#3−3: 境界の融解
✦✦✦ 《影鬼の目覚め》 ✦✦✦
警備兵たちは、一瞬怯んだ。
「……なんだ、今のは?」
「あいつ……影に何かしたのか?」
だが、彼らはすぐに陣形を整える。
「……あれは異常個体か。なら、処分対象だ」
「一斉攻撃!」
数人の警備兵が、Kへと襲いかかる。
Kは、一歩踏み出す。
すると、影がそれに呼応するように広がり、彼の輪郭を飲み込む。
――ズルッ。
Kは完全に影へと"溶け込んだ"。
「……どこだ!?」
警備兵が動揺し、四方を見渡す。
その瞬間、足元の影が"爆ぜる"ように広がった。
「うっ……!?」
影が警備兵の足を絡め取り、"何か"がそこから伸び、警備兵を"引き裂く"ように影の中へと沈める。
……影は、どこにでもいる。
天井の梁、壁の継ぎ目、階段の裏、指の隙間にだって。
たとえば、魔力灯の支柱の内側や、扉の蝶番のくぼみ……一見、意味のない影でさえ。
どんな小さな影でも、Kにとっては通路だった。
彼の力は、光と闇の境目にだけ息づいている。
影がある場所なら、そこに“俺の力”は届く。
闇そのものじゃない。光によって生まれた、世界の“裏側”――それが俺の領域だ。
限界があるとすれば、影のない空間。
完全な白。完全な闇。
……けど、影が一片でもあるなら、俺はそこに入り込める。
貫く。喰らう。塗り替える。
そうか――この世界の“あらゆる境界”が、俺の道になる。
引き込まれた者は、「存在」そのものを分解され、生命も魔力も吸収される。
残るのはただの抜け殻――青白く変色し、魔力も生命も失った体だけだった。
Kは、静かに息を吐いた。
……わかった。この力は、影がある場所でしか動けない。
でも、その限界があるからこそ、無駄がない。だから速い、だから鋭い。
影が暴れ出す。Kの意思を越えて、黒い霧が壁の継ぎ目から天井の梁まで這い上がり、
まるで空間そのものを塗り替えるかのように廊下を喰い尽くしていった。
明滅する赤い警報灯が、影に映えて“血のような色”に変わる。
「くそっ……! 制御が利かない!」
影は無差別に周囲を侵食し、壁を溶かし、床を黒く染める。
「ギャァァァッ!」
影に触れた警備兵が、次々と消滅していく。
……ちがう、違う。
まただ。
誰かに、喰われる……。
俺の内側、すり抜けて……溶けて……っ。
Kは歯を食いしばり、影の暴走を止めようと試みた。
だが、影は彼の意志を押し返すように暴れ続けた。
「お前は……“個”として抗うか……それとも、“影”として溶けるか」
それは声というより、存在そのものを揺るがす“圧”だった。
Kの内側に入り込み、自我の境界をぼやけさせていく。
✦✦✦《影に宿る声》✦✦✦
――その時だった。
黒い影の中から、まるで水面に浮かぶ泡のように、淡く光る“何か”が浮かび上がった。
周囲の影が、ユリエルの出現を中心に円を描くように退いていく。
黒の中に白が浮かぶ構図――まるで彼女を引き立てる舞台装置のようだった。
その中央で、光の輪郭が“人型”を成し始める。
それは音ではなく、思考そのものが侵食するような、異様に澄んだ女性の声だった。
「この不安定な振動……K様。あなた、心が揺れていますね?」
「……ああ、まだ……残っている……K様の振動……!」
ユリエルは影に指を滑らせ、その魔力の残滓を掬い取るように掌を添えた。
「焦燥と怒りの波形が断続的。しかも――この魔力温度……さっきより、0.6度上昇……!」
ユリエルが口にした“魔力温度”とは、魔力に宿る情緒の波動を数値で捉える独自指標だった。
喜怒哀楽、そして欲望や恐怖――内面の揺らぎが激しければ激しいほど、この数値は跳ね上がる。
ユリエルにとって、それは感情ではなく、「神性の体温」として記録される対象だった。
要するに、“変態温度測定”だ。
理屈ではあるが、理性の外側で成立している感覚の科学――それが、彼女の“魔導科学”だった。
「っふ、これほどまでに……感情の痕跡が濃いだなんて……! なんて……なんて素晴らしいの、K様っ……!」
彼女の指先はわずかに震え、耳が赤らんでいるのが見えた。
Kは一瞬だけ、“研究者”と“変質者”の境界を見た気がした。
一瞬、目を閉じて恍惚とする。
「ええ、だからこそ……K様は完璧なんです。
この理性のひび割れ……神性のにじみ出し……っ、もう……うまく言えない……!」
声は震えていた。
だが、不思議と冷静さも残っていた――いや、それが余計に狂気を際立たせていた。
――それは冷静な声だったが、どこか微熱を帯びていた。
Kは目を見開いた。確かに、それは言葉だった。
だが、耳に届いたわけではない。
それは……脳に直接、感情の波のように流れ込んできた“声”。
「……誰だ……今の声……? 俺の中に、勝手に……」
息が乱れた。影が、意志を持って語りかけてきた? そんなはずはない。
だが、その独白に応じるように、声が返ってきた。まるで、それが対話であるかのように。
微笑むように、淡く、しかし確かに――。
「命令? 違います。それは“感情”です。あなたの影に触れた……私の、歓喜」
黒い渦の中心部、光の断片のようなものが一瞬だけ“人型”を成す。
長い髪、揺れる衣の輪郭。
その瞳は、Kを見上げながら陶酔に震えていた。
その姿は、まさに“傾国の美女”――綺麗すぎて、気持ちが置いていかれる。
輪郭が整いすぎて、どこか嘘くさい。……壊れてるのは、あっちか、それとも俺の感覚か。
✦✦✦《影を従える者》✦✦✦
……異様なまでに整っている。
あまりに整いすぎていて、どこか“不気味”ですらあった。
美しいのか、危ういのか。天使の顔をした異物。脳が理解を拒否しても、目が逸らせなかった。
……だが、美しいかどうかなんて、どうでもいい。
その声、その気配――俺の中に踏み込んできた“異物”こそが問題だ。
……いや、待て。透けてる? このタイミングで試される理性って何だ。冗談じゃない……だろ?
「影ってね、“余白”なんです。あなたが形を持ったから、私はにじみ出た。
壊れかけた理性のフチ……そこが、いちばん尊いのよ」
その存在は、影の中にゆっくりと沈みながら、最後にもう一度囁いた。
「私は……ユリエル。あなたの思考の影。今はまだ、触れられないけれど……いつか、すべてを理解してみせます」
「……でも、この影を通して、K様の痕跡が伝わってくる。
残留熱、魔力の流跡、足音の反響すら……愛おしい。
触れられないことが、逆に……尊さを際立たせるんです」
「……理解したい、だけでは満たされません。K様の理性がどこまで狂気と接続するのか、
私は……その境界線で、ずっと震えていたいのです」
……わけがわからない。言葉の意味は通じるのに、内容がまるで理解できない。
いや――理解したくないんだ。
こんな気配を、受け入れるものか。
「あなたが混乱し、揺らぎ、迷い、恐れるたびに……。
私の中の“理解欲”が、歓喜に震えます。
そう、K様の不完全性こそ、完全な真理」
狂ってる――そう思った。けれど、同時に……なぜか、拒絶しきれなかった。
影が揺れるたび、あの女の声が脳の奥に染み込んでくる。
それが、気持ち悪いほど心地よかった。
そして、気づく。あれは“ユリエル”という形を借りて現れた、影そのものの声だ。
いや、厳密には――影が取った“人格という仮面”のひとつ。
影そのものが、概念として輪郭を持った結果の、投影だったのかもしれない。
いや、まだわからない。ただ……そう感じた。
頭の中に響く低い共鳴。
だが、それは"誰か"の声ではなかった。
――影そのものが“何かを訴えかけてきた”ように思えた。
それが誰かの記憶なのか、魔力の残響なのか……それすら分からない。
Kは戸惑いのまま、言葉にならない感情を押し込めた。
だが、脳裏に浮かんだのはただ一つ――選ばされるのではない。選ぶのは、自分だ。
流されるわけがない! 俺が全てを選ぶ。選ばないとならないんだ!
影の中心に意識を注ぎ込む。だが、その瞬間、影がKの足元をも飲み込んだ。
「――っ!」
Kの膝が揺らいだ。荒い息が漏れる。
一瞬、時間が止まったように感じた。
空気すら動かない。ただ影だけが、蠢いている。
影が腰までせり上がり、制御を振り切るように暴れ出す。
まるで、「この体ごと呑み込んでやる」とでも言いたげに。
今の……何だ? 引き込む? 俺を? ……そんな、はず、ないだろ。
だが、Kは震える手を握りしめた。
心臓が早鐘のように打ち、汗が背中を伝う。
それでも、奥歯を噛み締め、影をねじ伏せるように意識を集中した。
ゆっくりと、影がそのうねりを鎮め、Kの足元へと静かに伏した。
まるで、獣が主に従うように。
そして、その様子を――ある者が見ていた。
ユリエルだった。影の端に指を添え、そこから漂う微かな余熱に陶酔するように目を細める。
「K様、その傷……まだ“熱”が残っているでしょう? 私、その余熱を……計測させていただいても?」
その目は真剣だったが、明らかに距離感が狂っている。
Kが無言で半歩引くと、ユリエルはわずかに息を震わせた。
「ああっ……この拒絶の空気……完全な自己確立。なんて崇高な“孤高性”……っ。これが神性……!」
✦✦✦
【次回予告 by セリア】
「“特別”って案外、使い捨てと紙一重なのよ。市場が値をつけた瞬間から、どっちでもあり得る」
「次回、《価値の目覚め》――掌の上か、檻の外か」
Kの輪郭が揺れ始めた。
ただの影ではない、“定義を書き換える者”として――制御する価値から、観測不能な脅威へ。
「セリアの小言? そうね……“値がつきすぎる駒”って、往々にして盤面を壊すの。
でも私は嫌いじゃないわ、ルールを喰うタイプの才能。……ええ、“例外”って、育て甲斐があるから」