#4−11:王座は動かない
✦✦✦ 《ゼグラントの影》 ✦✦✦
――王座とは、動かずして支配を成す象徴である。
――魔王市場、最上層の取引ルーム。
そこは、音すら自粛するような、黒い静けさに包まれていた。
耳を澄ましても、何ひとつ返ってこない。
まるでこの空間は、時間も空気も凍ったまま、息をひそめていた。
……終わりの見えない闇の中、ただひとつ。
王座があった――息を呑むほど、動かずに。
その王座に座るのは、魔王市場の頂点に君臨する存在――ゼグラント。
市場を支配し、すべてを見通す魔王たちの王。
王座の圧は、空間そのものを支配していた。
静かに、ゼグラントは腰を深く沈める。
視線が、スクリーンに向けられた。
そこには、無数の情報が流れ続けていた。
数字、評価、投資の動向――市場の鼓動そのもの。
だが、ゼグラントの視線は、ある名前に釘付けになる。
『影の魔王K、草レースで急成長。投資家たちの注目を集める』
指先が肘掛けを軽く叩いた。静寂の中に、微かな音が響く。
『無血制圧の新戦術 - 支配領域拡大の鍵となるか?』
『Kの市場評価、過去最高の急上昇を記録!』
ゼグラントの眉がわずかに動いた。
「……影の魔王、K……」
その声は、怒りか、興味か。
いや――それすら、定かではなかった。
指先で肘掛けを軽く叩く。コン、コン。
その音だけが、空気の深層に溶けていった。
ゆっくりと目を細める。
沈黙が落ちる。
ゼグラントはスクリーンを見つめた。
その指が肘掛けをゆっくりと叩いた。コン、コン。
数字の流れが止まることはない。
だが、目に映るすべての情報が、ある名を示していた。
『影の魔王K、草レース<若手魔王戦>で急成長。投資家たちの注目を集める』
『無血制圧の新戦術 - 支配領域拡大の鍵となるか?』
『Kの市場評価、過去最高の急上昇を記録!』
コン、コン。
指が肘掛けを叩く音が、静寂の中でやけに大きく響く。
影が微かに震えた。
「K……また“名前だけ”か」
どうせ見かけ倒れだろ。……せめて、退屈しのぎにはなってくれりゃいいがな。
ゼグラントの指が、再び肘掛けを叩く。
この市場を握る重さを、Kが知るはずもないと、そう言わんばかりの眼光だ。
彼の目が細められる。
ゆっくりと背を王座に預ける。
まるで、自分が動くまでもないと言うかのように。
影が揺らめく。
ゼグラントは王座の隣へと視線を向けた。
影の揺らぎの中に、ひとつの存在が佇んでいる。
それは、曖昧な輪郭を持ちながらも、確かにこの場にあった。
✦✦✦ 《王の刃、影より放たれ》 ✦✦✦
「……影の魔王Kを試してこい。価値ある者か、それとも――市場に不要な異物か」
ゼグラントの命令に、従者は無言で応じる。
ただその頭をわずかに垂れ、闇そのものに溶け込むように姿を消した。
「試すだけでは不十分だ」
ゼグラントは、呟くように付け加える。
「もし隙があれば、その影を――飲み込め」
その言葉には、冷徹な意思と抑えきれない好奇心が混ざっていた。
ゼグラント自身も、自分がKに対して
どれほどの興味を抱いているのかに気づき始めていた。
静寂が落ちる。
まるで、すでに何かが始まっているかのように。
黒い影が、夜の帳の中へと溶けていく――。
やがて、その闇はKの領地へと滲んだ。
巡回していた影鬼たちが、微かに動きを止める。
影鬼たちは、領地を巡回し、住民たちの様子を監視していた。
だが、その中の一体が突如動きを止めた。
影が歪んだ。
その輪郭が、不自然に揺らめく。
空間が波打つように歪み、黒い霧がじわりと地面へ滲み出した。
霧の中から姿を現したのは、ゼグラントの影従者だった。
その姿を見ただけで、影鬼たちは息を飲んだ。
「……影鬼よ」
影従者の声が響いた。
それは低く、冷たく、確実に影鬼の本能を刺激する響きを持っていた。
影鬼は、その言葉に応じるように微かに震えながらも、動きを見せた。
その様子を、遠隔で観察していたKの眉が微かに動く。
何だ、この存在は……?
影が揺れた。
影従者が、一歩踏み出す。
その瞬間、空気が、何かに見られているように動きを止めた。
――時が止まったかのような、張り詰めた静寂。
だが次の瞬間、空間が歪む。
影の中で何かが弾けた。
影鬼の動きが、わずかに遅れた。
それは、一瞬の迷い。
次の瞬間――沈黙が破られる。
爆発的な衝撃波が炸裂した――だがそれは、命令で動く従属体の反応ではなかった。
影鬼が、指示もなく、敵意に応じて本能で反撃したのだ。
同時に、床がうめき、闇が呼吸を始めた。
ただの爆発ではない。
この場のすべてが、影従者の動きに合わせて呼吸しているかのようだった。
一瞬の沈黙。
そして、空間が震えた。
影鬼が震えた。輪郭が崩れる。
だが、進化ではなかった。
「違う……」
Kの背筋に冷たいものが走った。
影鬼が自律して動いている……?
いや、まさか。誰かが――ゼグラントか? それとも影自身が意思を?
ゼグラントの影従者が、無言で影鬼を見下ろす。
だが次の瞬間――。
影が歪んだ。
不自然な動きだった。
Kの肌に、冷えた空気がまとわりつく。
影鬼が 影従者の足元へ伸びる。
まるで、獲物を捕らえるかのように――。
「……ほう?」
影従者が眉をひそめた。「……主の支配から逸脱した? この影は――何者だ?」
Kの足元に、黒い影がじわりと広がる。
「……!?」
まずい。
何かが違う。
何かが……。
Kは反射的に魔力を放った。
影鬼を止めなければ――。
しかし、その瞬間、影鬼の輪郭がねじれた。
影が、Kの魔力を吸い込むように収縮する。
「……何?」
次の瞬間、爆発するように黒い波紋が炸裂し、Kの手元を弾き返した。
……!?
「そんな、ありえない……!」
✦✦✦ 《主の影、逆らう》 ✦✦✦
影鬼がKを見た――その刹那、
Kの足元の影が、かすかに震えた。
「……何だ……?」
影従者の視線は、明らかに影鬼ではなく、K本人の影に注がれている。
まさか、俺の影が……。
Kの背筋を冷たいものが這い上がった。
――まさか……俺の影が?
そんなはずはない。けれど、影鬼の視線はまっすぐ自分の“奥”を見ている気がした。
影の輪郭が、揺れる。
それとも、Kの目が揺らいでいるのか?
「……?」
影従者が微かに息を呑んだ。
ゼグラントの影が、わずかに震える。
だが、それは「揺れ」ではなく、何かが……動いた?
Kは反射的に背を伸ばした。冷たい何かが、首の後ろを這った。
思わず呼吸を止めた。――何かがおかしい。
違う。……あれは、もう俺の影じゃない。
そんなはずはない。けれど、影鬼の視線はまっすぐ自分の“奥”を見ている気がした。
影鬼が一瞬、動きを止めた。
Kは思わず口元を引きつらせる。笑っているつもりだった――が、違う。
自分の表情に違和感があった。
Kは唇を引きつらせた。――笑っていた? いや、“笑わされていた”のか。
まるで影に操られるかのように、感情とは無関係に浮かんだその笑みが、自分のものではないように思えた。
影を覗き込む。映っていたのは確かに自分――のはずだった。
だが、ほんのわずかにズレている。
視線の奥にある“何か”が、あまりにも異質だった。
映っていたのは、自分――のはずだった。
でも、どこか……ズレている。
ほんのわずかに。……何だ、これ?
Kに酷似しながらも、どこか異質な“存在”が笑っていた。
影鬼の目が、何かを“思い出そうとする”かのように動いた。
Kの胸の奥に、かすかな違和感が渦巻く。
影鬼がKを見ていたのではない。
Kが、影鬼を見ていたのでもない。
……どちらかが、ただ“似ているだけ”の存在。
――その瞬間、何が「本物」なのか、誰にもわからなかった。
✦✦✦ 《王の一瞥》 ✦✦✦
ゼグラントは、初めて肘掛けを強く叩いた。
その瞬間――闇が波打つ。
わずかに軋んだはずの王座が、まるで意思を持ったかのように低く唸った。
世界が、一瞬だけ呼吸を忘れた。
それは、ただの音ではない。
この空間が、この市場が、いや、世界そのものが、
ゼグラントの「意志」を感じ、従おうとしているかのようだった。
空気が、考えるより先に、跪いた。
王の気配が、わずかに“揺れた”だけで。
世界が……一瞬、足場を失った。
――静寂。
Kはただ、その圧を“感じること”しかできなかった。
だが、それすらも――王が許した範囲にすぎない。
その一言が、Kの中に潜む不安を鋭く刺激する。
影鬼は……何をしようとしている?
――わからない。何が起きてる?
思考は渦巻くばかりで、答えは、遠い。
ただ、目の前の“それ”は、確かに……変わっている。
不気味に、じわじわと。
ゾクリ。
何かが……違う。
影鬼の動きではない。
Kは息を詰めた。
背筋に冷たい圧が走る。
そのとき、Kの耳に冷たい声が響いた。
「……貴様」
その一言で、Kの背筋が粟立った。
それは音ではなかった。
空間そのものが意志を持ち、Kの心臓を握り潰そうとしている――圧。
「市場の支配だと? お前ごときに、その重さがわかるか」
冷笑。
そして、確信に満ちた声。
「影だけでは足りん。お前はそれを、まだ知らない……まだだな。未熟という名の若気の至り、か」
Kは拳を握った。
指先が、まるで氷のように冷たかった。
――それでも、止まれない。
ゼグラントの声には、敵意と共に、ほんのわずかな焦りが混ざっていた。
――静寂の中で。
ゼグラントの声が消えた後、Kは静かに目を閉じた。
その胸の奥で、わずかな迷いと共に、新たな決意が芽生えていた。
「……影だけじゃ、世界は変えられない」
操られるだけの存在では、支配者にはなれない。
なら、全部ひっくり返す。
この市場も、そこに根を張ってる“正しさ”も――俺自身の在り方ごと。
その言葉には、不安と覚悟が混ざり合っていた。
だが、Kの拳は、確かな意志を込めて握りしめられていた。
影の魔王と市場の王――その衝突は、いま始まろうとしていた。
Kは、影の中に手を差し入れた。
自らの意志で、“何か”を引きずり出すために。
✦✦✦ 《セリア視点》 ✦✦✦
「……K? 今どこにいるの?」
通信魔法に応答が返るまで、数秒の沈黙が流れた。
『――ああ。問題ない』
返ってきたのは、Kの声だった。けれど。
(……いつもと、何かが違う)
声の抑揚、間の取り方、どれも微かに“ずれて”いた。
「無事……なんだよね?」
問うと、わずかに遅れて「無事だ」という返答。それも、どこか上の空に感じられた。
スクリーンに映ったKの姿は、確かに彼だった。
でも――その目は、セリアを見ていなかった。
視線が、彼女ではなく“何か遠く”を見ているようだった。
セリアは胸に浮かんだ疑念を、どうしても振り払えなかった。
「……今、話してるのは……K、だよね?」
魔力のノイズがまた一つ、画面の中で微かに走った。
【次回予告 by すず】
「べ、別にKがどう見られてるかなんて……気にしてないし!?
そりゃちょっと……気になるけど! 少しだけ、だからね……!」
「数字で価値を測る会議室、魔法円が暴く市場の本音……次回《境界の揺らぎ》、『書き換える者』。
“力”じゃ足りない、“物語”じゃ曖昧……Kの価値が、本当に問われるのは――ここから」
「すずの本音? え、そ、それは……! い、言うわけないでしょ!
……でも……Kのこと、下げられるの、見てられないのよ……っ」




