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人魚の城

 視界が揺れていた。

 それも虹色に。

 ブリュンヒルデからもらった、顔を覆うシャボン玉が、割れてしまうのではないか、と感じたが、彼女の作ったそれは、ぐわんぐわんと複雑な揺れを見せるだけで、割れることはなかった。

 代わりにジークフリートの目は見開いて、赤くなったブリュンヒルデを捉え続けていたが。

「ブリュンヒルデ……」

 ジークフリートは唖然としたまま彼女に声をかけた。その呼びかけは、無意識に彼の口からでた言葉だった。彼の顔を包む泡の揺れは治ったが、いまだに周囲の波は揺れている気がする。海底にいた小魚やカニが、周りからいなくなっていた。恐れをなして、どこかへ逃げてしまったのかもしれない。それか、大きな音が生み出した波動で飛ばされたか。

 どちらにしろ、彼女の声にはそれだけの力があった。

 彼の声が泡の粒となって彼女の耳に気づいたのかどうかわからないが、怒りを額や頬に張り付かせていた彼女は、目の前で光を弾かれたようにはっと前を向き、次に横を見る。

 ジークフリートとブリュンヒルデの視線がかち合う。

 すると、何かが目の前で蠢くような音がした。最初、地鳴りかと感じたが、それは、目の前の扉が地を削りながら表へと動く音であった。 

「扉がーー」

「開いた」

 ジークフリートが無意識に放った言葉を、ブリュンヒルデが繋いだ。ひとつの塊のようになって海の底まで潜ったことで、それまでとそれからと、彼らの間で違った絆が生まれていた。

 それは、彼らに良い距離感をもたらしていた。

 ゆっくりとジークフリートが視線を隣に移す。

 ブリュンヒルデも同時に彼に視線を向けていた。

(入るか)

 互いにそういった意味を含んで。そしてその答えはイエスしかなかった。ここまできて、

 引き下がるわけにはいかない。たとえ、危険が待ち受けていることが、わかっていたとしても。

 ジークフリートが長い足をゆっくりと前へ突き出すように動かすと、周囲で白い砂埃がふわっと浮いたが、それも気にせず、歩みを止めなかった。

 やがて鋼色の岩でできた框に上がり、響きは、海の中であったが、硬いものに変わる。

 ブリュンヒルデは、堂々とした態度の中に、しずくひとつぶの恐れを隠している傍らの地上の生き物に、寄り添うように泳いでいった。

 館内の壁は、深紅の薔薇の色をしていた。そこに金の縁取りや草花の模様が描かれている。

 ジークフリートはその古風な美しさに驚いて周囲を見渡していたが、ひとすじの緊張も忘れてはいなかった。

(ここが人魚の砦。俺たちの仲間を屠った生き物の住まう場所。出会った人魚は、全員敵だと思わなければならない。気を抜いては、ならない)

 ジークフリートは、懐に隠した小銃にそっと右手を当てた。黒く滑らかに光るそれは、アルベリヒと揉めた時に使用したものだった。

 戦士たるもの、どこで敵と出会うか全くわからない。常に弾丸を込めることを怠らないのは、彼の主義であった。

 胸元にしまっていることを、もう一度確かめるために、そっとグリップに手をかけ、トリガーに指を添わせる。これでいつでも銃を取り出せる。そう思った。だが、今更ながら決定的なことに気付き、愕然とする。

(ここは、海の中じゃないか……)

 ジークフリートが急に歩みを止めたので、ブリュンヒルデはそれに気づいて心配そうに泳ぎを止めた。

「ジーク。どうしたの? 大丈夫? 具合が悪くなったかしら。ごめんね。私ってば、必死で海底に行かなきゃって思って、ぐんぐんスピードを増して泳いでしまったから。あんなに早く泳いだのって、久しぶりだったわ」

「いや、大丈夫だ。何でもない。お前の泳ぎは、海軍兵の誰も真似できないほど完璧なものだった」

 ジークフリートは、銃が使えないであろうというショックを紛らわせるために、ブリュンヒルデに向かって微笑んだ。

 ブリュンヒルデは地上のものに泳ぎを褒められたのが初めてだったので嬉しくなり、「そ、そう?」と照れ笑いした。タンポポの花弁のような笑顔だった。

 どこまでも続くかと思われるような、長い廊下。進んでいくにつれ、色彩がだんだんと薄暗くなっていくように感じる。

 隣を見ると、ブリュンヒルデの白い顔にも翳りが見えていた。ふたりが不安になっていく刹那、斜め右の方の壁が、きぃという軋んだ音を立てて開いた。

 ジークフリートは咄嗟に身構え、本能から、懐に右手を入れて銃に触れてしまう。

 開いた扉から光が漏れる。それは天から差してくる陽光とは違い、海の色を孕んでいた。

 ごぽり、という音を立てて扉の先から気泡が廊下へと漏れてくる。

 ついでふらりと幽鬼のように現れたのは、大人の女の顔をした人魚だった。

 栗色のウェーブがかった長い髪をゆったりと背に垂らし、ワンレンの前髪の間から、白い顔があらわになっている。瞳は大きくはなかったが、つぶらな子犬のようである。従順さが感じられた。海の中にいるため、本来の彼女の持つ色彩よりも、いささか青みがかって見えるのだろうと彼は感じた。

 彼女の大人しそうな雰囲気から、こちらに危害を加えようとは感じられない。

 ふたりは緊張をわずかに解いた。

 彼女の大人しそうな雰囲気から、こちらに危害を加えようとは感じられない。

 ふたりは緊張をわずかに解いた。

 栗色の髪の人魚は、ふたりを確認すると、両腕を引いて、怯えている。

 ブリュンヒルデはすいっと栗色の髪の人魚の前まで泳ぐと、己のくちびるに、人差し指を立てた。

「私たちもあなたに危害を加えようという気はないわ。攫われたニンゲンの双子を、地上へ返してほしいだけなの」

「……わかりました」

「ありがとう」

 割とすんなり話の通じる相手だった。見た目が素直そうに見える。人魚のことについてよくわかっていないが、人間と同じで、見た目の印象と内面もそうそう変わらないのかもしれない。

「で、双子の居場所。わかる?」

 ブリュンヒルデがくいっと顔を栗色の髪の人魚に近づけた。差し迫る行為に、栗色の髪の人魚はびっくりして身を硬らせる。

 視線を逸らし、再び定めると、ブリュンヒルデに対し、こう告げた。

「知っています。ふたりは今、イザベル様の元にいます。イザベル様は、この群の長。双子のひとり、耳の聞こえない方にようがあるとかで、少年だけを連れていきたかったそうなのですが、そばにいたので、少女の方も不本意に連れてきてしまったそうです。なんでも少女の方はきゃんきゃんうるさい犬のようだとか」

「よかった。アカネは元気なのね」

「ええ、命を取ったりはしていないようです」

「詳しくありがとう。でもそんなに詳細に喋って大丈夫? 確かイザベルって、名前だけは私の群にいたときに聞いたことがあるわ。とても冷たい女王人魚だって。彼女が長ってことは、ここは『リリーコロニー』ってこと?」

(コロニー?) 

 ジークフリートは、人魚の群の総称について初めて聞いた。

「ええ、歯向かう人魚に対しては容赦がないのですが、ニンゲンのことは、どこか面白がっているように感じます。傍目から見るとですが」

「そう。そのほうが、都合がいいわね」

 ブリュンヒルデは話し終えると、どこか納得したようにくちびるを引き結んだ。

 ジークフリートは彼女に尋ねて見たいことがいろいろあったが、まずはこの亜麻色の髪の人魚をうまく使えば、双子のもとへ辿り着けると打算的に考えた。

「人魚、俺は人間だが、敵意や殺意を向けてこない人魚に対しては何もしようとは考えていない。双子を地上へ返したいだけなんだ。イザベルという人魚のところまで連れていってくれ。お前の名前はなんだ?」

 栗色の髪の人魚は、一歩自分に近づき、話しかけるジークフリートに気づいて、一瞬怯むような態度を見せた。わっと後ろに下がって目を丸くする。

 だが、彼の態度がひどく紳士的なものだったので、やがてその怯えは消えていった。

「……私はカスターニエ。イザベル様の女中頭です。私も実は、ここ最近のイザベル様の在り方に、いささか疑問を抱いていました。反発の心というのでしょうか……。あなた方を案内あないいたします」

 そう言ってカスターニエは、両手を胸の前で交差させ、尾鰭を下げ、直立するような姿勢で頭を下げた。瞼が伏せられ、長い睫毛が白い頬に影を作る。

(カスターニエ。ドイツ語で『栗』という意味だ。ぴったりな名前だな)

 ふたりは彼女の品の良さに、好印象を抱いた。それは太古の武士に通じるような態度だったからだ。

 先頭を泳ぎ、導いてくれるカスターニエの尾鰭を見ながら、彼女の尾は、純白のドレスのようだ、とジークフリートは感じた。尾鰭はローレライの人魚たちや、ブリュンヒルデ、十六夜のように、くっきりとふたつに分かれたものと違い、幾重にも重なってひらひらと揺蕩っている。ジークフリートはそれを目印にしながら、いつか故郷の領主のパーティに招待された時に見た、屋敷のメイドたちのスカートのレースを重ねていた。やけにひらひらとしていて、愛らしかった。

(女中頭と名乗っていたから、カスターニエも地上のメイドのような立場なのだろう)

 カスターニエは、廊下をそのまま直接渡るよりは、裏口から泳いでイザベルの部屋まで向かった方が良い、と提案した。

 その裏口とは、屋根裏のことであった。

『掃除を主な仕事としている私は、この屋敷のどこに何があるかを全て把握しているのです。もっとも他の人魚が泳がない道は、実は屋根裏なのです。ほこりも溜まりやすいし、より薄暗いから誰も掃除したがらない。でも私はそこを自ら進んで掃除していました。屋根裏は、私の城でもあります』

 そう語った時の彼女は、初対面の控えめな印象よりも、自信を持っているように感じた。

 自分の仕事に対する誇りが、そこには感じられた。

 案内された屋根裏は、確かに仄暗く、生き物の気配が感じられない場所だった。

(海底の中にある屋敷の、屋根裏に入るというのも、不思議な体験だが……)

 カスターニエとブリュンヒルデは、屋根裏へ通じるえんとつのような道をまっすぐ上へ泳ぐことで、屋根裏へ到達したが、ジークフリートはそうはいかなかった。梯子はあるか、とカスターニエに尋ねたが、梯子の概念自体がないため、不思議そうな顔で首をかしげられた。人魚の屋敷でみんな泳いで生活するため、梯子は必要としないのだ。

 なので、ブリュンヒルデの肩に、またビート板のように掴まり、屋根裏まで泳いで行った。

 屋根裏は確かに狭く、カスターニエ、ブリュンヒルデ、ジークフリートが一列になって泳いでいく。

 時折左側から、ちら、ちら、と明るい光が差し込み、また暗くなるといった現象が起きていた。それは屋根裏と廊下の間に僅かに開けられた空間から漏れ出る廊下のあかりだった。

 闇に浸っていると、光が恋しくなる。

 ジークフリートにとって、その時折現れる光が、屋根裏を泳ぎ進んでいるときの微かな慰めだった。

 カスターニエの白と、ブリュンヒルデの薄紅の尾鰭が、その光に照らし出される瞬間は、朝に洗濯されるレースのカーテンのようで、とても美しかった。

「……つきました」

 カスターニエが動きを止めて、下を見る。

「この下が、イザベルの部屋?」

 ブリュンヒルデが小声で尋ねる。

「ええ」 

 カスターニエは下を見つめたまま頷いた。

 ブリュンヒルデはジークフリートの方に首だけを向けた。その眼差しには、決意が、頬にはうっすらと恐怖の色が滲む。

 ジークフリートはその時、ローレライ岩で殺されていった仲間たちの姿が脳裏を駆け巡った。そして、人魚を銃で殺していった仲間達のことも。この下へ降りていけば、引っ掛けるところを間違えれば、同じことが繰り返されてしまうかもしれない。でも、降りなければ双子はーー。

 彼は、彼女をまっすぐに見つめ返すと、一言「双子を助けよう」と答えを返した。


 一方浜辺に取り残されたアルベリヒとブレンは、両腕を地について体を支え、ただ海を見つめていた。

 海は、穏やかな波を白い砂浜へ送り、また帰って行くだけである。その動きを追っていると、先ほど起きた出来事が、現実味を帯びず、薄ぼんやりとしてくる。

 ふたりは、もはや限界だったのだ。

 戦争で仲間を失い、ローレライ岩で仲間を失い、先ほど食事を共にした愛らしい幼い双子も、失った。

 そして、自分たちが信頼を置いている上官も、海の中へーー。

「ジークと嬢ちゃんにまで何かあったら、一体俺たちどうすりゃいいんだ……」 

 アルベリヒの涙声が、背後で聞こえたのを合図に、ブレンは無為に漂っていた思考の渦から、はっと目覚めた。

 潮が引いていくように、薄く白く曇っていた目の前の視界が、クリアになっていく。

 浜辺には、先ほど人魚の歌声に引き寄せられ、アオイの叫びによって元に戻された人たちが屯していた。両手と尻をついて茫洋としたまなざしで周囲をゆっくりと見る、腹が大きく、口の周りに髭を生やした男。

 そばにいた我が子と涙を流しながら抱きしめ合う女。

 落としてしまった杖を拾おうと震えながら立とうとする白髪の老人。

 皆、それぞれの人生を、懸命に生きている者たちだった。

 ブレンはその人たちの様子をしばらく見つめ、歯噛みした。

(憎い……。人魚が、憎い……)

 拳を握りしめ、しばらく怒りの感情が身の内を狂うように流れていくのに耐える。ローレライ岩での出来事は、簡単に忘れられない。先ほどの一連の事件で、薄れかけていたトラウマが、いやがおうにも呼び起こされてしまった。だが、自分には、ブリュンヒルデと旅をした記憶もしっかりとある。その中に、幸福を感じなかったかといえば、それは嘘になる。

 人魚のことが、ますますわからなかった。

(どうしてお前らは、僕たち人間を襲う? なんのために殺す? 餌にするためか? 憎しみへの復讐からか? 僕たちが、お前らに何をした?)

 いつの間にか、まなじりからは透明な涙が流れていた。オレンジのそばかすが浮いた白い頬を流れ、雫となって白い砂と交わる。

「おい……、なんだ、ありゃあ……?」

 背後でアルベリヒが素っ頓狂な声を上げたので、ブレンはぴくりと動き、反応を見せた。

 上体を起こし、下げていた首を前に上げる。

 反動でまなじりに溜まっていた涙が溢れていったが、気にしなかった。

 それよりも、目の前に「いた」光景に驚く。

 深紅の薔薇のような尾鰭を持った人魚が、白い砂浜に下半身をぴたりとつけて居座っていた。

 雪のように白く細いが柔らかそうな二の腕を持つ両腕で体を支え、艶かしく不快そうな顔で、浜辺のあちこちにいる人々を吟味している。その背中を流れる髪は、しっとりとした適度な水分を含み、白い光沢を放っている烏の濡羽色であった。

 その顔がこちらへ向いた。

 ブレンは、彼女の眸に射抜かれたかのように硬直した。

「少年」

 その紅い、金魚のような尾鰭を持つ人魚は、ブレンにそう声をかけた。

「クルワズリでは見慣れぬ頭をしておる。ーーああ、あいつの仲間か」

 人魚は筆で描いたような髪と同じ烏色の眉を寄せ、さも納得したようにわずかに視線を逸らした。

 そして周囲を見渡し、納得したように鼻を鳴らす。

「イルカのような鳴き声がしたと思うてきて見れば、なるほど、そういうことか……」

 ブレンは十六夜と互いに見つめあっていたが、やがて彼女に導かれるようにふらりと立ち上がると、近づいていった。彼が歩くたびに、白い砂が、ざっ、ざっ、という音を立てる。

 十六夜はそばに来た少年は見下ろした。彼女がすっと背筋を伸ばすと、頭一つ分ほどブレンの方が背が低い。

 ブレンが十六夜を見上げる。

 髪と同じ、烏色の瞳に、どこまでも吸い寄せられそうになる。

「おいっ!! ブレン!!」

 背後から駆け寄るアルベリヒの足音と声に、頬を叩かれたように我に返った。

「あっ……」

 ブレンのこめかみから、汗の滴がたらりと落ちる。

 十六夜はふん、と鼻を鳴らすと、さも興味なさそうにブレンから視線を逸らす。

「お前、人魚に近づくんじゃねえよ!」

 がっ、とアルベリヒが強くブレンの両肩を両手で掴んだ。指先が食い込みそうになるほど、強い力だった。

「そなたらは、ジークの仲間か」

「はっ? なっ……」

「アドルフ司令官と、お知り合いなんですか?」

 ブレンは驚いて目を見開いた。

「アドルフ……? ああ、姓か。確かそのような名であったな」

 十六夜は白魚のような右手の指先を顎の下にそっとつけて空を仰いだ。その流麗な動作をブレンは目で追った。

 近くでよくよく見れば、十六夜は東洋的な美しさを凝縮したような人魚だった。

 白い光沢を放ち、適度な水分を含んだ、一つの絡みもない、射干玉の長い黒髪。前髪は、今までブレンが見たことのない形をしていた。

 眉のあたりで、ハサミで横から真っ直ぐに切りそろえられたかのようだ。背後に扇のように広がる長い髪も、同様だった。

 切長の瞳も黒いが、こちらは髪よりもわずかに明るい色をしている。黒の中に、琥珀が宿っているかのようだ。

 そしてーー。

(服を……着ている? しかもこれは、さっき商店街で司令官が買っていた服と同じ……)

 十六夜が上半身に纏っている衣服。それ着物だった。椿のような紅色をして、同じ刺繍糸で椿が花弁が重なるように縫われている。外に向かうにつれて、薄紅になっていくそれは、月の暈のようにぼやけていくように見えてとても美しかった。

 そして重ね襟は、彼女の髪と同じ烏の濡羽色。半襟は、月の光を凝縮したような淡い黄色に、辻ヶ花の紋様が、同様の黄色で縫われている。

 尾鰭と上半身の間に位置する、腰に纏われた帯も、半襟とひとしく、烏の濡羽色をしており、よく見ると黒の刺繍で双魚の模様が描かれていた。帯紐は月色。帯留は夜光貝を象っている。

 ブレンは着物についての知識は、クルワズリに来るまでなかったが、ジークフリートが着物を購入した後、興味を持ち、仲間と再開するまでの間、彼から話を聞いていた。

 見れば見るほど、不思議な人魚である。そして不思議な魅力がある人魚だった。西洋系の男は、東洋系の女に惹かれるという話を、先輩たちが酒を飲んでいるそばで、リンゴジュースを飲みながら聞いたことがあるが、本当にそうなのかもしれないと思わせるほどの引力がある。そしてローレライ岩で見たどの人魚とも似ていなかったので、ブレンは警戒心を解いた。

 彼女の瞳がこちらへ向けられる。外に向かうにつれて厚みを帯びる、髪と同じ色をした烏色のまつ毛が、かすかに揺れて、白い星屑のように光った。

 ブレンは先ほど、ブリュンヒルデをビート板のようにして海の彼方へ泳ぎ去っていった上官の背中をふっと思い返した。

 目の前に現れた、金魚の尾鰭を持つ人魚、自分たちに害を与えようという気は、決してないーー。

「人魚さん、あなた、名前は?」

 一際大きくあかるい声で、尋ねる少年に、十六夜は身をすくめて驚いた。

「? 私はロゼ・十六夜・ダルクというがーー」

 ブレンは両拳を胸の前でぐっと握りしめ、わずかにつま先を立てて背を伸ばして彼女に顔を近づけた。その頬は、緊張から赤く染まっている。

「じゃあ、ロゼさん。僕たちを、アドルフ司令官のところまで連れていってくれませんか?」

 十六夜は刹那、言われた意味がわからず唖然としていたが、やがてその漆黒の瞳を大きく開いた。

 永遠に思われるような沈黙が流れる。その間を通るのは、蒼い海の波の音だけであった。

「なるほどな……」

 十六夜は波音に自分の声を乗せるように、そっとつぶやいた。

「アオイとアカネ、双子が幾星霜姿を見せぬと思うたら、ジークと一緒であったか」

「ふ、双子ともお知り合いなんですか!?」

「ああ、まあな。あやつらは孤児でな。私がひとり、夜の海の波音を背景に歌を歌っておったおりに、腹をすかせてふらふらとやってきたのだ」

 十六夜はかすかに目を細める。自分の頭の奥に大切にしまった箱のあや糸を解くかのようだった。 

「私は人の子供に対しての警戒心はほとほとない。なので、手元にあった、おやつとして食そうとしていた生牡蠣の貝をぱかりとひらいてその白い身を喰らわせてやった」

 十六夜の話は、目の前にありありとその情景が浮かぶかのようだった。海の潮の音、低い声を生かして歌う十六夜の歌声。それに導かれやってくる、今よりも痩せて虚無な目をした双子。

「それから夜になると私の歌を子守唄がわりに聞きにやってきて、歌が終わると話し相手になってやる日々が続いた」

(ばっちり懐いてんじゃん……)

 ブレンは思ったが、あえて口にはしなかった。

 十六夜がこちらを向く。

 ブレンはその時、彼女の腰を見て、はっとした。

(これ……、東洋の武具では……?)

 十六夜の腰に纏われていたもの、それは刀であった。彼女の上半身よりも僅かに長いそれは、黒漆の鞘だった。陽光があたり、鈍く光と朱色の煌めきを宿す。まるで十六夜の体を貫くかのように、僅かに傾いた真横に帯びている。着物に茜色の腰紐で結われ、固定されているようだ。

 十六夜は蒼空を見てから、ふたたびブレンを見る。

 その眸には、空を反射して青いともしびが浮かんでいるようであった。

 ブレンは、なぜかその時、この人魚になら、殺されてもいいような、深い泉に沈められた心臓が、再び浮かび上がってくるような、奇妙な諦念を感じていた。

「そのような青褪めた顔をするでない。私は危害を加えようとしない人間には、とりわけ子供には、手出しはしない」

 ブレンは頬を叩かれたようにはっとする。

 いつの間にか、額に冷たい汗をかいていたらしい。その汗がこめかみを伝って頬を濡らす。

(一瞬、時が止まったかと思った)

 どっ、と額から伝う大量の汗を舌先で舐めると、海の味がした。

 十六夜はブレンの足から頭までを眸をすがめて見つめ、自分を納得させるように頷いた。

「お前が気に入った。人魚のあやつらのところまで案内してやろう。なに、私はいちばんの人魚、海の中で鼻と目が聞くのだ。闇夜に狩りをするフクロウよりもな」

 「ほ、ほんとうですか?」

 ブレンは瞳を瞬き、つま先を上げてさらに十六夜に顔を近づける。

「ああ、本当に」

 十六夜は腕を組んでブレンを見下ろした。自分に自信のある者の顔をしている。

「うわっ、やったぁ! ありがとうございます!!」

 ブレンはわかりやすくガッツポーズをして、腰をかがめ、あかるい笑顔を浮かべる。

 すると、背後から砂を蹴る足音が聞こえてきた。

「おい、ブレン大丈夫か!? おうい、人魚、てめえ、俺の手下に何かしたらタダじゃおかねえぞ!!」

「……なんじゃ。この小汚い人間は」

 十六夜はアルベリヒを一瞥すると、生ゴミでも目にしたかのような、絶望した顔をする。

「こ、こここここ、小汚いって、てめ……」

「ベルツさん、この人魚さん、悪い人魚じゃないみたいですよ。人間に手を下そうとは思ってないみたいでっ! 司令官と双子ちゃん達と、友達だったみたいなんですっ」

 ブレンはくるりと後ろを振り向いて必死の弁明をした。

 アルベリヒは険しい顔で十六夜を睨んでいたが、ブレンの言葉を聞き、体の力を緩めた。

 目と口を丸くして十六夜を見つめていたが、ふっとブレンを見下ろす。

「そ、そうなのか……?」

 目の前にいるのは、白い肌に灰色の影を宿して首を僅かに逸らし、こちらを見下ろしている美しい黒髪の人魚である。

 アルベリヒの頭には、今まで出会った人魚の姿が彼女の目の前に映され、重ねられるように見えていた。

 ローレイライの憎き人魚の群れ。

 時を過ごす毎に、愛おしさが増していったブリュンヒルデ。

 そして、目の前にいる人魚ーー確かブレンに『ロゼ』と呼ばれていた。そう、ロゼ。ロゼーー。

 彼女の首筋は真白く、薄い鎖骨に似合わず、その胸は、白い月光を灯したようにふっくらと丸い。それが、東洋の衣服の下に隠されている。不思議な魅力の美しい女だと思った。

 刀の刃のように切長だけれど大きな烏色の瞳が、こちらをじっと睨んでいる。夜の泉に浮かぶ月のように、細かな光を宿すそれに吸い寄せられそうになる。

「人間、私を見て腰を抜かしたか? 情けないのう」

 十六夜は腰を僅かにかがめて固まってしまったアルベリヒを見て、ふっと胸にためていた息を吐くと、呆れ顔になる。 

「少年、名は」

「は、はいっ? ブレンですっ!」

「ブレンか、良い名前だな。今まで出会った者の中でも、上位に位置する名前だ」

 十六夜はブレンを見つめたまま、うっすらと口角を上げた。先ほどアルベリヒを見ていた時とは別人のような顔だ。

「海に連れて行くのは、そなただけだ」

「はいっ!! ありがとうございますっ! ……って、えっ……?」

「は……?」

 ブレンとアルベリヒはぐらりと体を前へ傾けた。急に腹の中央を拳でやわい力で殴られたようだ。だが、そこは兵士であるので、すぐに体制を立て直す。これからみんなで海へ乗り込んでいこうと意気込んでいた気持ちが、拍子抜けだ。

「えっ、なんで俺は居残り?」

 十六夜は腰に手を当ててアルベリヒを見る。 眉も寄せないポーカーフェイスなので、送られる視線と態度が、より冷たく感じる。

「私は気に入った人間としか関わらんようにしている。後が面倒だからな。だから先に言っておく。お前は気に食わない。だから、関わりたくない。海へも連れて行かない」

「いや〜。ロゼさんでしたっけ……。はっっきりした性格してますねえ……。面と向かってきらいって言われると、俺でも傷つくんですが……」

 アルベリヒの顔は、真っ青な空よりも青褪めて見えた。

 ブレンも息を呑んでくちびるを噛む。

(うわっ、きまず〜……)

 ブレンはアルベリヒの落胆した顔を見て、なんだか可哀想になってしまい、苦笑いを浮かべてひとさし指を立てると、アルベリヒにあかるい顔を向ける。十六夜に聞こえないように、つとめて小声で話す。

「ほ、ほら! ベルツさん、疲れてらっしゃるし、顔色悪そうだったから、きっとロゼさんも気を遣ってくれたんですよ。人魚ってそういうとこ、人間より察し鋭そうだしっ」

「そ、そうなのか?」

 アルベリヒは顔を上げると、白目がきらりと光る。ああ、すでに涙の幕が張ってしまっているのだ、とブレンは察した。

 アルベリヒはブレンの言うことを間に受けて、姿勢を正し、襟を片手で整えると、、自信ありげな笑みを浮かべる。十六夜に向けて手のひらを向ける笑いをする。

(いやな含み笑いだな〜……)

 ブレンは思った。まあ、アルベリヒの性格はとうに慣れているので、ブレンはなんとも思わないが、初対面の、それも女性に対してこんな態度をとれば、嫌われると言うことを彼はわかっていないのだろう。だからモテないんだよ、とブレンはそっと心の中で呟いた。

 アルベリヒは彼女の名前を脳内で反芻した。

 ロゼ・十六夜・ダルクーー。

「あんたさぁ。ロゼさん? イザヨイさん? だっけ、ま、どっちでもいいわな」

「は?」

 十六夜はさらに眉を顰める。

(うわぁ〜。不機嫌になっちゃったよ。これ以上彼女の神経を逆撫でしないでくれ〜)

 ブレンは両手を握りしめ、身を縮こまらせると、神に祈り始めた。

「あんた、ジークに和名の方で呼ばれなかったか?」

「和名? 十六夜のことか」

 十六夜は一瞬押し黙り、斜め上に視線を向けると、何かを考えたが、再びゆっくりとアルベリヒに戻す。

「まあ、そうだが」

「あったり〜〜!!」

 アルベリヒはあからさまに喜ぶ。

 ブレンはもう目も当てられなくなり、瞼をぎゅっと閉じて、聖書の第一ページから心の中で朗読し始める。全身の毛穴から汗が吹き出しそうだ。

 十六夜は目を丸くして固まっている。

 それに気付かず、アルベリヒは、得意げに胸を逸らして己を右手の親指でさすと、鼻を鳴らした。

 眉をあげ、声のトーンを一段あかるくする。

「あいっつ、日本趣味だから、そっちに反応してやがんのな……。あ、お姉さん。今のは気にしないでおくれや」

 手のひらをひらひらと十六夜の前でかざす。

 十六夜はただ固まってアルベリヒを見ているだけである。

 なんだ、この男は?

「じゃあ俺も『十六夜』って呼ばせてもらうわ。十六夜、紹介が遅れたが、俺はアルベリヒ・ベルツ。ジークフリートの上官であり、幼い頃から死線をともにしてきた無二の親友だ」

(もう嘘ばっかり!)

 ブレンは声には出せず、体を丸めて祈り続けるだけである。聖書の朗読は150ページまで進んだ。

「はっ、口ではいくらでも言える。真実かどうかわからんな」

 十六夜は舌打ちをして、冷たい視線を送る。

「言うねえ……」

 アルベリヒは瞳を眇める。

「お前も、ジークに会いにいきたいというのか」

「いや、会いたいっていうか、あいつがどこに行ってどうなってんのかが気になってるだけだよ」

「なるほど、心配なんだな」

「……」

 アルベリヒは決まり悪そうに頭をかくと、十六夜から目を逸らした。

「わかった。そなたも連れて行ってやろう」

「えっ、本当かよ!! ロゼちゃん!!」

 アルベリヒは十六夜の前に跪いて、両手を重ねて頭を下げた。

「ああ、ロゼさま、神様、ありがてぇ〜……」

 ブレンはそれを真顔で見つめていた。

「ただし条件がある」

「は?」

 十六夜はアルベリヒを見つめると、何かを企む子供のように、眸と鼻の間に影を宿してにやりと微笑んだ。

「ねえ、ロゼちゃん!! 俺、こんな風に海を泳ぐことになるなんて、聞いてないんですけど〜!!」

「ベルツさん!! あんまり喋ると、口に海水が……」

「あ、あわっ、ごぼごぼごぼ……」

「チッ、うるさいのう。黙ってしっかりとつかまっておれ。振り落とされて、海の藻屑と消えても私は知らんぞ。そなた、海の男なのであろう。ぐだぐだと文句を言わず、波に身を任せておればよいのだ。そうすれば、波は自然と己の味方になってくれる」

「ふぁ、ふぁい……」

 ブレンは十六夜の白い肩につかまりながら、後ろを振り返っては可哀想だなと言う思いを感じていた。

 なんせ、アルベリヒは十六夜の美しい尾鰭につかまって、泳がされているのだから。

 彼女が尾を叩いて進路を変えるたびに、アルベリヒは飛び上がって叩きつけられる。白い飛沫が顔に当たり、瞼を伏せる僅かな間、アルベリヒが白目を剥いて涎を垂らしているのが見えた。

 十六夜はアルベリヒのことを気にせず、前を真っ直ぐに向いたまま、垂直に手を体につけ、泳ぎ続ける。彼女の着ている着物は、海水を含み、すでに重い鎧と化していた。

 ブレンは、アルベリヒに対する同情心から離れると、前を向く。十六夜の黒い後頭部が、深い青の海面から浮き上がって見える。

 強い風が吹き、彼女の長い黒髪がぶわり、と舞い上がる。ぺちんという音を立てて、ブレンの柔らかな頬を打ったので、彼は一瞬片目を瞑った。

「ロゼさん! 司令官たちの気配、感じましたか?」

「ああ」

「どこに?」

「北西へ。北西の海底に、あやつらはおる」

 十六夜はゆるく背後を振り返る。烏色の瞳が刹那にきらりと琥珀のともしびを映した。

 ブレンはそれを目にして唾を飲む。

 獲物を見つけた烏のように見えたからだ。

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