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少女人魚ブリュンヒルデ

 その日の夜は、これから生命が活発にはばたきだす予感を感じさせる初夏だというのに、いやに月がえていて肌寒かったと、ジークフリート・アドルフはあれから2年経った今でもあざやかに思い出すことができる。

 2年前、彼は25歳だった。若くもなく、老いてもいない透明で平行な年齢。

 窓から差す月あかりが、船の中の灯りよりもぼんやりと真白く、粉雪のようなかすかなきらめきが、夜色に染められた船内を照らしている。

 鈍い赤と橙が入り混じったひかりをもたらしていた船灯を消してしまっても、首から下げたペンダントの中にある、ちいさな写真の中の少女が見えるのではないかと思うほどであった。

 くすんだ古いペンダントは、円の中央にアイスバーグの薔薇の紋章が彫られている。紋章のすきまに、焦げた銅のさびが、かすかについている。紺色の地に、草花をかたどった金の刺繍のほどこされた軍服の中に隠されたそれを首から出し、手のひらに乗せると親指でぱちりと弾いて中を開く。

 金色のまつげにふちどられた、夜のとばりが完全に訪れる前の、空のように澄んだ青のひとみで、写真を見つめる。

 写真の中の少女は、月光に照らし出され、少しせた色でうつしだされている。

 少女が座っているのは、普通の椅子ではなく、車椅子の背もたれであった。ワインレッドのベルベッドが使用された、やわらかそうな背もたれに、少女はしっかりと腰掛け、かすかに寂しそうな表情で微笑み、こちらを優しく見守っている。

 歳は15歳。ウェーブがかった、白い光沢をすじに保つ長い金髪を、しずく型のちいさなルビーのピアスをつけた、ふくらみを持つ両の白いみみたぶの下で、たわみを持ったふたつのみつあみにしている。たらりと淡いふくらみを持つ胸の上に垂らしたそれは、凪いだ夜の海色のワンピースの上で、月のまばゆい黄色い道のようにしっとりと輝いていた。髪と同じ金の長いまつげにふちどられた、大きなアーモンド型のサファイア色の瞳が、わずかに寂しさをはらんだ湖のような微笑みをたたえている。

 うつされていた写真の色はモノクロであったが、少女の色彩をよく覚えているジークフリートは、あいらしいその姿を、瞳をすがめて護るように見つめていた。


「まーたリリューシュカの写真見てんのかよ。司令官殿」


 背後に衝撃がしたと思ったときには、肩に腕を回されて、手の中のペンダントを奪われていた。

 先ほど写真の少女・リリューシュカに愛情のこもったまなざしを送っていた男と同一人物とは思えないほどつめたい瞳で、横に立つ男を睨む。アイスブルーの冴えたひかりが滲むように。


「返せ」


 ごつごつとした岩のような手から引っぺがすようにペンダントを引き取る。流星のような金の糸が、彼らの手の間に流れる。

 隣の男は、さらに不機嫌さを増した視線を送る。


「へいへい。あんたは本当に妹至上主義なんだからよ。リリューシュカが嫁に行ったらどうするつもりだ」


 アルべリヒ・ベルツ。

 ジークフリートと同じ25歳。

 赤茶色の髪に、そばかすの浮いた小麦色の顔をしている。鼻はまるく、一見童顔を思わせるが、目つきが悪いので、万人受けのしない雰囲気を漂わせていた。


「俺の家族について、貴様にとやかく言われる筋合いはない」


「ちぇっ」


 ジークフリートはふたたび親指を弾いて、ペンダントをぱちりと閉じると、うすい白の手袋越しにアルべリヒの手脂を拭い取るように、親指の腹ですっと撫でた。そして、すばやく鎖骨の下に戻した。

 まるであいらしい少女の写真の入ったペンダントなどしていないかの如く、冷静で精悍せいかんな軍人の顔に、薄氷を貼るように戻していた。


「……まあ戦いも一応終わって目途めどがついたし、あんたのいとしい妹と再会できる日も、もうそんなには遠くねえよな」


 ジークフリートは黙った。

 彼らは、ぺデルガンツというヨーロッパの小国の海軍に属している。

 ジークフリートは、艦隊かんたい「キール号」の司令官。アルべリヒはその下につく一等兵だ。

 隣国、アーガナイトとの海での攻防戦になんとか勝利し、生き残った海軍兵を引き連れ、キール号からこの民間の船に乗り換えさせ、ヨーロッパを流れるライン川を渡り、母国への帰路についていた。

 夜色に染まった水面は、月のひかりでさざなみがきらきらとひかっている。てのひらで、はらりとこまやかな星の花弁を散らしたように。

 本来ならば上官であるジークフリートに対し、部下であるアルべリヒが軽口を叩くことは許されないのだが、彼らは同い年で、共にペデルガンツの中の田舎村・ルーピウスの出身である幼馴染であった。オリーブの小さな丘が、海に面して集まったような、太陽の穏やかさを持つ故郷。白い黄色のひかりが、粒となって、まだらに空気の中を漂っていた。

 ただ、決して仲が良かった訳ではなく、腐れ縁と言える。

 軍に入隊してから軍人としての才能を開花させたジークフリートは、アルべリヒを置いていくように出世してしまい、その若さでは異例の、「司令官」の地位を手にしてしまった。

 そんな幼馴染に対し、心の底で嫉妬の感情を抱いていることを、アルべリヒは隠そうともせず、時折ふたりきりになると、嫌味をあらわにする。

 鼻筋が通り、うなじを刈り上げ、ブロンドの長い前髪をオールバックにし、切れ長の瞳で整った顔立ちのジークフリートに対し、アルべリヒはそばかすの浮いた童顔で、鼻も丸く、垂れ目で、癖の強い茶髪に悩んでおり、そういった見た目の点でもジークフリートのことが気に入らない。

 妙齢で小物を発揮するアルべリヒに対し、ジークフリートは気にも留めないし、どうでもいいとさえ思っているが、この世で一番大切に思っている体の弱い妹のリリューシュカのことを引き合いに出されると、反応してしまう。

 アルべリヒのせいで母国で自分を待つリリューシュカへ想いをせるひとりの時間を奪われてしまったと、不機嫌になった。

 わずかに昂った気持ちを沈めるため、つめたく穏やかな海の潮風で頬を冷やそうと、甲板へ向かう。

 すると何故かアルべリヒも後をついてくる。

 ジークフリートは真横に並び、こちらを見上げてくる彼を無視して、すたすたと歩く。

 ふたつの軍靴が縦に並ぶ。

 背の高い男が、ふたり並び、言葉もなく足音を響かせて廊下を歩いていくのを、モップを持った清掃員は、不思議そうに見ていた。


 甲板に出ると、かすかに船内で感じていた潮の香りが一気に増した。前髪がゆるりと湿ったのを感じたので、ジークフリートは細く長い指の先で、つまんで確かめる。


(このライン川は、北海と繋がっているので、海の香りがするのだ)


 3度まばたきをし、外の風のつめたさに肌を慣らさせると、ゆっくり縁へと歩み出し、より川に近付いていく。

 波が船を打つ音。静かなさざなみの白くまだらな輝き。曇った月あかり。果ての無い黒い川。

 海とは違うが、広大なこの川は、海と変わらないように見える。海は、自分達の戦場だ。人の命を殺め、また殺められる戦地。海は人の血をさらい、白い飛沫しぶきを上げ、沈黙しながら飲み込んでいく。

 だが、ジークフリートは、そんな狂った面を持つ海のことを、心から愛していた。

 ルーピウスにいた少年の頃のことである。羊や牛の世話を一日中した後に、タオルで汗を拭いながら、浜辺にひとり降り立つのが好きだった。

 金色のさざなみを起こし、赤い夕陽を飲み込んで、自らも赤く染まる海を眺めていた。

 本当は漁師になりたいと思っていた。

 だが、身体能力の高さを見込まれ、より収入の高い海軍兵になったのは、父母を病で亡くし、たったひとりの家族となった、生まれつき足の不自由な妹のリリューシュカを、ずっと守っていく為であった。

 海軍なんて危ないところに行かないでほしい。ずっと自分のそばにいてほしいと、車椅子に座ったまま、自分の腰に泣きながら抱き着く、やわらかくちいさな妹の背中を抱きしめ返しながら、これも運命のひとつであり、自分の人生なのだ、とどこか諦観ていかんを持ち、またいつの間にか、海に想いをせていた。

 海に呼ばれ、海で死ぬことが、自分の運命さだめなのかもしれない。

 自分が死んでも、妹には多額の保険金が行く。それでもういいと思った。

 だが戦場で死を予期させるようなピンチに陥ると、脳裏にはリリューシュカの泣き顔が浮かび、迫る敵を、すばやく銃で撃ち殺していた。熱く渦巻く生命の強い本能に、この身を任せるままに。

 自分は生きなければならない。生きて妹の元へ帰らねばならない。

 先の戦いで焼け付くように願っていた想いが、ようやく叶うのだ。


(本当に帰れるのだな……)


 夢にまで見たことは、叶わないと思っていたが、本当に現実になるということの実感がいまだなかった。

 一度故郷へ戻っても、ふたたび戦いが始まれば、いずれ戦地へおもむくことにはなるのは当然だが、それでも、いとしい妹のやわらかなブロンドを、骨がわずかに浮いているちいさな体を、この手で抱きしめられる日が、この川をずっと泳いでいけば違えようもなく訪れる。


(リリューシュカ……。待っていろ)


 胸に手を当て、まぶたを閉じる。厚い軍服越しに、中に仕舞ったペンダントを親指で撫でた。

 きっと、家に帰ればリリューシュカは、編み物をしていた手元から顔を上げ、嬉しそうな笑顔で、車椅子ごと自分に近付き、戦争の訓練で硬くひきしまった腰を、やわらかに抱きしめてくれるだろう。自分は暖炉の灯りに、淡い白金の光沢を打つ彼女の髪を優しく撫でているだろう。そしてその後に、彼女が作ってくれた、夕日色に染まったトマトスープをふたりで飲んで、はりつめていたこの身をあたため、旅の思い出を語っているだろう。

 妹の高い笑い声が、潮騒しおさいと共に、耳にやさしく触れて聞こえるようだった。


「アドルフ司令官、知ってます? ローレライ伝説のこと」


 故郷に想いを馳せていたジークフリートの想像を打ち破るように、アルべリヒの鼻につくだみ声が、潮風に乗って響いた。

 舌打ちをするように目を開け、隣に立つアルべリヒを睨む。

 アルべリヒがにやつきながら、ジークフリートに話しかけていた。そのうすく開いたくちもとは、前歯が一本欠けている。


「……聞いたことはある。信じてはいないがな」


 溜息をつくように言葉を返す。


「怖くないですか? ちょうどその伝説とゆかりのあるライン川まで来てしまいましたし……。ライン川のローレライ岩って言やあ、この川で一番狭いところにあることもあって、かつては航行中の多くの船が事故を起こしたって話じゃないですか。ハインリヒハイネのうたにもあったでしょ? 何がそうさせるのか、わからないがって……」


「何を言わせたい。貴様、本当に人魚など信じているのか……その歳で。ライン川下りは、ドイツの観光として有名ではないか。変なことは考えず楽しめ」


 人魚などという絵本の挿絵でしか幼い頃に見たことが無い想像上の生き物のことなど、ジークフリートは興味も無かった。

 確かにライン川のローレライ伝説は有名ではあったが、そんなことで自分を怖がらせようとしているこの男の幼さが逆に可愛らしく思えてきてしまい、ジークフリートは右拳を握ると、口の下に当て、え切れず、のどを鳴らすように笑った。


「くくっ……」


「な、なに笑ってやがんですか」


 この割れない氷のようなおもてを持つ美青年が、笑うことなどめったにない。

 彼を少し怖がらせて動揺させてやろうと目論んでいたアルべリヒは、逆にこちらが笑われてしまったことに動揺していた。

 ジークフリートはひとしきり静かに笑いをこぼすと、アルべリヒの背を励ますように、てのひらでばん、と強く叩いた。しかし、この男は並の人よりも腕力が高いことに、自身で気づいておらず、アルベリヒの背に、ぱきっとした痛みが走る。

 思わず背をらせ、瞠目どうもくし、歯を食いしばる。


「いってえ!」


「……すまない。強く叩きすぎたか」


「……べ、別にいいっすよ。俺も軍人なんで。こんくらいでもねえや」


 それにしては痛そうにしている。アルべリヒは痺れたような表情で、背を撫でながら体勢をととのえると、打って変わって余裕の笑みを作り、ジークフリートを見た。不揃ふぞろいな前歯がくちびるの間から覗く。


「へへ、でもそんなに人を惑わすほどきれいな歌声だってんなら、聴いてみたいもんですね」


「ライン川を通行する船に歌いかけるうつくしい人魚たちか……」


 ジークフリートの脳裏に、目にもあざやかな色とりどりの鱗に灯した人魚たちの絵が浮かんだが、すぐに現実に思考を戻した。

 彼に空想癖はない。


「彼女たちの歌声を聴いた者は、その美声に聞き惚れて、船の舵を取る手が、凍ったように止まってしまうという……」


 考え深けに前方を見つめると、いつの間にか周囲の風景が広い川から徐々に狭まり、灰色の岩肌に囲まれていた。


「噂をすりゃあ、もうローレライ岩だ」


 アルべリヒは楽し気にきょろきょろと辺りを見回す。

 天を突くような、ごつごつとしていつつも、なめらかそうにも見える高い岩肌。

 水面にも、孤島のようにぽつぽつと大小の岩が突き出ている。どれもましろく、月光の影響だろうか、わずかに青のきらめきがある。

 その天然の白を目にしたとき、自然に対する畏怖のようなものを感じた。

 ジークフリートは、自分が不覚にも少し動揺していることに気づき、驚いた。


(ふっ、まさかな……)


 くだらない御伽噺おとぎばなしなど誰が信じるというのだ。ましてやこの俺が?


(家に帰ったらリリューシュカへの話のネタにでもして喜ばせてやろう。ローレライの人魚なんて、少女がよろこびそうな題材ではないか)


 月光色に染まったまるいまぶたを閉じ、皮肉な笑みを浮かべ、甲板から船内へ引き返そうした時であった。

 

 ルー レイ リア レイ メイ ネイ

 

 かーんと鐘が、耳朶じだを打つように、高く低く歌声が響いた。今まで聞いたことのないほど、玲瓏れいろうで、あまい声。透き通っていて、清廉潔白せいれんけっぱくでありながら、色香をふくみ、惑わすような――。


「これは……」


 喉の奥から枯れた声を出す。気付けば足元がふらつき、倒れそうになっていた。縁に手をかけ、腹にぐっと力を込め、体制を整える。


(なんだ……!? この歌声は……?)


 全身の毛穴から冷や汗が噴き出していた。

 ジークフリートは歌声を聴きながら、自分の体の衝動に覚えがあることに気付く。

 これは――。

 女を抱いた後に起こる、気怠けだるさと似ている――。


「人魚だ!! 人魚の歌だ!!!」


 アルべリヒの割れるような叫び声で、はっと我に返った。


(人魚……!?)


 先ほど耳半分で聞き流していたアルべリヒの声が脳裏に甦る。


(人魚が……、歌っている……)


 ゆっくりと瞳だけを動かし、先ほど無人であった水面の岩を見やる。

 そこにはいつの間にか、赤毛や黒髪、亜麻色のウェーブを打つ長髪を背に垂らし、乳房を露わにした裸の上半身、魚の尾を持つ下半身――人魚たちが座っていた。

 鱗が月の光にさらりとなめられて、オパールのように色彩豊かにきらめいている。そのくちもとは艶やかな笑みを刻んでいた。


「人魚……!!」


 幻想が現実となった。

 船内にいた船員たちも、人魚の歌声に気づいたのか、ぞろぞろと甲板に躍り出てくる。

 しかし、船員たち一人ひとりの表情を見たジークフリートは、彼らがただ人魚の歌に驚いて現れたのではないと悟った。

 こめかみを汗が流れる。潮を帯びて、ひやりとして冷たい汗が。


(全員、恍惚こうこつとした表情かおをしている……) 


 船員たちは全員が男である。

 彼らは海軍兵として厳しい訓練を受け、先の戦で激しい銃撃戦と肉弾戦を切り抜けてきた、たくましい戦士たちだ。

 その彼らの眉間みけんはほぐれ、くちもとはよだれが垂れそうなほどだらけて、笑みを浮かべている。

 歯を食いしばりながら、岩の上の人魚に目を向ける。

 先ほどよりも人魚の数が増え、全員が楽し気に口を開けて歌をうたっている。

 歌声は高く、低く、ビブラートをはらみながら、ぽつぽつと輪郭をともなわず、浮かんでは儚く消える砂糖玉の木霊こだまのように響き渡る。

 再び船員たちに目を向ける。

 船員たちは、ほうけた表情かおで、手を前方へ伸ばしながら、手すりへ一歩一歩近寄っていった。


(まさか……)


 ジークフリートが、これから起きるであろうことを予測し、手すりから重い体を離し、船員たちの方へ走り出した。

 しかし時すでに遅く、先頭を歩いていた船員が、手すりから身を乗り出すと、そのまま頭から海へ落ちてゆく――。

 大きな水音と共に、白い飛沫しぶきが上がる。

 ああ、と口を開け、手すりから身を乗り出し、船員が落ちた個所を見たジークフリートは大きく目を見開いた。

 落ちた船員の男は、恍惚とした笑顔を浮かべたまま、片足を人魚に抱き着かれ、一瞬にして暗い水底みなそこへと引きずられていった。

 言葉が出ない。

 船員の男が消えていった水面には、こぽこぽと小さな気泡が浮かんでいたが、やがて凪になる。

 後にはただ黒い水が残るばかりである。

 ジークフリートは、思いきり手すりを殴った。


「……ちくしょうっ!!」


 腹に溜まった息をすべて吐き出し、素早く踵を返すと、残った船員たちも手すりから身を乗り出そうとしている。

 駆け出し、前に立ち、両手を広げ、全員を抱き抱えるように止めようと試みる。

 人魚の歌声に負けじと、口から大きく息を吸い込むと、腹に空気を溜め、喉が切れる極限まで出すかの如き大声を上げた。


「全員、耳を塞げ!!!」


 喉が切れて血を出したのではないかと疑われるほどの怒声である。

 船員たちと同様に、ほうけた表情をしていたアルべリヒは、弾けたシャボン玉のように、はっと目を覚ますと、自分の顔を両手で交互に打ち、耳をふさいだ。

 船員たちも、ジークフリートの指令に気づいた者はことごとく目を覚まし、耳を塞いでゆく。

 しかし、ジークフリートの両手から逃れた者、甲板の後ろの手すりにいた船員は、次々と笑顔で青黒い海に飛び込み、人魚と共に水底へと沈んでゆこうとする。

 人魚たちは歌い続ける。高く、低く、玲瓏に、艶やかに。


 ルーレイ リア レイ メイ ネイ


 ルーレイ リア レイ メイ ネイ

 

 耳から頬、唇、首、肩、胸、腹、脚と、体の感覚が徐々にあまく痺れ、薄らいでゆく。


(このままではまずい……!)


 目の端で、人魚のひとりが空へ手をひらりと仰ぐのが見えた。ゆびさきを広げ、そっと舞い降りる何かを受け止めるかのように。

 雲の切れ目から割れた卵から薄透明の白身がゆったりと落ちてくるような陽光ひかりが差し、人魚たちの肌の輪郭を、白く輝かせる。

 切なくすがめる人魚のひとみは、薄明りに照らされた宝石のようにきらめいていた。

 その姿はまるで、神々しいシスターが、教会で神に祈りを捧げているように見えた。

 その刹那、時が止まったようにジークフリートは見惚れていた。

 人殺しの妖怪とは思えないほどに、ひどくうつくしかった。

 その人魚たちの下に、水面から顔を出しているひとりの少女がいることに気づいた。


(少女……?)


 白くやわらかな肩を水面から出し、月の暈のようにぼんやりと淡くひかる波打つブロンドの長髪をゆらゆらと漂わせて、不思議そうにあたりをきょろきょろと見回している。

 水面から、水色と桃色にきらめく鱗をまとった、ピンクサファイア色の尾だけを出していた。

 人魚だった。

 ジークフリートの方角、正面を向いたその少女人魚の顔を見た時、今の状況がすべて吹き飛ぶほどに驚いた。


「リリューシュカ……!?」


 他の人魚よりもひと回りちいさな体をした、そのあいらしい少女人魚は、故郷の最愛の妹・リリューシュカそっくりの顔をしていたのだった。

 

「だめだ……もうこいつら殺すしかねえ。おい! お前ら! 銃を構えろ!  殺せ! 人魚共を殺せ!!」


 アルべリヒは両手で耳を塞いだまま、閉じたまぶたを勢いよく開いた。赤髪と呼応するような、エメラルドのひとみが宵闇に一度、冴えてひかる。彼の焦りが声ににじむ。興奮と恐怖で、瞳孔が少し開き、白いまなこに、細い枝のような赤が血走る。

 ジークフリートは、意識をアルべリヒの方へ向ける。はっと開いた瞳孔は、海に夕日がさっと走って照り映えるような金色に輝いている。恐怖が彼の生命力を倍増しにしている。


「待て!  アルべリヒ!!」


 船員たちはアルべリヒの怒声に肩を叩かれたように反応すると、よろめきながら軍服から銃を取り出した。船員たちの取り出した銃が、月光で青白いひかりを黒い身の上に走らせる。

 ジークフリートはこれから何が起きるのかを予期し、瞠目すると無理やり重い体を動かして、船員たちの方へ腕を伸ばした。


「やめろ貴様ら! まだ――」


 制止の声が、大量の銃声と重なり、かき消える。

 白い火花を吹き、次々と引き金を引かれ、銃弾が発射されてゆく。

 人魚のなめらかな額や胸、首に玉が当たり、次々と血を吹き出しながら黒い海面へと落ち、白い飛沫しぶきに、彼女たちの血が混じって赤く染まった。

 飛沫が落ち着くと、夜の闇の海だというのに、絵具を水瓶の中に落としたかのように、徐々に赤黒く染まっていくのが分かった。

 目を見開き、軍帽を深くかぶるとジークフリートの表情は見えなくなった。

 前歯でくちびるを噛み、船員たちから一線を引くようにうつむき、顔を逸らす。

 軍帽の下で苦悩を浮かべている彼と対象に、アルべリヒは両こぶしを握りしめる。体が小刻みに震えている。そのふるえは、先ほどの恐怖によるものではなく、甘美な興奮であった。


「やったぜ……! 俺の指示でローレライ伝説に打ち勝ってやったぜ!」


 震え声で喜びの雄たけびを上げると、気分が一度に沸騰ふっとうする。

 今まで人よりすぐれたところもなく、軍人としてもジークフリートに負け続けだった人生であったが、自分の指令で初めて海軍兵が動き、敵を殲滅せんめつさせることに成功した。そのよろこびが電流のように全身を駆け巡っていく。夜の潮風で冷やされていたはずの体が、熱く火照ほてっていった。

 船員たちは人魚を撃ち殺したことに、はあはあと肩で息をして茫然ぼうぜんとしているだけであった。だが両手をかかげて、腹からしぼるような声で雄たけびを上げ続けるアルべリヒに感染するように次々とこぶしを天へ掲げ、野太い勝利のよろこびの声を上げていった。

 人魚の死体が魚のように浮き上がり、背や腹を見せていたが、誰もその様子に気付かなかった。いや、興味もなかった。

 自分たちが軍人としての力を使い、得体の知れない化け物を倒したという快感に酔いしれていた。

 その中でジークフリート唯一人ただひとりが、心に浮かび上がってくるむなしさで、立ち尽くしていた。

 星は、黒い画用紙に白い砂を散らしたように天にひかりを宿し、月光は、煌煌こうこうと船の上の彼らと、海に浮かぶ人魚の腹を、平等に照らし続けている。

 船内の食堂はセピア色のあかりがともり、茶色くうす汚れた壁を、さらにノスタルジックに照らしている。

 食堂内ではお互いの戦いを船員同士が肩を抱き合い、叩き合いながら笑顔でたたえあっていた。

 皆、酒で赤く頬を染め、歯を見せながら大声でげらげらと笑っている。

 丸太を縦に割ったような木製の長机の上には、裂けめから肉汁のこぼれる、ぷりっとした薄紅色の大きなソーセージや、濃厚なタルタルソースが乗せられたふかしたジャガイモやニンジンなど、簡単な料理ではあるが、荒くれものの男たちの好物が置かれ、さらに勝利のよろこびを上げ増ししている。

 アルべリヒは祝いに特別に出された茶色のガラス瓶に入れられたドイツビールを片手に持ち、酔いで頬と鼻の頭を赤く染め、恍惚こうこつとした表情かおをしていた。

 彼の隣に立っている船員の男と肩を組み、つばが飛ぶほどに声を荒げている。

 もう片方の手に持った、泡のあふれる陶製のジョッキを高くかかげ、満面の笑みを浮かべる。


Sieg heil(勝利万歳)!」


 よろこびの大声と共にかかげられたジョッキが揺れ、泡が少しこぼれた。

 彼はまさにこの世の春といった気分を味わっていた。

 食堂で、ジークフリート以外のほぼ全船員が集合し、勝利の余韻を美味な料理と共に味わっているというのに、当のジークフリートは、一人孤独に甲板に残り、縁に背をもたせ、片足を立てて座っていた。彼の少し尖った膝頭に、月の鈍いひかりが、冴えてなめるようにあたっている。

 軍帽を頭から外し、片手に持った彼は、流れてくる潮風に身を任せていた。

 潮風は、くちびるに触れると塩辛さをはらんでいるというのに、故郷でときおり吹いていたそよ風のように、やさしく頬を撫でる。

 あおすがめ、ただじっと海面を見つめる。エメラルドをより深く闇に染めたようなその色は、彼の瞳の色と呼応し、溶けてゆく。

 ジークフリートの金のまつげが少し揺れ、月光色にきらりとひかる。


「人魚は皆、死んでしまったのか……」


 海面にうつ伏せや仰向けになって、先ほど自分の仲間に撃ち殺された人魚たちの死体が浮き上がっている。

 元々白かった体は、よりしろく月光に照らし出され、肌の輪郭が海の波に時折飲まれ、また浮き上がる。

 金色の眉をしかめ、視線を海面から岩に移すと、岩の上にも人魚の死体が数体、やわらかくくずおれたブルーチーズのように、倒れている。

 うつ伏せになり、だらんとのびた白い腕と、長いみどりの髪を岩にたらし、岩肌を血に染めている人魚。

 仰向けになり、白い乳房を天にあらわに向け、腹や首に銃弾の跡を残し、血を流している人魚。

 人魚のくちはぽかんと開き、よだれのように血を流している。そして長い金色の睫毛に覆われた瞳は瞳孔を開き、虚ろに夜の闇を見つめている。

 その瞳は切なくもエメラルドのように碧く輝き、悲しいほどのうつくしさを放っている。

 甲板の縁に視点を戻す前に、手前の海面に仰向けになって浮いている人魚の姿が目にうつる。

 白い乳房と顔を水面に出し、冷たい両腕は腹の上で祈るように組み合わされている。淡い桃色であったであろう乳首とくちびるは、紫に染まっていた。

 翡翠色の長い髪は、風で揺れる海の動きに合わせて揺蕩っており、うすく開いた藍色のひとみは、天の夜空をさえざえと映している。

 まるで一幅いっぷくの絵画のようだ。そう、ジョン・エヴァレット・ミレーのオフィーリアような。


(いや、オフィーリアというよりも、この様は、ポール・ドラローシュの「殉教した娘」の方が合っているか)


 マニアほどではないが、ときおり気が向いた時にだけ、美術館に足を運び、絵画鑑賞することが趣味の一つであった。

 ポール・ドラローシュの「殉教した娘」とは、デヴェレ河に投げ込まれ、殉教したという無名の聖女を描いた絵画のことである。

 絵画の上半分は漆黒のくらやみで覆われており、ぼやけた視界をこらすと、船や岩が描かれていることがわかる。その下半分には白を基調としたブロンドの聖女が上半分とは対照的に照り輝いて描かれている。

 黒い水面の中で、彼女の周囲だけが青く透きとおっており、両手は豊かな胸の下でゆるやかに交差され、縄が巻かれている。

 眠るように死んでいる彼女の頭上には、細い線で光輪が描かれており、頬やまぶた、額を白く照らしだしている。暗闇の中、聖女を光輪で照らすことで、物語性ではなく彼女の清廉せいれんな殉教性にのみ焦点を当てているとされていた。

 あまりにもうつくしい人魚たちの死体を目にして、忘却していた絵画の事を思い出してしまう皮肉に、一瞬酷薄(こくはく)な笑みを浮かべる。そして、潮が訪れるように、静かに空虚が押し寄せてくるのだった。

 眉間に皺を寄せ、かたく目を閉じると、人魚たちから視線を逸らすようにうつむいた。

 人魚といえば、真っ先に思い起こされるのはジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの「人魚」の絵画であった。

 ウォーターハウスとは英国の画家で、神話を題材にした絵画を多く残した人物であり、ジークフリートが一番好きな画家であった。1871年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに入学し、1874年、「眠りと異母兄弟の死」を夏の展覧会で発表。この作品が好評を博し、以後1916年までほぼ毎年定例の展覧会に出品していた。女性を単独で描いた絵が多いが、1880年代からはそれと同様に、複数の人物が登場する複雑な構図の作品をロンドンのロイヤル・アカデミーとニュー・ギャラリーの双方で発表していた。

「人魚」はロイヤル・アカデミーの会員に選ばれた後に発表された作品である。アルフレッド・テニスンの詩「人魚」に着想を得た可能性があるとされている。

 ウォーターハウスは代表作「シャロットの女」をはじめとして、テニスンの詩を基にした作品を複数描いている。

 この絵の人魚は、周りに船がないことから、セイレーンとしてではなく、うつくしく、また孤独な存在として描かれている。雰囲気は穏やかで、物悲しさも感じられる。

 人気のない入江に独り座り、夢見心地で暗色の赤髪をとかしている。口はわずかに開き、歌をくちずさんでいるようだと感じたことがあった。人魚の前には、真珠のネックレスが載った貝の器が置かれている。真珠は、海で命を落とした船乗りの涙でできているとも言われている。誰かが、そんなことをどこかへ書いていた。

 展覧会でこの絵を目にした時は、あまりのうつくしさに、ひとみに涙の膜が張ったことを覚えている。だが、それは現実で決して相まみえないであろう世界が、絵画によって海の潮の匂いやなめらかな白い肌、ブルーグレイに艶めく鱗、黄みがかった光沢を放つ赤く長い髪を持った幻想の女が目の前に表されたことによる感動であった。心のどこか奥底にひそめられた童心に、真水を落とされたのだ。

 まさか己が現実で人魚と出会い、被害に遭い、生身の血を持った彼女たちを殺すとは予想もしていなかった。


(俺は司令官として、船員の命を守ることが役目だった。あの時アルべリヒではなく俺が人魚を撃ち殺せと命ずるべきだった……。だが俺はためらった。何故ためらったか、それは撃ち殺すことに躊躇したからだ……。俺は弱い。俺は……この先司令官で居続けるべき人間ではない。辞職するべきだ……)


 呻くような苦悩の闇が、体を纏うとばりとなって重く覆う。

 うなじを片手で抑えると、刈り上げたブロンドが、月光に照らされ、淡く揺らめいた。

 ジークフリートの脳裏には、成人の女の姿をした人魚だけではなく、その中にいた少女の姿をした、先ほどの小柄な人魚の姿が焼き付いていた。海から生まれでたばかりの、あまやかな真珠色の肌をした。

 彼が人魚を殺すことを躊躇した最大の理由に、彼女の存在があったことに彼は気づいていた。

 妹・リリューシュカにそっくりな、あいらしい波打つブロンドの少女人魚。

 胸はウェーブがかった髪に隠されていたが、他の人魚と違い、谷間に見えた成長途中の淡いふくらみが、彼女の幼さを象徴していた。


(あの人魚の少女も、先の銃撃の犠牲になったのであろうか……)


 頭に映像として焼き付いて離れない、少女人魚の姿をぼうと思い浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、甲板の際まで歩いていく。

 こつこつと鳴る軍靴を止め、縁に手を突き海を見下ろすと、ある一点に目を奪われ、瞠目した。

 闇にまなこを慣らさなければ気付かないほどの場所にある岩の上に、その少女人魚がうつ伏せになって横たわっていた。

 背は長いブロンドに覆われ見えなくなっているが、むき出しになった肩から血を流しているのがわかる。

 やわらかそうな頬を岩につけるようにして横を向いており、こちらから見えるその顔は青白く、瞳を閉じて死人のように見えるが、海軍一視力の良いジークフリートは、彼女の金の睫毛が小刻みに震えているのを見逃さなかった。

 思考を捨て、本能の赴くままに上着を脱ぎ棄てる。

 甲板の縁に捨て置かれた太い命綱を腰に結ぶと、縁にその長い片足をかけ、黒い水へ、頭から泳ぎの体制で飛び込んだ。

 泳ぐことには慣れている。海で戦う男である彼らは、先ほど人魚に誘われ、飲まれていった船員と違い、不意打ちさえなければ泳ぎは呼吸をするように体に身についているものであった。

 両手を交互に回し、少女人魚のいる岩へ辿り着くと、岩のでっぱりを利用し、己の半身を上げる。濡れて筋肉をまとった、たくましい体の線が浮き彫りになり、月光で白いシャツから透けて見えてしまう。一見細く見えるジークフリートも、軍人の男であることがわかる肉体であった。

 岩の上の少女人魚をやさしく抱き上げ、腕に抱えると、彼女の呼吸を確認するように、その愛らしい顔に自分の顔を近づけた。

 鼻と紫色に変化したくちびるはちいさいが、閉じられた瞳は大きく、睫毛も長い。今は青白い顔をしているが、先ほど一瞬見た彼女の頬とくちびるは、桜色であった。

 少女の顔が遠くで見た時よりも、驚くほど妹のリリューシュカに似ていることに息を飲む。

 ジークフリートの熱い息が鼻先に触れるのを感じたのか、少女人魚はふっと息をこぼし、眉をかすかに寄せた。


「生きている……」


 揺れる瞳で、少女人魚の顔を見つめた。何故か、らしくもなく泣きそうになった。

 月光は海面に黄色の道を作り、ゆったりと白い波紋を作って泳ぐふたりこの世の命の、船への帰路を照らしていた。

 船内の食堂は、先ほどの陽気な雰囲気が終焉を迎えていた。

 倉庫にあったヴァイオリンやチェロ、トロンボーンやトランペット等、各々の得意楽器で演奏会まで開かれていたというのに、今ではひとり、またひとり、と疲労から自室へ戻り、人がまばらになっている。

 その中でまだ残っている者は、どのような男たちかというと、壁にもたれて酔いつぶれ、ごにょごにょと意味不明な言葉を発し、微笑みながら寝ている者や、未だ狂ったように瓶のまま酒をごくごくとあおり続ける酒豪ばかりである。

 その中に、この戦いの指揮者・アルべリヒもいた。

 彼は酒の瓶を持ったまま笑顔で意味深なことを周囲に向かって口走ると、ふらふらと後ずさりし、扉の近くの壁に背をぶつけた。そのままつーっとしゃがみこむと「ひくっ」としゃっくりをする。

 すでに顔は真っ赤で、にやけた口からは酒臭い涎を垂らしている。

 アルべリヒが手にしていた酒瓶を高く掲げ、床に置いた瞬間、隣の扉が開いた。

 茫としたまなざしで視線を上に向ける。

 入ってきたのはジークフリートであった。

 彼は静かに扉を閉めた。軍帽と前髪で隠され、灰色のうすい影で覆われ、表情がよくわからなくなっていた。

 アルべリヒは膝に手をついて立ち上がると、満面の笑顔をジークフリートに向けて、急に背筋を伸ばした。足をそろえ、片手を額にかざす。


「あ、アドルフ司令官殿。お疲れさまでぇーす」


 わざとらしい敬礼を送る。もはやこのタイミングでは嫌味にしかならない。

 ジークフリートは敬礼に反応せず、凪いだおもてで、アルべリヒを片手で押しのけた。颯爽とした足取りでなめられた飴色の床を歩き、コツコツと軍靴を鳴らす。そして、テーブルの上に残されていた黒パンをひとつ手に取った。

 踵を返し、誰とも目を合わせず扉へ引き返す。ノブに手をかけた時、自分を見続けているアルベリヒに小声で話しかけた。


「絶対にオレの部屋の周りに近づくな」


 その低い声音はちいさくも鋭く、司令官の威厳を感じさせ、酔っぱらっていたアルべリヒの背をひやりとしたものが撫でる。

 冷たい平手で頬をはられたような衝撃があった。

 扉を開け、ジークフリートは振り返らずに出て行く。

 手にはひとつの黒パンだけを持って。


「あ? 何だぁ、あのひと……」


 唐突に酔いが覚めた顔で、アルべリヒは閉じられた扉を見つめ続けた。

 そしてはっとあることに気付いた。

 ジークフリートは自室で飯を喰らうタイプの人間ではないことに。


 明かりがふたつみっつ灯されただけの仄暗い廊下をひとり進み、自室に戻ったジークフリートは、部屋の重い扉を音を立てないように閉めた。

 星空を観察することが好きなジークフリートは、普段、窓のカーテンを夜も開けたままにしている。だが今回は閉め切っている。

 理由は窓際に置かれたピスタチオ色のバケツの中にあった。

 バケツに視線を移すと、透き通るような金髪がゆるりと波打っている少女の後ろ姿が目に入る。

 バケツから上半身を出している体は、人間の少女のものであるが、バケツの中に入っている下半身は、ピンクサファイア色の鱗を輝かせる魚のもの。

 長髪が体全体を覆い、彼女の肌色の背を隠していることで、艶のある色気を一瞬感じさせる。

 だがカーテンの隙間から外の景色が見えないかとしきりに背伸びしようとしている姿が、あどけなさを残していた。

 カーテンの隙間から漏れ出る月光が髪にかかり、返事をするかのごとく、さみどりの光沢を放つ。 


(やはり似ている……)


 ぼんやりとその横顔を見つめる。

 やわらかそうな頬は、先ほど血の気を無くしていたが、今では桜色に戻りつつある。

 この少女人魚が徐々に生気を取り戻していく毎に、自分の最愛の妹・リリューシュカに瓜ふたつのおもざしをしていることの皮肉に気付かされていく。

 ジークフリートが足を一歩前に進めた。

 その濡れた足音で、少女人魚ははっと目を見開き、怯えた顔で後ろを振り返る。

 だが、入室してきた人間が誰かを理解すると、胸に手をあて瞳を閉じ、あからさまに安堵したという吐息をこぼす。その様も子供っぽかった。

 彼女が胸に手を当てたことで、必然的に視線が胸に行ってしまい、あることに気付いた。


「それ、オレの腹巻……」


 小声で少し驚き、彼女の鎖骨の下、淡いふくらみを持った胸元を指さした。

 彼女の胸にはジークフリートが眠るときに愛用しているオリーブ色の腹巻が巻かれていた。故郷の羊毛で出来ており、やわらかい。足は不自由だが、手先が器用なリリューシュカが遠く離れる自分の為に手製で編んでくれた腹巻だった。

 冷たい海風に日中当たっていても、この腹巻さえあれば、夜は妹の愛情に包まれるように、深い眠りに落ちることが出来た。

 ブリュンヒルデは指摘されると、ぱっと両手を広げ、顔を真っ赤にして自分の胸を見下ろす。

 そして自分の体を隠すように抱きしめると、恥ずかしそうに瞳を揺らしてジークフリートを見上げた。

 こめかみに汗をかいている。


「あ、ごめん! あなたのベッドに置いてあったの勝手に取っちゃった」


 ぱちぱちとまばたきを繰り返し、焦りながら顔を赤らめ、腹巻が巻かれている胸を両手で隠す少女人魚が可愛らしく、ジークフリートは優しく瞳を眇めて微笑んだ。顎に手を当てて頷く。


「なるほど……良いアイデアだな」


 その顔を、少女人魚はぽかんと口を開けて、茫然と見つめた。自分を拾い助けたこの人間は、常に冷静で口数が少なく、今の今まで恐怖もあったため、ほとんどしゃべったことが無かった。ましてや笑顔を見たのもこれが初めてだった。

 悪い人じゃないのかもしれない。少女の胸に、そういった想いが去来した。


「人間たちの間で、人魚の肉は不老不死になるという変な妄想話があるから気を付けろ。絶対に人間に関わってはならない」


 マーマン(男の人魚)を珍しがって人間に捕らえられて、地上の生活に体が馴染まず、衰弱して死んでしまった兄がよく口にしていた。兄の遺体が無造作に海に投げ捨てられ、真珠のなみだをぽろぽろ流しながら抱きとめにいったあの夕暮れが、いまだに冷めて思い出される。

 うすれていた意識が戻り、先ほど義姉あね様人魚たちを撃ち殺していった人間の男の船に乗せられ、部屋に連れ込まれていると理解した時、あまりの恐怖にせっかく取り戻していた気を失ってしまった。

 気を失う一瞬前にうっすらと開けた瞳に映った彼の顔は、精悍でうつくしかったが、つめたい氷岩のようで、何を考えているのかわからなかった。

 だが目覚めた時には負傷していた肩や腕、頬や頭に清潔な包帯や湿布が貼られ、手当てされていた。

 そして彼は忽然こつぜんと姿を消していた。


「あたし、ブリュンヒルデ。お兄さんは?」


 気付けば無意識にみずから自己紹介をしてしまう。

 少女人魚・ブリュンヒルデのくちもとには笑みが浮かび、ジークフリートに対して心を開いていることがわかった。

 ブリュンヒルデの笑顔を目にすると、ますますリリューシュカに似ており、ジークフリートも茫然として無意識に彼女の目の前に足を進ませる。


「……オレはジークフリート。なぁ、人魚って黒パン食えるのか?」


 軍服の懐に隠した黒パンを片手に持ち、腰を屈めてブリュンヒルデの目の前に差し出した。


「ジークフリート……。『ジーク』……」


 彼の名前を鈴の音のような声で反芻し、こくんと頷く。拍子に前髪のふさが、水底の海藻のように揺れた。

 ブリュンヒルデはぱっと花が咲いたような笑顔になると、彼の手から黒パンを両手で受け取った。


 ブリュンヒルデはバケツの縁に両腕を重ね、顔を置きすやすやと眠っている。

 先ほどジークフリートから与えられた黒パンをぱくぱくとむせそうな勢いで平らげていった。

 久々の満腹感からくる眠気に襲われたのか、すべてを食べ終わると、くちびるの端にパン屑をつけたままうとうととまぶたを落としたり開いたりを繰り返し、すっと寝入ってしまった。

 ジークフリートはリリューシュカと同じ顔のブリュンヒルデが、決してリリューシュカがしないような食いつき方で黒パンを食べていく必死な顔を見つめ続けていた。幼子のようだった。その光景は、故郷を離れてからしばらく味わうことのなかった温かな多幸感を彼にもたらした。

 自分も窓際に背をもたせ、彼女の傍らに座ると瞳を眇めて優しいまなざしで、まるくしろく、愛らしい寝顔を見守る。

 血色を取り戻したやわらかい頬に、彼女の閉じた目から涙がひとすじ流れた。

 口をうっすらと開けて少し驚くと、頬に触れるか触れないかの微妙な距離で、ひとさし指で涙を拭ってやった。

 反動でか、顔をちいさく震えさせる。ブリュンヒルデの髪がひとふさ降りてきてジークフリートの手にかかった。

 手をずらすとひとふさの髪は虚空を描き流れる。彼女の頭にその手を置くと、髪を撫でる。呼応するかのようにさみどりの光沢を放ってブロンドは夜の船室にきらめく。

 ジークフリートは切ない表情になって眉を寄せると、眠っているブリュンヒルデの心に語り掛けるように優しく話しかけた。


「身体が回復すれば船員に気づかれぬように海へ帰してやる。それまで我慢してくれ。必ずお前の仲間の人魚がこの先の海のどこかにいるはずだ。絶対に見つけてやる」


 頭からゆっくり手を離し、立ち上がると扉へ向かう。もう食堂の連中も寝静まった頃だろう。

 明日の為に、他にもブリュンヒルデが食べられそうなものがないか探しに行くつもりで扉を開けると、はっと目を見開いた。

 アルべリヒが目の前に立っていた。

 軍服を脱ぎ、私服で飲み会に参加していたは、茶色のサスペンダーに白いシャツといったラフな格好をしていた。身長の低い彼は、腕を組み、ジークフリートを睨み上げている。

 服のところどころにビールを飲みこぼして落とした染みが出来ており、足は廊下を叩くようにリズムを刻んでいる。そのリズムには彼の苛つきが感じられた。

 不意打ちの動揺を隠し、努めて冷静にジークフリートはアルベリヒに声をかける。


「貴様……、何の用だ」


 冷めた目でアルべリヒを見下ろす。

 まるでいつも通りのふたりの関係で、そこには異質なものは何もないと感じさせるかのように。


「司令官様よ。何を隠してやがる?」


 アルべリヒは薄ら笑いを浮かべて茶化すように声を出した。

 声音に一縷いちるあざけりが含まれている。


「何のことだ」


「嘘つくんじゃねえ。あんたの部屋から海水と魚臭え匂いがすんだよ!!」


 語尾を荒げ、ジークフリートの胸板を強く押した。

 咄嗟の行為に護身が出来なくなり、ジークフリートは後ろへよろめく。普段の彼ならばあり得ないことだったが、ブリュンヒルデのことを突かれた動揺で負けてしまう。

 ジークフリートがよろめいたことで出来た、脇の隙間を掻いくぐり、アルべリヒは部屋へ躊躇ちゅうちょなく侵入した。

 開いた目の端に捉え、瞠目し、怒声を上げる。


「やめろ!!」


 ずかずかと窓際のバケツの前まで近づくと、ブリュンヒルデが驚きと恐怖をはらんだ顔で、アルべリヒを見上げている。

 眠っていたブリュンヒルデは、ジークフリートとアルべリヒの押し問答の声と音で目が覚めてしまっていた。

 アルべリヒはブリュンヒルデを感情の無い瞳でじっと見つめると、ふいに口の端を歪め、邪悪な笑みを浮かべた。

 ブロンドの髪が恐怖で小刻みに揺れている。まるで月光に照らされた水面のさざなみのようだ。皮肉にもそんな詩人のような感想を抱いてしまった自分に呆れて笑える。


「よお、フロイライン(お嬢さん)?」


 声を掛けられ、はっと体を硬直させたブリュンヒルデに向けて、サスペンダーのポケットに入れていた黒い小銃を素早く取り出し、その顔に向けた。


「やめろアルべリヒ!!」


 吠えるようにジークフリートが制止の声を上げる。

 しかしその声が聞こえても尚、アルべリヒはブリュンヒルデを暗い眸で睨んだまま、彼女の額に狙いを定め、小銃を突きつける腕を下ろそうとはしなかった。


「へえぇ。そういうことかよ。司令官様よぉ。俺達の仲間が海底でつめたくなってるときに、アンタ、自分の部屋に人魚の生き残りのガキを連れ込んで、乳繰ちちくり合ってたって訳だ? 御大層な身分だねえ。こいつら人魚に、俺達の仲間何人殺されたかわかってんのかよ!!」


 ブリュンヒルデは瞳を閉じると、両腕を胸の前で交差させ体を折り曲げた。

 怯えから、かたかたと震え続け、顔中汗をかいている。

 その姿は見えない神に祈りを捧げる敬虔けいけんな信者のようであった。


「人魚にも信仰心はあるのか。人間と等しく……」


 アルベリヒは、軽く瞠目した。ブリュンヒルデの神聖な姿に動揺しているように見えた。

 ジークフリートは怒りに燃える瞳をアルべリヒのうなじに向けると、懐から黒い小銃を取り出し、すっと腕を上げ、彼に向けた。

 眼の怒りの炎は一瞬で冷たい氷へと変わる。

 その冷徹なまなざしをアルべリヒは本能で感じ、ぎょっとした視線をジークフリートに向けた。

 ジークフリートの表情は凪のように静かだった。

 ただ固く寄せられた眉の下にある瞳だけが、業火のように燃えている。


「貴様がブリュンヒルデを撃つというのならば、俺が貴様を撃つ」


 低音が地を這い、自分の足元を床に縫い付ける。

 アルべリヒは狼に狙われた兎のように固まった。

 こめかみから流れた汗が顎を伝い落ちる。ふたりとも銃の引き金にかけた指が、汗で濡れている。

 この世の音のすべてが停止してしまったかの如く、長い沈黙が続いた。

 緊迫の糸を切ったのは、ブリュンヒルデの深く短い呼吸だった。


 ――東の空に月が落ち、西の空に太陽が落ちる


 私はその空の中心を 金の草原の中で見つめていよう


 蒼と赤 夜と暁 氷と炎 大地と海


 すべての事象は交わり 愛を奏でるの


 この世界が終わるまで――


 澄んだ水滴が、ふたりの男の耳朶を打つ。

 美雨が心の黒い澱を洗い流すかのような歌声がしずかに、しずかに水量を重ねて、満ちて広がる。

 高音と低音の調べを揺蕩う波が、行ったりきたりする。潮が浜辺に訪れ、また引いてゆく。


「これは……」


 ジークフリートは瞠目し、小声を震わせた。


「民謡だ……。俺の……俺たちの村の歌だ……。母ちゃん……。父ちゃん……」


 アルべリヒの頬を両目から落ちた涙が伝う。銃を構えた腕を下ろすと、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らして泣き続けた。

 ジークフリートも糸が切れたようにふっと元の表情に戻り、小銃を構えた腕を下ろし、茫然とブリュンヒルデを見つめ続けた。

 リリューシュカが好きだった歌。暖炉の傍で編み物をしながらよく口ずさんでいた歌。

 ブリュンヒルデは祈りを捧げるように、その歌を歌い続けている。彼女のひとみから涙があふれ、頬に流れると、バケツの海水に落ちてゆく。

 ブリュンヒルデの体が、淡い灯台の光をまとったかのように見えた。

 ジークフリートも、その神々しさに琴線が震え、まなじりからひとつ、涙を零した。

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