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第三話 思いがけぬ幸せ

 アリシアは俯いたまま黙っていた。


 それをまた黙って見つめていたラフィンドルは、ドラゴンの大きな身体をもて余すかの様に小さく揺する。戸惑った時に表れる彼の癖であった。


「どうしたのだアリシア? 具合でも悪いのか?」


「いえ、そんなことはないです……」


「ふむ、ならばどうして黙っている? 家に帰るのが嬉しくはないのか? 俺への捧げ物になる必要はないと言っておるのだぞ?」


「…………」


 どうにも困ったと、ラフィンドルは目の前にいる若い娘を見て思う。人間の考える事はよく分からぬと。


 するとアリシアがぽつりと言った。


「家は、私の家は、ここでは駄目なのでしょうか……」


「どういう意味だね?」


 ようやくまともに話そうとしてくれたアリシアの言葉であったが、ラフィンドルには残念ながらその意味が分からない。


「なんか私……さっきラフィさまに、もう花嫁である必要はないって言われて……そしたら、その時……分かってしまったのです」


「何がだい?」


「あの……このまま、生きて帰るより……死んでしまったほうがいいなって……」


 どうせ帰っても自分の居場所はもう無いのだから。


 ロマーダ伯爵家を継ぐために、姉のメリーザとブロイドは婚約してしまった。

 だけど正統継承者である以上は、自分はロマーダ家の当主となる責務があるのだ。そうなれば二人の未来をアリシアが奪うこととなるだろう。

 ならば生きて帰っても誰も喜びはしないに決まっている。


 いやむしろ、何で死んでこなかったと恨まれるに違いない──


 その恨みは継母(ままはは)のイザーネの心を荒ぶらせ、今までよりも残酷にアリシアに対して燃え上がる。

 それにラフィンドルが和平を望んでいるという証拠もないのだから、逃げて帰ってきたと責められ続けるかもしれない。


 そしてまた運命に翻弄されながら、悲しい思いをして生きていくのだ……そうやって生きていくことに、今さら何の意味がある?


 アリシアはラフィンドルにそこまでの事情を話すと、ぽたりと一粒だけ涙を落とした。


「そうか……」


 ラフィンドルには人間の事情を同じ様に共感することは出来なかった。

 彼はドラゴンなのであるから、それは無理からぬことである。


 しかし、アリシアが落とした一粒だけの涙はラフィンドルの心をやけに強く締め付けた。

 たった一粒の涙がどうしてこうも悲しいのだろうかと。


 この千二百年、もはやこの世界の歴史にも例えられそうな長い年月の間には、アリシアよりも哀れに死んでいった者たちなど掃いて捨てるほどもいた。

 むろんそんな事に一々心が揺さぶられる事も当然なかった。


 それなのに、何故こうも心が痛い……


 ラフィンドルはそんな自分の心の動きに首を(かし)げた。

 そしてその理由を探ろうとしたのだが──その思考よりも早く感情が、自分でも思いがけないことを口走らせてしまう。


「ならば、本当に俺の花嫁になるがいい」


 言ったそばからラフィンドルは狼狽する。なぜそんな事を言ったのか自分でも理解が出来ない。


「あっ、いや、これは違うのだ、すまぬアリシア、嫌なことを言った……」


「嫌なこと? そんなことありません」


 アリシアは真っ直ぐにラフィンドルの目を見て願った。それはさっきまでの暗く沈んだ瞳でではなく、光の宿った瞳でである。


「本当によろしいのでしたら、どうか私を花嫁としてラフィさまのお側においてください。そしたら私……」


 言葉につまるラフィンドルであった。しかし否と言うには遅すぎた。冗談で流せる重さでもない。

 思いがけない言葉といえども一度相手に渡してしまったのなら、それはもう受け取った相手のものだろう。


 もはやラフィンドルに出来ることは、その言葉に責任を持つことだけなのである。


「そうだな……うん、よいよ。末長く側にいておくれ」


「あ、ありがとうございます、ラフィさま」


 アリシアがそう感謝してもう一度落とした涙の粒は、岩肌の水晶に反射する光のように綺麗だった。




 ドラゴンと人間の娘との婚姻。ラフィンドルは自分で馬鹿げていると言っておきながら、その馬鹿げたことをしている自分に正直呆れていた。


 だがそのくせこの生活を楽しんでもいたのである。この十日間、アリシアと暮らしてみて分かったのは、この娘が素直で思い遣りのある性格だと言うことと、希望というものを持っていないと言うことであった。


 ときおり見せる笑顔は好ましく、ラフィンドルはそれを喜んでもいたようだ。


 一方、アリシアはどうかと言うと、実母が逝って以来初めてだと思えるほど心が穏やかであった。


 その原因はアリシアには分からないし、考えようともしていない。

 彼女はこの世への未練を失くした時に、それまでの自分をもまた失くしてしまったことにさえ気付いていないのだ。


 ラフィンドルは優しかった。自分に時おり優しさを向けてくれた。


 いまのアリシアにはそれがすべてであり、花嫁としてその優しさを堂々と受け取れる安心感がこの上もなく嬉しいのである。


「こんなことしか出来ない花嫁ですみません、ラフィさま」


「ふふ、何を言うかと思えば。アリシアがこうして鱗の一枚一枚をきれいにしてくれて、俺はとても気分がいい」


 アリシアは自分のハンカチーフを使って、ラフィンドルの鱗についた苔や汚れを落としていた。


「なら良かったですけど、花嫁ならお食事の用意やお掃除、お洗濯などをするものだと聞いておりますわ。私はそういう事が一切出来ませんもの」


「アリシアは貴族の娘なのだろ? なら出来ない以前に習ってもいまい」


「そうですけど……ラフィさまが魔法でなんでもして下さるから、ちょっと花嫁としては自信喪失です」


 そう拗ねて口を尖らせるアリシアをラフィンドルは愛らしく思う。


「それで思い出したがアリシア、俺が作る魔法水だけでは食事が物足りないのではないかね? あの水は生命活動に十分な活力は与えてくれるが、味もせぬし楽しくはなかろう」


「いいえ、そんなことはありません」


 アリシアは薄く微笑んで言葉を続ける。


「ラフィさまと一緒にお水を頂いているだけで、とても幸せですわ。独りでの食事はどんなに豪華なものでも美味しくありませんもの」


「そうか……ならよいのだ」


 そう頷いたラフィンドルはもっと右の辺りの鱗が(かゆ)いから()いてくれとか、気軽にアリシアに注文を出す。

 アリシアもまた楽しそうにその注文に応えている。


 それはどこから見ても平和で優しい時間であった。


 ある日の夜、雨風(あめかぜ)の音が洞窟の奥まで届くような嵐が吹き(すさ)んでいた時のことだ。アリシアはなかなか寝付けなくて洞窟の入口まで雨を見に行ったことがあった。


 吹き込む雨が身体を濡らすのも構わずに、アリシアはじっと立って真っ暗な外を見続けている。

 その様子を薄目を開け魔法の目で見ていたラフィンドルは、なんだか急に心が落ち着かなくなり、居心地の悪さを感じるようになってきた事に気が付いた。


 この得体の知れない感情は何なのだろうかと、古い古い記憶の中に埋もれた知識と経験を覗いてみたら、あっさりとその正体が分かった。


──不安。


 アリシアが何処かへ行ってしまいそうで不安だったのだ。

 そう自覚するとますます不安は(つの)っていった。そしたら思わず──


「アリシア、何処かへ行ってしまうのか?」


 そう口から不安が(こぼ)れ落ちた。


 アリシアは金色の長い髪をなびかせて濡れたままの顔で振り向くと、なんとも柔らかい声で答える。


「いいえ、何処にも行きませんわ」


 そして静かな足取りでラフィンドルのところまで戻ると、黙ってその懐に身体を横たえた。


「こんなに濡れて、風邪をひくよ?」


「ふふ、私は結構お馬鹿さんなんですよ」


「はは、そのようだ。さあ、こっちへ寄ってもうお休み。その間に俺が濡れた身体を乾かしておいてあげよう」


「はい、お休みなさい。ようやく眠れそうです……」


 やがてアリシアの穏やかな寝息が聞こえてくると、ラフィンドルもまた安心した顔をして大きな目を閉じた。


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