返した。
笑ってやろうとしたのに、唇が震えてうまく形にならない。
……影鬼じゃない。
暴れているのは――きっと、俺の焦りのほうだ。
影鬼は「武器」ではなく、「信じられる物語」として提示されるはずだった。
それが今、「リスク」として語られている。
この戦略……本当に正しかったのか?
Kには、影鬼の輪郭がかすかに滲んで見えた。
……まるで、自分自身の不安が映っているようだった。
セリアが声をかけた。「K、聞こえてる?」
Kは小さく頷き、静かに影鬼を見据える。
違う。これはゼグラントの仕掛けだ。
冷静な視線を取り戻し、影鬼を見据える。
「俺は、恐怖に飲まれない。飲み込んでやる。
それが、“K”として選ばれる理由になる。」
Kは静かに笑い、影鬼の背を越えて、空の端を見た。
次の一手は――まだ、誰にも見えていない。
取引所のざわめきは、さらに広がっていく。
「影鬼……あれは確かに強い。だが、制御できるのか?」
「戦場ではKの指示に従っていた……でも、それは偶然かもしれない」
「もし予測外の事態が起きたら……?」
投資家たちの中に、迷いが波紋のように広がる。
誰もが次の一手を測りかねていた。
【次回予告 by セリア】
「“信じてた”なんて言葉、価値が下がると真っ先に売られるのよ。ね、K?」
「賭けと信頼、市場の都合と個人の信念……次回《境界の揺らぎ》、『賭けられなかった者』。
期待という名の足場が崩れた時、“何を刻むか”で存在が決まるの」
「セリアの小言? そうね……“信じる”って言葉を武器にしたいなら、裏切られたときに泣かない覚悟ぐらい、持っておきなさいな」




