#3ー8:定義の反転
✦✦✦ 《影鬼の決断》 ✦✦✦
Kは視線を落とし、何も持たない手を見つめた。
なら、作ればいい。積み上げていくしかない。
「表だろうが裏だろうが……関係ねえ。使えるもんは、何だって使う。這い上がる? 奪う? そんなの、どうでもいい。俺は――“選ぶ側”に立つんだ」
利用される側に甘んじるくらいなら、汚れた手ででも、価値という檻を壊してやる。
それが、Kの選んだ「立ち位置」だった。
Kの声には、過去の自分への誓いと、未来への決意が込められていた。
俺を駒として見ているこの世界の連中――その思惑を利用して、逆に支配する側に回る。
「召喚者が“資源”で終わる未来なんて、壊してやる。……そのためには、力が……ただの暴力じゃなくて、制度すらねじ伏せる力。今は……市場でやるしか、ない」
Kは静かに息を吐き、低く呟いた。
「まずは市場に潜り込むしか、ない」
その声には、決意と――ほんのわずかに、迷いが混ざっていた。
「うまくやれば……召喚者が“資源”で終わる未来すら、上書きできる」
だがその言葉には、自分でも気づくほどの不確かさが滲んでいた。
だがそれでも、言わずにはいられなかった。
再び、誰かが召喚の名の下に奪われるのは――許せない。
感情が胸の奥でじわりと熱を帯びた、そのときだった。視界の端に黒い揺らぎが走る。
空気が微かに軋む音とともに、粒子が逆流するように集まってくる。
ゆらゆらと人型の輪郭をなぞるように、魔力の靄が形を帯びていく――。
それはまるで、誰かの記憶から引き抜かれた残像が再構築されるようだった。
そして次の瞬間――ユリエルは、椅子に腰掛けていた。
まるで最初からそこにいたかのように、音も気配もなく、当然のように。
指先が肘掛けを撫でるたび、残留魔力が微かに震えた。
「K様の椅子……あぁ、まだ温もりが……クフフッ」
身体の輪郭は未だに魔力の残響と熱をまとって揺れている。
「……お前、何をしている?」
Kは冷ややかな声で問いかけた。
ユリエルが椅子に腰を落とした直後――背後で、静かに足音が止まる。
Kが振り返るまでもなく、その空気の温度で“彼女”の気配が分かった。
セリアが視線を向けている。
ユリエルは、気づいていながらもあえてそれを無視するように、表情ひとつ変えずに椅子の肘掛けを撫で続けた。
対してセリアも、静かに微笑むだけ。だがその目の奥に、細く光る何か――探針のような視線が潜んでいた。
言葉は交わされない。だが、たしかにその場には、見えない“気配の衝突”があった。
Kは眉間を押さえた。
ユリエルの執着は、好意にも見えたが――その根底には、違う“設計意図”を感じていた。
セリアは冷静に誘導する。一方ユリエルは、感情を装って内側を覗こうとする。
どちらも――同じくらい、信用できなかった。
姿を現したユリエルは、前回と異なりまるで何事もなかったかのように、
きちんと布を重ねた黒の軍装を纏っていた。
完璧すぎるシルエット。
精密に整えられた髪。
立ち姿だけでも目を引く……なんだろうな。
全部、整いすぎてる。作られたっていうより……置き物みたいに見えた。
だがKは、つい以前に見た“あの”透けすぎる衣装を思い出して、言葉に詰まった。
ユリエルはわずかに唇の端を吊り上げると、まるで心の中を見透かしたように、ささやく。
「今回は、ちゃんと布地を増やしましたけれど……K様、お気に召しませんか?」
ぞわり、と背中を撫でられたような感覚が走る。Kは無言のまま視線を逸らし、ため息だけを吐いた。
Kは一歩引いた。
この状況を、まともに受け止める気になれなかった。
「……お前、それ、ヘンだと思わないのか? ……ああ、いや、思ってねえな。最初から」
Kは呆れを隠そうともしなかった。
だがユリエルは、まるで誉められたかのように微笑む。
その表情には、羞恥も戸惑いもなかった。
あるのは、確信――そう、理性を保ったまま狂っている者の、それだ。
ユリエルは軽く頷き、涼やかな声で答えた。
「……狂ってるって言われるの、慣れてますよ。自分でも……分かってますし。でも……正気のまま、壊れていく感覚って……ふふ、癖になりますよね?」
そう語る彼女の瞳には、恍惚と冷静が奇妙なバランスで同居していた。
ユリエルは満面の笑みを浮かべながら、椅子の肘掛けを撫でている。
「神性の……んふふ、考察中です。K様の魔力と椅子に残った熱量を解析していて……あぁ、これはもう、神聖遺物級……たまらない……」
「……帰れ」
「ええ、ええ。今すぐ“市場”にお戻りになっても構いませんよ。
私はこの椅子の波動を“少し”感じ取っていただけですから。ええ、“少し”だけ……」
どこか倒錯した情熱を滲ませながらも、言葉選びには理知的な計算が見える。
感情の昂ぶりと冷徹な観察者としての側面――その落差が、ユリエルという存在をより異質にしていた。
Kは眉をひそめた。
「……変態か、分析官か。いや、両方か」
「両方ですよ、もちろん。……でも、どっちかなんて選びません。“K様にとって使える”って一点だけで、十分ですから」
ユリエルは無邪気に笑った。
その笑顔は、無垢にも見えた。けれど、それが“演技”であるなら――あまりにも完璧すぎた。
……作り物みたいな笑み。ずれのない仕草。
感情と論理の釣り合いすら、計算されてるように思えた。
あれが“ユリエル”の素、だなんて……本気で言えるか?
――いや、違う。“誰かに見せる”ための振る舞いだ。
それに気づかず乗った俺も、たぶん……もう、舞台の上に立たされてたんだ。
「……あの子? あれ、演技だと思ってたの?」
セリアが、不意に小さく笑いながら言った。
「ふふ、違うわよ。あれが素。最初から……ねじれてるの」
Kはほんの一瞬だけ眉をひそめたが、それ以上は何も返さなかった。
――演技じゃない? じゃあ……最初から、見せるために作られた“素”ってことか。
✦✦✦《観測される者》✦✦✦
セリアが微笑んだその目の奥に、冷たいなにかが揺れていた。
Kは、その無言の圧を黙って受け止めた。
……ああ、そういうことか。“全部分かった上で乗れ”って顔してやがる。
セリアの目は、どこかで“全部わかってる”ように思えた。
……いや、思えただけかもしれない。けど――それだけじゃない。
それと、先ほどの魔力の揺らぎ――そして、ユリエルの出現すら“織り込み済み”だったかのように思えた。
しかし彼女は何も言わず、ただ楽しげに見守っているだけだった。
Kの目が鋭さを増す。
こいつは、俺を試している……?
「お前の言いなりになるつもりは……ない。
でも……その知識は――使わせてもらう。
利用してるって? 分かってるよ。
分かった上で……乗るさ。俺なりに、な」
この女、麻倉の痕跡を消したことといい、何企んでやがるか知らないが……。
セリアは先のKの言葉に動じることなく、小さく笑った。
「……まあ、それでいいんじゃない?
駒なんて退屈だし、見てて楽しいのは――支配者の方。
……ね、ああいうのに反応してくる“誰か”も、もう息をひそめてる」
セリアは目を細め、声の調子をわずかに変えた。
「で……まだ怒れるってことは、あんた、まだ壊れてないってことね。
それなら……たぶんだけど、化けるかもしれないわ。
……まあ、期待くらいタダだしね。してみるのも悪くない。K、あんたが本当にやるなら」
セリアはふっと目を伏せたあと、わずかに口元を緩めた。
しばらくして――Kは深く息を吐いた。
先の言葉を思い起こす。期待、か――。
その言葉が、少しだけ胸を締めつけた。
信じたい気持ちが芽生えかけた矢先、胸の奥で冷たい声が囁いた。
また、ただの“駒”なのか? そんなはず……。
Kはその疑念を胸の奥に沈め、無言で拳を握った。
そのセリアの声は優しさとは程遠く感じた。試す者の声にしか聞こえない。
Kは先ほどの違和感を胸に収め、静かに息を吐いた。
俺の動きを、誰が監視していた?
それが投資家か、それとも別の勢力か……この場では判断できない。
……いや。錯覚じゃない。
まるで、誰かが見てるみたいだった。
いや……違う。あれは、俺の揺れを“読んで”動いてた?
情報が、こっちの思考に合わせて……選ばれてる?
――そんなバカな……けど、そうとしか……。
まるでこちらの思考に合わせて、見せる情報すら“選ばれている”。
錯覚かもしれない。でも、それが妙に腑に落ちてしまう。
Kは無意識に、自身の思考のテンポと市場の反応速度が“噛み合いすぎている”ことに気づき、眉をひそめた。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
この市場では、決して俺一人だけが動いているわけではない――。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「“自分の価値を自分で決める”なんてね、正気かどうかすら怪しいのに……
でも時々、それを本当にやり切るバカがいるから、面白いのよ」
「次回、《価値の再定義》――定義される側から、定義する側へ」
Kは今、市場の裏側から仕掛けることを選んだ。
価値を与えられる側ではなく、価値そのものを再定義する存在として。
「セリアの小言? そうね……“使う側に回る”って、口で言うよりずっと重いわよ。
本気でやるってことは、自分でルールごと書き換えるってこと。
……その覚悟、踏み抜くとき、ちゃんと笑っていられるかしら?」