#1−3:制度の外
✦✦✦《処分対象》✦✦✦
「確保しろ!」
神殿に怒声が叩きつけられ、Kの視界がぐらりと揺れた。
高い天井の魔法紋がわずかに点滅し、そこから垂れ下がる燭台の炎が、不規則に揺れていた。
柱の影には兵士たちのシルエットが沈み、神殿全体が、まるで巨大な心臓のように鼓動している気がした。
――また、あの“音”だ。遠くで誰かが……泣いてた気がした。
思考より先に、冷たい金属の枷が手足を締めた。
強引に地面へ引き倒され、背中が氷のような石床に叩きつけられる。
痛みが脳を揺さぶる。
息を吸おうとしたが、胸を圧迫される感覚に襲われ、うまく呼吸できない。
周囲の召喚者たちが後ずさる気配があった。彼らの視線が突き刺さる。
恐怖か、嫌悪か、それとも……。
「……まあ、当然か。失敗した奴は、“魔力の燃料”にされるからな」
「即刻、隔離を。……これは“枠の外”だ」
「“枠に収まらない”、って決めつけて排除かよ……それが正義かってんだ!」
「……どうせ何言っても変わんねぇのは分かってる。でもな、黙って飲み込むなんて、できるわけねぇだろ」
Kは身をよじろうとしたが、すぐにそれが無駄だと気づいた。
全身にかかる、妙な重さ。
「……これが、“魔法封印の術式”ってやつか」
視界の端で、青白い封印術式が淡く瞬き、まるで空中に蜘蛛の巣のような紋が絡みついていた。
じわじわと染み込んでくる冷気が、関節の奥へと入り込み、肉の感覚を少しずつ奪っていく。
「知識じゃ知ってたけど……こんなに速くて、重いもんだとはな……」
「……これが、さばかれる家畜の気分ってやつか」
やがて、術式の効果が完全に発動したのか、透明な鎖のような力が四肢を締めつけてきた。
心臓が速く打ち始める。
だが、それは恐怖だけのせいではなかった。
落ち着け。まずは、状況を整理するんだ――そう、頭を回せ。
……吐き出すと同時に、奇妙な違和感が胸に引っかかった。
記憶はあいまいだ。けれど、何かが――確かに、動いていた。Kの背筋が無意識に強張った。
影が、こちらを見ていた気がした。偶然じゃない。けど……運命ってほどの確信もない。
自身は願っていた。偶然であってほしいと。
「処分されるくらいなら……“あの影”にすがった方が、まだマシだな」
心の奥で、何かが静かに灯った。
「……たとえ、悪魔の手だとしても、他よりはマシってことかよ……」
……でも、違う気もしていた。“それ”は、最初から内側にあった気がする。
頭の奥で、名もなき声が、記憶の縁をなぞるように揺れた。
眉をひそめ、目を細める。
記憶……? いや、違う。
……視界の隅、何かが揺れた。
黒い、靄。
自分の中からか? それとも……この場所が見せている……?
――はっきりとした確証はない。
一つだけ確かなことがあった。
「……このままだと、消されるな。最初から、そのつもりだったんじゃねぇのか……?」
そんな気が、してならなかった。
神官の一人が低く呟いた。瞬間、Kの拘束具が鈍く光を放ち、冷たい魔力が肌を這う。
視界が揺れ、まるで水底に引きずり込まれるような感覚が襲った。
……なんだ、この感覚。
内側から、他者の視線を感じるような……そんな違和感、気配が、確かにあった。
あれは、自分ではない“何か”が、内側からこの世界を見ているような――そんな錯覚だった。
……まるで、“自分”という枠が、他の意思に薄く満たされているような感覚。
呼吸だけが、ひどく遠く感じた。
「……動かねぇ……くそ、足に……力が入んねぇ……」
その瞬間、視界の隅で黒い靄がうごめいた。
人の形をしているようにも見えた――だが、はっきりとは分からない。
神殿の壁に吊された燭台が、かすかに揺れていた。
神官たちは無表情のまま並び、まるで審判の道具のように動かない。
――だが、その中に、一人だけ目を伏せた神官がいた。
まだ若く、制服も新しい。
その目には、一瞬のためらいと、何かを押し殺すような色が宿っていた。
だが隣に立つ上級官が視線を向けると、若い神官はすぐに姿勢を正し、
何事もなかったかのように目を閉じた。
――それでも、何かを飲み込むように喉が動いた。
✦✦✦《咆哮と異物》✦✦✦
「異端の召喚者、K。登録なし。身元不明。第十七の例」
神官の冷徹な声が神殿に響き渡る。
十七人目、か。
Kは宙を見つめた。
自分と同じ、“登録されなかった召喚者”。
……生き延びた者など、いなかった。語られなかったのは、語る必要がなかったからだ。
「記録にない存在は、この世界の“制度”の想定外だ」
一拍の沈黙。
「制度は、想定外を怖がる。“未知”ってやつは……まあ、火種になりやすいからな」
「存在の抹消が最適と判断する」
制度だと? 怒りがこみ上げる。
まるで世界の維持こそが絶対的な正義であり、
自分はその邪魔者だと決めつけられたような口ぶりだった。
Kには、世界が音を失ったように感じられた。
言葉は、どこか遠くの他人の物語のようだった。
「弁明しろって? どうせ最初から、聞く気なんてないくせによ……」
顔を上げた。その瞳に、わずかな火が宿る。
「……お前ら、例の“第十一の例”はどうなったんだ?」
空気が一瞬だけ揺れた。神官たちの目がわずかに泳ぐ。
一瞬、最上位の神官の目がわずかに細まった。
封じたはずの記録。表に出してはならない“例”を、少年はなぜ知っている。
喉の奥に冷たいものが落ちた。
制度にとって、触れてはならない記憶が、今――浮上しつつあった。
「……反応した。やっぱり、隠してるな。第十一の例、ってやつを」
Kの視線は、まっすぐ神官の目を射抜いていた。
怒りでも、恐れでもない。
ただ、静かに――抗っていた。
「弁明、ね……」
わずかに唇を歪める。皮肉のように、あるいは諦めのように。
「……生き残るために必要なら、してやってもいい」
言えっていうのなら……まあ、そうだなと思った。
冷たく目を細めた。
「言葉を交わす価値が、最初から存在しない連中だ」
――その言葉は、もはや諦めではなく、選別だった。
「……何を言っても無駄かもしれねぇ。だけど、それでも……まだ、俺の中には残ってんだ。火種が……」
「……ここで終わらせてたまるか。まだ、消えちゃいねぇんだ」
「では、処分を――」
その瞬間、Kの中で、何かがブチッと音を立てて弾けた。
「このクソがあああッ!! お前のケツに蝋燭突っ込んで蹴り上げるぞッッ!!」
叫びというよりも、咆哮だった。
神官たちがざわつき、兵士が一歩引いた。
「人はなァ、口から“言葉”を吐くんだよ! お前はクソと音だけしか出せねえのか!? なんだそのツラ、聞こえてんのかよ! お前、肛門か!?」
空気が軋んだ。誰も言葉を返せなかった。
Kの声は、怒鳴っているのに、どこか“悲鳴”のようにも聞こえた。
叫んでいて、自分でも訳がわからなかった。
でも――なぜか、頭の奥に浮かんだのは、もっとくだらない記憶だった。
……幼い頃、帰り道で牛を物珍しく眺めてたら、財布を落としてさ。
拾ったら、糞まみれだった。
泣きながら拭いた。意味なんて、今でも分かんない。
……たぶん、あの時から。もう、何かおかしかったんだろうな。
関係ねぇはずだった。けど……これ、本当に俺の記憶か? まるで、“誰かの昔話”みたいで……。
一瞬の沈黙。
「おい、なんだよ。みんな黙っちまって……人間じゃねぇのはどっちだよ……」
誰も言葉を返せなかった。
……たぶん、Kの声が一番“人間らしかった”からだ。
そして、その直後。
「待ちなさい」
セリアの声が、空気を真っ二つに割った。
✦✦✦《予兆》✦✦✦
……空気が、変わった。
熱でも冷気でもない、別の“圧”が空間に満ちる。
そのとき、神殿の隅で静かにすべてを見ていたセリアの心に、かすかな違和感が走った。
確かに、彼は一瞬だけ怒鳴った。激昂した。
だが、それは暴力ではなかった。ただの発散でもない。
――あの怒声の奥にあったのは、“受け入れたくない何か”への拒絶だった。
この空間には、もはや言葉も熱もなかった。
ただ冷たい正義の形だけが、均質に並んでいた。
それでも、たった一人、その「形」に馴染まない少年がいた。
――K。
叫んだあとは、何も暴れず、黙って死を受け入れるような佇まいでいて……。
だがそれは、ただ沈黙したのではなかった。
まるで、自身の中に残っていた最後の火を、すべて吐き出してしまったかのように。
怒りが引いた後に残ったのは、静けさと、ほんのわずかな疲労感。
それでも、どこか底の知れない存在感があった。
彼は口を開かずとも、抗っていた。
怒りでも恐怖でもない。……あれは、拒絶だ。制度に対する。
“測定不能”の記録は過去にもある。
だが、ここまで周囲を圧倒するような“気配”を持つ例は――記憶にない。
セリアは気づいていた。この異端者に、何かが宿っている。
未熟な異物ではない。定義を超えた“新しい何か”。
だからこそ、今――彼をただ処分することに、疑念が浮かんだ。
……“測定不能”? 違う。こいつは、そういうんじゃない。
もっと……名前のない何かだわ。
怖い。声もなく、暴れもしない……それなのに、底知れない。
言葉にできない不安と、奇妙な確信。
それでも彼女は、一歩を踏み出した。
張りつめた空気がわずかにゆらぎ、視線が一斉に揺れ動いた。
「待ちなさい」
――誰だ?
厳しい声が場の空気を震わせた。
Kが顔を上げると、銀の髪の女性が視線を向けていた。
神官服の波にただ一人逆らうように立ち、長い銀髪が燭火の揺らぎを跳ね返していた。
背後の魔法陣の光すら、彼女の一瞥にたじろいでいるようだった。
冷たい光を宿した瞳。それでいて、どこか挑戦的な気配を感じる。
「処分を決めるのは――」
彼女の声が、場の空気を裂いた。
「……早すぎるわ」
神官たちがざわめいた。
「未知ってね。誰も掘ったことのない金脈みたいなものよ」
その言葉には、かすかに笑みが混じっていた。
「一見ただの土でも、その下に掘り当てる価値があるなら――誰かが手を汚す価値もある、ってことよ」
……“価値”、か。ついさっきまで、ゴミだの異物だのと扱われていたというのに。
顎に力が入る。奥歯が、わずかにきしんだ。
「セリア様……!」
神官の一人が、驚きのあまり声を上げた。
Kは目を伏せ、かすかに笑った。
「……そうか、俺は“まだ掘られてなかった”石ころってわけか」
自嘲とも希望ともつかない笑みが、わずかに浮かぶ。
……まるで道ばたに蹴られてた石が、突然、値札付きで並べられたみたいだな。
一瞬の静寂――。
その瞬間、神殿の奥――封印された扉の向こうで、かすかな振動音が響いた。
「“第十七”が……応じた?」
神官の誰かが、声を震わせた。
その響きは、確実に“次の異変”の始まりだった。
Kは無言のまま、セリアを見返した。
そして、ゆっくりと立ち上がるかのように、背を起こした。
静かに、だが確かに――戦う者の目をしていた。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「記録に残らない者ほど、やっかいよ。
測れないものは、簡単に壊せると思ってたら大間違いだから」
「次回、《拒絶された記録:前編》――秩序の内臓を、影が穿つ」
制御不能とされたKは、制度の“最も奥深い場所”へと足を踏み入れる。
そこに待っていたのは、数字で価値を測る装置、そして……存在しない者としての宣告。
けれど、記されなかった存在が一行だけでも歴史に“ノイズ”を加えたなら?
――世界は、そのバグをどこまで無視できるかしら。
「セリアの小言? そうね……“記録されない怒り”ほど、燃えやすいものはないのよ。
でも、その火はね。自分で“名前”を持たなきゃ、ただの焚き火で終わるの」