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少女人魚ブリュンヒルデよ、海上で平和の歌をうたえ   作者: 木谷日向子


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4/12

うつくしい双子

 流れる黒髪が、紺碧の空の下を駆けてくる。

 その髪に刹那、月の夜の下に出会った十六夜のことをかすみが香るように重ね合わせたが、その幻影は静かに消え去り、目の前に、勇ましいが、小柄な少女の姿が像を結んだ。

「君は__」

 ジークフリートは思わず口が動いていた。

 背後をウロウロと歩く少年の右手首を掴み、

 険しい顔で瞳を大きく見開きながら、歩く速度を徐々に落としていく。腰を落とし、何かを警戒するその様子は、大人のジークフリートからしてみれば、野良の子猫が人ごみを警戒して、定めを持たずにじわじわと歩いている様に見える。

 ジークフリートは金の眉毛をわずかに寄せて、彼らにしばらく声をかけずに見守っていたが、やがて耐えきれなくなり、長い脚をゆっくりと動かして近づいていった。

「あ、おい」

 アルベリヒがそれに気づき、ジークフリートのほうを訝しげに見る。そして、その向こうに何かあるのかと、体を逸らして確認する。帽子の下に、巻いた赤毛が揺れる。

「んだぁ? ガキじゃねえか。それも二人も。知り合いか?」

 ジークフリートはそれには答えず、ただアオイと呼ばれた少年と、その姉と思われる少女の目の前に立つ。

 少女は横の店の旦那を警戒して、そちらに視線を寄せていたが、目の前に影ができると

 それに気づき、はっと顔を上げた。自分でもとても驚いていることに気づいていないのだろう。その顔は玄関の戸を開けたら、悪魔がいきなり立っていて、出迎えられたハロウィンの日の子供のようだった。恐れを顔面に貼り付けた少女の顔を見て、ジークフリートは罪悪感を覚えながらも、彼女のことを年相応の少女として、ひどく愛らしいものだと感じた。

「あぁ……。あんたは」

 少女がくちびるを揺らして、愕然とするのに対し、彼女を安心させようと、ジークフリートは努めて明るい笑顔を浮かべた。

「久しぶり……、というべきなのだろうか」

 少女は応えない。下唇を噛み締めて、上目遣いで睨んでいる。アオイの手首を握る力は、先ほどよりも強くなっているのだろう。背後でアオイが片目を瞑って痛そうにしているが、それを無視してジークフリートを瞳で射抜こうとするばかりにじっと焦点を動かさないでいる。まるで、子供を守ろうとする手負いの母猫だ。

「あんた……。さっきのおっさん」

(おっさん……)

 まさかの言葉に、ジークフリートの鋼の心臓は、古い鈍器で殴られたように、わずかに凹んだ。刹那的に白目を剥いたが、気を取り直して軽く唇を噛み、瞬きして少女を見下ろす。太陽が逆光となり、彼の長い金のまつ毛が瞳に影を落とす。

 少女は黙って、太陽よりもぎらつく瞳で、彼をじっと睨み続けていた。

 彼女の瞳の膜は、琥珀が炎を宿したかのように燃えて茜に煌めいている。

 ジークフリートはその煌めきを見つめながら、彼女の幼さの中に眠る野生の女の本能を感じて、首筋を熱くさせた。

 少女の黒髪は、もえぎ色の光沢を放つ。それは、あの夜に海辺で見た十六夜の髪色と、どうしても重なってしまう。

 少女がきっ、とまなじりを上げたことで、ジークフリートが重ねていた十六夜の幻影はふわりと消え去った。彼女の睫毛は外側へ向かうごとに嵩を増し、厚くなっている。

 ジークフリートはなんと彼女に声を掛ければいいのかわからなくなり、咄嗟にこう言った。

「ーーあの後は大丈夫だったか」

「は?」

 少女は瞳を見開く。

「変な男にまた付き纏われたりなどは」

「しねえよ。気をつけてたからな」

「そうか」

「うん」

 そこで会話が終わってしまった。

 しばしの沈黙が続く。

 背後で二人の様子を顎に手を置いてじっとりとした目で見守っていたアルベリヒが、ついと前に出て割って入った。

「……おいおい。このお嬢さんは誰だね。ジークさんよ。お前さん、ほんっとうに小娘に好かれる体質だよねぇ」

「何このおっさん。また別のおっさんが登場かよ」

「は!? 小娘! てめえ、おっさんだと!? 俺はまだ二十五歳だってぇのっ!」

 アルベリヒが腰を屈めて、凄みのある顔を少女に近づけようとするのを、ジークフリートは、さっと腕を彼の胸の前に広げて制止した。金色の眉を寄せる。

「おい、やめろ。軍人の名が廃るぞ」

 アルベリヒは横目でジークフリートを睨み、そのまま動きを止めたが、やがてパッと両手を上げて呆れたように鼻を鳴らした。

「へいへい。司令官殿はおっかねえんだから」

 そのまま口笛でも吹いてしまいそうな勢いで、アルベリヒは上を向く。  

「あんたらクルワズリの者じゃねえな。どっから来た奴らだ」

「……なぁ。答えていいもんなのか」

 アルベリヒがジークフリートの耳元に顔を寄せる。彼の口から赤ワインの香りがしたが、この際気にしないことにした。

「……別にいいだろう」

「よっしゃ。じゃあ答えるわ」

 アルベリヒが少女に向き直る。両腕を腰につけ、まるで仁王立ちのような格好を取った。

 少女からすれば、大の男が肘と足を広げ、逆光でにやけながら立っているのだから、いささか怖いだろう。だが、少女はおじけず、背後のアオイを守るように立っているばかりである。

「怖がらせるなよ」

 ジークフリートが、アルベリヒの耳元に顔を寄せてささやく。

 アルベリヒはそれを受けて、ますますにやけた。先が黄ばんだ八重歯が、唇から覗く。

 親指をくいっと己に向けて、わざとらしく人の良さそうな笑みを浮かべて少女を見下ろす。

「俺はアルベリヒ・ベルツ。海軍一等卒、ここにいる海軍司令官、ジークフリート・アドルフ様の幼馴染だ」

 さも仲が良いかのように、ぽんっと隣にいるジークフリートの背中を片手で押す。

 ジークフリートは「は?」という顔をしたが、面倒な自己紹介を代わりにアルベリヒがやってくれたことに対して、感謝する気持ちになり、まぁいいかと考え、半分瞼を伏せた。

「ああ、そうだ。お前の名前を聞いていなかったな」

 思い出したようにジークフリートが呟いたので、少女は再び警戒して一歩後ずさった。

 呼応して、彼女の黒髪がさらりと後方に揺れる。

 ジークフリートはその早緑の光沢に一瞬目を移した。

 再び少女が瞬き、眉を寄せると二人の男を睨む。背後でアオイが少女の手を握り返す力が強くなり、少女もアオイの手を強く握り返した。

(アオイを守らなければ。絶対に)

 少女は人より少しばかり太く立派な眉を寄せ、アオイのか弱い眸と視線を交わした。そして、何かを確かめるように頷く。

「あんたたちのことを、まだ信用できない」

「は? 小娘が何言ってやがる。こっちから名前も身分も明かしてやったってのによお」

「おい、アルベリヒ。キレるな」

「けっ。小せえわりに肝っ玉だけは太いってか。ご大層な身分ですことで」

「おい、あまり年少のものをいじめるな」

「へいへい」

 ジークフリートがアルベリヒの頭をポンと片手で叩くと、その動作がおかしかったのか、アオイが背後で笑いをこぼすのを、少女は聞いた。

 「アオイ……」

 先ほどまで怯えて眉尻を下げていたアオイは、耐えきれず一定のリズムで笑っている。

 ふふっ、ふふっ、というその柔らかな綿飴のような笑い方に、ジークフリートたちもポカンとしていた。

「そんなに面白かったのか?」

 先ほどまで水が張ったコップの水面のように緊張で張り詰めていた少女の眉は、一気に下がり、唖然とした表情で、背後の弟を振り返る。少女の真っ直ぐに切りそろえた黒髪の先が揺れる。

 アオイは、目を半月の形に咲ませながら、こく、こくとうなずいている。

 ジークフリートは、そのアオイの顔を見て、

 笑うとこんなに可愛らしい顔をしているんだなと感じていた。ブレンよりも数歳幼いその姿、黒髪の少女と同じ黒髪をして、肌は雪のように白い少年。だが、黒髪の少女の光沢が早緑色なのに対し、アオイの髪の光沢は青色をしていた。まるで暈を帯びた聖夜の青月のごとく。上向いた長い睫毛も、髪と同じく、先が青く透き通るようだ。

 いつまでも見ていたいような、夜の青空の色をした少年。

「アオイ」

 少女が再び弟の名前を呼ぶ。

 少年は瞳を開いて、笑みを浮かべたまま少女を見返した。

 少女は再び眉を寄せて、じっとアオイのことを見つめていたが、やがてその皺を解く。

 少女と少年は何かの意思を交換したように見えた。いや、交換というより、共有か。彼らはよくよく見れば、顔が瓜二つであった。

 少女の麻呂眉は、アオイにも宿っているし、意思の強いあかりを灯す、大きな琥珀のような色合いの眸も、同一である。濃く深い血の繋がりがあることは明確であった。

 ふたりは互いを見つめ、軽く頷き合う。

 すると少女はくるりとこちらを向いた。

 小さくぽってりとした桜色のくちびるは引き締まり、麻呂眉はきっと皺を描いていたが、

 そこには先ほどの強い警戒心が、わずかばかり薄らいで見えた。濁った水に甘い雨水が一滴垂らされ、そこから透き通っていくかのように。

 少女はスゥッと吐息を吸った。

「俺はアカネ。こいつ」

 ジークフリートたちを睨みあげたまま、親指をくいっ、と背後のアオイに向ける。

 アオイは目を丸くして姉の親指の先を見つめている。

「アオイの姉貴だ。まぁ、みたところあんたらは悪い人間じゃなさそうだし。大人で軍人のくせにお人好しっぽい面してやがるから、自己紹介してやってもいいって気になった」

 アオイがアカネの親指の先を見つめていた視線を上げて、ジークフリートを見る。4つの琥珀が、彼の青い瞳とかち合う。

(葵と茜……)

 その時、ジークフリートの脳内に、特大フォントで二人の名前が、なぜか漢字表記された。いつか見た英訳された日本語の辞書に、記されていた名前だった。

「アオイだがアキアカネちゃんだが知らねえが、さっき俺に失礼な口聞いたことだけは謝れよな!」

「はっ、誰がてめえみたいな汚ねえおっさんに謝るか!」

「何言ってんだこの黒猫!!」

 アルベリヒとアカネは無駄な口喧嘩をし、顔を寄せ合って歯噛みし合っている。少しアカネの緊張が解けたということだろうか、とジークフリートは前向きに捉えた。

 顔を赤くしてアルベリヒを威嚇するアカネの後ろで、アオイはぼうっとしているように見える。その琥珀色の瞳は、何を映しているのか、時々わからなくなる。

 男のような言葉使いで話すアカネ。

 つかみどころがないが、愛らしさで好印象を持てるアオイ。

 この不思議な双子との出会いが、何を自分たちにもたらすのだろうか。

 ジークフリートとアルベリヒの背後で、ブレンはことの様子を黙って見ていたが、どうやらひと段落ついたらしいことを悟ると、僅かに背を屈め、瞼を半分ほど閉じてアオイとアカネを見つめた。

(僕と同い年……、ではないか。2、3歳年下だろうな。それでもアカネちゃんのほうは、一見聞かん坊に見えるけれど、しっかりしているように思う。それに、アオイ君のほうは、多分だけれどーー)

 その時、天に聳える灰色の影を持つ雲間を射るような、一際大きな音が高らかに港街に鳴り響いた。空を飛んでいたカモメの白い羽が、震えたのではないかと思うほどの。

「っ、ごめん……」

 アカネが、名前負けしないほどに顔を真っ赤にして腹を押さえてうずくまっている。

 潤んだ上目で見られ、大の男2人と少年2人は一瞬白目を剥くと、ゆっくりと黒目に戻り、くるりと周囲を見渡すと、人の少なそうな静かな店を目で探し始める。

 改めて周囲を見ると、クルワズリの街は全体的にセピア色がかって見える。そして、焼き魚よりも半生か、生魚を提供し、それを調理してサンドイッチにしたり、海鮮丼にして売ったりしている店が多い。

 ジークフリートは両親が日本趣味ジャポニズムだったため、幼い頃から家庭料理に海鮮丼や納豆が出ることが時々あったので、こういった独特の風味や匂いに慣れていたが、アルベリヒは生魚に未だ慣れていないので、オイルで焼いたアクアパッツァを提供している店がないものかと、眉を顰めて不機嫌そうに首を左右にゆっくりと動かして探している。アルベリヒには、先ほど共に食べた海鮮丼は合わなかったのだろうか、そうだとしたら申し訳のないことをしたな、とジークフリートは、心の片隅に僅かな罪悪感を感じて親友の横顔を、ちらりと見た。

 すると、再びその遥かに下方から、きゅう、という狐の鳴き声のような音がする。視線を移すと、アカネがさらに頬を赤らめて腹を抱えて俯いていた。彼女のこめかみを流れる切り揃えられた黒髪が、さらりと桃のような頬を撫でる。

「なんかごめん……」

「いや、いい。お前たちとは一度じっくりと話したいと思っていたんだ」

「……」

 アカネはちらちらと大きな眸でジークフリートを見たかと思えば、小さくため息をついて地を見て、再び彼を見上げる、といったことを繰り返す。

「……?」

 ジークフリートは訝しんで眉を僅かに寄せてアカネを見る。

 アカネは何か迷っているように、ぽってりと厚い桜色のくちびるをもごもごと動かしていたが、やがてそれを一文字に引き結ぶと、もう一度瞳だけを動かし、ジークフリートを見上げた。青く小さいが切れる瞳と、琥珀色の瞳が再びかち合う。

(本当に大きな瞳をしている)

 ジークフリートは素直にそう感じた。何かに悩んでいるアカネの表情は、先ほどアルベリヒと口喧嘩をしていた時よりも憂えて、大人びて見える。彼はそこに妹が大雪の降る冬の日に、薄く凍った窓を見つめた後、彼を見上げた薄暗い影を宿した白い顔を重ねていた。

「……そういえば、ブロンドのにいちゃん。あんたにお礼、ひとっことも言ってなかったなって思って」

「ああ」

(なんだ、そんなことか)

 ジークフリートは思った。

 告げた後に、アカネは恥ずかしそうにくちびるを噛み締めると、さらに頬を赤くする。熟れた林檎のようで、触って撫でてやりたかったが、寸でのところでジークフリートはその感情を押し殺した。

「ありがとな」

 アカネは吐息か言葉かわからないほどの小さな声音で感謝の意を告げる。

 ジークフリートは、彼女の頬がさらに赤く染まって火照りで落ちてしまうことを防ぐために、わざと聞こえないふりをした。

 かららん、という子君良い音が、店内に響く。ほのかに暗い店内は、陽光に面した窓がみなステンドグラスを嵌められているので、色鮮やかな光を客が座るテーブルの上に落としている。

「どーもー」

 アルベリヒは一行の先頭を切って、なるたけの笑顔で店内へと足を踏み入れた。アルベリヒの顔も、窓からの光によって鮮やかに染まる。

「うおっ、なんだこの変な布」

「『暖簾』だ」

「ノレン?」

 ジークフリートがアルベリヒの後に続き、彼に対して説明をしてやろうと口を開いた時、

 再び背後で、きゅう、というイルカが鳴くような音が聞こえ、アカネが顔を赤くして蹲る姿が見えたので、こほん、とひとつ咳をして誤魔化した。

 そしてアルベリヒの肩を、ぽん、と叩く。

「また後で説明してやる」

「うわぁ。すごいっ! さっきの屋台と全然違うっ! 洒落てるなぁ〜」

 ブレンはきょろきょろと店内を見渡し、窓硝子に近づくと、己の瞳を溶かすような淡い光を堪能するように、うっとりと瞼を半分閉じた。彼の少し焦げた金色の睫毛の先に、色彩を持った光が宿る。

 再びアカネの腹の音が鳴ろうかとする中、店の奥の深緑色の暖簾を片手で上げて、店主と思われる初老の男が現れた。

「はい、何人様で」

「六……いや、五人で!」

 ブレンが左のてのひらを広げ、そこに足した右手の人差し指をさっと下ろす。どうやらブリュンヒルデを数に入れてしまったらしい。

 店主は「はいよ」という穏やかな返事と共に、ひらりとまた暖簾をくぐって戻っていくと、五人分の湯呑みを飴色の盆に運んできた。

(手際がいいのだな)

 ジークフリートは感心した。

 盆の上に乗せられた湯飲みは、滑らかな白い陶器で、そこから淡い湯気が浮き立ち、店主の銀色に染まった細かな髭が生えた顎を濡らさん勢いである。

 一行は年月が経っていると思われる木彫りのテーブルをぐるりと囲う形で座らせられると、古い紙を束ねたような冊子を真ん中に置かれた。ブレンが指で一ページ捲り、それがメニュー表であることを知った。

「何があるんだろ……うーん。見慣れないものばかりだ。このオチャヅケってのは? 変な文字の下に、ローマ字表記で書いてある」

「ああ、炊いた飯に茶をかけて食べるものだ」

「うへえっ! それ何が美味いんだよっ。想像しただけで吐き気がしてきやがる……」

 赤い舌を出して不快な顔をするアルベリヒを横目に見ながら、その反応もクルワズリの人にとっては失礼になるかもしれないのだがな、とジークフリートは考えたが、発言するのはやめておいた。文化の違い、というもの食事の場では目の当たりにするものだと感じる。アルベリヒはもちろん、「茶漬け」を見たことも食べたこともなく、今回初めて知ったのだから、普段自分が飲み水として飲んでいる茶に塩気がついて、しかもそれが「米」という、あまり食べ慣れていない炭水化物と混ざっているというのだから、気持ち悪くて当然だろう。こういった「分かり合えない」境界から「分かり合える」境界につま先を入れるのが、異文化を理解するということなのかもしれない。自分たちは他国と戦争をしたが、それは「わからない」ものを理解しようとしないまま、「不快」を感じる相手を、自分の人生から排除するために殺し合ったということだ。

 ジークフリートはメニュー表に刻まれた「オチャヅケ」の文字を見ながら、深い思考に陥っていた。それは、彼のこれまでの人生、仕事を巡る、血潮にかすかな痛みを伴う本流でもあった。

 

 そうこうしている間に、アオイが上半身をテーブルに乗り出して、桜色の指先でぺらりとメニュー表を捲る。

「アオイ……。ここの飯に、興味持ったの?」

 アカネが隣の弟を見る。

 アオイは横目でアカネを見ると、口元を柔らかく笑ませた。

 アカネもそれを見て少し微笑む。姉弟の穏やかな関係が、それだけで感じられた。

 アオイが捲った次のページには褪せた写真が一枚申し訳程度に貼られていた。爪で剥がそうと思えば、すぐに剥がせるのではないかと思われるほどだった。店主は客対応への行動はてきぱきとしているが、こういった店内の品を整理する能力は乏しいのかもしれない。

 ジークフリートは写真の貼られ方を見て、なんとなくそう思った。

「あ、これなんて美味しそうなんじゃないですか!? ほら、ベルツさんの大好きなソーセージが入っていますよっ!」

「はあ!? ソーセージ? 俺はドイツ産しか、認めねえぞ!」

 明るい笑顔でブレンが指差す先を、アルベリヒは腕を組み、訝しげに顔を近づけて覗き込む。褪せた写真の端が、彼の瞳に映り込むだけであったが、その中にぼんやりとした立体で大根や茹で卵と共に、太いソーセージがスープの中に入れられている。

「……なんだこれ。ボルシチか?」

「うーん、ボルシチではないと思いますよ」

 ふたりが答え合わせをしている最中に、ジークフリートは、顎を支えていた右手を解くと、

 軽く顔を傾けさせて、すっとその長いひとさし指で写真の下を指した。

「おでんだな」

「「オデン!?」」

 アルベリヒとブレンがはっとジークフリートの方を見た後、再び写真に顔を近づける。その目はまんまるであった。

「おでん……」

 そばでアカネがぽつりとその言葉を復唱した。

「まっ、頼んでみっか。これ。おーい! おっさーん!」

「うわぁ、司令官が知ってるからって安心してすぅぐ決めちゃったよ……」

「うっせ! お前も食えよ! 残さずな」

 アルベリヒは怒った顔をブレンに向ける。

「でよぉ。美味いのかよ。この『オデン』ってやつぁ。ジークさんよぉ」

 ずいっ、と音が鳴ろうかというほど、アルベリヒは椅子を動かして、アルベリヒに顔を近づけた。

「まぁ。食べてみればわかる」

「はぁっ!! なんだそれっ!!」

「いいから食ってみろーーいてっ。……貴様、何をするか」

 ジークフリートの高い鼻を、アルベリヒは右手の指先で摘んだ。

「お前さん。まずかったら責任取れよな!」

 アルベリヒが指に力を入れて左右へ揺らそうとするのを、ジークフリートは瞳をきつく閉じて、羽虫を追い払うように、左手で彼の手首を叩いた。

「てっ! 結構力入れて叩きやがって」

 じぃん、という熱い痛みが、アルベリヒの手首に広がる。

 その様子を向かいに座るアオイはぽかんとした表情で見つめていた。目も口も丸く開けている。

 アカネがアオイの耳元に顔を寄せてそっと囁く。

「このおっさんたち、仲が良いのか悪いのかわかんねぇな」

 それを聞くと、アオイは片手で口を押さえて笑った。

 ジークフリートが閉じていた瞼をうっすらと開くと、店主が飴色の盆に陶器の釜を乗せて持ってきているところだった。

 陶器は薄い緑の地に、濃い緑の釉薬が、縦に塗られている。年月を感じさせる重厚なものだった。釜の蓋がわずかに開いており、そこから白い湯気が天井を濡らそうとするばかりに、ゆったり、もくもくと湧いている。

 ジークフリートはそこから覗く薄く透き通った茶色の出し汁を目にして、「ああ、これこれ」と昔食べた味わいを下の上で思い出し、軽く舌なめずりをした。

「うわっ、なんだこの土鍋。熱そうだな〜」

「指先で、湯気を掬えそうです。こうやって、わたあめみたいに」

 ブレンが座っていた椅子から身を乗り出して、土鍋に人差し指の先を近づける。溢れてくる湯気を絡めとるように、空中で円を描く。

 アルベリヒはそれを見て、鼻を鳴らす。

「はっ、おいブレン、何ガキみてえなことしてやがるーーっいや、お前さん。まだお子ちゃまだったな。そういえば」

「なんですか! その言い方はっ!」

 ブレンは立ち上がり、机を両手でだん、と叩く。

「おい黙れ。店主が困っているだろうが」

 ジークフリートが呆れて制裁する。

「いえ、全然構いませんよ〜。楽しんでいらしてください」

 店主は困ったような笑みを浮かべながら、細かな糸で編んだ赤紫の敷き布を丸テーブルの中央に置き、その上に土鍋を置いた。少し勢いをつけて置いたので、土鍋が不規則に揺れる。店主は慌てたが、すかさずアルベリヒが身を乗り出して土鍋を素手で掴んで揺れを止めようとする。

「ーーあっちぃ!!」

 だが、土鍋の温度は高熱で、アルベリヒは指先を痛めた。ぱっと手を離すと、すぐに己の耳たぶを触る。

「あぁっ! お客さんっ。大丈夫ですか!?」

 アルベリヒはまなじりに涙を溜めて、きっと店主を睨んだが、寸でのところで大人の男、ひいては軍人としての矜持を保ち、「問題ない……」と呟いた。

 ブレンはそれを見て、笑いを吹き出しそうになったが、『オデン』なる未知の料理を食べる前に上官に絞められるのは勘弁と咄嗟に悟り、奥歯を噛み締めて笑いを堪えた。

  俯いて小刻みに震えているブレンを見て、店主は訝しげな顔をしたが、土鍋を優先させた。

 再び敷き布の上に置かれた土鍋は、しっかりと固定されたかのように置かれた。

 店主が分厚いペールグリーンのミトンをして、土鍋の蓋を取ると、漏れているばかりであった白い湯気は、もわり、と巨大な雲のように広がった。

 わぁっという歓声が、少年少女たちから上がる。

 店主が鍋蓋を土鍋の横に置き、付随していたお玉で中をゆるりとかき混ぜた後、「どうぞ」と笑顔で示し、また奥へ戻っていった。

 ブレンが身を乗り出し、目をきらきらさせて中を覗き込む。彼の鼻のそばかすがくっきりと水面に映るほど、出し汁うっすらと茶色がかっていて、透明ですみやかだった。

 店主が用意してくれた人数分の小皿をそれぞれの前に置く。白い陶器でできたその小皿は、手触りが滑らかで、指先に吸い付くようだった。皆が『オデン』に興味津々となる中、

 ジークフリートは余裕の表情で土鍋に先が入れられたお玉の木製の取手を掴み、出し汁を掬い上げた。銀色のお玉から、たっぷりと掬った出し汁が僅かに漏れて土鍋へと戻る。その一連の様を、ブレンは食い入るように見ていた。

「あぁ、そうだ。おでんを食べる時はこれを聞くのが鉄則だったな」

 ジークフリートは思い出したように、視線を斜めへ向けると、再び戻して一行を見渡した。

「何が食いたい?」

「何が食いたいって言われても、素材が何なのかわからねえしな……」

 アルベリヒが腕を組んでおでんの土鍋を睨む。

「司令官のおすすめはどれですか?」

 ブレンがジークフリートに尋ねる。

 ジークフリートは一度お玉を土鍋に戻し、ふちに寄りかからせてから、うっすらと考えこむと、おでんの薄茶色の水面を見つめたまま「俺はちくわだな……」と呟いた。

「チクワ?」

 ブレンが目を丸くして問いかける。

「ちくわは、これだ」

 ジークフリートがブレンに教えてやろうとするかのように、お玉を再度手にして、そっと出し汁の中に埋もれていたそれを持ち上げた。

 お玉に出し汁と共に乗せられた一つのそれは、白く細長い体に、焦げた茶色が巻くように描かれている。

 ジークフリートはそれを自分の手前にあった小皿の上にそっと乗せると、何かを思って、アカネの前に差し出した。

「食べてみるか」

「えっ?」

「いいんですか? 司令官の一番好きな具材なのに」

 口を丸く開けて驚くアカネをよそに、ブレンは眉を寄せてジークフリートを見た。

 ジークフリートはブレンには顔を向けず、じっとアカネだけを見ている。アカネの肌は白く、頬をさす紅は桜色をしている。きっと温かいものを食べれば、その紅はより濃度を増すだろう。

「食え。友好の証に」

 アカネは目の前の小皿から、はっと顔を上げてジークフリートの方を見た。

 その眸はわずかに揺れている。

 アカネは目の前の小皿から、はっと顔を上げてジークフリートの方を見た。

 その眸はわずかに揺れている。

「……まぁ。食ったことないもの口に入れてみるのは、嫌いじゃないしね。もともと貧乏だし」

 そう言うと、アカネは意を決したような顔をして、黒い漆塗りの箸を手に取ると、おぼつかない手付きでそれを右手になんとか挟んだ。

 ゆらゆらと箸の端が安定せずに指の間で揺れていたが、なんとか持ち直すと、桜色のくちびるを引き結んで、いざ、という構えで、箸先でちくわなるものの先端を挟む。まるで箸がトングのように、それを持ち上げると、大きく開けた口の中へ放り込んだ。

 その様は、年頃の少女が行うべきではないほどにあっけらかんとしており、一同は真顔でアカネの食いっぷりを見守っていた。

 熱いのか、ほくほくと口とちくわの間から湯気を漏らしながら、それでも愛らしい小さな白い八重歯で、その柔らかなちくわの本体を噛みちぎろうとする。

 前歯と前歯が、かっちりと合わさり、威勢よくちくわが前後に剥がれ、アカネの紅い口の中へと落ちていった。

 柔らかなものを咀嚼する音が聞こえ、ついで「うまいけど、あつい!!」とアカネの叫び声がセピア色の店内にこだました。

 アカネがちくわの残部を箸でつまみ、頬を膨らませながら、ふうふうと吐息をかけているところ、ジークフリートがこちらをじっと見ている凪いだ視線を感じて、ちらと視線を移した。

「なんだ」

「美味かったか」

「美味かったけど、あちぃよっ! あんた、いっつもこんなもん食べてたのかよ。最初に説明しろ」

「そのちくわも、魚で出来ている」

「へ?」

「海で獲れる魚から作られている」

「そ、そうなんだ……。それは、知らなかったけど」

 アカネはくちびるを窄めて肩を上げた。桜色だったくちびるは、熱い物を食べた影響であろうか、先ほどよりも赤く潤んでいる。そこにジークフリートは年頃の少女らしい血色の良さを感じた。

 ーーリリューシュカがトマトスープを飲んだ後に見せるものと同じ色。

「海で獲った魚を擦り潰して団子にして丸めて伸ばして真中に空を入れたものがそれだ」

「けっ。ご丁寧なご説明、ありがとよ」

 アカネがぶっきらぼうな顔をして視線を逸らす。なんとなく恥ずかしいのだろう。

 少女の扱いは、妹との触れ合いで慣れているつもりだった。

「お前たちは何者だ」

 アカネの大きな眸が、くるりとジークフリートの方を向く。先ほどと同じく、橙色のともしびが、ちらちらと埋み火のように彼女の目の奥で煌めいている。

 ジークフリートはその瞳に、いつの日か仲間と共に戦場で囲んだ熾火を思い出していた。

 鮮やかに赤く燃えているのに、奥の方では健康な木を黒い煤に変える激しい灯。


(この娘はつよい)

 ジークフリートはそう思った。

 アカネは上唇を下唇で噛み締め、ジークフリートから視線を逸らして何かを考え込んでいたが、やがてその視線を隣のアオイへと移した。

 アオイはアカネに見られていることに気づき、姉を見つめ返す。瞳だけで会話をするのが、この姉弟のコミュニケーションの取り方なのだろうか、とうっすらと考えたが、あることに気づいた。

(そういえば、このアオイという少年。出会ってから一度もちゃんと喋っているのを見たことがないーー)

 ジークフリートが口を開く前に、アカネはアオイに向かって僅かに頷き、眉間に皺を寄せて威嚇する野良の黒猫のように彼を見上げた。

「……俺たちはアカネ・タナカと、アオイ・タナカ。このクルワズリの外れにある、錆びた村で米を耕して暮らす農家の双子だった。だが、ある夜、海の方から金切声みてぇな変な歌が響いてきて、それ以来、米が全然実らなくなってーー」

 アカネはそこで、語尾を窄めた。掠れて涙声になっているのだと悟る。よっぽど辛い出来事だったのだろう。

 ーーだが、『歌』?

 ジークフリートは尋ねたい気持ちを必死で抑え、彼女の話に耳をすませた。

 アオイが姉の腰にそっと右手を這わせる。優しくとんとんと背後で叩いているようだった。アオイも、アカネと同じだ。辛いのだろう。だが、気持ちが沈みゆく姉を慰めようとしている。姉と同じ、琥珀色の瞳には、表面に深い海の色がさっと塗られているように見えた。

 アカネは再び顔を上げて、話の続きを紡いだ。

「クルワズリのお役人に献上しなきゃいけねえ分の米を、毎月渡せなくなって、それを説明して理解してくれなかったお役人に逆上されてーー。父ちゃんと母ちゃんは」

 そこまで言って、アカネは耐えきれず、嗚咽をこぼすと、片手で口を抑えて俯いた。

 くぐもった泣き声が、薄く開いた指の間から漏れる。アカネの大きな瞳を覆う瞼は伏せられ、その間からぽろぽろと大粒の涙が、ほのかに桜色の染まった白い頬を流れていった。

 隙間から覗く琥珀の瞳からは光が失われ、代わりに絶望の色が灯されていた。

 アカネのさやかな黒髪に顔を近づけたアオイが、すっと彼女の背中を撫でる。彼も麿眉を寄せ、くちびるを淡く噛み締め、瞳から光を失っていた。

(殺されたか、もしくは自死か)

 アカネの話を聞いていた男たちは、皆頭の中でそう悟っていた。彼らも軍人である、世の中の非条理は、身に沁みてわかっていた。

(そうか。それで孤児となって、あんな盗人まがいの)

 アオイはじっとアカネのことを見つめているだけである。

 ブレンは、アオイが話せなくなったアカネを引き継いで話の続きを喋るのかと考えていたが、ブレンは薄橙色のくちびるをうっすらと開けただけで、言葉を紡ぐことはなかった。

 アオイをじっと見守っていて、ブレンは一つの真実を確信する。

(やっぱり、アオイくんは……)

 アオイの片手が姉から剥がれ、ゆっくりと上がっていく。

 アオイがジークフリートたちの前で披露したことを見て、彼らは唖然としていた。

「アオイくん」

 ブレンは思わず呟いた。

 アオイがそうするのを、彼はなんとなく予感していた。

 アオイが発した言葉は、不可解な響きを伴っていた。言葉をまあるく縄で囲おうとしているのだが、それがうまくいっていないかのような、そんな発音だった。それでも声変わりをしていない少年の透き通った声音は、伝わってくる。喉の奥で鳴らしたくぐもった声が、「あう、あう」と言った言葉の響きとなって表へ現れている。

 アオイは、耳の不自由な少年だった。

 聾者、人はそう呼ぶ。

 アオイが己の胸の前あたりまで上げた両手を、ゆっくりと動かす。指先がひくひくと動き始め、やがて何かを訴えるように、糸を紡ぐようにささやかながらも芯の強い動作を見せ始めた。

「手話?」

 ジークフリートが低く呟いた。

 アルベリヒはテーブルに片腕を乗せ、いつの間にか行儀悪く片脚も椅子に乗せていた。

 ブレンは、アオイが聾者であることに、他の者は衝撃を受けるのではないかと考えていたが、周囲の者は特に皆何かしら挙動不審になるといった態度は取っていなかった。

 こういった場合、どことなく変な距離を取ろうとする者が現れる。

 過剰に反応したり、関わりたくない、と氷のバリアーを張ったりする者が出てくる。だが、ジークフリートたちは驚きはしたようだったが、そこまで異質な者と出会ったという反応は見せていなかった。日常の中で、日常の人の個性の一つと出会った、というような、そんな呼吸をしていた。

 アオイは少し青くなった、ぽってりとしたくちびるを震わせながら、それでも指先で「言葉」を紡ごうとしていた。

 大人の男ふたりは、アオイが何を言おうとしているのかわからなかったが、アオイの瞳の水面を見つめていたブレンは、やがてうっすらとくちびるを開き、彼の真実を悟ろうとした。

「アオイくん。アカネちゃんに、もっとおでん食べさせてあげてって言ってるのかな?」

 ブレンが僅かにアオイにその身を近づけると、アオイは瞳を揺らし、こくこくと頷いた。

 そのあと、アカネはわんわん泣きながらおでんを食べた。桜色の頬は、すでに熟れて真っ赤に染まり、その上を溶けた氷が滑るように、涙が伝い落ちていった。

 残されたおでんたちは、彼女が口に入れる前に、アオイが隣でふうふうと優しく息を吹きかけながら、姉の口元へと持っていった。アカネは桜色よりもなお赤く潤んだ、ぽってりとしたくちびるの前にそれらをかざされると、薄く緑がかった透明な水槽にいる金魚が、餌をぽちゃりと水の中に落とされた時のように、潤んだ目をしながら、何も考えずにぱくついていた。そのたびに一瞬熱そうな顔色をしたが、すぐに口の中をもぐもぐと動かして、ごくり、と飲み込んでいた。

 ジークフリートたちはそれを見て、良い食べっぷりだと感嘆していた。3人とも口を丸く開けていたが、やがてブレンが微笑みだしたのを筆頭に、一同は温かな笑いへと導かれた。

 店を出て、ジークフリートから金を渡されたブレンが代わりに会計を済ませているときに、ジークフリートはアカネに話しかけた。

 扉を開けて外に出ると、波の音と潮の匂いが濃くなった。青に薄く白を水墨で混ぜたような空には、カササギの群れが飛んでいる。

 ジークフリートの傍にいたアカネは、空を見上げていた。その口元がわずかに笑んでいるのを、彼はなぜだか切なく感じた。

「今はどこに住んでいる」

 アカネは一瞬、睨むようにジークフリートを見上げたが、やがて口を開く。出会った時よりも、食事を共にしたことと、泣いた姿を見られたことで、彼らとの間に張っていた不可侵の緊張の絹糸が、震え、熱で溶けていったのかもしれない。

 アカネは、すっと右腕を上げると、東の方を指さした。

「……ムラサキノウエ。この商店街の東の外れにある。海辺につながるちっせぇ村」

「お前たちふたりだけで暮らしているのか」

「ああ」

 アカネが平坦な声音でそうこたえると、ジークフリートは声を一段小さく、低くした。彼の鼻と眉の間に、灰色の影が灯る。

「嘘をつけ。本当のことを言え」

「嘘なんかついてねえ」

「ーーお前たちが盗んだ袋の中に入っていた女ものの下着。あれは、アカネ。お前が使うにはまだ早い大人用のものだった」

 ジークフリートが囁くように、アカネに顔を近づけて言った。

「……っ!」

 アカネは痛いところを突かれた、というような反応を見せた。そして即座に上げた眉を下ろし、ジークフリートを睨む。

 ジークフリートは「やっぱりお前が使うものではないんだな」と言おうとしたが、今の一連の話は、この娘にとって性的に不快になるものだったかもしれないと思った。心に濁った澱が重なる。訪れたそれは、年頃の娘を別の方向から不快にさせてしまったかもしれない、という後悔だった。またしても、アカネの顔にリリューシュカの姿がうっすらと重なった。

 漆黒の娘に、金色の娘が。

 アカネはジークフリートとの間に、咄嗟に薄いヴェールを張った。それは、自分ではない、誰かを守るバリアであった。先ほど店内のぬるい温度のせいで溶けて流れていたそれは、すぐに「関わりたくない」という文字を伴った薄氷となって現れてしまった。

 ジークフリートは切ない気持ちになったが、蒼い眸でじっと彼女を見つめていると、彼女の凪いでいた琥珀色の瞳がわずかに震え、張っていた薄氷が揺れていくのを感じた。

「……親がいなくなった後、俺たちの面倒を見てくれたっていうかーー話し相手みたいになってくれてた人がいる。孤独だった俺たちにとって、その人との交流は、本当にありがたいものだった。心の支えになってた。その人にあげるためのものだった」

「そうだったのか」

 ジークフリートは鼻を鳴らした。

「……その後、盗んだものはどうした」

「違う! あれは盗んだんじゃないっ!」

 勢いをつけてアカネがジークフリートの方を向いた。反動で彼女の黒髪がさらりと揺れてさみどりに光る。琥珀色の瞳の奥に、また熾火のちかちかという明滅が見える。

「あれは、盗んだんじゃねぇ。あれはアオイとふたりで村の子供の子守りを少しずつして、稼いだ金を貯めて買ったものだ。それを、世話になった人にあげようと思ってたんだ。なのにーーあの親父、酔っ払ってて、俺たちが金を払ったことさえすぐに忘れやがって」

「そうだったのか。失礼な言い方をしてしまったかもしれない。すまなかった」

「……別にいいよ。助けてくれたのはあんただったしさ。ーー礼言ってなかったっけ。あん時は……ありがとう」

 そう言うと、アカネは膨れたように俯いた。前髪に両目は隠れて見えなくなっていたが、そこから覗く薄紅の頬がさらに赤く色づいていた。まるでさくらんぼのようだ。ジークフリートはその滑らかな頭を片手でわしわしと撫でてやりたくなったが、冷静になってやめた。代わりに、紺色のスラックスの中から、ゆるく折り畳んでいたハンチング帽を取り出すと、アカネの頭にそっ被せる。

「えっ?」

 アカネが頭を見上げる。

「お前が落としていった帽子だ」

「ああ、ありがと……」

 アカネは乗せられただけのハンチング帽を、自分で手を使って器用に被り直すと、何か体に喝を入れられたかのように、元気な顔色を見せてにっと笑った。彼女の白い八重歯が薄紅のくちびるから覗いた。

「……アオイの耳は生まれつきだ。どっかの誰かにボコられてああなったんじゃねえから」

「ああ、わかった」

「……あんたらみたいに、アオイを見てハナから変な目で見ないで、普通に接してくれた奴らは、初めてだった」

「そうか」

「うん」

 アカネは柔らかな微笑みを見せた。その笑顔は、彼女と初めて会ってから、今に至るまでに見た表情の中で、一番優しいものだった。

 一行が街の通りの門を潜ろうとしていた頃である。

 ブレンから預かり直した背中のブリュンヒルデが、何かに気づき、怯えて震え始めた。

「……ブリュンヒルデ?」

 ジークフリートは、訝しげに首を逸らして背負ったリュックを見る。

 リュックごと揺れている。小刻みに揺れるそれは、籠の中に浸した、彼女の腰の位置までの水も、薄い膜越しにたらりとこぼれそうなほどに見えた。さみどりの水滴越しに、彼女の震える白い肩が見える。

「……おい。どうした」

 ジークフリートは歩みを止めた。後ろを歩いていたアルベリヒとブレンも、異変に気付いて足を止め、体を横に落として、訝しげにこちらを覗く。

「おい……。ヒルデの嬢ちゃん、具合悪いのか」

 アルベリヒがいつにもなく冷静な声で、眉を寄せている。

 ジークフリートは一回転して彼の方に体を向ける。

「陽光がまともに当たりすぎて気持ちでも悪くなったのだろうか。木陰で休もう」

「ああ、それがいい」

「僕が彼女をおぶるのを代わりましょうか?」

 ブレンが身を乗り出すが、ジークフリートは首を左右に振った。

「いや。俺がおぶったままでいい。無理に今の状態で高さを急に変えない方がーーいや、ブレンがチビって言ってるんじゃないぞ」

「……どうせチビですよ!」

 ブレンは唇を噛み締めて眉を寄せた。どうやら彼の気にしていたことを口走ってしまったらしい。年頃の少年に対してすまなかったなと思い、ジークフリートは己の頸の刈り上げを片手で掻いた。

 海に背を向けているため、逆光となり、彼のブロンドは漣の如く、さっと金に煌めいた。だが、それを目にしたものは誰もいない。ただ、海の凪だけが見つめていた。

「おら、早く行くぞ。海辺から離れるんだ」

 アルベリヒがイライラした様子でジークフリートに胸を寄せる。

「ああ……」

 ジークフリートが頷き、軽く籠を背負い直して踵を返して街の裏手の木陰へ向かおうとした刹那であった。

 膝が、感情と連携せずに震え始めた。

 視界から、色彩が消える。濃い青の空は、灰色に。雲は黒く。街は朧な墨に変わる。

 そこにいた者、全員が、呼吸を止めた。

 この感覚は、皆経験がある。

 この恐怖はーー。

 沖の向こうから、悲鳴のような歌声が響いていた。はじめはひとつであったそれは、やがて重なり、複雑な音響となる。

 その調べは、美しいはずなのに、彼らにとってはひどく不快であった。

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