#5−1:書き換える者
✦✦✦《Kの市場価値を証明する試練》 ✦✦✦
――ここは、魔王市場の支配が決まる場所。
会議室の空気は、冷気そのものが意志を持っているかのようだった。
灰色の壁は感情を呑み込み、冷たく研ぎ澄まされた床は、
足音すら吸い込んで無音を強制している。
中央に鎮座する大理石のテーブルは、硬質な反射を放ちながら、
冷酷な力の象徴として空間を支配していた。
Kは無言で立っていた。冷気の中でも、その姿勢は微動だにしない。
ただ――その視線の奥には、静かな決意が宿っていた。
その目に宿るのは、静かで確かな意志の光だった。
ここは会議室なんかじゃない。言葉と数字が飛び交う、“価値の戦場”だ。
投資家たちの視線が、Kの表皮を撫でて通り過ぎる。
まるで、彼の価値だけを検分しに来たかのように。
だが、それは人間の視線ではない。
温もりも好奇心もない、ただ「価値」を測る冷徹な光。
Kを一瞥し、彼の何かを測った後、その興味は無音のうちに消え去った。
Kは静かに息を吸い込んだ。
足元の影がわずかに揺れる。
……市場価値なんて、影が作った幻想にすぎない。
彼は、無言のままスクリーンを見つめた。
価値を定義する声に背を向ける――。
その手段は、まだ手の内にある。
そして、その場の空気を支配するかのように、一つの名前が影のように漂う。
『時価総額ランキング No.1――魔王ゼグラント』
この“数字”が、投資家たちの空気すら支配している。
✦✦✦ 《影市場の心臓に触れる》 ✦✦✦
Kは椅子に身を預けた。
隣には、心配そうにKを見つめるセリアの姿。
いつもは無言で支える彼女が、今日は“誰よりもKを守る”言葉を選んでいた。
「魔王グレイモアの支配領域は拡大しているが、資産効率が低下。市場価値の再調整を提案する」
「新興勢力、影の魔王Kについては?」
「市場の不安定要因だ。投資するリスクが高い」
冷たい声が、空間を断片的に切り裂く。
投資家たちが交わす言葉は、Kの存在をさらに細かく値踏みし、切り刻むようなものだった。
だがKは、それを静かに受け止めた。
「その通り」隣に立つセリアが低く呟いた。
彼女の声には冷静さがあったが、感情を完全に押し殺しているわけではない。
「あなたの“価値”なんて、ここにいる奴らの一声で、いくらでも書き換えられる。そんなの、私……納得できない」
セリアは言葉を終えると、魔法円のパネルに手を伸ばした。指先が軽やかに宙をなぞる。
その動きは迷いなく、Kの“価値”を守るための戦いを、自らの手で選び取るようだった。
Kはスクリーンに映し出された図に目を向けた。
そこに浮かぶのは魔法円。影市場の魔力や資金の流れを視覚化し、
操作さえ可能にする、禁術級の魔導ツールだった。
セリアが開発したそれは、今や市場構造すら書き換える危険な力を持っている。
ゼグラントを中心に広がる魔力の流れ。それは、まるで蜘蛛の巣のようだった。
Kはふと天井を見上げた。光源の反射が魔法円の輪郭に淡く揺れている。
重力すら静まり返ったような静寂の中、彼は短く息を吐いた。
「これが……影市場?」
「ええ。魔王市場の裏に広がる、非公開の取引層よ。資金、魔力、情報……あらゆる流れが“表”に先んじて動いている。ここが本当の戦場なの」
……ここが、価値を“書き換える側”の座標か。
Kは、静かに息を呑んだ。
この流れの奥に、何が潜んでいる――?
Kの視線が細くなる。
影がざわめき、影鬼たちが、気配の底からにじり出てきた――。
Kの根源の力から生まれた影の眷属。
影の中を移動し、対象を呑み込むことも、情報を操ることもできる存在だ。
Kの指が動くと、影の中から無数の気配が広がり、市場の情報を静かにかき集めていく。
市場価値なんて、誰かに定められるもんじゃない。
Kは目を細めた。
影が広がる。その中から彼の意思がにじみ出る。
“奪い返す”――市場の定義ごと、影で書き換えてやる。
Kは椅子からゆっくりと立ち上がった。背後の影が彼の足元にまとわりつくように広がる。
その姿は、ただの“参加者”ではなく、戦場の支配者としてそこに立つ者だった。
……何かが、触れたような感覚。
空間の“裏側”が、静かに軋んだ。
突然、スクリーンが明滅した。部屋の空気が張り詰め、一瞬の静寂が全員を覆う。
「何だ……」思わずKは低く呟いた。
直後、彼の中に冷たい予感が立ち上がる。
「まずい!」セリアが鋭く反応した。
手元に魔力の円を描きながら、彼女の目は緊張でわずかに見開かれている。
セリアの声が低く響く。「影市場の“流れ”が、歪んでる……。これは、普通じゃない」
Kは眉をひそめた。
「魔力の流れが変質してるってことか?」
セリアは首を横に振る。
「違う……ただの価格変動じゃない。
魔法円に映ってる“根幹の流れ”――それ自体が揺れてるの」
魔法円――魔力と資金の流れを可視化する、セリアが開発したツール。
そこに映っている“根幹の流れ”自体が、今、揺れていた。
セリアが息を呑んだ。
「しかも……これ、ゼグラントのやり方じゃない」
Kは即座に顔を上げる。
つまり、別の“影”が、既に手を伸ばしている――?
「どういうことだ?」
セリアの指先が、魔法円の端に触れる。その輪郭が、わずかに滲んだ。
「この波……ゼグラントのやり方じゃない。誰か別の影が、動いてる」
Kはスクリーンを見つめる。
「誰の仕業だ?」
まさか、ゼグラントがこんな小さな変動に手を出すか?
いや、彼ならもっと直接的に動くはずだ。
なら、これは誰が?
何のために?
「おかしい……」
セリアの声が硬い。
「監視網が動いてる。でも……違和感があるわ」
……監視網が動いてる。けど……これ、本当にゼグラントの手?
市場が揺れた。Kは指先で影鬼を制御しようとするが、反応が鈍い。
……いや、違う。何かが先に動いた?
待て――。
……その変動が、Kの手によるものではないと悟った瞬間――。
彼の瞳が、わずかに鋭く光った。
✦✦✦《誰かが、先に動いた》 ✦✦✦
突如として、会議室の空間に「別種の気配」が差し込んだ。
それは影でも魔力でもなく――“信仰”のようなものだった。
Kの背後、スクリーンの淡い明滅に合わせて、床の影がゆらりと浮き上がる。
その中から現れたのは、異様な衣装を纏った、奇妙な女だった。
カゲコ――黒いヴェールを纏い、両手を組み、まるで祈るように膝を折る。
「この地は、K様の影の揺籃……すべての者は彼の懐胎にて影へと還るのです……」
その言葉と同時に、会議室の空気がわずかに震えた。
何人かの投資家が眉をひそめ、セリアが反射的に身を起こす。
「信仰による実体化……!? 誰の? K……あなた?」
Kは眉をひそめた。だが、それが“影”としての感知を通じて確かに“自分由来”だと知る。
「……誰がそんなもの、マニュアルにでもしたか?」
静かに、だが低く鋭い声で告げるK。
しかし、カゲコは陶酔したように微笑んだままだ。
「K様の沈黙こそ、我らが律法……っ」
……この異様な崇拝は、もはや戦術や政治を超え、“信仰”という形で独り歩きし始めていた。
Kは視線を逸らし、静かに息を吐く。
今は、その熱を否定するだけの余裕はない。
混乱を広げるわけにはいかない。
「……消えろ」
Kの命令と共に、影が波紋のように揺れ、カゲコの身体は闇に吸い込まれていった。
残されたのは、微かな香のような祈りの気配と、消え残る狂信の余韻。
セリアが息を呑んだまま、Kに目を向ける。
「あなた……今、影に“信仰”されたのよ」
「ただ……影を使われただけだ。信仰なんて、俺には似合わない」
Kは淡々と告げる。
だが、すでに市場の一角では、〈影の教義〉と呼ばれる情報の断片が拡散を始めていた。
……まさか、この情報の揺らぎが、影鬼の挙動にまで“波及”しているのか?
Kはわずかに目を細めた。
影鬼たちが、ほんの一瞬――祈りのような“外部からの感情ノイズ”に揺れたのを、彼の影が確かに感知していた。
「……伝播型の魔力干渉……? いや……」
信仰の力が、影の挙動にまで影響する――そんな非論理的な話が、いま目の前で起こっている?
Kは、思考が乱される感覚に、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
だが――その直後に走った魔力の乱れは、もっと強く、そして人工的だった。
……あの構造、この圧力――これは違う。
「……ゼグラントか」
そう結論づけるしかなかった。
待て、これは……影鬼の動きに似ているが、反応が遅れている。
俺が動かすよりも、先に何かが仕掛けていた?
Kは自身の影を通じて、市場の中枢――“影の心臓”と呼ばれる、影市場の魔力中枢領域へと潜った。
だが、その中は――幾重にも絡んだ結界の渦。
触れるだけで、意識ごと引きずり込まれそうな迷宮だった。
ゼグラントの監視網が……俺の影鬼の侵入を先回りしている?
Kは影鬼を潜らせ、市場の監視網をかいくぐらせた。
だがその先には、魔力探知型の結界が二重に張られていた。
通常の影鬼では突破できず、解析と同時に封じられる構造だった。
Kは静かに息を整えながら、慎重に次の一手を考え始めた。
「ゼグラントの市場操作なのか」
Kの言葉が空気に溶けるように消えていく。
影鬼たちは静かに佇んだまま、その瞳にかすかな警戒を滲ませていた。
市場は、今もなお何かを飲み込みながら蠢いている。
ゼグラントの操作――それが本当に彼の意志かどうかすら、今のKには見極めきれなかった。
わずかに息を吐く。
この揺らぎが何を意味するのか、まだ確かな輪郭はつかめない。
だが、確かに言えることが一つだけある。
揺れる市場。ざわめく影。熱を帯びる鼓動。
それはきっと――Kという存在そのものに、世界が問いを投げかけている。
Kはスクリーンをじっと見つめた。
なぜだ……心臓が、妙に速く打っている。
その先で、市場の魔力が――まるで“心臓”の鼓動のように、淡く明滅していた。
【次回予告 by カゲコ】
「市場の波すら、K様の御意思でしょ? ええ、すべては“前提”……あなたが在るという前提から始まるのです」
「誘導された一手、監視された影鬼、市場という名の神殿の中で揺れる意思――次回《境界の揺らぎ》、『誘導された一手』。
誰かの盤上で動かされることに甘んじるのか、それとも……“神の一手”となるのか」
「カゲコの預言? そうですね……“読まれた”と嘆く前に、“読ませた”と笑える者になりましょう。K様なら……きっと、それができる」




