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クルワズリの街

「ブレン」という名前は炎を意味する。海で津波に飲まれて亡くなった祖父はそう言った。

 自分の名前の由来を聞いて以来、何事にも自信の無かった心にあかりがともったように暖かくなったことを今でも覚えている。

 ブレン・フィッシャーは暗い廊下を歩く為に、手にしたランプの橙色の灯りを見つめながら、幼い頃の思い出を回想していた。

 船内の誰よりも小柄な体で、大きな瞳にそばかすが浮くほど白い肌。

 髪なんて少女のようにやわらかい。一応ブロンドなのだがアドルフ司令官のように白に近い金でもなく、どちらかというと磨いた銅のような赤毛気味だった。そしてその癖毛が、犬のしっぽのようでふわふわして落ち着かないのを、年頃に気にしている。

 そのせいで船員には下手に見られるし。からかわれるし。いじられるし、いいことなんてまるでない。


(ベルツさんなんて僕の髪を急に引っ張ったり、ほっぺたをつねってげらげら笑ったり、本当にひどいんだから……)


 自分に常にダルがらみしてくるアルべリヒのことも何故か思い出してしまい、ブレンは「はーっ」とため息をつく。


(何でじいちゃんは炎なんて名前を僕につけたんだろう。強くもないし、海軍に入隊してからだって前線にまだ出たことがない。いつも皆さんの給仕や雑用係で終わってるのに。13歳になったんだから、もう少し背も伸びてもいいはずだし。アドルフ司令官のように、大人の色気のある男になりたいな)


 ブレンはジークフリートの横顔を頭に思い浮かべた。

 刈り上げたうなじに、長い前髪。甲板の上に立ち、陽の光を浴びるといつも金にきらめく。筆で書いたような切れ長の眸は、長いまつげに縁どられており、ターコイズブルーの石のように蒼くうつくしい。

 精悍な顔立ち。低くつややかな声。そしてそれに似合う、落ち着いた性格。ああ憧れる。

 ああいう人を美男というのだろう。


(いいよなぁ。時々話しかけてくれて、体調とか気遣ってくれて、やさしいし。僕もああいう風に生まれてみたかった)


 乙女のように頬を染めて上の空になる。無意識に歩いていたら、気付けば当のジークフリートの部屋の前に来てしまっていた。

 はっと目を見開き、部屋の扉を横目で見る。

 何故だか胸が高鳴る。別に悪いことをしている訳ではないのに、周囲を確認し、扉にそろり、そろりと蟹歩きで近づいた。

 気付けば、こめかみに汗をうっすらかいている。


(アドルフ司令官、今何してるんだろう……)


 ジークフリートの姿は、いつも司令官として職務に就いている姿しか知らなかった。

 プライベートな時をどのように過ごしているのか、一ファンとして興味を持ってしまう。


(耳、すませば中の音聞こえるだろうか)


 いけないとわかりつつ、扉に耳を近づける。犯罪を犯している訳ではないのに、罪悪感から胸がさらに激しく波打つ。

 静かなアドルフ司令官のことだから、読書にでも耽っているだろうし、何も聞こえないだろう。馬鹿なことしてないで早く自分も自室に戻って寝よう。

 そう思った瞬間、聞こえてきたのは男の嗚咽だった。

 絞るような声ですすり泣いている。

 予想外の事に驚き、瞠目したまま硬直する。


(な、なんで司令官の部屋から男の泣き声が……。しかもこんな夜中に……。ま、まさか)


 良からぬことを想像してしまい、さっと頬に朱をさした。


(いや、そんな噂は聞いたことがない。まさかそんなことはあるまい……。で、でも)


 動揺から、頭皮から汗が噴き出て、額や頬に伝っていく。

 鋭利になった聴覚をより研ぎ澄ませる。元々故郷で村のみんなに伝えるために、毎朝トランペットを吹いていた。耳はいいのだ。褪めた青空のもと、心地よい温度の風が、頬を撫でていったのもすら覚えている。


(この泣き声……。どう考えても聞き覚えがあるだみ声だ……。あっ……! ま、まさか……)


 頬に差した朱は、一瞬でさっと青白く変化した。

 嗚咽の正体に気付いてしまった。


「ベルツさん……!?」


 ブレンは知りたくもなかった現実に真っ青にな耳に添えた手を震わせる。扉に背をぴったりとくっつけて尻餅をついていた。

 こめかみからは冷や汗が流れ、顎を伝っていく。

 脳裏にはよからぬ想像が駆け巡り、その度に頭を降って思考を散らしていた。

 眸はぎゅっと閉じ、まぶたが白くなっている。


「いや、そんなことが、ある訳がない……!!」


 必死に今日の夕飯の事を考えた。

 ピンク色のソーセージ。先輩たちに無理やり飲まされそうになったビール。苦笑いで危機を回避したこと。美味しい食事とセピア色の食堂。

 そして楽し気に酔っていた先輩たちの笑顔だけを、脳裏に思い浮かべようと試みているのにも関わらず、耳朶にアルべリヒの嗚咽が入ってくる。

 中で一体何が起きているというのか。

 まさか男同士の。


「嘘だうそだ嘘だうそだ……」


 さらに青ざめて耳をふさぐ。よからぬ想像が駆け巡り、かたかたと肩を小刻みに揺らす。

 ただでさえ恋愛にうとく、経験の無いブレンには刺激が強すぎる。


「アドルフ司令官……」


 絞るような声で、ブレンはその名をつぶやいた。

 閉じたまなうらで、ジークフリートの姿が逆光となってうつっていた。

 金髪を縁どるひかりが、白く際立っている。ゆっくりと微笑むくちもと。


(……あの方はいつもこんなちっぽけな僕を気にかけてくれた) 


 配属されて初日の事である。同期(といってもブレンが最年少なので、年齢は年上の者ばかりであったのだが)と共に戦艦の甲板に横一列に整列し、ジークフリートとはじめて対面した。

 その日、彼の立ち姿は陽の光の前に立ち、逆光となっていた。

 紺の軍服の上にグレーの革製のコートを羽織り、すっと背筋を伸ばして立つその姿は威圧的にも感じられ、鼓動が高鳴り、怯えていたことを思い出す。

 くちびるを引き結び、恐怖を感じ取られないように眉を寄せて、何とか敬礼をした。


(僕もこれで結構様になって見えるかな……)


 甲板の上で軍服を着て敬礼し、司令官に向き合っている己に対し、少し自信が持てた。心に祖父がくれた火が灯ったような感覚がした。


(ここから始まるんだ。僕の海での戦いが)


 くちもとに無意識に微笑みを浮かべる。

 その時であった。


(あれ……?)


 甲板を横殴りに強い潮風が吹き、ブレンの脇腹を打った。

 気付けば体が浮き上がっている。

 海色のつめたい風が額と手の横に触れたかと思ったら、あっという間に足元を薙ぎ払われ、体が斜めになっていた。

 隣に立っていた同期は、突然のことに動揺し、わっと声を出すとブレンを避ける為に前に飛び出てしまった。

 横目で下を見ると、甲板の固い鉄がこめかみに迫っている。

 このままではブレンのやわらかくちいさな体は、鉄に強く打ち付けられ、砕けてしまう!

 沈みかけた太陽が、ジークフリートの体越しに、ブレンの涙の膜で覆われた眸に差し込んだ時であった。

 目の前に影が差し、脇腹に熱い手を感じる。厚い胸板に男の手が押し付けられていた。


「えっ……」


 足はすとん、と揃って地に降り立つ。

 きょとんとした顔を上げると、自分を見下ろすジークフリートの顔が目に入る。凪いだおもてで、感情が感じ取れないつめたい薄氷うすらいのような青いひとみで、ブレンを静かに見下ろしている。

 だが、ミッドナイトブルーの二の腕までを覆いそうな長さの軍手で覆われた手は、自分の脇腹に添えられ、その手から与えられる熱は温かい。


「……大丈夫か」


 ジークフリートのくちが静かに動き、低い声で告げる。

 ブレンは状況を理解し、はっと瞠目した。

 そして慌てて体をジークフリートから離すと、体をくの字に曲げる。


「あ、ありがとうございましたっ!!」」


 頬は恥ずかしさから真っ赤に染まり、額には玉の汗が、幾つも浮かんでいる。

 無限にも感じる沈黙が訪れる。


「くくっ……」


 やがてブレンの耳を打ったのは男のちいさな低い笑い声だった。

 えっ、と思い、恐る恐る顔を上げると、目の前でジークフリートが片手を丸めてくちもとに当て、しゅっと伸ばしていた背を少し折り曲げて笑いに耐えている。

 先ほどの怜悧れいりなイメージから一転、朝のひかりを受けて輝く雨上がりの金のしずくのようなうつくしさを持つ上司の男は、声を曇らせてほほ笑んでいた。

 唖然とした。

 隣に並ぶ何人かの同期も、その様子に同じように無になってぽかんと口を開けている。

 ひとしきり笑い、やがて波が引くように収まると、すっと穏やかな笑みを浮かべ、ブレンを見た。

 射抜かれたようにどきりとし、くちびるを噛む。肩をびくりと揺らした。


「ブレン・フィッシャー……といったか」


「は、はいっ!」


(僕の名前、知っててくれたんだ……) 


 さぁっと首から上が熱を持つ。咄嗟に背に回して組んだてのひらから、手汗もじわりと湧いてきた。

 ジークフリートはブレンとの間を一歩進み、間合いを詰めると、ブレンが戸惑うのも構わずに、すっと彼の胸の前に、皮手袋で覆われた右手を出した。 


「今日からよろしく頼む」


 一粒の鉄が入った硬質さの中に、穏やかな夕凪のような優しさがある声でそう告げる。

 ブレンはジークフリートの顔を茫としたまなざしで見つめたまま、硬直する。そしてごくり、と唾を飲み込むと、震える右手をゆっくりと差し出した。

 ジークフリートはそのやわらかな少年の手を握りしめた。


(司令官が僕の手を取ってくださった……。なんて優しい人なのだろう)


 眸を揺らし、頬を染めて上官の精悍で優しいまなざしを受け止めた。

 夕陽がふたりの姿を逆光に照らしていた。


 懐かしい思い出が、体を押してくる。


「僕が、僕がなんとかしなきゃ、僕がしっかりしなきゃ……」


 震える体を抱きしめ、小声でぶつぶつと囁きながらブレンは自分に言い聞かせる。

 最後にぶるりと大きく震えると、意を決したようにかっと目を見開いた。


「よしっ……お前なら出来る。お前ならふたりを止められる……!! 爺ちゃんの名にかけて!!」


 勢いよく立ち上がるとドアノブを強い力で引き、開けた部屋の壁にぶつかってしまうほど、ガタンという音を上げてドアを開けたブレンは、その流れに身を任せ、自身も内側へ足を踏み入れた。


「おふたり共おやめください!! 僕は、同性愛には反対はしない主義ですが、せめて愛し合うのは次の浜辺に着陸してからにしてください!!」


 まだ声変わりのしていないボーイソプラノの喉が切れてしまうのではないかと思うほど、必死に腹から大声を出す。極度の緊張から眸はぎゅっと閉じられ、細く長い睫毛が反動で上がってしまう。顔からは透明な汗が吹き出し、こめかみや額をじわりと濡らしている。

 死にたくなるほどの冷たい沈黙が部屋の中を漂った。

 誰も、何も言わない。

 まなうらの外で何が起きているのか。ジークフリートとアルべリヒはどうなっているのか。確かめたくとも確かめられない。

 恐怖で歯がかたかたと鳴る。

 眸を閉じているせいで、鼓動の音が、さらに過敏に全身を打っているのがわかる。

 今聞こえているのは己の鼓動の音だけ、と言っても過言ではない。

 歯列の間から、ひゅう、と息を吐き出す。

 沈黙を破ったのは、聞き覚えのあるだみ声であった。


「おい……」


 声が聞こえた反動でうっすらとまぶたを開けた。あまりにも固く閉じていたせいで、部屋の中が薄暗いにも関わらず、それが明るいともしびが差し込んだように感じる。

 は、と短く息を吐き、背筋を整えると、薄いまぶたをゆっくりと開けた。

 まず初めに見えてきたのはぽかんとした顔で自分を見つめているアルべリヒとジークフリートの顔であった。こいつは一体何を言っているのだろう、というような表情である。

 アルべリヒは胡坐をかいてまなじりの端を赤くしている。泣いていたからであろう。

 ジークフリートは立膝をついて静かに座っていた。くちびるを少し開けて、いぶかしむようにじっとブレンを見つめていた。

 ブレンの勝手な想像の姿と違い、ふたりは服も乱れていない。ましてや愛し合ってなどいなかった。


「えっ……?」


 咄嗟に間抜けな声を出してしまう。

 唖然としているアルべリヒ以上に唖然とした顔で、ブレンは彼を見つめ返す。


「ブレン……」


 ジークフリートが低く問う。


「こいつ、何で入ってきやがった。……ったくめんどくせえことになっちまったな……」


 アルべリヒは短い溜息をつくと、瞳を閉じ、がしがしと頭を掻いた。ふけが飛ぶ。

 茫としたまなざしでふたりを交互に見、その後、ブレンの琥珀色の眸は部屋の中にもうひとりの存在をみとめた。

 腕の毛穴から熱い汗がうっすらと吹き出す。

 船にいるはずのない、ありえない存在。その感覚はモノクロのホラー映画で幽霊が出てくる場面を見てしまった時に似ていた。


「人……魚」


 言葉にして明確にしてしまってから、くちびるが震える。

 ジークフリートとアルべリヒの間、3角の頂点の位置にいたのは、バケツから上半身を出した、ちいさな少女人魚であった。

 体を抱きしめ、金色のまつげで覆われた大きな瞳を揺らしてブレンを見つめ返している。そこには青い怯えが滲んでいた。

 胸元には不自然な腹巻が巻かれており、その異質な存在に何故かひとしずくの親しみを持たせている。

 金の髪が小刻みに揺れ、彼女の全身を覆っている。その姿を見て驚くと共に、うつくしいという感想を抱いてしまった自分に気付き、首を左右に振って我に返る。


「人魚……、何で人魚がここに!」


 瞠目したまま後ずさり、廊下へ飛び出ようとする寸前、腕を強い力で引かれ、口を大きな手で押さえられた。

 自分を背後から覆う影を見上げると、そこには初めて会ったあの甲板の上で、ブレンを抱き留めてくれた男と同じ顔があった。

 背中に感じる力強い熱。己を見下ろす怜悧なまなざしを見上げ、ブレンは大きく目を見開いた。


「アドルフ司令官……!」


 ジークフリートはしばらく凪いだ眸でブレンを見下ろしていたが、短く息を吸い、うすいくちびるを開くと、ふっとため息をついた。一瞬閉じたまぶたがおろした長い金の睫毛が、彼の白い頬に影を落とす。


「ブレン・フィッシャー……。すまない。許せ」


 低い声で告げると、ぽかんと開いたブレンのくちびるを、節くれだった大きな手が覆った。

 熱い、とブレンが感じる間に、細い肩に手が置かれ、ブレンの鎖骨をすべると、胸に回され、やがて強い力で抱きしめられた。

 首筋に手刀が落とされ、己の喉が、くぐもった声で呻いたかと思うと、ぐらりと視界が反転した。

 段を重ねて目の前が暗く揺らぎ、やがて暗黒に染まっていった。しかし痛みは少なかった。まるで穏やかな眠りに落ちていくような感覚と似ていた。

 暗闇の中で、青い火花が散っているのが見える。

 ひとつ、ふたつか。

 いやみっつか……?

 全身が気怠く、ずっとこの闇の中にいたいという気持ちと、ここから抜け出し、起き上がり、活動したいという気持ちが己の心の中で、目の前の火花のように揺らぎ、動く。

 やがて火花がゆっくりと横にうすく広がり、月色にひかり始めたかと思うと、ヴーンという音と共に視界がすべて一色に統一された。

 ブレンの眸に灯りが差し込み、ちかちかと切れかけの蝋燭の火の動きのように視界を危うくさせる。

 数回目をまばたき、大きな琥珀色の眸を安定させると、表面が一瞬、きらりときらめいた。


(あれ……僕……)


 徐々に体に感覚が戻っていき、気怠さと共に首筋にうっすらとした痛みを感じる。

 曇り硝子越しに見る景色のようだった視界が、徐々に像を結び、物の輪郭がはっきりと形を成した。

 茫としたまなざしで、しばらく目の前のものが確認出来なかったが、靄のように見えていた淡いふたつのオパールが、肌色の膜で数回覆われ、また開いていく。


(え……)


 ぱちくりとブレンを見つめていたのは、金色の睫毛で覆われた少女の大きなまなこ。

 その真下にある肌理きめの細かい桜色の頬を、微々たるあかりが撫でている。

 額から左右に緩く分かれた前髪は、彼女の顔を覆い、むき出しになった細くやわらかそうな肩の上を流れていく。

 波打つブロンドの長い髪の流れに沿って、無意識に視界を徐々に下降させる。

 見えてきたのはオリーブ色の羊毛で出来た――。


(……腹、巻き……?)


 無駄な贅肉の一切ない白い腹。ぽっつりと凹んだ、あいらしい臍の穴。

 女性の腹を生で見たことがないブレンは、そのことに気付き、はっと目を見開き、頬を朱に染めて我に返った。だが、そのさらに下にあるものを目にした時に、別の意味でより大きく瞠目した。

 少女のなめらかな肌が、途中できらめきを持ったピンクサファイア色に変化している。

 しかも肌質があきらかに変わっている。

 やわらかな肌から、臍の下で光沢のある透き通った幾重もの重なりへ。


(鱗……?)


 鱗だ。――魚の持つ肌だ。透明な水の中に腰から下—―鱗の部分が浸っている。そして水底で折れ曲がり、先端の大きな尾ひれが尻の後ろから覗いていた。先が花のようにひらき、透明だった。部屋の闇の中で夜桜のようにうすぼんやりと光っている。


(上半身、人間……。下半身、魚……)


 ブレンの耳の中を、流れていないはずの歌声が流れた。


 ――ルー レイ リア レイ メイ ネイ――甲板に躍り出る先輩たち。


 ――ルー レイ リア レイ メイ ネイ――皆恍惚とした顔をしている。――ひとり、またひとり、と海に飛び込んでいく。


 ――ルー レイ リア メイ ネイ――伸ばされる女の白い腕に引かれて、海底へ沈んでいく。


 ――僕はそれを震えながら船内の小窓からただ眺めていた。


 白い胸が、月の光に照らされた裸の上半身、エメラルドやルビー、オパール色に煌めく鱗で覆われた尾ひれのついた下半身。

 人魚。

 僕たちを襲った怪物。

 それが今、目の前にいる。


「うわああああ!!」


 ブレンは完全に眠気から目覚めた。飛び上がり、後ずさろうとしたが、両腕は背に回され、腰のところで縄で固定されていることに気付く。

 両足は三角座りをさせられ、足首がひとしく縄で固定されていた。

 皮肉にも人魚の尾ひれのようになった己の足は、勢いをつけて立ち上がろうとしたせいで部屋の床の上を滑り、背を打ち付けて後ろに倒れてしまった。

 割と強く打ち付けてしまったので、反動で目をぎゅっと閉じる。

 じぃんとした鈍い頭の痛みが響き、睫毛がかすかに揺れる。

 視界は再びまなうら越しにうっすらとした灯りが見えている。


「あっ! ねえ、この子大丈夫なの……?」


 先ほど人魚の少女のいた位置から鈴の音のような声が聞こえる。


「大丈夫だ。それほど強く打って気絶させた訳ではない。君を見てびっくりしたのだろう」


「だからブリュンヒルデと離れた位置に座らせとけっつっただろ!!」


 よく通る低い声と、だみ声が交互に聞こえる。

 瞳を震わせ天井を見ていたが、我に返り、右足で床を蹴り上げ、無理やり体を起こす。

 これでもブレンも一兵士である。体の俊敏性は兵役についていない同年代の普通の少年よりも優れている。

 俯いてはぁ、と息を吐き、己を落ち着かせると頬を震わせて、ぐっと顔を上げた。

 ブレンは捕らわれていた。両手両足を拘束され、部屋の隅に座らせられ、気絶し、寝かされていたらしい。

 隣にはバケツに入れられた、ちいさな人魚が大きなひとみをぱちくりとさせながら、こちらを心配そうに見つめている。 

 ジークフリートは自分の隣に少しうつむき加減で静かに座っており、その前にアルべリヒが胡坐をかいて手で顎を支え、苛立っている様子で歯を見せながら、横目でブレンを睨んでいる。

 状況がわからない。

 憧れの司令官の部屋の前に来たと思ったら、アルべリヒの声が聞こえた。男同士で愛し合っているのかと思い、部屋に乗り込んだ。すると目に入ったのはふたりの睦み合いではなく、自分たち船員を襲った人魚を大事そうに囲んでいる姿であった。


「どういうことだ……」


 か細い声で呟き、額につめたい汗をかく。

 ジークフリートがゆっくりとブレンの方を向き、怜悧なまなざしを彼に向けた。

 暗い影のあるひとみで、ブレンは憧れていた上官を軽蔑を込めて睨んだ。ジークフリートの胸板までの高さしかないというのに、ブレンは真っすぐなまなざしを彼に向けていた。しかもその瞳の膜には、軽蔑と怒りの橙色の光が宿っている。縛られた両手を己の背にぐっと強く押しつける形で、背筋を真っ直ぐに伸ばして顔を上向けている。同様に縛られた両足の裏は地にぴったりと付けられているが、彼の上半身の勇気と相反するように、怯えを隠せず小刻みに揺れていた。

 対してジークフリートはブレンの事を怜悧なまなざしで見下ろしていた。暗い蒼を宿したその膜は、みじんも揺れることはない。

 淡い金髪に覆われたブリュンヒルデは、そんな彼らの様子を軽く体を震わせながらうすいくちびるを引き結び、近い距離からじっと見つめていた。

 瞳を眇めると、ブレンは噛んでいた下唇から上唇を離し、震える声でジークフリートに問いを投げた。


「なんで……なんで僕らの仲間を殺した人魚を、よりにもよってあなたが匿っているんだ。恥ずかしくないのか。こんなことをして許されるとお思いか……!」


 ブレンの桜色のくちびるは八重歯で固く噛んだことにより青ざめ、肌はさらに白くなっている。

 憧れていた上官の裏切りに対する怒りと、それを上回る動揺が胸中で逡巡し、自分でも自分の感情を制御出来ていない。その焦りがこめかみから流れ出る汗となって、ブレンのなめらかな頬をつーっと撫でる。

 このひとに対して、こんな風に自分の感情をぶつけた事など、これまで一度たりともない。それはブレンがジークフリートの事を信用し、敬愛し、尊敬していたからだ。

 それが、こんな形で裏切られた。

 ブレンは横目できっ、とブリュンヒルデを睨んだ。鋭い眼光だった。琥珀色の眸には暗い闇の帳が降り、彼の顔の肌の白さを、より一層際立てていた。



 ブリュンヒルデは真顔でブレンの視線を受け止めていた。自分と同等か、もしくは年下かもしれないすこやかそうで純真そうな人間の少年。


(この子も傷ついている……。私が仲間を殺されたのと同じように、深く傷ついているんだわ……)


 ブリュンヒルデは一度まるいまぶたを閉じた。そして再度大きく開くと、ブレンを見つめながら、まなじりから涙をこぼした。

 それを見てブレンは、はっと瞠目し、怒りに燃えていた瞳を揺らした。


「なんで人魚が泣くんだ……」


 小声でつぶやく。

 ブリュンヒルデの艶のある頬を、透明なしずくが流れ落ちてゆく。その間、沈黙が訪れた。

 伏し目がちに、あからさまに不機嫌そうな顔をしていたアルべリヒは、ブリュンヒルデとブレン、そしてジークフリートに転々と視線を移した後、瞳を閉じ、大きく溜息をついた。


「あー、もう俺とまーた同じ展開かよ。端から見るとめんどくせえな。めんどくせえ。まったく、まったくめんどくせえぜ」


 頬と目尻を赤くしたブリュンヒルデは、少し口を開けて、はっとアルべリヒの方を振り向いた。勢いをつけて首を回したので、ゆるやかな金髪が揺れて灯に反射し、きらりと赤に輝く。

 アルベリヒは、一度静止していたが、ぱんっ、と己の膝頭を大きな両手で叩くと、勢いをつけて立ち上がった。

 ブレンは一瞬びくっと体を震わせ、縛られた足で地を蹴って尻を擦り、体を後退させる。

 アルべリヒはその怯えを気にせず、歩を進めると、ブレンのちいさなからだのすぐ近くまで、ずいっと迫る。

 腰を屈めてブレンの顔に己の顔を近づけた。


「うっ……!」


 突然アルべリヒに見下ろされる形となったブレンは、恐ろしさで身を竦めた。

 アルべリヒの淡い灰色の影がブレンの体を覆う。

 じっとブレンを見下ろしていたアルべリヒであったが、ふいに右手を差し出すと、ブレンの頭の上に重みをつけて重ねた。


「なっ」


 節くれだった男の手が、ブレンのやわらかなくせ毛を跳ねるように叩く。

 その衝動と呼応するようにブレンはぎゅっと瞳を閉じながら「うえっ」やら「ぐえっ」やらとかえるのような変な声を出した。

 ジークフリートとブリュンヒルデはぽかんとした顔で、ふたりの滑稽な様子を見つめていた。


「なにをっ」


 アルべリヒの手が上へ跳ねるタイミングを見計らって片目を開け、眉を寄せて彼の顎を見上げると声を出した。

 一体自分の頭で遊んで何をしている、という事を伝えたいのだろう。

 真顔でそれを受け止めたアルべリヒは、ブレンの上でさらに大きく手を広げると、彼の頭全体を掴むようにがしっと強い力で掴んだ。


「うげっ!」


「ごたごた言ってんじゃねえよ。少年兵ごときが。オレ達の上官が決めたことだ。間違ってる訳ねえだろうが」


「アルべリヒ……」


 ジークフリートは瞳を見開き、不機嫌な顔でブレンを見下ろす幼馴染の横顔を見つめた。その頬はがさつき、日に焼けている。それは海の陽光によるものだった。海で戦う男の勲章とも言える。

 ブリュンヒルデはバケツに半身を預けながら、アルべリヒの赤茶色のくせ毛に宿る光を見つめていた。

 拒否されていた相手から、言葉の端ではあるが受け入れられたことを感じて、こまやかな胸のふくらみの奥から、針で突かれたようにじんわりとした熱が広がった。やがてその熱は胸から首筋へと上昇し、頬に広がり、両のひとみから熱い涙となって外界に零れ落ちる。

 一度溢れた泉のような涙は、とどめようにも留まらない。

 後から後からこんこんと湧きあがり、しゃくり上げるほどに彼女の頬を濡らし続け、肉のない細くうすい影を持った鎖骨へと落ちてゆく。

 ブレンは嗚咽おえつを漏らすか細いブリュンヒルデの泣き声に反応し、アルべリヒに頭を掴まれたまま彼女の方へ首を回した。

 小柄な少女人魚は頬を赤く染め、自身の両肩を抱きしめながらうつむいて涙を流している。

 その真珠のような涙が、彼女の半身をひたしているバケツの中の水面にぽつり、ぽつりと落ちてゆく。

 決して広くは無い薄暗い船室のわずかな灯火に反射し、きらめいて。水底の洞窟に落ちるしずくのように、かすかではあるが反響していた。

 ブレンは茫然とブリュンヒルデの方を見ていたが、ふいに「うつくしい」という感情を抱いた。

 くちびるを固く結んでブリュンヒルデを見つめていたアルべリヒは、もう一度、ぽん、とブレンの頭を叩くと、「この事は誰にも言うんじゃねえぞ」と、少年の白くやわらかな耳元に、低く囁いた。

 

 甲板に出ると、船室にいた時にはかすかにしか聞こえていなかった潮騒が、一気に音量を増して耳に迫ってくる。いつの間にか船は川を抜けて、大きく広がる碧い海の上を走っていたらしい。

 船室にいた時も小窓から漏れる朝の光を感じていたが、外に出るとその白きまぶしさがジークフリートの金の睫毛をちかちかと照り映えるようにきらめかせる。

 一瞬、眉をしかめて瞳を閉じる。

 片手を額に当て、かざしを作ると、潮の匂いをはらんだ風が、彼の白い頬を撫でた。

「いい朝だなぁ。司令官殿」

 聴き慣れただみ声が背に響く。

 振り返る必要はないと感じ、口の端を上げて微笑みを作る。

 コツコツという足音が近づく。それはジークフリートの隣で終わった。

「そうだな……」

 前を向いたまま返答した。

 隣に立ったアルべリヒの、赤茶色の前髪を陽光がちかちかと磨いた銅色に照らす。

「もうすぐウェイルスの浜辺に到着する」

「あー、やっとかよ。長かったなぁ」

 アルべリヒは大きくあくびをして、気怠そうに肩を回した。羽を伸ばすカモメのように、両肩を背に近付け、肩甲骨をほぐす。

「しっかし、まさかこんな事になるなんてなぁ。この俺様ですら予想もしてなかったぜ」

「どこの俺様だ。貴様、どの口が言うか」

「へっ、天才軍師の司令官殿も、まさか人魚が実在して、その人魚に襲われて俺らの仲間が溺死するなんて。しかもその人魚の女の子を俺とアンタが協力して護るなんて展開、予想もしてなかっただろ?」

「……まあな」

 改めて言葉にして言われると、本当に不思議な気持ちになる。

 あの日、あの夜、自分たちはローレライ伝説について話題にし合い、絵画の世界でしか見たことのない人魚たちに取り囲まれ、その美しい歌声によって惑わされ、仲間たちを海に沈められた。

 その後、人魚たちの白い女体、宝石のように煌めくうつくしい鱗の下半身に、次々と銃弾の雨を降らせ、彼女たちを殺していった。

 戦争で敵を殺す道具であったはずの銃で、いつの間にか人外の女性達の、薄くやわい肌から血を吹き出させた。戦争は終わったはずなのに、その先の戦いがあった。それも悲しい戦いが。

(あの夜の、血に染まった飛沫を、未だに覚えている……)

 ジークフリートは腕を顔の前まで上げ、己の乾いたてのひらを見つめた。

 自分は手をくだした訳では無かったが、何故かこの手で直接、人魚たちの体を引き裂いて殺していったかのように感じられる。それは自分と船員たちに共鳴心を感じているからというのもあるだろう。海で命を預け合った仲間達は、ジークフリートの大切な体の一部であったはずだ。そんな船員たちを、歌で理由もわからず黒い海に引きずり込んでいった悪魔のような人魚たちには、恐ろしさと怒りをもちろん感じた。しかしそれは戦争で敵軍と戦った時のような、絶対に勝利してやるという暴力的な衝動を起こす出来事ではなく、どこか自然災害に遭ってしまった被害者の気持ちを抱いていた。そんな彼らが、人外のうつくしい女たちを手にかけていく光景に、何故だか言葉で上手く説明出来ぬ虚しさを感じていた。

「おい、ジーク。大丈夫か」

 耳元で囁かれただみ声にはっと瞠目する。

 碧い眸を震わせ、声のした方に視線を向けると、心配そうに自分を見つめる幼馴染の顔があった。普段自分を小馬鹿にしている男と同一人物とは思えないほどに、透き通った純真さがそこには宿っていた。

「……ああ。少し船酔いしただけだ」

 ジークフリートが額を右手で撫でて瞳を閉じ、顔を逸らすと、アルべリヒは目を見開き、数秒ぽかんとした顔をした。口を閉じ、むずむずとくちびるを動かす。耐えきれず乾いた息が、赤い口の端から漏れいずる。

 次いで腹を抱えて、大声で笑いだす。

「あっはっはっはっはっは!!」

 一度笑いの波がおとずれると、抑えられない質のようで、体をくの字に曲げてひぃひぃと心配になりそうなほどの引き笑いを起こした。

「おい」

 いきなり自分の発言に大笑いされるのは気分のよいものではない。ましてやジークフリートは大真面目な男である。少し怒った顔で金色の睫毛に覆われた切れ長の瞳を細めてアルべリヒの屈んだ背を睨む。

 そのことに気付いているのかいないのかわからないほど、ひたすらアルべリヒは笑い続けた。

 やっと波が収まったかと思うと、体制を整えて目尻に宿った笑い涙を指で拭う。

「いやあ。すまねえ、すまねえ。アンタってさぁ。ちょっと天然なところあるよな。自分で気づいてねえみたいだけどさ」

「は……?」

「いや、何でもねえ。忘れてくれ。そのままのアンタでいてくれや」

 むっと不機嫌な顔を返すと、アルべリヒは嫌味な微笑みを浮かべながらバシバシとジークフリートの肩を叩いた。

 そんなふたりの周囲を潮風がふっ、と流れる。割と強い風であったので、金髪と赤茶色の髪は巻き上がり、波打つ。

 瞳を眇めて前方を見つめると、白く輝く朝の漣に、スカイブルーの濃く爽やかな青い海が広がっている。

 その美しい青の向こうに橙や黄、赤の屋根を載せた白い壁を持つ家々のつらなりが、小さいビーズの繋がりのように見えていた。

 その向こうには深緑の小高い丘が広がっている。

「……見えた」

 ジークフリートは嬉しそうに微笑む。

「ああ、やっと着いたな。あー待ちくたびれたぜ」

 アルべリヒはちらりとジークフリートを見ると、口角を上げた。そして伸びをする。気持ちよさそうに全身で流れ続ける風を受け止めた。

 陽射しはあたたかく、船を照らし続けている。

「アドルフ司令官ー!! ベルツさーん!!」

 ふたりの背後からパタパタと愛らしい足音が聞こえて、近づいてくる。

 ふたり同時に振り返ると、息を切らしながら赤い顔をしてブレンがやってきた。その顔は晴れやかな笑顔をしている。

 アルべリヒは不敵な笑みを浮かべると、両手のこぶしを作り、ブレンのこめかみを左右から挟んだ。

「ひゃっ!!」

「お前、名前呼ぶときが俺が最初だろうが!!」

 ぐりぐりとこぶしを回すアルべリヒの手首を「やめてくださいよ!」と叫びながら剥がそうとするブレン。

 ジークフリートは何食わぬ顔で前方に視線をもどす。

 風で露わになった彼の富士額に浮いた汗が、きらきらと光った。彼がゆっくりと穏やかな微笑みを浮かべたことに、アルべリヒとブレンは気付かなかった。

 陽射しはあたたかく船の上に降り注ぎ、船室で未だにいびきをかきながら寝ている男達と、切なげな瞳で小窓から漏れいずる光を見つめるブリュンヒルデを平等に照らし続けた。



 一行が辿り着いたのは、故郷の帰路へと繋がる国、クルワズリの白い浜辺である。固い鋼で覆われた船は、朝日を受け、銀色に煌めいている。

 穏やかな波を起こしながら、徐々に速度を落とし、重いいかりしずめると、クルワズリの港に停泊した。

 地上へと伸ばされた階段を、船員たちは続々とくだってゆく。

 水上での長旅からやっと解放され、馴染んだ地上へ降り立つと、一気に解放感が体を駆け巡っていくのか、腕を高々と上げて伸びをする者や足を延ばしたり縮めたりする者などで港は溢れた。

 船員の男のひとりが、かたわらにいたもう一人の男と目が合い、話しかける。

「よう、やっとクルワズリへ到着したな」

「ああ、長かった」

「ここからは各々の帰路で故郷へ向かってよいと、アドルフ司令官からのお達しがあったな」

「そうだな……、あぁ、やっと家に帰れるのかぁ。早く我が家で嫁を抱きしめてキスしたい」

「はは、お前は新婚だったからな。今まで家を空けてた分、存分に新妻にいづまを抱いてやれ。子供の顔が見られるのも、そう遠くないかもな」

 ふざけるような笑いを浮かべながら言う男に、顔を赤くしながらもう一人の男は笑みを返す。

「ああそうさせてもらうぜ。……それにしてもさ」

 男は不思議そうな顔で、背後にそびえる船を見上げる。

 乗っていた時は感じなかったが、降りてから客観的に見ると、その人工的で硬質な船の肌に何だか畏怖のようなものを感じた。

 男の前髪を柔らかな風が撫で、朝日が鼻筋を白くひからせた。くちもとに優しい微笑みを浮かべる。

「普通なら、アドルフ司令官が真っ先に港に降り立つはずなのに、俺達船員を先に行かせて、自分は最後に降りるなんて、やっぱり仲間想いの優しい人だよな」

 それを聞き、もう一人の男は満面の笑顔になった。

「だな。あの人の元で共に戦えたのは、俺の生涯の勲章だ」

 ジークフリートは自室の小窓から半分顔を覗かせ、外の様子を伺っていた。

 きらきらと輝く漣と、灰色から途中で街へと続く道となる赤茶色へと変化している港に目を細める。

 談笑していた船員たちが、互いに手を振り合いながら家路へと向かい、散っていくのを注意して見届けた後、さっとカーテンを下ろし、立ち上がって後ろを振り向いた。

「港に残っていた船員たちは全員いなくなった」

 ジークフリートの視界には、胡坐をかいて彼のベッドに座り、壁に背をついて両腕を枕のように頭の後ろに置いているアルべリヒと、バケツの縁に腕を重ねて半身をもたれさせているブリュンヒルデ、その隣に座るブレンが映る。

 ブリュンヒルデは長い間海から離されていたせいであろうか、一度血色の良くなった肌の色が、また青白くなっているように感じる。 早くこの娘を自然の水に触れさせなければと考え、眉を寄せた。

 アルべリヒは壁から背を離す。

「そうかい。それじゃあそろそろブリュンヒルデを連れて、俺達も港へ降り立つとしましょうや」

 こきこきと音を鳴らしながら腕を回すアルべリヒを余所に、不安げな顔をしながらブレンはジークフリートの方へ身を乗り出す。

「だ、大丈夫でしょうか……。彼女を人目にさらさず港へ降ろすことなど、出来ますでしょうか」

 ジークフリートはブレンを見つめると、ふっと鼻で息をこぼし、微笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。俺達を誰だと思っている。軍人だぞ。海での戦いの専門家エキスパート、海軍兵を舐めるな。誇りに思え」

 アルべリヒは人の悪そうな笑みを浮かべてブレンを見た。

「だってよ。お坊ちゃん。まぁ、お前は初陣にも出れてなかったし、俺らの凄さはわかんねえかもしれねえけどよ」

 ブレンはふたりの上官を交互に見やる。

 逆光となった男達の暗い顔の影に、つばをこくりと飲み込んだ。

 ブリュンヒルデはぽかんとした顔で、瞳をぱちくりとさせる。カーテンから漏れた光が、木漏れ日のようにうすく重なって色を深ませて、彼女の額や頬に当たり、透明な水の膜を張った眸を宝石の如く煌めかせた。


 ジークフリートは一度港に降り立つと、シャワー室から持ってきた新しいバケツですばやく港に接している海水を掬った。

 そしてその水入りバケツを持って、再び自室へ戻っていく。その顔に迷いはなかった。

 自室に戻ると、アルべリヒがどこから持ってきたのかと思うほど、大きな背負い鞄をかついでいた。ジークフリートの怜悧れいりな視線と目が合うと、にやりと屈託のない笑みを返す。

 バケツを床に置くと、ジークフリートはブリュンヒルデの前へしゃがんだ。

「ジーク……何をするの?」

 不安げなおもてで目の前の精悍な男を見上げるブリュンヒルデの頬を、固い手で優しく撫でる。

 穏やかな碧いひとみで、ブリュンヒルデを見つめた。

「心配するな。お前に嫌な想いはさせない。……ただ少し窮屈になるかもしれないが、我慢してくれ」 

 ブレンは薄く口を開け、唖然としながら流れるように物事を進めていく男達の様子を、ただ黙って見つめていた。

 

 カーキ色の厚い布の鞄の中で、ブリュンヒルデはバケツに入れられていた。彼女を背負っているジークフリートが船体から港への階段を降りる度に、ゆらゆらと揺れる衝撃があったが、バケツをしっかりと太い紐で固定されているため、安定しており、不安感は無かった。むしろ初めての体験で、心地よいくらいだ。

「……辛くは無いか」

 ジークフリートが、ブリュンヒルデにだけ聞こえる小声で彼女に問うた。ブリュンヒルデは、ジークフリートにだけ見えるように開けられた縦に長い穴の前で、大きな瞳をぱちくりとさせて応える。そうするとジークフリートは安心したようなやわらかな笑顔を浮かべた。

 ジークフリートの足音で階段を降りきったことを悟ったブリュンヒルデは、魚の尾である膝を両腕に抱いて身を丸くした。船から降りれば、港である。周囲に少ないとはいえ人がいるかもしれない。緊張から真白き二の腕に震えが走った。ジークフリートたちが港を歩いていく、重量のある確かな足音だけが、彼女の耳に聞こえていた。

「ーーおい」

 ジークフリートの足が止まった。港の男に話しかけられているらしい。

 ブリュンヒルデは心臓がばくばくと高鳴るのを感じた。思わず片手で息を止める。指の間から漏れる吐息が、自分で考えていた以上に熱かった。ジークフリートたちがふたこと、みこと、男と会話する。男は訝し気に咥えていたパイプを吸ったが、やがて興味がない素振りで顔を海に向け、白い息を吐いた。

 ジークフリートたちはなるべく早足で港を去って行った。

 ブリュンヒルデは片手をあまりにも強く口に押しつけていたため、苦しくなってしまい、顔を赤くしてぜいぜいと呼吸をした。だが周囲に仲間以外の人がいなかった為、彼女の呼吸音で存在がばれることは無かった。彼女の折り曲げた尾が、バケツに入れられた海水の中で跳ね、ぱちゃぱちゃと鳴る。

「あっ」

 ブレンは早足で走る一行の中で、一人立ち止まった。

「おい、どうした」 

 アルべリヒが若干イライラとしながら隣を振り向き、ブレンに話しかける。

 ブレンはくちびるを噛み、元々白かった顔をさらにしろくしている。鼻に浮いたそばかすの朱色が、さらに濃くなっているように見えた。腹を押さえ、うずくまる。

「おい、腹がいてえのか。気持ち悪いのか。大丈夫か?」

 さすがにアルべリヒも心配になり、小柄なブレンの顔に近付くように腰を屈める。

「まさか船酔いか……? 胃薬でもあっただろうか」

 ジークフリートはズボンのポケットをまさぐる。それを制するかのように、ブレンはさっと手を上げ、ジークフリートの手にそっと重ねた。

「おい、ブレン・フィッシャー……」

「お腹が……」

「あ?」アルべリヒが眉を上げる。

「お腹が……、すいて……」

 そう言うや、ブレンは顔を真っ赤にした。そして彼のベージュのジャケット越しに、「ぐー」という腹の音が鳴る。

 一同は溜息をついた。

「ここがクルワズリ……」

 ブレンは空腹で痛む腹を押さえながら、ぼうっと天を仰いでいた。彼の頭上には赤や橙、黄色などの暖色系の布で作られた傘が幾重も重なっている。明るい陽光が差し、ブレンの白い肌を重なったとりどりの傘の色とひとしく、淡く染めていた。

「クルワズリってこおんなとこだったのか」

 アルべリヒは周囲を見渡す。両手をサスペンダーのポケットの中にしまい込み、口を開けていた。そよ風が吹き、アルべリヒの赤茶色の前髪を揺らす。久しぶりの穏やかさだと感じた。

 耳をすますと、そよ風と共に玲瓏な音楽が流れてきた。

「何だ、これ……。ヴァイオリンかぁ?」

 弓で何かを弾く音。

 聞き慣れた弦楽器の音ではない。

「琴だ」

 ジークフリートは何食わぬ顔で応える。

「は? コト?」

 アルべリヒは眉を寄せてジークフリートの方を見た。

 ジークフリートは一瞬アルべリヒを横目で見たが、すぐに視線を前に戻した。

「飯にしよう。ブレンの腹も限界だろうしな」

 返事の代わりにブレンの腹から盛大な音が鳴り、顔を真っ赤にして背を曲げたブレンを大人たちは見下ろした。


 傘の下には横一列に並ぶ商店街が広がっていた。とりどりの瑞々しい野菜や果物が並ぶ中、ジークフリートたちはその一角にある小さな飯屋に席をついた。天蓋には白い布が客席を覆うように張られている。

 ブレンが腹をこすっていると、奥から店長らしき太った男が現れた。

「お客さん、ここは初めてかい」

 黒髪に黄色い肌の店主は、腰に手をあて、満面の笑顔で座っているジークフリートたちを見下ろしていたが、彼らの顔を見ると、残念そうな顔になった。

「なんだ……あんたら皆西洋人だね。じゃあここの店の丼は口に合わんかもしれんな……」

 脂肪のついたやわらかな顎に指をあて、視線を斜めにそらして考え込む素振りをする。

 そんな店主を見て、アルべリヒはイライラしてきた。眉を上げて店主を睨み上げる。

「なんだぁ? 俺達には食いもんは出せねえって言うのかよ。俺は好き嫌いはねえんだ。何でも持ってきやがれ!」

「そうかい? そんじゃあ持ってくるけど……一人ロッピャクハチジュウエンだよ」

「エン?」

「ーーああ、気にするな。持ってる」

 そう言うとジークフリートは懐から、てのひらサイズの飴色の革の財布を取り出し、ぱちりと大きな金のボタンを指で弾くと、中から丸い金貨を何枚か取り出した。そして、店主が取りやすいようにテーブルの上に乗せた。

「ありがとよ、ほんじゃ、待っといでな」

 店主は満足そうな笑顔を見せ、店の奥へと消えていく。

 アルべリヒは訝しむように店主の背を見つめていたが、ジークフリートに顔を近付けると、何かを問おうとして口を開き、結局やめて片手で顎を支えた。

 店主は器用に両手で三杯の丼を持ってくると、ジークフリートたちの目の前に置く。丼は藍色で細かな筆致で何かの模様が描かれており、アルべリヒが興味を持って顔を近付ける。

「……ドラゴンか?」

 丼に描かれていた髭の長い一見蛇のような怪物は、昔アルべリヒが幼い頃、父母から見せてもらった東洋の絵本の中で見た事がある龍であった。西洋のドラゴンとは違い、翼のついた巨体ではない。それが奇妙で不思議で、逆に惹きつけられたのだ。

 そんな遠い記憶を思い返していたが、意識を丼の上に乗せられたものにうつす。

 赤いマグロの切り身と、白身魚の切り身、そしてサーモン、イカの切り身が端だけが重なるように乗せられ、その横に黄緑色のものが、ちょこんと置かれている。

「生魚のオンパレード……」

 アルべリヒは口を大きく開けた。

「なんだ、生魚は嫌いなのか」

 隣でジークフリートは何食わぬ顔で箸を持ち、マグロの切り身に手をつけようとする。

「いや、別に嫌いってわけじゃねえけど……」 

 アルべリヒはぶつくさ言いながら箸を持ち、丼を片手で持ち上げると、そのまま丼の縁にくちびるをつけ、スープをすするかのように、かっくらおうとする。

 だが、違和感を感じ、丼から顔を離す。

「ん? なんだ、この魚の下に敷かれてるの……」

「米だろ」

 ジークフリートが淡々と応えた。

「コメ?」

 アルベリヒはジークフリートの方を見やる。

「美味いぞ。いいから魚と一緒に食ってみろ。ああ、そうだ、そのテーブルの上に置かれている醤油を適当にかけてな」

「ショウユ?」

 黒パンとビール、ハムで生活しているアルべリヒに、先ほどから聞き慣れない言葉がぽんぽんと飛んでくる。

 目の前を見れば、テーブルのくぼみに硝子がらすで出来た瓶が置かれている。吸口がついているようだ。その中に半分ほどの量でほのかに透明な黒い汁が入っていた。

(なんだこれ、黒ビールか?)

 アルべリヒは眉をひそめながらそっと手を伸ばし、瓶を取り上げた。そして丼の上から距離を離し、指で蓋を押さえながら魚の上に垂らしてゆく。

 硝子の口から漏れる醤油は、陽の光に当たると少し赤茶色であることがわかった。マグロの脂に弾かれ、切り身の上をすべり、米に染みていく。食べたことが無いので味がわからなかったが、見た目は美味そうに感じる。ソースとは少し違う味なのだろうか。

 己のくちびるを舐めると、乾いていることがわかった。

 丼を再び持ち上げ、箸で刺身と米を同時にかきこむ。

「んっ、ほっ。こりゃうめえ……」

 口いっぱいに広がる米の甘みと、魚の新鮮な脂、そして醤油の甘くもあり辛くもある絶妙な調味料の味が合わさり、幸福感を得る。

「ほい、ほりゃ、ふめえな」

 笑顔で隣のジークフリートを見ると、淡々と箸を口に運び、半目を閉じて味わっている。まるで懐かしい食べ物を味わっているかのようだ。ジークフリートの喉が嚥下する。形の良いしろい喉ぼとけの動きを、意識せずとも見つめてしまう。

「だろうな」

「……なんだそのわかりきった態度……」

 ジークフリートはアルべリヒを無視して、店主がこちらに来ないこと、また通りから人が来ないことを首を回して確認し、刺身を箸で挟んだ。そして、背負った鞄の薄く開いた口から箸を入れ、ブリュンヒルデに食べさせようとする。

 ブリュンヒルデはそれに気付き、ジークフリートの手に顔を近付けると口を大きく開けて、ぱくりと刺身を食べる。彼女の舌先に、ひやりとした魚の風味が広がり、嬉しさでほのかに頬が薄紅に染まる。

 ジークフリートはそれを手の振動で確認すると、すっと箸を離し、ふたたび何食わぬ顔で元に戻した。

 アルべリヒはふとジークフリートの手を見て、自分が箸の持ち方を間違えていることに気付いた。愕然とし、慌てて見よう見まねで箸の持ち方を変える。

 アルべリヒの隣に座るブレンも、箸の持ち方がわかっておらず、困り顔で、まだ食事にありつけていないことに気付いた。

 教えてやろうかと口を動かそうとすると、ジークフリートが前屈みになり、アルべリヒの前からブレンに手を伸ばし、箸の持ち方を無言で教えてやっている。ブレンはジークフリートからの指示で頭のねじがひとつ抜け、すっきりしたかのように箸の持ち方を変え、笑顔で丼にぱくつく。 

 またジークフリートは何食わぬ顔で自身の丼に手を付ける。

 さきほどからアルべリヒはジークフリートのクルワズリへの適合の仕方に驚いていた。

(こいつのこの落ち着きようはなんなんだ……。地元住民か……? この街に元から住んでたんじゃねえの……?)

 アルべリヒのこめかみを汗がひとつ、たらりと流れた。丼の刺身と米を一口ずつ丁寧に食べるジークフリートにアルべリヒは肩を寄せ、口に手を添えて声をかける。

「ジークフリートさんよぉ。お前さん、なんでクルワズリの楽器やら飯やらに詳しいんですかい」

 ジークフリートは口の前で箸を止めると、瞳をちらりとアルべリヒに向ける。

「……実は俺は、日本趣味ジャポニズムなんだ」

「は?」

 ジークフリートは、箸を丼の上に乗せると、その指先でこめかみを掻いた。半分まぶたをおろし、視線を逸らす。

「……俺の部屋は、和風の骨董や絵画で溢れている。子供の頃からそういうものに惹かれるところがあった。リリューシュカには俺のそれをまだ理解してもらえていなくて、いつも新しい物を手に入れると、またかという感じで、ちょっと怒っているように見えたがな」

 アルべリヒは唖然とした顔でその話を聞いていたが、やがて耐えきれず噴き出した。彼の口から米がジークフリートの白い頬へ飛んだので、ジークフリートは嫌そうにそれを拭う。その様子は照れているようにも見えた。

「はは……、まさかお前にこぉんな趣味があったなんてなぁ。想像もしてなかったぜ」

「ほっとけ」

「付き合いなげぇのに。隠してたな。なぁにを恥ずかしがってたんだか」

「うるさい、お前だって親しい者に知られたくない趣味のひとつやふたつ、あるだろうが」

 ジークフリートは長い睫毛を伏せ、嫌そうに顔を横に向けた。

 アルべリヒが箸の先をジークフリートに向け、さらに彼をなじってやろうとした刹那であった。

 通りから、一人の女がこちらに歩いて来る。女の肩にかけていた紫色のショールが風に流れ、アルべリヒの目の端に映った。アルべリヒの後ろを通り過ぎたその女の着ている黒のディアンドルからのぞく、健康的な小麦色をした大きな胸元が、アルべリヒのまなこに映る。彼女の背に流したうつくしい黒髪が、アルべリヒの頬に触れそうな距離感になったとき、アルべリヒは息を止めた。

 がたりと音を立てて椅子を蹴倒し、アルべリヒが立ち上がった時には、女は通りから姿を消していた。

「おい、どうした」

 ジークフリートは眉を寄せ、アルべリヒに問いかける。ブレンも彼の隣で驚いた顔をし、持っていた箸を地に落としてしまう。からんと朱色の箸が跳ねる。

 アルべリヒは応えず、サスペンダーに両手を突っ込むと、彼らに背を向けて歩き出そうとする。

「アルべリヒ!」

 ジークフリートは強く声をかける。

「俺達は船ん中で、女抱かないで何カ月過ごした?」

 アルベリヒは背を向けたまま応えた。

「は?」

 ジークフリートは軽く目を瞠る。

「娼館くらい行かせろよ」

 そういうや、アルべリヒは片手を上げて去って行った。

 残されたジークフリート達は、暫し茫然としていたが、ジークフリートが背負っていた鞄の中で、ブリュンヒルデが彼らにだけ聞こえる声の大きさで「ショウカンって何?」とつぶやく。

 ジークフリートは一度地を見た後、溜息をついて鞄の方へ視線を向けると、「お前は知らなくて良い」と言って優しく叩いた。

 

  残されたジークフリート達は、海鮮丼をたいらげると店を後にした。

「美味しかったですね」

 ブレンがジークフリートに笑顔を向ける。

「ああ、久しぶりに食べたな」

「前も食べたことがあったんですか?」

 ジークフリートは眉を上げる。

「ここは俺の故郷に通じている街だからな。以前も通ったことがある」

「へえ。なるほど」

 ジークフリートは鞄を揺らし、体勢を整えた。

「腹ごしらえも済んだことだし、今後のことをどうするか考えねばな。まずは俺の家に帰って、ブリュンヒルデを仲間の人魚にどうやって帰すか、作戦会議を立てようかと思っている」

「そうですね……。司令官のご自宅って、クルワズリを徒歩で抜けて行けば、辿り着けるところにあるんでしょうか」

「ああ、港と陸は繋がっているからな」

 そう言うと、ジークフリートは遠い眼をして海の方角を見た。半分まぶたを伏せ、切ないまなざしをみせる。

(司令官、海で起きた悲劇を思い返しているのだろうか)

 ブレンは上目遣いでジークフリートを心配した。

「……どうしましょう。ベルツさんが帰ってくるまで、ここらをぶらぶらして待ってます? それとも先に進みましょうか。伝書鳩を飛ばせるところがあればいいんだけどな。そうすれば、ベルツさんに僕達の居場所を教えられるから」

 ブレンは通りをきょろきょろと見渡した。口では真面目に言っているが、内心では初めて見るクルワズリの街の商店街を探検したくてたまらなかった。縦に長い、弦の張られているつやを持った蘇芳色の楽器を演奏する女性達の演奏も聞いてみたかったし、もっとこの街を堪能したかった。

 うずうずとした気持ちが体にも伝わり、握ったこぶしが震えていた。

「……どうした。体調でも悪いのか」

「い、いいえ。そんなことはないです」

 震えたこぶしを見られていたらしい。

 心配して自分を見るジークフリートの様子に恥ずかしくなってしまい、顔を赤くして胸の前でてのひらを広げ、ぶんぶんと首を左右に振る。

「そうか、ならいいが」

 ジークフリートはうすく口角を上げると、興味を失ったように再び遠い目をした。そして数秒黙っていると、鞄を背負い直して背筋を伸ばし、淡々と通りを歩こうとする。

「えっ、司令官」

 ベルツさんは待たなくていいんですか、と問おうとして口の形が開いたまま止まる。

「本来の目的を忘れ、性欲に溺れた者のことなどほっておこう。先に進むぞ」

「え、は、はい!」

 歩幅が広く、ブレンが早足で歩かないと追いつけない速度でジークフリートは歩いていく。咄嗟のことだったので、先ほど食べた海鮮丼がまだ腹の中で消化されきっていなかったのか、えずきそうになる。それを頬を膨らませて必死に押さえた。

 あたたかなそよ風が、ジークフリートの金の前髪を揺らす。やわらかく目を眇めると、ふと商店街の呉服屋に目を留める。

 腰の曲がった白髪の老婆が、長い髪をつむじでひとつに纏め、横に真っ直ぐになるように赤い珊瑚の玉のついた櫛を差している。老婆の着ている着物は、薄紫の地に黄色い牡丹の花模様で、凛とした佇まいを現わしているが、それを纏う彼女の顔は丸く穏やかなので、愛らしい印象だった。

 ジークフリートは老婆の前に置かれた色鮮やかな着物に視線を落とした。独自の折り畳み方で丁寧に置かれたそれらにそっと指先を置き、すうっと横に撫でる。普段己が着ている革のジャケットや、固い軍服とは比べ物にならないほどやわらかな手触りがし、蒼い瞳を揺らした。

「手に取ってみてもいいんですよ」

 老婆は微笑んでそう言った。

 ジークフリートは着物に手を置いたまま、老婆に微笑みかえすと、さっと両のてのひらに、一番上に置かれた濃い紫色の着物を載せた。横に長いその着物は、ジークフリートが少し斜めに傾けると、陽の光を受けた繊維が薄い桃色に煌めく。それを見て、ジークフリートは目を瞠り、ひとみの水面を水色に鈍くひからせる。

菖蒲しょうぶのような色でしょう。この店自慢の一品ですよ」老婆は言った。

 ジークフリートはゆっくりと顔を上げて老婆に微笑む。

「菖蒲。琳派の絵画の中でしか目にしたことはありませんが、好きな花です」

「あんた、西洋人なのに珍しいね。好感がもてるよ」

 老婆はにやりと歯を見せる。前歯が一本金色だった。

 ジークフリートは眉を上げ、手にした紫の着物を丁寧に整えてから置かれていた着物の上に再び置き直した。そして、二歩後ずさり、両手の指を四角の形にして顔の前にかざす。写真を撮るポーズだ。四角く囲った指の間を、紫の着物に焦点を当て、じっと見つめる。そうして再び二歩進み、店の前で足を止めると、紫の着物を片手で抱くように取り、老婆に微笑む。

「ばあさん。これをくれ」

「あら、誰か良い人にでもあげるのかい」

「ああ、この世で一番愛している女へな」

「ふふふ、お熱いったら」

 ジークフリートの脳裏には、この紫の着物を着たリリューシュカの姿が浮かんでいた。彼女の淡い色の金髪には、こういった濃い紫も似合うだろう。

 長い髪を結い上げ、溶けたバター色の光沢を放ちながら、着物を着て車椅子をくるりと一回転させてあかるく微笑むリリューシュカの姿が、目に浮かぶようだった。

 老婆はジークフリートから着物を受け取ると、ゆっくりと後ろを向く。そして白い和紙でかさかさと音を鳴らしながら着物を折り畳むように包み、赤い紐で縦横十字の形で結んだ。両手にそれを載せると、ジークフリートの胸の辺りに差し出す。

 中央で結ばれた紐が蝶のようで愛らしいとジークフリートは思った。

 老婆のしわがれた手から、そっと受け取る。

「ありがとう」

 ジークフリートは礼を言った。

 老婆は微笑み、軽く会釈をする。研いだヤ刃のような色をした、彼女の見事なシルバーヘアを見て、死んだ母を思った。 母はジークフリートが十一の歳に亡くなった。その頃はまだ四十代であったが、故郷で流行った突然の感染症で、命を落とした。医師達から遺体から感染することを懸念され、死に顔を見ることは無かった。なので、記憶に強く残っているのは、木漏れ日の下で洗濯物を干そうとする、穏やかな笑顔を浮かべた母の姿しかない。己とリリューシュカのブロンドは、母の死より前に戦死した父譲りなので、母の髪は磨いた銅のような赤毛であった。美人というより小柄で愛らしい人だった。母も生きていたら赤毛から老婆のような白銀の髪になっていただろうか。そんなことを無意識に考えた。

 踵を返すと和紙で包まれた着物を片腕に挟み、通りへ戻ろうとする。

 後ろにブレンが立っており、着物の店とジークフリートの腕に挟まれた和紙の包みを、興味深そうに交互に見やる。

 ブレンの細い肩を叩き、先へ行くことを促そうとした刹那であった。

「この野郎! 待て、この盗人共が!! おうい、誰かこいつらを捕まえてくれぇ!!」

 先ほどジークフリートたちが辿ってきた通りからばたばたと足音が聞こえてくる。

 声のした方へ視線を向けると、ペールグリーンのハンチング帽を被った小柄な少年と見えるふたりが、ぱたぱたとこちらへ駆けてくる。ジークフリートは咄嗟に二匹の子犬を思い浮かべた。駆けることが仕事とでもいうかのような、その小さな身に力を有り余らせた。

 ものすごい駆け足で、無茶苦茶に手を振り回して必死で駆ける先頭の少年の右手には、サンタクロースの持っているような大きなオフホワイトの布の袋が、左手には、もう一人の少年の小さな手が握られていた。

 先頭の少年の必死さに比べ、手を引かれている少年は、帽子の縁から覗く琥珀色の瞳が虚ろな様子で、自分で走っているというより走らされているといった印象であった。

 気にはなったが、今は面倒事に関わっている暇はないので、見なかった事にしようと彼らに背を向ける。

 すると横から風が起きた。

 はっと視線を向けると、少年たちがジークフリートと触れる寸前で駆けていくところであった。

 少年が一瞬顔を上げ、ジークフリートの蒼い瞳と目が合った。少年の琥珀色のアーモンド形の瞳が、きらきらと輝き、生命力に溢れていた。先ほどは遠目から子犬のようだと感じていた少年の印象が変わり、触れれば噛まれる子猫のようだとその時感じた。

 ジークフリートと目が合うと、少年はきっと鋭い目つきになった。そして当てつけのようにジークフリートのすねに、自分の腕を触れさせた。

 その時、ジークフリートは咄嗟に少年の腕を強く掴み、後ろへ引きずり込むように引っ張った。

 少年は驚き、目を丸くする。少年と手を繋いでいた後ろの少年も同時に引っ張られる。

 ふわりとふたりの少年は地から宙へ浮き上がった。ジークフリートはその軽さに驚いた。何も食べていないかのような重力だった。

 先頭の少年と再び目が合う。目の端の睫毛が吊り上がるように長く上を向いていて、桔梗の花弁の先のようだった。

 ジークフリートは、先頭の少年がこちらを睨み上げ、何か言おうとする前に、ふわりと片手を彼の小さなくちびるに当て、口を塞いだ。少年たちを両腕で抱きしめ、かるく持ち上げる。耳元に口を近付けると「静かにしろ」と小声で囁いた。

 少年は吊り上がった猫目をこちらに向けて、睨み上げてくる。近くで見ると深い泉の水面で輝きを放つような琥珀色の瞳の大きさが際立つ。遠目で見た時は気付かなかったが、あどけなくも凛としたよい顔をしている。着ている衣服も、他のクルワズリの住民たちといささか趣が違っていた。

(これは、もっとプロトタイプの着物なんじゃないか……?)

 クルワズリの住民の着ている衣服は、上衣は先ほどジークフリートが店で購入した着物と同じような構造をしているのだが、下は西の国の住民が着ているのと同じ構造の、青や濃き紫色の麻のズボンやスラックスを履いている。

 だが、この少年たちが着ているものは、上も下もひとつながりで、太い帯を細い帯紐で締めて留めているような、古代からの「キモノ」を纏っていた。

 対してもうひとりの少年は常に顔を伏せており、顔色が伺えなかったが、帽子から覗く瞳は、猫目の少年に比べて垂れ目であるように見えた。小さな鼻が愛らしかった。少年たちはジークフリートに抱きかかえられても、繋いだ手を離さなかった。猫目の少年の方が強く垂れ目の少年の手を握って守っているように見え、猫目の少年が兄で、垂れ目の少年が弟なのかと思わせる兄弟愛を感じた。

 吊り目の少年が夕焼けを彷彿とさせるような紅い色をした着物を、垂れ目の少年が、澄み渡る暁を思わせる薄い水色の着物を着ている。

「ちくしょう! あいつらどこ行きやがった……!! 待て、この野郎共! ぶっ殺してやる!!」

 男の怒声が通りから聞こえてくる。

 ジークフリートは視線をちらりと通りへ向けると、再び腕に抱いた少年たちに戻す。そして店を覆う白い布に、通りからこちらが見えなくなるまで体を沈めた。

 男が遠ざかっていく気配と、腕に抱いた子猫のような兄弟の、ばくばくという大きな心臓音が聞こえる。数秒静かな空気を味わい、踵を揃えて前へ踏み出し、姿勢を元に戻すと、腕を再び見ると、ふたりのつむじが目に入った。気付かない内に少年たちを自分の固い胸に抱きつぶしてしまっていたようで、腕の力を緩めてやると、猫目の少年が目の端に涙を溜め、頬と鼻の頭を赤くしていた。

「何すんだよ!」

 ジークフリートは迫力に飲まれて「すまない」と一言謝ってしまいそうになったが、くちびるを軽く湿らせ、その必要はないと自分に言い聞かせた。そして腕の力を完全に解き、少年たちをよろめきながらも地に足を立たせる。

「……お前らが追いかけられていたのを助けてやったんだろうが。あのままだと普通の話し合いも出来ないくらい取って食われそうな勢いだったからだ。礼くらい言え。それとも本当に盗人だと言うのならば憲兵に突き出してやるが。その袋の中身は何だ」

 ジークフリートは猫目の少年の持っているサンタクロースの袋を指差した。猫目の少年は、はっと瞳を見開くと、その袋を背に隠す。

「……なんでもねえ」

「おい、中身を見せろ。場合によっては盗人に加担したことになりかねんからな」

 ジークフリートは少年の背に回ると、彼が手にしている袋を掴んだ。

「あっ、やめろ!」

 少年は手を伸ばして袋を掴もうとするが、ジークフリートが高く掲げた袋は、彼の小さな背では届かない。近くでよく見れば、袋は少し黄ばんでおり、古いことがわかった。

 袋の口に結われていた朱色の糸を解き、中を見る。紐の手触りは先ほど触れた紫の着物と同じ種類だった。布の方は、薄い牛の革で出来ている。

(金貨でも盗んできたのか……)

 そう思い、袋の中身を広げる。

 眉を寄せて中を見て、ジークフリートは目を見開いた。

「なっ……」

 そこにあったのは、女物の下着であった。E~Cカップくらいの大きさの黒いブラジャーが、細やかな黒のレースで縁どられてそこに数枚存在する。あとは米や鮭や鯖の燻製など、僅かな食料も入れられているが、下着があったことの衝撃が大きく、ジークフリートはそこにしか目がいかなかった。いつの間にか彼の口も開いていたらしく、舌先が少し冷えた空気に触れる。

「返せ!!」

 唖然としていると、猫目の少年が顔を赤くしてジャンプし、ジークフリートの手から袋をもぎ取った。

 ジークフリートは気が緩んでおり、猫目の少年の小さな手に、袋は取られてしまう。そのまま袋を両腕に抱きかかえ、垂れ目の弟を連れて逃げようとする少年を捕らえようと、ジークフリートは咄嗟に彼の被っていた丸いハンチング帽を掴む。柔らかな手触りのそれは、存外するりと彼の小さな頭から剥がれていく。

「あっ……」

 少年は虚を突かれ、大きな瞳をさらに見開くと、両手で帽子を取られるのを防ごうとする。

 ジークフリートは帽子を引っ張った時に違和感を覚えた。何か重力のあるものに引っ張られる感覚と、そこの突っかかりが取れる感覚が、彼の手先を襲う。そして、その突っかかりから帽子がふわりと浮き上がり、自分の手に取れたと思った瞬間、少年の体を覆うように、射干玉ぬばたまの長い黒髪が、繊細な糸の束となって舞い降りたのだった。

「は……?」

「ああ!!」

 猫目の少年が、頭を抱えて蹲るのと、垂れ目の少年が歩みを止めて後ろを振り返るのが同時だった。

 ジークフリートは予期せぬことに驚き、一歩足を踏み出して、地につっかえたように止めた。

「おい……」

 ジークフリートが声を掛けようとした刹那、猫目の少年は振り返り顔を上げた。涙で目が潤んでいる。眉間に皺を寄せ、子猫が威嚇するようにこちらを睨んでいるが、ジークフリートは少年の長い黒髪が艶やかで、そのうつくしさに見惚れていた。黒髪と合わせて今一度少年を見やれば、その肌は雪のように白くなめらかで、爪の先と、頬、くちびるは桜色をしていることがわかった。

(少女か……)

 やっと確信した。今一度よくよく見ればその黒髪は妹のリリューシュカやブリュンヒルデの波打つ髪質と違い、真っ直ぐでさらりとしている。

「帽子を返せ!!」

 少女は背筋を伸ばし、ジークフリートの手から袋を奪おうとするが、膝を折り曲げて高く飛び上がっても、端に触れただけで取り返すことが出来なかった。ジークフリートはジークフリートで、猫目の少女のつむじから目を離せずにいた。右に渦を巻いた整ったつむじであった。しかも少女が飛び上がるたびに、その細い髪は揺れ、陽の光に白い光沢を放つのだ。

 ジークフリートが気を抜いた隙に、少女は袋の端を掴むと勢いよく彼の手から袋を奪い取った。

「やった!!」

「あ、おい!」

 少女はかるく飛び跳ね、笑顔になると袋を片手で天へ掲げ、垂れ目の少年の手を取る。

「行くぞ! アオイ」

 アオイと呼ばれた少年は、こくんと頷き少女の手を取ると、引っ張られるように共に通りを駆けていく。

 ジークフリートの前に彼女たちが駆け抜けて起きた風が舞う。彼が手を前に出し、彼らを捕らえようとするが、猫のような速度で去って行ってしまう。

 ジークフリートはくちびるをうっすらと開け、茫然と彼らの背を見ていた。少女の黒髪が扇のように舞っているのが印象に残った。

 いつか画集の中で見た、岸田劉生きしだりゅうせいという画家が描いた娘の絵を、去り行く少女の後ろ姿に重ねていた。

「行っちゃいましたね……」

 呆然と坂の影に消えていく二つの小さな後ろ姿を見つめていると、背後にいたブレンがいつの間にかジークフリートと並ぶ形で横に立っていた。

 ジークフリートは一瞬だけブレンにひとみを向けたが、さっと前に戻した。

「ああ……」

 ブレンに聞こえているのかいないのか、わからないほど小さな声で囁く。

 やがて空は暗い青から桜色の夕焼けへと染まり、青と薄紅が入り混じったようなグラデーションを描き、この浜の街をかすみがけて覆っていった。

 ジークフリートとブレンは、己の体の表面が夕日に溶けていっても、去っていった姉弟きょうだいの影から、目を逸らすことはなかった。

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