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ニ 再生の初め

「私は病気じゃないわ。お酒が好きなだけよ」

「いや、あんたは確かにアルコール中毒だぜ」

 二人のこの会話から、チエのアルコール克服の時が始まった。ユウトの忍耐強さにもかかわらず、チエは長らく自分の依存症を認めようとはしなかった。

「単にお酒が好きなだけよ。お酒があれば、何もいらないのよ」

「では、この症状は何なんだ」

「手が震えるのは、もう人生に疲れた証拠よ。でもね、お酒があれば震えが止まるの。やっぱり牡酒は百薬の長ね」

「それは、アルコール依存症。典型的中毒症状じゃないか」

「いいえ、違うわ。お酒があれば治るわ」

 チエは、ユウトの自宅を探し回った。しかし、ユウトが酒を残してあるはずもなく、また里から遠い山中の孤立した家の周りに、酒があるはずもなかった。

「酒はどこよ。出しなさいよ」

「ここには、酒はおろか、一切のエチルアルコールはない。料理酒もみりんも、燃料もね」

「酒がないと死んじゃうのよ。くるしい、くるしいから、お酒をだして・・・・」

「死にはしないさ。でも、苦しいだろ。だから、変えないとな」

「何を変えろっていうの? いつまで苦しめばいいのよ?」

 言い合いは続く。ユウトはチエを叱咤する意味で厳しい言葉を投げたこともあった。

「自分の境遇を自分で変えてみろよ」

 チエはユウトの前で七転八倒の苦しみを晒した。ユウトは覚悟していたとはいえ、チエの目の前の苦しみを取り除けないことに目を背けたかった。だが、それはユウトにとって卑怯なことだった。自分のことのようにチエの苦しみを味わうことこそ、自分の愛した女への愛の形だった。


 チエの断酒の苦しみは、その後どのくらいかかったろうか。毎日、家の中ばかりでなく、家の周囲をさまよい歩き回った。ユウトは最初のころ、彼女のさまよいに付き合った。それだけではなく、チエは食事さえせずに歩き回ったため、歩き回りを止めて食事をさせ、体を清め、日々の排泄さえ世話するまでになった。醜い肥満で動きまわることもままならないチエの体は、食事も満足に取れない生活のため、やつれ痩せていった。

 痩せていくだけならばよかったのだが、やせているそのままに動けなくなっていた。ようやくユウトはチエの歩き回りに手を焼くことも無くなった。その代わりに、チエの歩行に手を貸し、入浴をさせ、毎日の服を着替えさせることに、力を注ぐようになった。

 こうしてチエはやっと三歳児程度に近い生活ができるようになった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「蒼翼さんかしら? もう、私はアルコール依存症から脱出できたわよね」

「平さん、いや、まだだ」

「でもちょっとだけなら」

「だめだ、だめだ」

 チエは、ユウトを睨みつけた。それ以来、チエはユウトの世話を拒否するようになった。

「もう、ついてこないで」

 それでもユウトは、チエの後をそれとなく見守り続けた。チエはユウトが見守っているとも知らず、また歩き回るようになった。


 ある日から、チエは森林浴を楽しむようになった。ユウトもそれを歓迎したのだが…。

 ユウトの自宅周囲近くの照葉樹林は、果樹が豊かに実りわたり、それを糧にして猿やほかの獣たちが生息している。その猿たちが果実を集め、それらが発酵することもある。その猿酒をチエは見つけ出して、ユウトの目を盗んで飲むようになっていた。それだけでなく、ミツバチの蜜さえも猿酒の一滴を用いて酒にするまでになっていた。

 チエの森林浴は不自然に増加し、秘密の果実酒もユウトの知れるところとなった。それも、果実酒や蜜酒が無くなって、再び禁断症状のままに震え倒れているところをユウトに発見された形だった。


「なぜ、再びお酒を飲んだのか」

「少しだけよ、だから問題ないわ」

「少しだけって・・・・。現にまた震えて倒れているじゃないか」

「少しだけだって言っているでしょ。ふるえてなんかいないわ。今は森林浴のし過ぎで疲れて倒れただけよ」

「また振り出しになってしまった」

 それ以来、ユウトはチエの外出を許さなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「外へいかせてよ」

「だめだ」

 チエはあるはずのないアルコールを、再び家の中に探し続け、ついには家のどこかで寝込んでしまうことを繰り返すようになった。

「それじゃまだまだだね」

「わかっているわよ。でも、少しなら…」

「でも、今あんたが抱えているこの感情は、なんだろうか? 空虚感、孤独感、絶望感、倦怠感、閉塞感・・・それに快感遺失、恐怖感、不安感、意味・目的・価値の喪失感、空間感の異常、理不尽感はなんだろうか?」

 ユウトは、チエの心の中が手に取るように見えた。

「そんな難しいこと、分からないわ」

「その思考力のなさが、今のあんただ」

「もう、昔の明晰さを私は失っただけよ」

「そうじゃない、あんたは思考力だけではない、感情も壊れている。ついでに明確な記憶力の喪失は目も当てられない」

 チエは、自分の心の中に渦巻く様々な感情を分析することはできなかった。それは、チエが抱えたスティグマに感情が押しつぶされていたからだが、さらに洞察力、思考力はおろか冷静さをふくめ全ての感情を失っていた。それでも、ユウトはチエを自分の家に置き、常にそばにい続けた。チエにとっても、その家がほかの集落からはるかに離れた山奥の一軒家であるゆえに、ユウトに頼る生活に浸りきっていた。風呂にも入らず、着替えもせずに・・・・。

 幸い、チエはかつてのように太ることはなく、ユウトがチエを入浴させ、着替えさせることに差支えはなかった。

「私のことはほっといて。触らないで。私の心には先輩がいるの。あんたのものじゃないわ」

「俺がやらなければ、何もしようとしないじゃないか」

 抱き上げることに差支えはないといっても、再びチエの状態は後戻りしていた。禁断症状の時のチエのみならず、不機嫌な時(機嫌がいい時はなかなか無かった)も、チエはユウトに抵抗した。入浴を嫌がり、着替えを嫌がった。それでも自ら何もしないわけで、ユウトは手を出さざるを得なかった。

「もう、私・・・・全部見られてる・・・・。もういや、こんな生活!」

「それなら、断酒を完成させようぜ。そうすれば、俺は手を出さないよ」

「おかしいわよ、あんた。本当は先輩なんでしょ? ほら、やっぱり。どうせ、世話するだけで、手を出していないじゃない! だいっきらい」

「いやあ、『嫌い』でもいいけど・・・。あんたは昔から超清潔肌だったからさあ。毎日風呂に入らないと耐えられないだろ?」

「私の肌の質をどうのこうのいうのね? どうしてそんな風に言うのよ! あ、それって、今まで、私の世話をした時に触りまくったのは、そのせいね」

「え、あ、肌っていうのは・・・それは言葉のあやで・・・(めんどくせえなあ)」

「あ、今、めんどくさいって思ったでしょ!」

「ええ?(ああ、この女、ひとの心の中が分かるのか? それなら司導(スーフィー)にむいているかもしれん)」


 こうして、チエの断酒は続き、ようやく自らの意志でアルコールを一切断つことができるようになった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 その一年後、チエはエチオピアの大地の許にあった。


「ねえ、どこまで行けば着くの?」

 カラカラに乾燥した道の先を、トウヤが先に進んでいく。ここの時空に入り込むと、内部に存在する人間の精神的本質を見せる。つまり、内部では、どんな人間もその実年齢に関係なく精神を形成した年齢の姿が見える時空になっていた。そのせいで、老人のトウヤもユウトも、チエさえも同じ程度の17歳に見えている。そのせいか、チエは内心うきうきしたままで道を進んでいった。

 ようやくその先に、聖杯城が見えてきた。


「あれが聖杯城だ」

 トウヤの指さす先に、ガーネットでできた外郭を形成する城壁が見えていた。その中には一段高く色の違うガーネット製の内郭があり、その中央の天守には聖杯城の旗が多数揺らめいている。その旗を揺らめかせる風は、まるで天からの恵みのようにキラキラ輝いて居た。


「俺から離れるなよ。人間だけでは、六翼の御使いが守るこのゲートを通過することができないんだ」

 そう言いつつ、トウヤはチエを伴ったまま外郭城壁の一角にある城郭入り口に近づいた。それに気づいた六翼の天使たちが無言のまま多数降り立ってくる。彼らは聖杯城を守る御使いたちだった。

「いずこへ?」

 六翼の使いたちの、抑揚のない短い問いかけに、トウヤがゆっくり答えた。

「人間の中に見出した司導(スーフィー)を連れてきた」

「天の働き手よ。歓迎する。さあ入りなさい」

 天使たちはそういうと再び空へ飛び立ち、散らばった。

 

 城塞の中に進むと、トウヤは内郭に進まず、外郭と内郭との間に設けられた学び舎にチエを招いた。

「内郭に入ることはできないが、この広大なキャンパスならば自由に活動できる。その間、あんたを導くのは、私をはじめとした教授陣となる」

「内郭には、何があるんですか」

「あの区域は人間ではなくなった者しか入れない。いや最初から人間でないもの。人間を捨てた者、守る対象のために祈誓を立てた者たちのための聖所だ」

「私は入れないのですね」

「近づいてはいけないぜ。そう言えば、ユウトは君に尽くすために人間を捨てた。その後にあの区域で修業を二十年、いまでは俺の上司になっている。そして、あんたのことも忘れずに今に至っているんだ」

 人間がそのままこの地に足を踏み入れることはほんの例外しかなかった。ユウトは人間から騎士、つまり天の御使いとなるべく派遣されたが、それは人間として在籍することではなかった。チエが聖杯城に在籍できたのは、騎士達を鼓舞する司導スーフィーとなるためだった。司導スーフィーは、騎士レベル以上の魔的存在に対して、勢いと動き、教えに悪があるかを判断し、悪であれば滅ぼす力を持つ人間だった。

「え?」

 トウヤはユウトの顔を思い出して「しまった」と思った。それは、チエに対して秘密のはずだった。しかし、彼らを迎えたユウトは涼しい顔をしながら先を見通していた。ユウトは、まともな思考力を失ったチエにとって、単なる断酒の管理ドクターだった。

 こうして数年がたち、チエは聖杯城出身の司導(スーフィーとなった

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