第56話:むにゃむにゃむにゃ……。
リンギェが出てしばらくしてから、サレキッシモが部屋に戻ってきた。
「リンギェさんはお帰りになりました」
彼女が馬車で去るのを見送っていたのだろう。仮の従者として、やってくれている仕事であるから、ウニリィはそれをねぎらった。
「お疲れ様です」
「いえ」
ウニリィは彼の顔色が青白く感じた。
「サレキッシモ、体調悪い?」
「いえ、お嬢様。改めて、本日はご迷惑をおかけしました」
サレキッシモは従者らしいそぶりで背筋を伸ばして腰を直角に折った。
ぺにょり。
スライムもソファーの上でひらぺったくなった。
「……まあ、うん、そうね」
サレキッシモとスライムがやったことは確かに大きな問題ではあった。……あったが、ウニリィも先日やらかした自覚はあるので、あまり強く責められはしない。
「ヴェラ……マグニヴェラーレさんにはご迷惑をおかけしたので、そこは謝罪をね」
ほっほう。いつの間にか愛称とかで呼び合うような感じだろうか。とサレキッシモは思いながらも、マグニヴェラーレに頭を下げた。
「うむ……」
マグニヴェラーレとしても迷惑だという気分と、興味深いというのが半々であった。魔術師とは研究者でもある。その気質として夜会に出ているよりこちらの方が面白いというのもあるし、スライムの性質に迫るような事件はむしろ望むところである。
もちろん、こんなことは言えないので、ただ頷くに留めたが。
「では片付けをして参ります」
「私も巡回の者たちと話してこよう」
二人は外にいってしまったので、ウニリィはソファーに背を預け、はーっとため息をついて伸びをした。
うにょん。
スライムがのそりとソファーの上で動いたので、ウニリィはそれを抱え上げた。
「もー」
ふるふる。
「……まあ、無事で良かったけどねー」
ウニリィはぎゅっとスライムを抱きしめる。胸の中でスライムがうにょんうにょんと動くのを感じながら、大きくあくびをした。
「なんか疲れちゃったわ……」
まあ当然であろう。トラブル自体も疲労の原因であるが、そもそも農家は早寝早起きが生活の基本であり、今はもう深夜だ。
富を誇るように、無数の灯りのなかで踊る貴族の生活とは相容れないのであった。
「すう……」
ウニリィの瞼が落ちる。
ちなみにウニリィ、食事も長時間とっていない。ドレスでウェストを絞るために昼もほとんどとっておらず、夜会で出る食事は基本的にほとんど手をつけないものだし、そもそも食べる暇もなかった。
「ただいま」
「むにゃむにゃむにゃ……」
よって、クレーザーが邸に戻ってきて、外で掃除などをしていたサレキッシモらと入ったとき、彼らが見たのはソファーの上で寝こけているウニリィの姿だった。
「もぐもぐ……」
ふる……。
しかも彼女はスライムの端っこを咥えて口を動かしていた。何か食べている夢でも見ているのかもしれない。
スライムは申し訳なさそうに、ウニリィの胸の中で耐えているのであった。
----
サレキッシモがリンギェを見送りに出た時のことである。
馬車に向かっていたリンギェであるが、ふと足を止めて、彼の前に立った。
「……いかがいたしましたか?」
彼女はしばし何も言わず、首を僅かに傾げていた。視線の向きからすると、何かを思いだそうとしている表情だ。やべっ、とサレキッシモは悪い予感がする。
にぃ、とリンギェが笑みを浮かべた。そして彼女はゆっくりとスカートを持ち上げて、淑女の礼をとろうとする。
「お、おやめください!」
リンギェはいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、ついっ、とサレキッシモに身を寄せる。そして扇の先でとん、と彼の胸をついて、彼の耳元で囁く。
「お久しぶりですわ。ターマッキ・ウィスケイ侯爵令息。ショーナインの地を治める名門のご令息が、あらあら、男爵家の従者のまねごとかしら。こんなところで何をなさっているのです?」
「……お久しぶりです。よくわかりましたね」
ナンディオもマグニヴェラーレも、彼の出自が貴族であろうとはあたりをつけている。だが、直接的に誰だとまでは気づかなかったのだ。
「それはそうですわ。私の婚約者選びの際、あなたの名前もあったのですよ?」
「む」
高位貴族の令嬢であるからこそ、同年代から少し上の世代の貴族令息については非常に詳しいのだろう。
サレキッシモはそう理解するが、それにしても彼が家を出奔してからもう何年も経っているのだ。当時とは身なりも容姿も違う。それを一瞥しただけで気づくというのは、リンギェという女性の記憶力・観察眼などが非凡であるということに他ならなかった。
「積もる話もありますが」
ねーよ! とサレキッシモは内心で叫んだ。面識がなかったわけではないが、せいぜい一度か二度会ったことがあるという程度だ。断じて積もる話をするような親しい間柄ではない。
「今はもう遅いですし、またお会いしましょうね?」
そう言って彼女は踵を返して馬車に。
……厄介なのに目をつけられたなあ。遠ざかる馬車に頭を下げながら、サレキッシモはそうひとりごちるのだった。






