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大雨の中で

作者: 源治

大雨

「維は今日の新歓コンパ行くんでしょ」

「もちろん行くさ。僕は一様部長だから」

五限目の退屈な現代哲学授業がやっと終わったところで、髪を赤く染めた紗子が話しかけてきた。また色が変わってやがる。古着のオーバーオールをおしゃれに着こなす紗子は、大学内でも可愛いと人気がある。僕が部長である文学サークル活動には殆ど顔を出さない。イベントだけ参加するんだ。まあサークルと言っても、何をするわけでもない。週に三回教室の一角に集まって、本を読みながら馬鹿みたいな話をするだけだ。同じ学科の授業を選んでるのにも関わらず、話しかけられたは久しぶりだ。僕は同じ学科のモテないグループになぜか入っていて、紗子は当たり前のようにモテるグループに属してた。両者には厚い壁があるらしい。外側から眺めたら全部一緒なんだろうけど、特にモテるグループからしたら違うと言い張るだろう。普段は気軽に絡むことはない。そもそも最初にどのサークルに入ろうかとキラキラした目で輝かしい前途を夢見ていたら、同学年の華やかな紗子がいきなり「一緒にサークル見に行かない」と半ば強引に地味な文学サークルに誘われて入った。もっと僕に意思があれば。三年後には気がついたら部長になっていた。厄介な役目ばかり押し付けられて、紗子はいろいろなサークルを在籍して暴れているらしい。

大学を出るとすでに暗くなっていて、厚い雲が空を覆い始めてる。この時間の夕日は綺麗なのに残念だ。このままどこかに遊びに行きたい。飲み会なんて面倒。まだ本屋での退屈なバイトの方がいい。あそこ物静かないおじさんしか来ないし平和なんだ。他の大学の可愛らしいキャピキャピした女子大生が飲み会に揃っていたなら、前のめりになるだろう。しばらく適当な話をして禄茶杯を飲んで、適当な理由をつけて帰ろう。部長だからって、みんなを気を使うことなんてない。大体、今年入った新入生は一人だけだ。

駅前の文学サークルがコンパを開くとすれば、駅前のビルに入る居酒屋と決まっていた。それに異存はない。学生に限り、格安プランがあるからだ。大学から駅前まで距離があるのでバスで行くのがセオリーだけど、テクテクと歩く。居酒屋に着く頃には雨が降り出していた。一気に気温が下がったから肌寒くて身震いした。店に入ろうとしたら、恐怖に似たものが混じっていた。

居酒屋はそれほど大きくないけど、大勢の人たちで鮨詰め状態だ。熱気に満ちて、タバコと酒と人間の臭気と混ざり合ってる。店の奥にある畳の一室では部長の僕を待つことなく、新歓コンパは始まっていた。長テーブルには様々な料理が盛られた皿とジョッキに入ったビールたち。先頭切って場を盛り上げてるのは紗子だった。赤い髪をなびかせながら話の中心にいる。自分の傾倒する太宰治の文学の話をしてた。「彼の文章は破滅的で厭世的で見るに耐えないはずなのに、引き込まれていく。救いなんてどこにもないのに。それは誰にもある感情をあの人は巧みに表現する。意図的じゃなくて自然なの、あくまで自然なんだよね」

太宰治であんなに場を盛り上げる人は中々いない。内容はともかく話し方の強弱が絶妙で上手いんだ。僕はそこには入らずに、席の末端に座り静かに抹茶ハイを頼んだ。メンバーは全員でも十人。アクティブにサークル活動をしてるのは五人ほど。でも飲み会になると、全員参加する。部長が来たから、メンバーは形式だけの挨拶に来る。部長の役が肌に合わないようだ。サークルの存続をかけて今年は大規模に新規新入生を募集したけど、結局紗子が連れてきた一人しか入部してない。それも明らかに紗子狙いの男だ。僕の面目は陥没した。このままだとサークルも後数年後には無くなっているだろう。それは止めることはできない。それは南極の氷が溶けて、白熊の居場所がなくなる運命なのと同じだ。また何世紀先の氷河期を待たなければならない。

紗子が散々話して疲れたのか、それともお腹が減ったのか知らないが、「次は部長の維から話があるって」話題のバトンを荒く投げてよこした。貪るようにポテトサラダを頬張っていた。誰もいい、題材は何でもいい、漫画でも絵本でも構わないからその話を好きに披露していく。これがうちの文学サークル伝統の飲み会だ。

気の利いた話題が浮かばなくて、ウィルアムゴールディングの蝿の王を何気なく内容を話した。どうしてそんな残酷な題材を選んだかと言うと、ちょうど読み返している途中だったから。「人間が持ってる本来あるはずの残忍性は、健全な日常生活を送るためには抑えてる。それがトラブルや耐えきれなくなって露出すると狂気殺人が起きるんだ」全くみんなには響いていなかった。思っていた通り、紗子との反応は雲泥の差だった。少し世界的な文学を知ることで、尊敬されたいとか、威張りたかった気持ちがなかったわけじゃない。みんな鎮痛な表情で、気まずそうだ。おかげで人気のない大学講師の気持ちがわかったよ。寂しく虚しいものだ。誰に向かって話をしているのかわからなくなる。僕らが占めるテーブルの一角は黙々と紗子がポテトサラダを食べる音だけがこだまする。他の客はお祭り騒ぎだって言うのに。もっと紗子の面白おかしい話を聞きたがっている。こうなることはわかっていたのに何で僕は蝿の王なんて選んでしまったのか。場は白けてしまった。話題はすぐ隣に座る新入生の男に移る。多少緊張してた。ほとんど小説は読んだことはなくて、少年ジャンプの漫画の話を始めた。そりゃどう考えても少年ジャンプの漫画の方が面白い。画力がその物語の想像を助けてくれる。読みやすくてわかりやすく消化しやすい。白けた場はまた活気付いた。正直助かったぜ。服を脱ぎ捨て、裸踊りをしなくちゃいけなかった。それで盛り上がるのかは不明だけどね。やはり居酒屋は騒がしいのがよく似合う。紗子は全く意に介さず、しつこくポテトサラダを食べ続けていた。他の唐揚げや物やナスのお浸しには目もくれない。せっかく入部してくれた男も、紗子の素っ気ない反応に少なからず落胆してるようだけど、他のメンバーは大盛り上がりだ。堰を切ったように好き勝手に漫画や好きなドラマの話で盛り上がる。時間が経つにつれて本の媒体から離れて、音楽の話になる。流行りの音楽ヒットチャートで誰がいいとか、頑なにアイドルを推す男と、それを嫌悪する女とで軽い喧嘩になった。それを周りで眺めてるメンバーはけしかけて、煽って楽しんでる。大体こうなる。僕がこのサークルに入った新歓コンパでさえそうだった。僕らは理想は高いかも知れないが、それを続けていく根気がない。外の雨が強くなっているようだ。騒がしい声の合間に雨が壁を撃ち続ける微かな音が聞こえた。それまでは気にしなかった。

僕も習ってポテトサラダを食べてみたけど、水分ばかりで味がなくて美味しくなかった。それからワイワイ騒ぎながら一時間近くたった。僕は何だか人の話を聞くのが疲れ切ってしまった。僕が話して、さっきのように白けさせてしまうのが嫌だ。そこで満を辞して紗子が語り出した。みんな待ってましたとワイワイと騒ぎ出した。多分これが何ループも繰り返される。みんながアルコールで足元が覚束なくなるまで。

そろそろ退散するとするか。ちょうど心地よく酔ったところだ。このままバスでアパートまで帰ろう。すぐに熱いシャワーを浴びて歯を磨いて寝てしまおう。大丈夫、隣にいる新入生に伝えて、手際良く変えれば問題はない。お金は幹事に支払済だ。これで四千円とるのはいかがなものかと抗議したいが、今が潮時だ。

気がつくと隣にいるはずの新入生がいない。いつの間にか紗子の隣に陣取っていた。結構積極的らしい。それが裏目に出なきゃいいけど。その代わり知らない男がいた。サークルの飲み会で知らない奴が混じってるのはおかしいことじゃない。知り合いの知り合いが、暇だから来ることだってあるんだ。こんな人気のないサークルでもね。でもいつからいたんだろうか。よく思い出せない。そいつは顔がツルッとして艶があり綺麗な長髪を後ろに束ね、細いチノパンと薄手のシャツで着てる。どちらも黒色コーデだった。育ちが良さそうで端正な顔していたが、黒目の割合が大きい気がする。カラーコンタクトをしてるのかも。どこか人間離れした感じだ。ここにいるのにここにいないような違和感。降り頻る雨が強くなっていく。騒いでいても外の壁を打ち付ける音がはっきりと聞こえるようになっていた。本気で帰ろうとした。それに隣に知らない男がいるのも嫌だ。何を話せって。いかにも友達のように接しきてきた。人の神経を刺激する高い声だ。ゾワゾワするような。知らない人間が混じっているのに、他のメンバーは気にしてない、そもそも紗子の話に夢中だ。

「あの維さんが話してくれた虫の王でしたっけ」

「蝿の王だよ」

「そうでしたね。とっても楽しい時間でした。他の作品も詳しく話をしてくださいよ」

話すわけないじゃないか。あんなに白けたっていうのに。無理やり席を立とうとしたら、優しく手で制された。細くて繊細な指をして、振り解こうとしたら簡単なはずだ。だけどその手は意識下でみるみる巨大になり、抵抗出来ない迫力があった。少しでも抵抗したら、その手で小さい昆虫を握り潰されるような気がした。全ては虚構だとわかっているのに、どうしても振り解くことが出来なかった。浮いた腰をまた下ろす。僕は血の気がひいたが、目の前の知らない男は終始笑顔だった。テーブルに無造作に置いてあるジョッキに入ったビールを口に流し込む。アルコールが必要だった。酔いは回ってきたが、血の気は引いたままだ。

また性懲りもなく海外の小説を語り始めた。何度も言葉に詰まった。ロリータやギャッツビー、老人と海、カラマーゾフの兄弟、罪と罰、虫、城壁、ライ麦畑でつかまえて。

話しながら違うことを考えていた。僕がサークルに入った頃の部長は細身のイケメンでいつも難しそうな海外小説を静かに読んでいた。その姿がカッコ良かった。僕も倣って、特に女性からの人気が上がる予定たった。努力のベクトルを間違えたんだろか。僕の大学時代は何だったんだろうな。ほとんど本しか読んでこなかった。すでに就職活動が始まっている。何を志望すればいいかもわからない。全てを台無しにした気分にさえなる。

それでも話すことをやめない。まるで話さないと心臓が止まってしまう病気になったみたいだ。僕の話を聞いてるのは目の前の知らない男だけだ。誰もこちらを気にかけてもいない。長いテーブルをひっくり返してこのサークルをぶち壊してやろうか。そんな恐ろしい考えが浮かぶのだけど、それよりも言葉が吐き出されていく。盛り上がって来たところだった。目の前の男は顔を曲げて盛り上がったメンバーの方を向いた。

「あの紗子って人、ずいぶん酷い人なんですね。維さんをこのサークルに誘っておきながら厄介なサークル活動は維さんに押し付けて。許せないな。維さんの気持ちを知っていながらうまく利用して。他でも同じような人が大勢いる。紗子さんは他人を利用して成り上がる人です。そうやって生きていく人だ。最悪なのは利用された人たち。価値がなくなるとゴミ箱行きだ。人を電池か何かと勘違いしてるらしい。許せないな。そう思いませんか」

 いきなり僕の熱意は消えた。蝋燭に灯った激しい炎をふうっと簡単に吹き替えて消してしまった。その戸惑いから怒りに沸いてきた。紗子に好意があるように聞こえるぞ。僕の話してた海外文学の話を少しでも触れないのも腹が立つ。

「望まれて部長になったんだ。満場一致でね。話を聞かして欲しいって言うから話していたのに、感想もなしに、何を見当違いなことを。そもそも一体誰なんだ。このサークルのメンバーじゃない。一度も見たことがない。もっと言うなら、ここで初めて会うはずだよね。僕は交友関係が少ない分わかるんだ。一体誰なんだ」

 男はやはり笑顔を崩さない。だけど黒目が大きくなっているような気がした。猫が暗闇の中にいるように。僕のことをまじまじと眺める。僕のことを理解するように。雨の激しく打ちつける音がさっきよりはっきりとわかった。気がつくと店内はすし詰め状態だった客はほとんど消えていた。帰ってしまったんだ。それか蒸発するように存在そのものが消えてしまった。だからはっきりと聞こえる。

「名前は加賀美って言います。初めて会う人間のことはどんな人物なのか確認したくなる。偉いのか低いのか、危害は加えないのか、好意はあるのか」

「答える気がないなら加賀美君をこの場で追い出すこともできるんだ。一様僕は部長だからね」

「怒らせたらごめんなさい。すぐに調子に乗っちゃうんですよ。別に何者ってこともないんです。ただ目の前の人の少し先が見えたり、悩んでることがわかるだけです」

 僕は天を仰いだ。未来が見える系のイカれた奴だ。大学内の一部でおかしな宗教があると聞いたことがあるけど、こんなところにいたのか。SFや超常現象の映画や小説はかじってきた。だからっておいそれとは信じない。そういう現代の科学では図れない力を信じるには根拠がいる。それも揺るぎない根拠。

誰かに助けを求めようとした。変な奴が紛れ込んでるって。十人いるメンバーはどれだけ酒を飲んだのか、ほとんど酔い潰れ、疲れ切ってる。助力を求めても役に立たない。長テーブルに並んだ料理たちはあらかた平らげている。並べられた空のジョッキ、何枚も重ねられた皿。飲み放題食べ放題じゃなきゃ僕らは破産だ。僕らは加減ってものを知らない。ビールを流し込むと体が暖かくなるのに、何故だか体の芯から寒い。

「あなたが信じないという信念はわかります。話が進まないので、そうですね。あなたの一つの悩みをお話しますよ。あなたが働いている本屋では、違法な児童ポルノの写真や動画を売買していますね。足がつかないようなお得意様だけに絞っているようですね。維さんはそれを最近知ってしまった。良心の呵責に苛まれている。だから辞めようかと考えてる」

 それはトップシークレットの秘密だ。社長にはお世話になったし、犯罪に関わることだから。知ったのはわずか三日前だ。社長は、特定の客とこそこそと事務所で密談してるのを覗いたら、まさに児童ポルノ写真を売買してるのを目撃してしまった。

「それを何で、何が見えるんだ」

「その人の思い悩むことや、人生の決定的何か。物心付いた頃には、望む望まない関係なく、すっかり見えるようになってまして。それは時間を選ばずに、その人物を眺めてると、光の渦の中ではっきりと脳裏に映し出されます。最初はずいぶん悩んだんですけど、私はそれを見届けるのが与えられた役目のようです。それで相談なんですけど紗子さんは、生きていた方がいいのか、死んだ方がいいのか。ちょうど分岐点なんです。社会的にとか道徳的にとか、そんなつまらない話は聞きたくはない。あなたの率直な意見を聞きたくて」

「そんなのわかるはずないじゃないか、何でわざわざ僕に聞くんだ」背中から大量の冷たい汗。当たり前の感覚が急速に死んでいく。代わりに死の匂いが漂っていく。

「一番紗子さんを眺めてきたのが、維さんですから。大学で一番の才色兼備の女性の好意を蹴ったそうじゃないですか。大学内では誰もが知ってる事実です。逃げることはできませんよ。あなたには答えられる資格がある」

他微笑みを浮かべているだけだった。一年前にサークルに信じられないような綺麗でいかにもイケてるグループの女子が、何かの間違いで入って来た。サークルがひっくり返るように盛り上がった。確かに僕とよく小説と音楽の話はしたけど、でもどうしてだか半年ほどしたら、泣きながら辞めてしまった。僕に好意があったなんて知り用もなかった。それが周知の事実だってことも。

冷や汗が止まらない。間接的に紗子の生死を分ける選択に迫られているからだ。嘘はつけない、すぐに見透かされる。大学生活の大半を紗子の観察に費やしてきたのは確か。それは意図してたわけじゃない。自然とそうなった。彼女から目が離せなくなったんだ。そんな人間はまたといない、小説だって中々出てこない。翻弄されて戸惑った人々も一緒に眺めてきた。紗子は相手の特徴を読むのが上手く、利用するのが上手い。それに批判的なことを言われたとしても、飄々として間に受けない。要領がよくて、簡単な演技なら訳もなくて、息をするように嘘もつける。それに運がいいんだ。たまにサークルに顔を出したかと思ったら、宝くじが当たったと豪語して帰りやがった。

 何だか紗子が大悪人に思えてきたぞ。抑え込まれていた残忍生が増幅していく。無人島に残された子供たちを思う。何かの間違えでとんとん拍子に特権的地位に上り詰めて、その下の人々はその時の気まぐれの判断で振り回され疲弊していく。そんな気の毒な人がこれからも量産されていくんだ。許せない、粛清されるべきだ。腹の中からさっき食べた豚肉の腐臭。頭の中で這いずり回る蛆虫たち。

もう少しで「死んでも構わない」口に出すところだった。思い止まらせたのは、最初に会った日のことが頭をよぎったからだ。

大学は実家から離れた場所をあえて選んだ。心配性な親や腐れ縁の友達から離れてみたかった。偏差値的にちょうど良く、適度に離れた希望の大学に受かって近いアパートを借りて、前途は明るかった。ただ自分が人見知りだと言うことをうっかり忘れてた。高校までは小学校からの友達がいた。思い描いた派手やかな一ヶ月は誰にも声をかけられなくて孤独のまま。まるで僕が存在してないみたいだった。幽霊って生きててもいるんだな。大学生活は真っ黒な暗雲が立ち込めていた。せめてサークルに入らなきゃ。でも入り方がわからない。声をかけられない。どうしてだ。自分はこんなに情けなかったのか。高校までは普通に人と話してたじゃん。

暗雲の中に光を差し出してくれたのが紗子だった。幽霊の僕に話しかけてくれた瞬間人間に戻れた。眩しくて笑顔だった。そりゃ、程よく扱われたのは確かだけど、でもあの眩しい笑顔が僕を正しい方向に引っ張ってくれたのは確かなんだ。紗子にはそんな力が確かにある。長い沈黙を経て僕は笑いを抑えて答えた。

「あー何度考えても同じなんだよね。死んじまった方がいいのは間違いなくあんただよ」

 時が止まったかのように周りは静かになった。僕の声が思ったよりも大きかったようだ。外の雨の音をかき消すほどに。サークルメンバーも、店の住人も息を飲んでる。聞き捨てならない僕の荒い言葉に、見知らぬ男の存在を認識したようだ。時が止まってしまったのかと錯覚しそうだけど、そうでもない。降り頻る雨音は相変わらずだったから。雲が散々ため込んだ水分をここで一気に吐き出そうとしてる。滝のようだ。怒りにも似た激しさがある。胸がざわつく。

「私も常々考えてることですけど、面と向かって言われると少しショックですね。逡巡から導いた答え確かに受け取りました。あなたの限りない本音を聞けて嬉しいです。だから特別に教えしますよ。運命は予め決まっています。私たちはそれを受け入れるしかない。ただし例外的なことは、行動することで未来は変化するかもしれない。それもより困難な道の方がより良い。それは歴史が証明しています。ここまで言えばもうわかりますよね」

 加賀美くんは立ち上がり別れの挨拶もなしに、この大雨の中を傘も持たずに店をふらっと出た。金を払わなかったけど、あいつは酒も料理にも手をつけていない。突然現れて突然真っ暗闇の外に消えた。何人かのメンバーは穏やかな部長と、いざこざを起こした知らない男の存在を聞きにきたが追い払った。気がつくのが遅いんだよ。あんな奴の侵入を許すなんて。新歓コンパは続いていくがどうも盛り上がりにかけた。僕の荒々しい一言が、場に微細な亀裂を作ったのかも。実際には外の尋常ならぬ大雨が現実に戻したんだろうけど。こりゃ早く帰らなくっちゃってさ。僕はずっと困難な行動ってやつを考えていた。分かってるけど、それを直視すると頭が痛くなる。同じように、いざこざの話を面白がって聞きにきた紗子に「この後話があるから、二人で飲み直さないか」とそっと耳打ちした。僕のささやきに意外にも二つ返事であっさりと承諾してくれた。

新歓コンパはお開きになり、メンバーは大雨の中を文句を垂れ流したけど、駅前の深夜料金になったタクシーに無理やり押し込めた。紗子が連れてきた新入生だけは一緒にいたいと駄々をこねたが、結局この大雨に遅れて帰っていく。タクシーはもうすべて掃けてしまった。

紗子と僕は居酒屋の上の階にある朝までやってる小さなバーに入った。客が来ないし雨も降ってるんで、もう少しで店を閉められるところだった。店長は喜んでいた。飲んだことのないギムレットを飲んで、頭を整理させないようにして必死に紗子を口説き始めた。少なくとも僕の口説きに耳は傾けてくれてる。運命を変えなくちゃ、あの変な男を信じるならば、紗子の命が危ない。焦りから、僕の口調は熱っぽくて、とどまることを知らない。「君がいなきゃ、月がない夜と同じだ。月明かりがなくちゃ僕は真っ暗闇の中を歩かなくちゃいけない」歯が浮くようなセリフだ。そんなことをしても紗子は「酔っ払うと、維くんは変になるね」ケラケラと笑っているだけで取り合ってくれない。終始そんな感じで僕はくたびれた。今できる限りの全勢力を使って口説きに行ったが、見当違いの場所に勢力を伸ばしていたのか。

 その代わり、紗子は将来のことを淡々と語ってくれた。僕を黙らせる目的かもしれない。将来は女性雑誌の編集者になりたい。若い女性が力強くしとやかに生きていく術を提供していく。太宰治みたいな男に惑わされて、一緒に死のうなんて言われても間に受けないような人にならなきゃ。か弱い女を演出する必要性もないもの。それから、稼ぐ力がなくても一緒にいて安らぎを与えてれる人と結婚する。お金は私が稼げば良いから。何歳くらいで結婚して、子供は二人欲しくて、四十歳になったらマンションを買いたいとまで話をしてくれた。

またお得意の嘘を披露してるのかと疑ったが、その顔は実に誠実できらりと輝くものがあった。太宰治を語るようなね。僕を翻弄してるわけじゃない。僕の熱意が本音を引き出したはずだと信じる。ちゃんと人生設計をしてる方が驚いた。僕よりもちゃんとしている。おちゃらけて、人を翻弄して不幸にして、太宰が好きな女は先を見据えていた。僕はどうだろう、何だか情けない。落ち着いたバーには小さくジャズが流れていた。雨音はここまで届かない。

閉店時間まで粘って、将来を語り合う。外に出ると、朝日が登ってた。バーにいた時間はどのくらいなんだろうか。あっという間だったような気がする。厚い雲は雨を吐き出すだけ吐き出して、移動していた。地面には水たまりがちらほらある。今は日が差し込む晴れやかな朝だ。すべてを吐き出した。紗子はしっかりとした足取りで帰って行った。耳元で囁かれてびくっとなる。じゃあねだって。不思議と喪失感はない。最初からわかっていたことだから。行動する勇気が僕にあったのが嬉しいのかも。それに紗子は一晩中酒を飲んでたのに、ピンピンしてる。認めたくないが、後押したのはあの見知らぬ男のおかげだ。あいつは一体何だったんだろうか。僕は踊らされただけなんだろうか。

バスは出ていたけど、酔いを覚めたくて歩いて帰ることにした。今日は大学の授業なんて出られるわけない。卒論も就職も恋愛も今日は忘れて、一日中寝てやろうじゃないか。構うもんか。僕は戦地からかろうじて帰還した気分だった。くたびれたけど、気分が楽だ。

自宅アパートに近づくにつれ、雨の跡が酷くなっているような気がする。まだ朝の七時ごろ道すがら話こむ主婦や通学する小学生たち。その会話をつなぎ合わせると、川が後十センチ水嵩が高くなっていたら、氾濫してたと聞こえた。僕らは辛うじて薄氷の上を常に歩いてる。重い足取りで、気持ち悪くなりながらアパートの近くまでつくと、人が多くなっていく。パトカーやら救急車で道が塞がってるくらいだ。中にはテレビのリポーターがきて中継を繋いでいる。近くで殺人事件でも起きたのかと胸騒ぎがした。それでも僕には関係ないと思い込んでいた。何の保証もないのに。家主のおばさんが泣き崩れてるのがわかった。

目の前の光景が信じられなかった。アパートが土砂で埋まってる。アパートの裏には聞いたこともない手入れをされてない山があって、穏やかな崖になっていた。それがあの大雨のせいで、崖肌に大量の水分が地中に溜まり、自重に耐えられなくなった地面が崩れて土砂崩れが起きた。凄まじい破壊力で、僕が契約している一階の部屋はすべて土砂で埋まってしまった。二階部分が辛うじて残ってるだけだ。頭が真っ白になる。近くにいた家主に話しかけたが、奇跡的に誰も亡くなっていない。一階の住民は全員外に出ていたらしい。だけどこれからどうしようと途方に暮れていた。途方に暮れたいのは僕だって同じだ。どうすりゃいいんだ。保証はあるんだろうか、貯金なんてほとんどないぞ。親に連絡した方がいいだろうか。薄氷は突破されていた。

気になることがある。意気消沈の家主に何時ごろ土砂崩れが起きたのかと尋ねると、明朝五時ごろだと言う。一度、眠気も保証も今日寝るところも、これからのことも頭から消した。報道のアナウンサーが僕に話を聞きたがっていたが、無視した。

あの新歓コンパを途中で抜けて、あの見知らぬ男が止めずに帰っていたら、まず間違いなく死んでいた。紗子が死ぬんじゃなくて、行動して死ななかったのは僕の方ってことだ。試されていたのは僕の方だった。人がごった返して、土煙が舞う中、生き残った。


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