#5−2:誘導された一手
✦✦✦《影より早い波》 ✦✦✦
――あのとき、市場の鼓動と自分の心臓が、確かに同じリズムを刻んでいた。
なら、いま動かすべきは……この“流れ”そのものだ。
Kは魔法円に指を添えた。
ゆっくりと、だが確実に、その構造に魔力が触れていく。
Kは影鬼の一部をスクリーンに送り込み、データの微細な動きを探った。
映し出されたのは、ゼグラントによる市場価値操作の痕跡。
「このデータに触れたとき、どう反応するか……試してみるか」
Kは影鬼を使って、ごく小さな変動を市場に滑り込ませた。
――しかし次の瞬間。
市場全体に、予期せぬ波が――静かに、しかし確実に――広がっていく。
すると、ある魔王の市場価値がわずかに上昇し、それに連動して別の勢力の動きが乱れる。
だが――Kの目が鋭く細められる。
おかしい。俺が動く“前”に、すでに市場が揺れていた?
市場の波は、影鬼が動くよりも先に――静かに、だが確実に広がっていた。
Kは眉をひそめる。妙な胸騒ぎが、喉の奥にひっかかった。
スクリーンに映る市場のデータは、Kが干渉するよりも早く動いていた。
まるで、影鬼の存在を前提にしたような市場の変動。
ゼグラント……違う。影鬼の動きが読まれている?
いや、それだけじゃない。これは……。
まるで、彼の一手が予測され、そこに組み込まれていたかのように。
「市場の波が、影鬼よりも先を行く……」
Kはスクリーンを見つめた。
眉間に力が入るのを感じる。ほんの一瞬、指先が震えた。
市場の変動が、Kの影鬼が介入する前から動いていた。
まさか……すでに誰かが操作している?
影鬼がデータ層へと滑り込む。
Kはその反応を待ち、価格変動と信号の微細な変化を逐一確認していた。
だが、その瞬間――異様な速度で信号が返ってきた。通常の三倍。
「……おかしい。速すぎる」
予定外の早さ。まるで、こちらの動きを待ち構えていたようだった。
Kの額に汗が滲む。
影鬼が情報の“流れ”に巻き込まれていたわけじゃない。
むしろ……最初から、「影鬼が現れる前提」で設計された流れだ。
「仕組まれてた……?」
感覚が変わった。影鬼が奥へ進めば進むほど、情報の流れが粘性を増していく。
抵抗感。
まるで、影鬼ごと、誰かに捕まえられているような……。
しかし――揺らぎが止まらない。さらに、ここで問題が発生する。
市場の修正操作に指を伸ばしかけた刹那、スクリーンが明滅した。
『監査プロセス発動』
警告音もない。だが、その文字はKの背筋を確実に凍らせた。
「……随分と丁寧な歓迎だな」
――市場内の異常干渉に対する、自動防衛。
「なんだよ、これ……」
Kは低く呻いた。疑念と怒りが混じった声が、制御を抜けた。
影鬼の介入は、完璧に秘匿したはずだった。
外部から検知される余地など、なかったはずなのに。
Kはスクリーンに目を凝らす。市場の値は微かに波打っている。
だが、それは影鬼が触れる前から起こっていた動き――。
市場の波は、Kの影鬼が触れる前からわずかに動いていた。
Kの影鬼が動く前に、波は立っていた。まるで、その一手すら予測されていたように。
連動して動く構造が組まれていた……?
Kは息を呑んだ。焦ってはいけない――そう思った。だが、胸の奥で違和感が膨らんでいく。
これは……ただの価格変動じゃない。
これは……ただの価格変動じゃない。意図的に作られた、市場の乱れ……?
影鬼の干渉が市場に波及した――が、違和感が走った。
あれは、落ちるはずの値だ。なのに……跳ね上がっている?
Kの指が、わずかに止まった。
Kが操作していない銘柄にまで、変動が伝わっていく。
市場の奥――そこには、魔導専念樹が根を張っていた。
無数の魔法式と演算痕が、静かにその幹を這っている。
影鬼の介入すら、まるで“はじめから在る変動”のように飲み込まれ、
値動きの波に溶けていく。
Kは、ただ黙って見つめた。
あれは……観測している。こちらの手を。
Kはその視線を、画面越しに感じた気がした――まるで、こちらの手を読むように。
影鬼の範囲を超えた? 計算外だ……。
影鬼が影市場のエネルギーを通じて市場を操作する際、
その影響範囲が完全には制御しきれない。
Kはそれを理解していたが、ここまで急激な影響が出るとは予想外だった。
「市場は……思った以上に生き物か」
Kの内側を、微細な波が這い上がるように駆けた。
影鬼の感覚が、市場の揺らぎを拾っている。
✦✦✦《揺らぎの罠》 ✦✦✦
Kは影の流れを操作し、事態を収束させようとする。
しかし、ここで問題が発生する。
市場の修正を行おうとした矢先、
ゼグラント側の市場操作が「誤ったデータ」として影鬼の介入を検知し、
監査プロセスを発動させたのだ。
Kは即座に影鬼の介入を解除しようとした――だが、影鬼が応じない。
影市場全体に異変が伝播し、予期せぬ市場の歪みが拡大していく。
Kは息を呑んだ。
「くそっ……」
Kは思わず声を漏らした。冷静を保とうとする意識の裏で、焦燥が音を持った。
影鬼が逸れている。Kの命令ではなく、別の意思に触れたかのように。
市場の深層――そこに潜む意図が、影鬼の流れを変えたのか?
まるで、市場の奥に仕掛けられた“自動干渉検知”のようなトラップが、影鬼を捕えていた。
俺の動きが……露見し始めたか?
次の一手を、Kは静かに思案する。指先にはまだ、熱の名残が残っていた。
「ゼグラント様より、今回の市場動向に関する指示がある」
投資家たちの間に重苦しい沈黙が広がる。
言葉は重い鎖のように空間を縛る。
「以下の決定が下された」
Kはその発表を聞くと、静かに目を伏せた。
……やはり、俺の動きは読まれていたか。
市場を操作するはずが、ゼグラントの決定がさらに上の一手を打ってきた。
Kは考えを巡らせる。
おかしい。今動くのは悪手だ……それは分かっている。
だが、市場の変動が俺の動きを前提にしている?
Kは拳をゆるめ、震えそうな手を抑えるように深く息を吐いた。
……落ち着け。
だが、研ぎ澄ませる感覚は――こない。
ただ、何かが削がれていくような感覚だけが、皮膚の奥に残った。
読まれていた? いや――これ自体が、俺に踏ませるためだった……?
市場は、影鬼の介入を待ち受けていたかのように、わずかに揺れを返してきた。
まだ誰も気づいていないが、それは小さな波となり、やがて市場全体を覆い尽くす。
Kは目を細め、息を吐く。
Kは小さく息を吐いた。まるで誘われるように、進むべき道がすでに描かれているようだった。
Kはそっと目を閉じた。静けさを求めるように――だが、胸の奥で何かが燻っている。
焦燥。疑念。もしかすると、恐れすら混じっていたかもしれない。
他に方法はないのか? 本当に、これしか……?
「ここまで読まれてるなら……壊す。そうするしかない」
市場に抗う。それが、今のKに許された唯一の“選択肢”だった。
それは諦めではなく、抗うための覚悟が形になった証だった。
決断が、重く心を押し潰していく。
だがKは、震えそうになる手を握りしめた。
その震えは、すでに“迷い”ではなく“火種”に変わっていた。
ふと、Kは自分の手を見る。
影鬼が震えていた。まるで、何かを訴えかけるように。
「……」
Kは目を開けた。
迷いが消えたわけではない。
ただ、もう後戻りはできない。
Kは呟いた。思ったよりも冷たい声だった。
その響きに、自分でもわずかに驚いた。
けれど、もう迷いは残せなかった。
だが、その冷たさこそが――もう引き返せないという証だった。
その声には、覚悟の輪郭が宿っていた。
Kはゆっくりと拳を握る。
心に残る迷いは、すでに行動の中で溶けていく。
セリアの気配が背後に滲む。
気配があるだけで、空気が変わる。
目を向けたくなる。向けたくない。……その間で、意識がざわつく。
Kは、ほんのわずかに振り返ろうとした――だが、目を閉じた。
あの人の声には、妙な重さがある。
命令でもないのに、無意識に従わせてくるような――そんな、形のない力。
「……冗談、でしょ。ねぇ、K……」
セリアの声が、乾いた夜気の中に沈んでいく。
「どうして何も言わないの。……こっちは、ずっと見てるのに」
Kは、返せなかった。
その声に、少しでも返事をすれば、何かが崩れそうだったから。
見透かされている気がする。
……いや、見透かされたいと思ってるのかもしれない。
優しさなのか、ただの観察なのか――判断がつかない。
けれど、その声に揺れる自分が、少しだけ嫌だった。
Kは、声にならない言葉を飲み込んだ。
今ここで向き合えば、迷いが戻ってくる。
だから、振り返れなかった。
冷たい空気の中で、彼女の震えがKにははっきりとわかった。
Kは静かに拳を握る。
じわりと汗が滲む。
だが、それを拭おうとはしなかった。
……迷いが、まだ残っているのか?
それでも、止まれない。
「喰らう側に回らなければ、生き残れない。――それだけの、世界だ」
喰らうか、喰われるか。それだけが、この市場のルールだった。
影鬼の震えが、止まった。
まるで、Kの決断に応えたかのように。
炎が――立ち上がる。
静かに灯ったその火種が、市場の奥底を焦がしはじめていた。
市場に抗う戦いが、ここから始まる。
Kは、制御を外された影鬼を前に、一つの選択を下す。
指先が再び魔法円へと伸びた。
だが今度は――最初に定めた式とは、まったく異なる手順だった。
【次回予告 by セリア】
「“力がある”ってだけじゃ、市場は動かないわ。必要なのは、“意味がある”ってこと。……ね、K?」
「影鬼の暴走、揺れる価値、そしてKの未熟な決断。次回《境界の揺らぎ》、『語られぬ力』。
ただの兵器で終わるのか、それとも物語になるのか――選ぶのは、“制御する覚悟”よ」
「セリアの小言? そうね……“使える力”と“語られる力”は違うのよ。売り物にしたいなら、せめて“理解者”くらい演じてみなさいな」