#3−6:影は情報を喰らう
✦✦✦ 《Kの選択》 ✦✦✦
Kは荒い呼吸を整えながら、額の汗をぬぐった。
影の力の残滓が、濡れた布のように身体にまとわりつき、呼吸の隙間までじっとりと塞いでいた。
焼けるような違和感が、神経の奥をざわつかせる。痺れは皮膚の下に残り、筋肉はただ軋んだ。
それでも、今はまだ、倒れるわけにはいかなかった。
指先に残る鈍痛と、胸の奥に根を張る不穏な鼓動。
これはただの疲労じゃない。影が内側から体を侵し、
“自分”という境界線が、影に呑まれていくように、じわじわと滲んでいく――。
意識と肉体の境界が曖昧になる感覚は、理解ではなく、本能に訴えかける恐怖だった。
Kは息を整えながら状況を見極めた。この状態では長期戦は厳しい――だが退けない。
Kは影の制御を一度切り、呼吸を整えながら冷静に現状を分析した。
足元に滲む影はまるで生き物のように脈打ち、彼の意識に呼応して静かに揺れていた。
その影は、濃密な墨を水に落としたように、床板を這い、壁の隙間にまで入り込み、
まるで呼吸するかのように、わずかに収縮しては膨らんだ。
灯りが当たると、影だけがわずかに“逆光”のように鈍く光を吸い込み、静かに震えている。
「……制限があるな。だが、条件次第で拡張は可能だ」
その呟きに応えるように、影がゆっくりと彼の足元を這い始める。
「あなたはどうするの? 逃げる? それとも……影の中で“王様ごっこ”を始める気?」
セリアの声には、悪戯っぽさが混じっていた。
Kは目を細める。
「“状況を作る”。それが――俺にできる、いちばんのやり方だ」
……有利な条件を整えるのは、まず最初の一手って――それだけだ。
「ふふっ、それを“逃げ”とも言うのよ」
「定義の違いに過ぎない。勝てる場を整えるのは、戦略の第一歩だ」
Kは拳を握り直す。
その声には、覚悟とも取れるほどの静かな熱がこもっていた。
「……市場も、力だ」
床の影がわずかに脈打ち、都市の鼓動と同期しているように見えた。
その揺らぎが、“次に何かが崩れる”ことを予感させた。
Kはゆっくり言葉を繋いだ。
「影と同じで……意志があれば、形も流れも変えられる。市場はな、油断してるやつの背中を刺す場所だ。静かにな」
――月並みな喩えかもしれない。だが、それこそが現実だった。
“声がない分、残酷な戦場”。そこでは、誰が殺したかさえ誰にも分からない。
だからこそ、Kは選んだ。“影”を使うと。
「武器も軍隊もいらない。ただ、“選択肢”を奪えばいい」
――見えるものがすべてなら、人は影に支配されることはない。
だが、“見えない意志”こそが世界を動かす。
セリアは薄く微笑んだ。
「あなたの“影”と“市場”を、同じものと見ているのね」
「影は……ただの攻撃手段じゃない」
Kの声がわずかに低くなる。
「影は……記憶の底に沈んだ本音、みたいなもんだ。
忘れたフリしても、足元からじわじわ滲んでくる。
いや、うまく言えねえけど――そんな感じだ」
一歩も動かずに、相手を止める。
判断を迷わせることで――流れを変えられる。
つまり――“正確な情報”さえ断てば、人は勝手に間違える。
真実よりも、“誤解させる力”が、戦場を支配する。
「……選択肢を……減らせば、何かが崩れる。うまくいけば、そっちの未来も……いや、言い方が違うな」
Kの声が一瞬、曇る。
「相手の動きを止める。読まれないように動く。
混乱を呼んで、不安を、植えつける。……そうすれば、流れは……」
……止めて、揺らして、不安を植えつける。だが、それだけじゃ足りない。
言葉が途切れた。思考が揺れたわけではない。
むしろ、言いきることに何かが引っかかっていた。
「……情報の戦場も、同じだ」
Kは目を伏せた。小さく呟いた。
「選ばれるのはもう、たくさんだ。……だったら……何か、違うやり方を……いや、まだうまく言えねえ」
だけど……いや、それでもいい。なら……やるしかない。
Kは拳を握り、影を見下ろす。
他の奴らは……どうだった?
消えた者たちと同じには、なりたくない。俺は――違う。
“価値がなければ消される”と笑った召喚師の目……あれを忘れるつもりはない。
✦✦✦ 《影鬼の分析》 ✦✦✦
Kはゆっくりと指を動かす。
その指先から滑り出した影は、床を這い、壁へと音もなく染み込んでいく。
「たとえば、この影を使えば……交易記録を改ざんできる」
スクリーンのように浮かび上がる黒文字。
《品薄》《供給停止》《物流の断絶》。
数秒間だけ浮かんだそれらは、まるで幻影のように闇へと消えた。
「情報を操ることができれば、市場は揺れる。……物の値も、人の目も。何もかも、ぐらつくよな、そういう時は。
……影はな、口から毒を入れるか、ケツに鍵を突っ込むか……いや、ただの傷跡かもしれないな」
セリアが目を細めた。
「……ほんと、下品ね。でも、わかりやすいから腹立つわ」
Kは肩をすくめた。
「わかりやすいだろ? 刺さる場所が、実感ってもんだ」
セリアはふっと笑って、肩をすくめる。
「変な遊びしないでよね?」
Kはそんなわけないだろと鼻で笑う。
一呼吸。
セリアは急に鋭い目つきに変わり出した。
「まあいいわ……たとえば、運搬商人の通行印を一つ封じる。
会議室の机に、差出人不明の“記録断片”を忍ばせる。
――それだけで、相場は揺れるわ。信用も、人間関係も壊れていく。怖い世界だわ」
続けてセリアの目が細められ、好奇心が宿る。
「まるで経済テロね。……でも、それは本当に“意図通り”に動くのかしら?」
Kは即答する。
「だからこそ、影には“制限”が必要だ。無秩序に使えば、自分さえ飲み込まれる。
だが、その制限が“制御”と“効率”を生む」
……だからこの縛りだ。間違えたら、俺すら呑まれるはず……だよな。
影は、ただの闇ではない。
それはKにとって、最も優れたインターフェースであり、最大のリスクでもあった。
「影を商会の倉庫に、貴族の寝室に、会議場の隅に――
そこにある本音も、感情も、隠された計画も……すべて盗める」
セリアは髪を弄びながら笑う。
「つまり、相場を“予言”するのね?」
「違う。動かす――それが“影”だ」
✦✦✦ 《影による支配と介入 》✦✦✦
Kが影に触れ、決済ネットワークに影を送り込む。
支払いが一時的に止まった商人たちが混乱し、連鎖的な誤動作が市場全体を包む。
広場に面した交易所では、ホログラムのような光の表示が次々と赤転し、
商人たちの額に汗が浮き、口々に叫びながら端末を叩いている。
大通りの看板が軋み、価格表示が点滅しながら次々に変動。
Kは鼻で笑った。
「おいおい……尻隠してるつもりか? ケツの穴まで開けっ放しじゃ、火つけて蹴り上げるしかねぇだろ。市場様よぉ」
影が石畳の隙間を這い、まるで都市の血管のように拡がっていく。
「どういうことだ? 金が動いていない?」
「仕入れが遅れてる……いや、違う、誰かが操作してる!」
焦りが連鎖し、不安が投機を生む。
買い占め、価格高騰、デマの拡散――そのすべてを、Kは“影”で仕掛けることができた。
……ただのシミュレーションのはずだった。なのに……。
Kの中に、得体の知れない違和感が広がっていく。
影鬼――。
それは彼の力だ。だが、今、Kが認識していない“情報”が影から流れてくる。
“影”が勝手に補完し、推論し、未来を描いている。
Kは一瞬だけ眉を寄せた。
……これは本当に、俺の意思だけで動いているのか?
微かに、影の“外”から何か別の意図が混じっているような――そんな錯覚が、頭をかすめた。
「……まるで、意志を持っているみたいだな」
セリアが囁く。
「影ってさ……人が隠したままにしてること。言わないまま、飲み込んだまんまで。
それが沈んで、腐って、いつの間にか底に溜まるのよ。……澱、みたいに」
「そして、それを操るのが……俺という“影の支配者”だ」
Kの目が鋭さを増す。
「そして、人の命すら、影で奪える」
……実際にやったことはない。だが、そうとしか思えなかった。
セリアが静かに問いかける。
「……それだけで、人って、死ぬの?」
Kは答える。
「暴力なんていらない。
影が入り込めば……それだけで、いつの間にか命は、削られてる」
Kは目を伏せる。
……別に、何もいらない。影さえ入り込めば、それで済む。
セリアは片眉を上げ、声のトーンを下げた。
「……それ、本当にやれると思ってるの? ……それが一番、怖いわ」
### ✦✦✦ 次なるステップへの覚悟 ✦✦✦
「少なくとも、今のあなたは“評価”の土俵にすら立っていない。
ただの無銘……誰にも知られない影法師よ」
Kはその言葉に動じず、静かに拳を握り締めた。
「支配を待つか、構造から奪うか。――選ぶのは、俺だ」
Kは静かに目を細めた。やらなければやられる――それだけの話だと、自らに言い聞かせるように。
影が足元に蠢き、Kの言葉と共に形を変える。
「“市場”は与えられるものじゃない。
動かす力を持つ者が、自分の都合で形を変えるんだ」
「……でもそれ、“動かしてる”んじゃなくて、“壊してる”だけかもよ?」
「だったら――“影”で、この舞台を奪ってみせる」
自分勝手に、やる場所さ。
セリアが深く微笑む。
「ふふ……“影鬼”なんて、呼ばれるのも悪くないでしょ?」
セリアは肩をすくめ、ほんのわずかにKへ身体を傾ける。
「ねえK、あなたってほんと不器用よね。全部、勝つための動きにしか見せないんだから」
彼女の声は軽やかだったが、ふと真面目な響きを帯びる。
「……たまには素直に“逃げたい”って言ってみたら?」
セリアは軽く笑ってみせたが、その声の端に、わずかな影が滲んだ。
「……本当は、少しだけ怖いの。あなたみたいに、自分の中だけで全部決めて、突き進める人って」
一瞬、沈黙が落ちた。その静けさを破るように、セリアが目を細める。
「ねえ……“誰かに生きてほしい”って思ったこと、ないの?」
Kは応えなかった。
が、わずかに眉をひそめた。
けれど、影が――セリアの足元だけを避けて、静かに迂回していった。
それを、Kは見ていない。けれど、彼の意志が影に滲んでいたのは確かだった。
「呼び名なんて、後からついてくるものよ。大事なのは、どう動くか――それだけ」
Kは黙していた。
ただ、影だけが、彼の代わりに“何か”を滲ませるように、静かに広がっていった。
名前なんて、どうでもよかった。呼ばれる前に消えていくのが、召喚者の運命だったのだから。
……誰かに選ばれるのを待つなんて、ごめんだ。
あの日、ただ番号で呼ばれた。それでも生き残ったなら――次に名を刻むのは、自分で決める。
その瞬間、Kの胸の奥で何かが、静かに反響した。
一切の声が、内から消えた。
それよりも、次にどう動くか。俺が“生き残る価値”を作る。それだけに意味がある。
影が音もなく広がり、やがて都市の隙間を満たすように、市場の隅々へと染み込んでいく。
……カツン。何かが、音を立てて動いた。
その広がりの先にあるのは、支配か、破滅か。
だがKはそのいずれをも恐れていなかった。
なぜなら――。
Kが目指すのは、力の誇示じゃない。
この世界を縛る“召喚制度”という呪いを上書きし、
瓦礫となった制度の上に、自分の意志で“新しい秩序”を築くこと――だから、Kは戦う。
召喚制度という呪いは、まだこの世界を縛っている。
だが――それを塗り替えるのは、自分の意志だけだ。
Kは影をまとい、前へ踏み出した。
逆光の中で、Kの影だけが不自然に伸び、やがて足元から這い上がるように身体を包んでいく。
その姿はまるで、都市の意志を身に宿した亡霊のようだった。
空気がわずかに震え、遠くで金属が鳴るような音が、カツン、と響く。
……だが、その足音を追うように、
誰にも気づかれぬほど微かに――影が、逆流した。
それは、彼の意思ではなかった。
Kは振り返らない。
だが、影は確かに“意志”を宿し始めていた。
「……なら、俺が塗り替える」
それは、自分自身への“命令”にも似た呟きだった。
そしてその時、誰かがKを見ていた――。
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「――ねえ、“価値”って、どこで決まると思う? 名声? 強さ? それとも……誰かに期待されること?」
「““価値の座標軸”? ふふ……見える場所に並べられて、値札まで貼られるのよ。
それがどんな値でも、逃げずに笑えるかしら?
Kの名に、値をつける時が来たわね。
次回、《価値の座標軸》。――信用の値段、払える?」
「セリアの小言? そうね……“生き残る”ことと、“存在を許される”ことは、まったく別よ。
自分の価値を他人に決めさせた瞬間、あなたはもう……“商品”よ。せめて、自分の札は自分で掲げなさいな」