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人魚襲来、ふたたび

 ぶぉぉぉぉ、と海の水面に直接太鼓の腹をつけて響かせるように、不安定だが、地に足の付いている響きが、ざぁっと海面を走る。

 白い砂浜までをも震わせるそれは、地鳴りのように砂を舞い上がらせる。なので、今、浜辺にはクリーム色の霧が出来ていた。それらは、海の砂で作られている。

「おいっ……。ジークっ……。こいつはっ……」

「っ……。あぁっ……」

 大の男ふたりは、数分前に全てを察して、両耳を両腕で防いでいる。整った額からは、脂汗が流れ、彼らの刈り上げたもみあげを濡らす。

 着ている白シャツと背中の間からは、じっとりと嫌な汗が流れ、陽光で心地よく乾いていた彼らの服の素材を濡らす。

「なぁっ……。これ、ローレライの人魚と同じ存在なのか?」

「わからんっ……」

(だが、声の響きが、ローレライで出会った人魚よりも、さらに歪な感じがする……)

 ローレライの人魚は、男たちの肌の表面を指先で撫でるような、そんなくすぐったい響きの歌声を持っていたが、この人魚たちは、直接耳を刺してくるような、そんな響きを持っていた。

 人魚の歌声が強まった。

 ジークフリートは、片目を瞑り、再び強く片耳を塞いだ。歯を食いしばる。

 かすかにつま先を動かすと、テラコッタの床が、がさっと剥がれた。それくらい強く地を蹴ってしまったらしい。一瞬目を移すと、自分が崩した橙色の土埃が浮いて見えた。なぜかその陽光をさらに暖めたような色に、釘付けになった。


 ぼぉぉぉぉぉぉ。


 人魚の歌声はさらに大きくうねって聞こえてくる。迫り来るそれに、アルベリヒは恐怖を感じながらも、口角を上げていた。

 ブレンはそれを見てはっとする。

「ベルツさん……。あんた、何笑ってやがるんですか!」

「へっ……。人間、怖すぎるとな。笑いが込み上げてきやがるんだよ。てめえももう少し、人生経験を踏めばわかるってもんだ」

「そ、そうなんですかね……」

「おいっ、余計な会話で体力を使うなっ……『あの日』のことを、思い出せっ……」

 ジークフリートが眉を顰めながら、体制を変えてブレンたちを見た時だった。

 一際大きな鳴き声ーー歌ではなく、吠えるような鈍色のーーが海の彼方から轟いたかと思えば、街の方から多くの足音が、こちらへ波のように向かってくる。

「おいおいおい……。ちょっと、待ってくれよっ……」

 アルベリヒの黄色かった顔が、冷たく青褪めていく。

「これはないだろうよ……」

 ジークフリートもこめかみを抑えながら息を呑んだ。

 街の人間たちが、わらわらと、この街特有の、木造の建物と建物の間から出てくる。

 ジークフリートはその様を見て、船での悪夢を思い返していた。

 彼の脳内が、白く明滅する。

 体が沖へ、沖へと引っ張られる。

 それに抗おうと、背後へと意識を持っていくのだが、上手く体を動かせているのかすら、わからなかった。そばにいるアルベリヒに「なぁ。俺は今正気か?」と尋ねてみたかった。だが、アルベリヒも辛そうだった。赤茶色の前髪を額に張り付かせ、眉をきつく寄せながら脂汗をかいている。

「アルベリヒ……」

 ジークフリートは意識せずに、幼馴染の名前を呼んだ。

 するとアルベリヒは瞼を震えさせ、目の前でうずくまり、辛そうにするジークフリートの方を見る。

「ヒルデの嬢ちゃんは大丈夫なのか」

「……ブリュンヒルデは、俺の背中で、かわいそうに、小刻みに震えている」

「……そうか。……お前が勇気づけてやれ」

「……」

 アルベリヒの口から、そんな言葉が出るとは思わなかったので、ジークフリートは少し驚いていた。だが、かけてくれて嬉しいと思える言葉だった。冷えていた心が、わずかに熱を帯びた気がした。

「……ああ」

 背負った籠を見遣る。

 籠はやはり、小刻みに揺れている。覗くブリュンヒルデの頬が、わずかに見える。真っ白で、感情を感じられないほどだった。冷静になってよく考えてみれば、彼女は人魚が怖いと思っているのだろうか、自分達人間は、人魚に対して恐れの感情を抱いている。それは、先にローレライ岩での攻防があったからである。だが、ブリュンヒルデはどうなのだろう。

 こうしている間にも、人が大勢浜辺の方へと歩んで来る。彼らと対するのは海の人魚たちと、訪れては引いていく、白濁した青い波。

(このままではまずい………。あの船での二の舞になる! 街の者たちを止めなければ……)

 ジークフリートは片足を動かし、鉛を詰めたように重くなった体を、ゆっくりとだが動かして、浜辺へと向かおうとしていた。大勢の人間を、自分ひとりの腕で止められるとは思えなかったが、天に向かって銃声の一発でも鳴らせば、誰かひとりでも正気に戻ってくれる人が出てくるかもしれない。

(無駄なあがきなのかもしれない……。そんなことをしても、誰ひとり助けられないかもしれない。そうなった時、その悲しみ、虚しさを抱えるのは俺の自己責任だ。だが……)

 あの悪夢の夜の無念、それからの眠れない夜、墨を吐いたように暗い空を眺めながら、眸に涙を膜をうっすらと張り、手の甲でそれを隠しながら、熱いものが乾いた頬に流れていくのに耐えていた空虚な時間を思い返すと、ここで何もせずにただ蹲っていては、もう一度同じことを繰り返すだけである、そう自分に言い聞かせていた。

「っ……」

 だが、ジークフリートの体は、石を詰められた童話の狼のように、重く、動かしずらくなっていた。無理に動かそうとすると、足の付け根や膝に痛みが走る。

(どうすればいい。どうすれば)

 そう思っていた時であった。

「アオイッ!?」

 同じくうずくまっていたアカネが、弟の名を叫ぶ。

 ジークフリートはアカネの方に目を向けた。

 アカネは、琥珀色の目を瞠り、口を丸く開けて海の方を見ていた。そのくちびるは、青褪めて震えている。彼女のそばにいたはずの、アオイはいなくなっていた。

「アカネっ……。アオイはっ……」

 ジークフリートが呼びかけると、アカネは泣きそうな顔で彼の方を見た。そして、震える肩を動かし、腕を上げると、すっと人差し指を海の方へ向ける。

 ジークフリートはその動きにつられて、彼女の指先が示すものを見た。

 ジークフリートはその動きにつられて、彼女の指先が示すものを見た。

 視線の先、白い砂浜の上に、アオイが立っていた。背筋をまっすぐ伸ばし、わらわらと来たる街の人たちと真っ向から対するような位置にいる。

 ジークフリートは固まりつつある体を無理に動かしてでも、アオイに首を向けた。

「アオイッ……」

「アオイ……。何を」

「そうか……。そういうことか」

 大人ふたりが訝しむ中、ブレンひとりだけが、何かを悟っている。

「おいブレン。何だ……? もったいぶらずに教えやがれ」

 アルベリヒが切れたようにブレンを睨む。

 ブレンは顔を上げ、アルベリヒを見る。その表情はどこか明るい色を帯びていた。

「アオイくんは、耳が聞こえないんです。だから、彼だけが、この場で自由に体を動かせる。なんの枷もなく!」

 アオイの目の前には、全ての色鉛筆にセピアを垂らしたような色をしたクルワズリの街並み、そしてその建物の間の十字路からわらわらとこちらへやってくる、ゾンビ化したような街の人々が見えていた。

 アオイは恐怖で体が小刻みに震えているのを感じていたが、離れたところにいる姉の顔を見て、拳をぐっと握りしめた。

 その時、アオイの体の中から、ほのかに感じていたあたたかさが強くなり、やがて熱い湯の泉がこんこんと湧き出すような、力強い勇気が湧いてきた。姉が見ている。その事実だけで、アオイの凪いだ心は、火を灯す。

 人が迫ってくる。

 その顔は、何かを恐れるような、悲しむような顔をしていた。歌を聞いて、心地良さそうにする人の顔には見えなかった。もっとも、アオイは生まれてこの方、歌なんて、聞いたことがないから、想像の世界でしかないけれど。

(僕も人魚の歌声が、もしも聞こえていたら、この人たちのようになっていたのかもしれない)

 アオイは静かな想いに囚われていた。それは、舞来たる人が、彼に迫ってくるほんのわずかな時間であった。

 アオイは薄い瞼を半分閉じる。そして、近づいた人しかわからないほどに、わずかに口角を上げた。

 その声を、ジークフリートたちは聞いた。

 地上で話す、すべての人の声が、カップの底に固まったクリームだとするならば、その声は、カップの上部を漂うミルクのような、そんな声だった。確かな手触りはないが、てのひらに触れると心地いい、そんな声だった。

(アオイがあんな声張ってんの、初めて聞いた……)

 アカネが呆然とアオイの方を見ながら、そう呟いているのを傍に聞いた。

(アオイ……)

 ジークフリートたちも、アオイの方を見ながら、その声に五感の全てが惹きつけられていた。

 アオイは腹と喉が壊れるのではないかと思うほど、全身の力を使って叫んでいた。体をくの字に曲げ、麻呂眉を限界まで中央へ寄せ、

 口が裂けるのではないか、というほどに大きく口を開いて。

 人魚たちが放つ、ぼぉぉぉぉぉぉ、というふいごのような鳴き声が、アオイの叫びに散り散りになって溶けていくように、止んだ。

「鳴き声がーー」

「と、止まりやがった……?」

 あたりは先程の喧騒が嘘のように、凛としずまりかえっていた。

(体が、自由に動く)

 ジークフリートは、鉛を入れられたような重たい体を動かしてみた。両手を目の前で開いたり閉じたりする。ゆっくりと2、3度足踏みしてみる。そこに先程ねばつくように合った不快感や甘いうずきは、何も感じなかった。 

(まさか、アオイの声で……?)

 はっと顔を上げ、浜辺の方を見る。そこには白い砂浜の上で、我に返ってぽかんとする人々と、声を枯らして上体を倒し、蹲ってぜぇぜぇと荒い息をついているアオイの小さな姿しかなかった。

「アオイー!!」

 傍で悲鳴のような少女の呼び声がすると感じた途端、アカネはアオイに向かって駆け出していった。涙を流していたのだろう。彼女が走るのと同時に、雫が煌めいて、流星のように流れていく。

 浜辺へと泳いで近づこうとしていた人魚たちは、びりびりとした痺れに全身が囚われていた、それに負けて、海の底へと泳ぎ帰っていこうとする者もいた。

 皆の中央を泳いでいた人魚・イザベルは、うっすらと筋肉を纏った薄い腹を波につけ、なんとか体制を整えようとしていた。片手はガンガンと鳴る頭痛をわずかでも抑えるために、頭の横につけている。

 紅い珊瑚のようなつやかかな髪に、黄金色の眸が睨む先には、アオイの小さな背中があった。

「『カナメ』は、あの少年にあったか……」

 女性にしては低いがまろやかな声で、憎々しげに呟いたその言葉は、寄せては返す海の潮の響きにかき消される。

「イザベル様、どうします。あの少年、あのまま人間たちに渡しておくわけにはいかぬはず」

 イザベルのすぐ右側にいた彼女の側近の人魚・コヨーテがきぃんと鳴る耳を押さえながら、イザベルに話しかけるため、彼女にそっと近寄った。

「渡しておける訳がなかろうがっ!!」

「ぐッ」

 イザベルはコヨーテの肩を片手で強く掴むと、引き寄せ、彼女の白く滑らかな首筋に噛み付いた。艶やかなぽってりと厚い橙色のくちびるの内側に隠された、鋭い鍵爪のような刃が、真っ直ぐにコヨーテの柔らかな肩を貫く。鮮血が吹き出し、ぶるぶると震えが走り、コヨーテはイザベルに手を冷たく離されると、

 呼吸も整わないまま、海の藻屑と消えていった。

 イザベルは沈んでいく側近の水色の髪が、紺碧の海の中で煌めいていくのを、何の感情も宿さない冷たい視線でただ見送っていた。

「はぁ。汚い汚い」

 イザベルはぴっ、と左手の人差し指を立てると、億劫そうにそこに息を吹きかけた。指先についていた血が、深紅の薔薇の花弁が散るように風に乗っていく。

「アオイっ……。アオイっ……!」

 アオイは枯れた呼吸を整えながら、茫としたまなざしを、どこに定めるでもなく漂わせ、アカネに抱かれるままとなっていた。けぶるような烏色の睫毛が伏せられ、頬に影を宿した。彼の光を失った琥珀色の瞳を、守るように覆っている。

 アカネの涙は大粒の真珠のようで、アオイの背中に触れて、その体を熱く濡らしていく。

「おい、あのチビ。無事だったのか?」

 アルベリヒは、急に自由になった体に驚いていた。なんだかふわふわする心地だ。両腕を左右に揺らし、脚で地を踏むと、強く踏みすぎたのか、爪先に痛みが走った。

「いってぇっ!」

「……ベルツさん、この場で言うセリフじゃないですけど……馬鹿ですか?」

「なんだとブレンてめぇっ!!」

「それよか、アオイくん凄いですね。あの人魚の歌声と、群れ来る人々を止めるなんて……」

 ブレンが輝いた瞳を海へ向けるので、アルベリヒもつられて海の方を見る。

 そこにいるのは紺碧の海を背景に、白い砂浜に立つ1人の少年と1人の少女の姿だけであった。何も、特別なものは感じさせない。

「ああ……」

 アルベリヒは珍しく心から感動する声を発していた。

 一方、抱き合う姉弟を遠くから瞳を眇めて見つめながら、ジークフリートは何故だか心が不穏を感じていた。それは兵士として危機を知らせるアンテナのようなものだった。

 ジークフリートは、アオイたちの元へ向かおうと、体を動かした。

 

 その、刹那。


「おいっ、あれ……」

「なっ……」

 浜辺に美しい黒のシルエットを落としながら、抱き合っている姉弟の背後から、青と白が混ざった波が、大きな波が押し寄せてきていた。

「アオイ、アカネ、逃げろっ……!」

 ジークフリートが掠れた声で叫ぶ。

 だが、彼らにその響きが届く前に、彼らは波に喰われてしまった。 

「……っ」

 石のように固まったジークフリートは、目を瞠り、言葉を失う。

 ジークフリートの視界の残像には、硬いくるみのように抱き合った双子の愛おしい姿が、悲しく残っていた。

「アオイくん!! アカネちゃーん!!」

 ブレンの泣き叫ぶ声が、背後に聞こえていたが、それすらも、やがて耳の奥から訪れる高い耳鳴りによって鈍く消えていった。


  とんとんとんとんとん。


 ジークフリートの背負った籠から、子君良いリズムで、誰かが壁を叩く音がする。

「ブリュンヒルデ?」

 ジークフリートは首を後ろに回らせて、背負い籠を見た。

「ジーク。私を海へ連れていって。あの子たちを助けたい」

「ブリュンヒルデ……! お前、何をーー」

「いいから早く!」

 彼女の声が、壁越しにくぐもって響いた。

「……わかった」

「あ、おい。ジーク!」

 アルベリヒの呼びかけも気にせず、堤防に片手をかけ、それを支点にしてぱっと全身を飛び上がらせる。ジークフリートは長い脚を交互に限界まで伸ばして、浜辺へと向かった。彼が地を蹴るたびに、白い砂が煌めいて舞い上がる。

 履いていた飴色の革のブーツの中にも、砂が入ってくる感触があった。

 浜辺に降り立つと、急に力を失って、呻き声を上げて倒れている人々や、呆然と海を見つめているだけの人々が周囲にたむろしていた。

 ジークフリートはそれを一瞥する。一人一人声をかけて、気遣ってやる時間がなかった。後はブレンやアルベリヒがなんとかしてくれるだろう。そう祈った。

「出てこい。ブリュンヒルデ」

 ジークフリートはしゃがんで籠をそっと降ろし、かけていたボタンを解いた。するとブリュンヒルデ自ら頭を上へ突き出し、籠の蓋を飛び開けた。

 目の前で星が散る。それはブリュンヒルデの髪の色だった。ふわりと舞い上がったそれは、どこまでも透き通るような金に、緑の光沢を緩やかに打っていた。

「ジーク」

「ブリュンヒルデ。ずっと鞄の中に閉じ込めていて申し訳なかった。辛かっただろう。久々に浴びる潮風はどうだ」

「うん……。すごく、気持ちいい」

 ブリュンヒルデは海の方を見ていた。

 ジークフリートは、彼女の大きな瞳と、白い桃のような頬を見つめていた。

 潮風がひときわ強く吹き、彼女のおさげが後ろへ向かって緩やかになびいた。きらきらと光の粒子を纏うそれは、これからの希望の色を示している。ジークフリートは切なく眉を寄せてそう神に願った。

 ブリュンヒルデがこちらを振り向いて、柔らかく微笑む。

「行こう」

 そして、ジークフリートに向かって白い手を伸ばした。彼を、海に導く女神のように。

「ああ」

 ジークフリートは無骨な腕を伸ばし、差し出された彼女の手を取った。大きさの一回り違うそのふたつの手を、陽光は等しく照らしていた。

 アルベリヒとブレンが息を呑んで見守る中、

 ジークフリートとブリュンヒルデは手を繋いだまま、互いの半身を海水に浸した。

「……冷たいか」

「……ううん。前は夜の闇だったもの。今はお日様の下で、暖かいわ。へいき」

「……そうか」

 ブリュンヒルデは、ジークフリートを見上げてそっと微笑むと、すぐに真剣な顔になった。ブリュンヒルデは浜辺についている尾鰭をなめくじが這うようにうねうねと歩を進めた。彼女の腰が全てつかる位置までくると、海水が肌にどんどん馴染んでいく感覚になる。人魚にとって、海は元の住処。

 文字どおり、水を得た魚である。 

 彼の手を引く彼女の白い手と腕が、蒼い水面に浸っていく。まだ深いところまで沈んでいないその腕は、海水に透けて薄青く見えていた。

 顎の先までを海水に浸す。後数センチでくちびるまでもが触れてしまいそうで心配になったが、そういえば彼女は水の中で息ができることを忘れていた。そんな自分に呆れた。

 耳の後ろから流れ、頬の下をゆったりと結われたみつあみが、ゆらりと海水の中で漂う。その様は、見下ろしていて、とても幻想的だった。淡い青の下を流れる、金のみつあみ。

 ゆるやかに揺れるたびに、早緑の光沢を、その編み目にまとう。たぷん、と水面をさざなみが打つ。ブリュンヒルデはその波に、片目を閉じた。

「ブリュンヒルデ、ここからどうやって行く。俺は……」

「私の肩に、あなたの手を載せて」

「? それはどういうことだ?」 

 ジークフリートが少し驚いて首を落とすと、

 ブリュンヒルデはにこりと笑った。

 その笑顔が、陽光を彼女のもとに集めたように輝いていたので、ジークフリートは眩しさを覚え、わずかに瞼を伏せた。

 ブリュンヒルデは立ち止まるジークフリートの右手首をそっと掴んで取ると、海面から浮き上がって出ている己の白い肩にそっと触れさせた。

(掴めと?)

 彼女の意図を汲み取り切れておらず、訝しむ顔を見せるジークフリートを見上げ、ブリュンヒルデはさらに強く彼の腕を引いた。

「っおい!」

「いいから」

 ジークフリートはふいのことで、わずかに体制を崩し、海面の中の白い砂へ膝をつく。衝撃で跳ねた雫が、彼の着ていた軍服を濡らす。引かれた手は、ブリュンヒルデの肩へ回された。

 彼女を再び見ると、こくんとひとつ頷かれて、「肩に掴まって」と視線で合図される。

 突如、強い力で前へ引き寄せられると、一瞬浮遊感を感じた。

「うおっ!?」

 思わず喉の奥から低い声が漏れる。

 ブリュンヒルデが、イルカのように素早く海を泳いでいるのだと気づいたのは、彼女が彼を担いで沖まで泳いでからだった。

 あまりにも早いスピードで、ブリュンヒルデが泳いでいたので、跳ねる潮が目に入りそうになるのを防ぐため、ジークフリートは彼女が動き出してから、瞳を眇めていた。視界が開け、ようやく前方から来る風が、先ほどよりも穏やかになると、彼は瞳をゆっくりと開いた。

 開けた瞼の中に、ぴりっと痛みが走り、涙の膜が張るのを感じた。

 視界に広がるのは、紺碧一色。

「ブリュンヒルデ……お前は」

 ジークフリートはしばらく驚いて青い海と、青い空の境界が水色に混ざって溶けていくわずかな線を見つめていたが、はっと我に帰ると、ビート板のように掴まっているブリュンヒルデを見下ろした。白い肩が、海面に剥き出しになっている。それに掴まっている自分の大きな手は、ひどく無骨な岩のようだと刹那に感じた。

 彼の半身も、彼女と等しく海に沈んでいる。海は意外にもあたたかく、体が冷たく固まってしまうことはなかった。だが、足の先は海の深みに落ちているので、適度に動かしていないと感覚がわからなくなる。体全体に浮遊感を感じている。

(陸に立っている時に感じる、体の重みが消えている……)

 もちろん、海に入ったことは、これが初めてではない。子供の頃は遊びでよく泳いでいた。

(アルベリヒに誘われ、泳ぎの勝負に出たことも何度かあった。その度にジークフリートが勝つので、アルベリヒはうるさく悔し泣きしていたが)

 海軍に入る前の訓練兵時代に、入軍試験で海で泳いだこともある。その時も子供時代の遊びが幸いして、苦を感じることはなかった。

 陸軍の兵卒がほぼ徴兵であったのに対して、海軍ではその多くは志願兵であった。みんな海が好きで、海で戦う男に憧れたものばかりだったので、泳げない者の方が少なかったのだ。

 たぷん、と海面の波が背を叩き、ジークフリートはブリュンヒルデの方を再び見やる。

(ブリュンヒルデ……)

 彼女の顔は真剣そのものであった。

 左右に顔を動かし、瞳は火を直接宿したように虹色にぎらついている。

 背を通り、尾鰭の先に届きそうなほど長いそのふたつのおさげは、左右に広がり、2人を守る細い注連縄のようである。もっともその色は、朝の陽光を凝縮したような輝く金色をしていたが。

(ブリュンヒルデがアオイとアカネと接触したのは、籠越しであったが、それだけで彼女は、彼の匂いや気配を覚えられたというのか……)

 軍人としては、羨ましいほどの能力である。

 ジークフリートは瞳孔の開いた夜の猫のようになって集中しているブリュンヒルデを、背後で海に濡れながら見守っていた。

(アオイ、アカネ……。どこ、どこにいるの)

 白い富士額から、アンテナを伸ばすように神経を研ぎ澄ませていた。これは兄と海の中ではぐれてしまった時、はぐれ人魚になって野良とならぬよう、兄に教えてもらった知恵でもある。

 額の内側からこめかみに向かって、ピリピリとした小さな電流が走るような感覚がした。

 これだけ神経を研ぎ澄ませるのは、久しぶりだったからだ。

 だが、これだけ広い海、全ての範囲に神経を張り巡らせるのは、まだ成熟していない少女人魚には難しかった。急に人魚の能力を発動させたため、意識が時おりプツン、プツン、と途切れ途切れになる。急速に眠くなりそうなそれを、なんとか保つのは苦しかった。

(どうしよう……。このままだとアオイとアカネを見つける前に、私とジークが海に沈んでしまう)

 顎の先が、さきほどよりも数センチ海に沈もうとしていたその時、ブリュンヒルデは、額の前髪の生え際に小さな青い稲妻が落ちたような衝撃を感じ、ぱっと顔を上げた。

「いた!!」

 彼女の高く透き通った声が、海と空の間を響く。

「本当か!」

 ジークフリートも顔を上げた。

 ブリュンヒルデが見つめている先を捉えようとする。

 瞳を眇めるが、そこに広がるのはやはり紺碧の海と水色の空。そしてその境界の薄ぼんやりとしたヴェールだけであった。

「ジーク。違う。そっちじゃない。あそこ、あそこにいる」

「あそこ?」

 ブリュンヒルデが指差す先を、ジークフリートは追う。そこは、海面の先ではなかった。

 そこはーー。 

「海の……中……?」

 ジークフリートはその青い目を見開いた。彼のサファイアを覆う金のまつ毛が、潮風に吹かれ、ふるふると震えていた。

「ジーク、海の中。潜れる?」

 当たり前のようなテンションで、ブリュンヒルデが尋ねてくる。それはもう、これから海の底へ潜ることが決定事項であるかのような話だった。

 ジークフリートは息を止めてブリュンヒルデを見た。

 ブリュンヒルデはその顔を見て、眉を顰める。

「大丈夫? すっごい怖い顔してるわよ」

「? ……あ、ああ」

 潜るのやめる? そんな言葉が彼女から聞こえてくるーーはずもなかった。

 選択肢はひとつで、決めるのはふたりだ。「この海の底に、アオイとアカネがいるのか」

「うん」

 ブリュンヒルデは、こくりとひとつ頷いた。

「ゴーグルを……」

「え?」

「ゴーグルをつけさせてくれ。このまま海の中へ入ると、目がやられるからな」

 ブリュンヒルデはジークフリートを見つめたまま、ぽかんとした顔をしていたが、それを聞いて、にっと笑った。

 ジークフリートが懐に隠し持っていたゴーグルを取り出すと、それを被るように装着する。視界はうっすらとグリーンを帯びた。

 ジークフリートは一度その薄く白い唇を柔く噛み締めると、決意したように瞳を眇める。

 ブリュンヒルデはそれで全てを悟り、肩に回された彼の手の甲をそっと撫でると、一度高く海から飛び上がった。

 飛沫が彼と彼女の周囲をきらきらと光の粒子を帯びながら飛び交い、やがてブリュンヒルデが頭から海の中へ音も立てずに消えていく。蒼い海面に飲み込まれたふたり。

 後に残ったのは、円を描くように白いさざなみが立った紺碧の水面だけだった。

 あまりにも静かだったので、空を飛び交うカモメの鳴き声だけが、やたらとうるさく聞こえていた。

 閉じていた瞼をうっすらと開くと、蒼いヴェールの先に、ブリュンヒルデの金のおさげが波打ってジークフリートを守るように漂っているのが見えた。

 ぐんぐんとものすごいスピードで進んでいくブリュンヒルデの背中。そして的確な揺れを見せるピンクサファイア色の尾鰭。彼女の上半身と反して、その尾鰭はとても大きかったということに、そしてその意味に、改めて気付かされる。

(これが、この娘の本来の姿なのだな)

 両腕を滑空する鳥の翼のように真っ直ぐに後ろへ向けて伸ばし、息継ぎも見せずに、海の底へ底へと潜っていく。強い力で捕まっている細い背中と腕の白さが、暗い青の世界では際立っていた。

 ジークフリートはただ彼女に振り落とされないように、柔らかな肩から手を落とさぬよう、しっかりと指先に力を込めるだけである。彼女が痛みを覚えない、適度な腕力を保つのも忘れずに。

 海の魚たちから見て、ブリュンヒルデの体はうっすらと光の量を帯びた月のように見えていた。

 ブリュンヒルデが尾鰭を縦にくねくねと動かしながら下へ下へ進んでいくと、どこまで見渡しても青しかなかった視界に一つの点が生まれ、それがどんどんと幅を広げていった。

(あれは……)

 しばらく息を止めていたジークフリートは、僅かに上体を起こしたことで、くちびるの隙間から呼吸の泡の粒が漏れる。

 薄い青の膜を貼っていた視界が、点のつらなりに近づくにつれて、徐々にクリアになっていく。

 ブリュンヒルデが泳ぐ力を僅かに緩めたのか、ふわっと浮き上がるような感覚に襲われる。

(うおっ)

 突然のことだったので、彼女から振り落とされそうになり、必死で腕に力を込めてつかまった。

 海底の白い砂にすれすれの距離で急停止したため、彼女の周囲にふわっと砂埃が立つ。

(ブリュンヒルデ……)

「ついた。ここふたりは、いる!」

 彼らの周囲を覆っていた細かな泡が、ひとつひとつ割れて消えていく。

 ジークフリートはそれと同時にぎゅっと閉じていた瞼をゆっくりと開いていくと、ブリュンヒルデのブロンドの後頭部越しに、見えたものに目を瞠った。

 彼の口の中にかろうじて溜めていた空気が、ぼこりと大きな泡になって天へ上がっていく。

 それは、城だった。

 屋根は紺に銀色の紗を垂らされたようなきらめきを持つ、鱗のように幾重にも重なる甍。

 両端の先に、金のシャチホコのオブジェが載せられている。

 壁の肌は、真っ白。ところどころ、黒百合のような模様を描く。

(……竜宮城……?)

 聳え立つその大きな和風の城を見上げながら、ジークフリートはいつか遠い昔に、絵本の中で見た城を思い出していた。

 タイトルは、確か『ウラシマタロウ』といったか、と。

 もこもこと周囲にけぶるような白い砂ぼこりがわいていたが、それが徐々に収まると、ブリュンヒルデは己の型に掴まっているジークフリートの手の甲を、指先をめぐらせてとん、とん、と叩いた。

(降りろ、と?)

 ジークフリートはぱっちりとしたブリュンヒルデのオパール色の目を見つめ返した。

 ブリュンヒルデは、こくこくと頷く。

 確かに、もう海底は目と鼻の先で、ジークフリートの長い脚は今にも底に着きそうであった。

 そっと右足のつま先を海底に着地させる。僅かに砂埃が立ったが、やがてそれも沈んで馴染んでいく。

 ジークフリートがもう片方の足も着地させたのを合図に、ブリュンヒルデは彼の足の間から、すっと前へ泳ぎ、彼から離れた。彼女の尾鰭を纏うようにあぶくの粒が細かに立つ。ゆるりと海の中で一回転すると、片手を大きく広げ、自分がボートで、腕が櫂であるかのように、滑らかなその動きに、彼女が海の生物で、ここは彼女の国であり、これが本来の姿であることを、静かに思い知った。だとすれば、海から引き上げてから、自分はいかに彼女に対して酷なことをしていたのだろうと、罪悪感も込み上げる。それほど、美しい泳ぎ方であった。息をするように。

 そしてブリュンヒルデは、ジークフリートの目の前に、羽をたたんだ鳥のように舞い降りる。

 ジークフリートは彼女に「久々に泳げて、気持ちよかったか?」と尋ねようとした。だが、口を開きかけ、ここが海の中で、しかも深海だということを思い出す。海軍の彼でも、そろそろ息が限界だった。耳鳴りもする。

 このままでは、双子を見つける前に、息が続かなくなり、溺死してしまうのではないか。

 そう危惧した時、ブリュンヒルデが彼の前にふっと顔を寄せた。そして、吐息をふーっと吹きかけた。誕生日ケーキの蝋燭を消す時の、リリューシュカの顔がその時頭をよぎった。

 彼女の窄めたくちびるから、巨大な風船のような泡が生まれる。はっとしたときには、もうその泡に、顔全体が飲まれていた。 

「おい、これはーー」

 ジークフリートは空気の中で響く己の低い声を聞き取り、目を見開く。

(声が、響いている……?)

 横隔膜を動かして、大きく深呼吸をする。

 新鮮でほどよい温度の空気が肺を満たすのを感じた。

 呆然としていると、目の前でブリュンヒルデがくるりと一回転し、再び彼の前に顔を向け、にこりと笑う。

 ジークフリートはしばらくじっと彼女を見つめていたが、やがて鼻を鳴らすと「最初にこれをやってくれ」と笑った。

 竜宮城(とジークフリートは心の中で名付けた)の正門は、近づくととても大きく、ジークフリートの高い背丈も、ゆうに超えていた。

 黒々とした柱は、漆だろうか。海面から僅かに海底にも差し込む鈍い陽光が当たっている箇所が、赤く細かな粒子を持って煌めいている。

 ジークフリートは泡の中で薄く唇を開き、息をゆっくりと吐きながら、竜宮城を見上げていた。唖然とした感動しか、胸の中に溢れてこない。柱の前まで近寄ると、そっと片腕を上げて指先で触れた。確かな感触に、これが夢ではないことを知る。

(まさか、俺たちが今まで遊び、泳ぎ、戦ってきた海の底に、こんなでかいジャポニズムの城があったなんてな。誰が予想できただろうか)

「ジーク。こっちに」

 ブリュンヒルデが呼ぶ声が、泡の向こうから聞こえてきた。それは海の上で聞いた彼女の声と、違った響きを伴っていた。声に、夜の月のような暈がついているように感じる。洞窟の中で響く音のように、反響してこちらに届いていた。

「わかった。……ブリュンヒルデ、俺の声も聞こえているか?」

 ジークフリートはわざと大きな声で呼びかける。

 ブリュンヒルデはゆるりと一回転すると、親指と人差し指で丸を作り、「聞こえているわよ」という合図を送ってくれた。

 黒漆の門を潜ると、さらに大きな鉄製の扉の前に立った。隣には、ブリュンヒルデがいる。海の中を揺蕩っている彼女は、一見すると、空中を浮遊しているかのようで不思議だった。彼女のピンクサファイア色の尾鰭は、下から見上げると、地上で見た時よりも、うっすらとけぶる桜のように見える。それは鱗の重なりがそうさせているのか、海の中のフィルターがそう見せているのか、よくわからなかったが、とても幻想的で美しかった。

 扉は開かない。

 ジークフリートとブリュンヒルデは、立ち尽くすしかなかった。

(どうする……)

 ジークフリートは悩んだ。そして、彼は傍で眉を顰めるブリュンヒルデのあどけない低い鼻と白い頬を見て、本来の目的は彼女を海へ返すことであったと改めて思い出す。

(なぜ、ブリュンヒルデは双子を奪還することを手伝ってくれているのだろう。このまま俺から離れてひとりで消えれば、海に帰れるというのに、しかも人魚の群れもいたというのに)

 ジークフリートはオパール色に輝くブリュンヒルデの眸を見つめていたが、そこからは彼女の思考は読み取れなかった。

 彼が彼女に声をかけようとした刹那、ブリュンヒルデはグッと両拳を胸の前で強く握りしめると、眉を吊り上げ、尾鰭とふたつのおさげを逆立てた。

「もうっ、あったまきた!!」

 先ほど白かった頬は、熟れた林檎のように真っ赤に染まっている。食いしばった白い歯の間から、泡が生まれ、海面へと上がっていく。

 ジークフリートは唖然としていた。

 ここまで怒っている彼女の姿を見るのは、出会ってから初めてだったからだ。

 ブリュンヒルデは海に微量に漂っている空気をかき集めるように、すぅっと息を吸うと、

 腹にためた空気を全て出すかのような大声を響かせた。

「たのもーーーー!!!!」

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