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一 リストカット

 夏の日差しが全てを焼き尽くす。八広の街の路地深く、古い木造二階の奥に、その女の住まいがあった。外にはアブラゼミの声さえかぼそく聞こえるほど木々のない、そして草もない低い街並みが広がっている。

「さあ、お入りなさいよ」

 女は簡単な半袖のムームーに素足で出迎えてくれた。化粧気のない顔。頭は簡単にブラッシングしただけのボサボサの長髪。子供もいない様子で、何かを喜びにして生きているのかどうか分からない女だ。

 部屋は和室。男の部屋に間借りしているのか、居候なのか、ただ部屋の中で座りこんで、ビール片手に震える指でスマホをいじるだけの生活。部屋の主人の男は?というと、先ほどまでは一緒にいたらしいが、何か喧嘩をやらかして、男の方が部屋を飛び出していったという。男の名はミツオ、彼の生業は昼過ぎから夜遅にかけての仕事、どうやらヤクザ者らしい。


 汚れ防止のためなのか、ベージュの絨毯を敷き詰めている。分からないように、絨毯をめくってみると、下の畳も、絨毯と同じように油のようなねっとりした手触りだ。アル中の手は、震えてビールだけでなく、つまみや料理まで溢れる。何かをこぼせば、拭き取っているのだろうが、油分を完全に拭き取ってはいないらしい。その残り油分にさらに油分が重なっている。やけ腐った異臭はこの変質した油から立ち上るものなのだろう。ついでに、ゴキブリの死骸まで絨毯の下に転がっている。

「私に会いに来るなんて、物好きな人がいたものね。今の彼氏だって、リストカットでもしなけりゃ、こちらを向いてくれないのに」

 その手首には、若い時から重ねたリストカットの傷がいくつも重なっている。その手から出された茶と菓子とには、手が出せなかった。

 少し経つと、気が向いたのか、女は身の上話をし始めた。父の死、母からの虐待と母の死、いじめ、高校時代の成績の良さと退学、転校と始まった転落。彼女を愛し続ける男と別れ。夜の商売と搾取、離婚と生活の乱れ、拾ってくれた男……。


「何もかも嫌になっちゃってさあ、多分私気が狂っているんだよ。エッ、精神病かもね。アル中のせいかもしれないけど。もう、どうでもいいわ……。でもさー、志門さん、今更あんたが何をしにきたのよ?」

「あんたの母親代わりの林マサヨさんから、頼まれたんだ。彼女は老齢で日本にいる希望も無くなったから、日本を離れてハイラルに帰るんだとさ。ただ、音信不通のあんたのことだけが気がかりだと言っていたからね」

 アドバイスをするつもりは、ここに来たばかりの彼にはあった。しかし、今は話しを聴き続ける以外の気は起こらない。説得するどころかこちらから話かけることさえも、彼女の移り気なご機嫌が損なわれてしまう気がした。

トウヤは、もうその女を諦めるしかなかった。せめて、ユウトが聖杯城から出てくるまでに、チエを少しはまともな生活に戻しておきたかったのだが。

「またきてね」

 チエはそう言ってまたスマホをいじる無表情に戻ってしまった。


………………………


 修行二十年の年月は、ユウトにとって長いものだった。いつも考えてきたことは、チエのことばかり。聖杯城から戻ったばかりのユウトは、蒼翼の騎士となり志門トウヤさえも凌駕するユーラシア時空統括管理者として、ウラジオストクに復帰していた。


 東京へ帰るとその足で八広のアパートに向かった。そこにチエがいると聞いたからだった。きくところでは、同室だった借主のミツオは、その部屋を引き払って出たという。つまり、チエはまもなくその部屋を追い出されることになる。そんなことを考えながら、ユウトは階段を上っていく。

 二階に上がり切ると、そこには奥のひと部屋へと続く通路。そこにはゴミが散乱し、その先に立て付けの悪いドアがあった。鍵の掛からないドアノブは、不潔さを物語るようにサビまでがテカっている。


 ユウトはあらかじめそれらをわきまえていた。ユウトの歩いた後は、真っ白な制服が汚れを拭っていくように、ゴミの全ての臭いが消されていく。奥の一室のドアさえ、すでに錆びの鈍いテカリが取り除かれ、真鍮の真新しい表面が露出した。ユウトはその真新しいノブを捻って部屋の中へ入っていった。


「はいるよ」

 ユウトは一言だけ言った。声を聞いてチエは顔を上げた。

「先輩…」

 ユウトは、トウヤからチエの現状を教えられている。そのことは、チエを見つめるユウトの眼差しが語っていた。ユウトは何も言わなかった。チエの着ている服、健康状態、部屋の様子……。全てを注意深く観察し、あらかじめ聞いていたことを確かめていた。チエはその間、無言のまま顔を伏せ続けている。

「さて、身の回りのものはこれだけなんだね?」

 ユウトは感情を込めずに淡々とチエに話しかける。チエはチエで、ただコクリと返事をするだけ。それを見たユウトはチエの腕を取り、玄関に立たせた。そこで初めて、チエはユウトに声を上げた。

「どこへいくの?」

「俺の家」

ユウトはそれ以外話さなかった。

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