第65話:ドリーは賢いなあ。
アレクサンドラには軍事はわからぬ。喧嘩も決闘もわからぬ。ピアノを弾き、ダンスで遊んで暮らしてきた。けれどもアレクサンドラは貴族の頭領の娘である。政治的なバランスには人一倍敏感であった。
「裏切りですわね」
アレクサンドラは軍議の話をジョーから聞くなりそう言い切った。
「へえ」
「まあ、最低限でも敵方と内通はしていますわ」
アレクサンドラは戦場の地図を要求した。
ナンディオが机上に地図を広げ、軍勢を示す赤と青に色分けされたコマを現在の位置、セーキフィールドの両端に並べる。
「布陣はどうなりますか。大まかにで構いません」
ナンディオは赤いコマと青いコマを前に進め、平原の中央付近で平行に並べる。そして青いコマの半分弱を平原の外周部を動かして赤いコマの斜め後方に移動させた。平原のコマの数は3:2くらいの比率であり、この数が多い方が相手方、ノイエハシヴァ軍。対峙する数の少ない方がイェッドニア王国のジョーが率いる軍。相手後方に回り込んだのがベアーモート伯爵が率いる別働隊である。
「まずはこの戦場の外側の話からですが、こう、実際に戦っている方々に言うのも申し訳ないのですが……」
アレクサンドラは言葉を濁す。
大丈夫だ。とジョーは言い、ナンディオも頷きを返した。
「この戦い、そもそも大勝も大敗も求められていないのです」
「あー……まあそうな」
これは総力戦でもなければ、互いの王が出陣しているような戦いでもないのだ。長年、小競り合いが続いているのである。これはジョーにも理解できるところである。
アレクサンドラは机上のコマを進めた。
進軍したノイエハシヴァ軍をジョーの軍と接触させ、ノイエハシヴァ軍の後方から別動隊が挟み込む形に。鉄床作戦が成功した場合の配置だ。
「ははあ、なるほど」
ナンディオが感心した声を漏らす。
「なんだよ。納得してないで説明してくれよ」
「挟み撃ちとか包囲というのは、成功すれば相手側の損害が甚大になるということですよ」
「あー」
つまり成功すれば大勝になるということである。
「作戦が失敗する場合ってどうなるかしら?」
「2パターンありますね」
アレクサンドラが問い、ナンディオがコマを動かしながら説明する。
「一つは後方の動きに気づかれ、そちらが撃破されるパターン。もう一つは兵が少なくなったこちらの中央をそのまま抜かれるパターンです」
アレクサンドラは、やはりと頷き、ジョーも理解を示した。
「つまり、負ける場合も大敗になる。そんなリスクは冒さないってことか」
「そうですわ。特に今の一つ目についてですが、別動隊は敵軍の背後に回り込むわけでしょう」
「そうだな」
「となると自然、彼らが敗走するのはノイエハシヴァ国のある方向になりますわ。大将がそんな場所にいくかしら」
「ねえな」
将に英雄的・冒険的な気質があればやるかもしれない。だが、ベアーモート伯からはそういう気質は感じられなかった。
「背後に行ってもリスクがないなら理由は一つ。攻撃されない密約がある、つまり裏切りですわ」
「ドリーは賢いなあ」
ジョーはアレクサンドラの頭を撫でる。子供を褒めるような所作であり、公爵家の姫にするには不敬もいいところであるが、アレクサンドラはえへへと笑みを浮かべている。
ナンディオは軽くそっぽを向き、見ていない、報告する気はないことを示した。
アレクサンドラはしばらく堪能した後、こほんと咳払いをして、話を続ける。
「と、当然のことですわ。それで、裏切っているとしてどうなさいます?」
ナンディオがコマを動かした。
ベアーモート伯の軍をどかし、ジョーの軍勢とノイエハシヴァ軍が激突する形である。
「伯はいくら裏切るとはいえ、こちらに攻撃まではしてこないでしょう。戦闘に不参加という形を取るはずです」
ジョーもアレクサンドラも頷いた。流石に味方に攻撃したとなると外聞が悪すぎるし、恨みを買いすぎる。
「裏切りを知っているのは上層部だけとして、直轄の騎馬隊、騎士を連れていくとして、うちの部隊と残される兵を合わせて戦力比は人数だけなら2:3」
「だがこっちは馬もなきゃ、ろくな鎧もねえって感じだな」
数の面でも質でも劣るということである。
「なんとかなりますか?」
アレクサンドラの問いにジョーは笑う。
「そりゃならねえよ。普通だったら尻尾巻いて逃げるところだ」
「普通だったら……逃げないのですか?」
「ああ」
アレクサンドラにはわかる。ジョーが無頼の英雄のままであれば、逃げてしまえばよかったのだろう。そして別の機会に勝てば良いのだ。だが今や、彼には部下がいて、家名があり、そして……自分が、アレクサンドラがいると。
それは彼を縛る鎖となり……ふにゅ。
「ドリー、変なこと考えてるんじゃねーぞ」
ジョーはアレクサンドラの鼻をつまんだ。
「んー! んーんー!」
アレクサンドラは抗議しようとするが声にならない。
「ジョー、それはちょっと」
ナンディオもさすがに止める。ジョーが鼻から手を離した。
「なにをしますの!」
「俺は負ける気はねえってことさ。だがドリー、それには手伝ってもらいたいことがある」
アレクサンドラはそう言われて、花綻ぶような笑みを浮かべた。







