未来を見る少女
僕と郡さんは廃墟同然のアパートの階段を登る。手すりは錆びていて、外れている箇所もある。手すりとしての機能はほぼないだろう。
人が歩いているからか、階段の真ん中は比較的綺麗である。しかし、端っこを見るとしっかりと汚れが蓄積されており、誰も掃除をしていないのは明らかだった。
正直、全く気が進まない。環境的にも気分が悪いし、永剛さんと何を話せばいいかもわからない。そもそも、僕は彼女が無理に学校に来る必要はないとすら思っているのだ。自分の人生なのだから、好きに生きればいい。
しかし、なんで僕が役に立つと思ったのだろう。あのメンバーの中では、一番異世界転生に積極的じゃない人間なのに。
「不服そうね?」
前を歩く郡さんは、僕の方を見ずにそういった。
「なんでそう思うんですか?」
「むしろ、私たちの活動に一番積極的じゃないあなたが納得してついてきてるって思う方がどうかしてると思うけど?」
「まぁメンバーじゃありませんしね。ってかそう思ってるんなら、僕を選ばないでくださいよ」
「言ったでしょ。あなたが一番役に立つと思っているのよ。あなたの感情なんて関係ないわ」
「その役に立つっていうのも、僕にはよくわからないんですけど」
僕と郡さんが出会って三日しか経っていない。他人に少し毛が生えたくらいの関係性だ。確固たる信頼関係を築いていそうな近野さんの方が、よっぽど役立つ気がする。
「自分で自分の長所はわからないものよ」
そういうと、郡さんは階段の踊り場で止まった。
「黒瀬くん。もう一度、今日の目的について確認しておくわ」
「いや、さっき確認してたんでわかってますけど」
「確認は大事よ。何事においてもね」
郡さんはスカートの裾についたホコリを払う。身なりを整えている様子は、どこか気品を感じさせる。人に会うわけだから、僕も身なりには気をつけておいたほうがいいだろう。ネクタイを強めに締め直した。
「まず、今から会うのは永剛結衣さん。入学式から一度も学校に来ていないわ。文字通り、不登校ね。」
「はい。同じクラスなんでそれくらいは知ってます」
「不登校の原因は定かじゃないわ。ただ、入学して一度も学校に来ていないことから、いじめや人間関係のもつれではないことは明らかよ。そしてすぐに退学届を出していないことから、学校に来る意思がゼロではないこともはっきりしてる」
「そう……ですね。理屈は通ってると思います」
「じゃあ、なんで学校に来ていないのかしらね?」
「それは……現実に絶望しているからって言ってたじゃないですか?」
それに不登校の原因を確かめるために、僕たちはここにいるのだ。会う前に憶測で語っても意味はないだろう。
「黒瀬くん……あなた一瞬でも生きるのが嫌になったことはある?」
「えっ? うーん……」
正直、ある。そのときのことは鮮明に覚えている。けど、すぐには答えられなかった。
ただ、ないと嘘をつくのもできない。
「あんまり覚えてないけど、あるんじゃないですかね」
「それが普通よ。テストで赤点をとった、彼女に振られた、部活のレギュラーから外された、人生にはいろんな嫌なイベントがあって、その度に人は落ち込むわ。中には生きるのが嫌になる人もいる。人間である以上、当たり前のことよ」
「そうですね。えーっと……つまりどういうことっすかね?」
「永剛さんが不登校になった理由を憶測でいいから考えてみて?」
不登校……僕のイメージは現実逃避だ。高校生である以上、親は絶対に養ってくれる。向き合いたくない現実がある。それから逃げた結果が不登校だと思う。
けど、永剛さんはいじめられていたわけではない。というか、学校に一回も来ていないのだから、学校に何かしらの問題がある可能性はゼロだ。
「……病気とか……?」
「その可能性も考えたわ。けど、病気だったら休学扱いになるはずよ。ましてや、学校に無断で休むことはないでしょうね」
確かに。学校に連絡をしていない時点で、学校に来れないのではなく、来てないのだ。
しかしそうなると……
「そう、思い当たる理由がないのよ。彼女の中学校から、うちの学校に来ている生徒はいないわ。だから、中学時代の人間関係が理由の可能性もない」
「確かに、そうですね」
よくよく考えれば、おかしな話である。第三高専は比較的賢い部類の学校だ。勉強をしなくても合格できるような学校ではない。多かれ少なかれ、この学校に合格するために努力をしているはずだ。
これほど不思議な不登校もないだろう。僕はそれっぽい理由を必死に探した。
「金銭面とか……ダメですね。それだと退学届を出してない理由にならない」
「その通りよ。金銭面の問題で来れないなら、入学金すら払うべきではないわ。それに彼女、あなたたちの学年で一番の成績優秀者よ。特待生として認められてるからそもそも学費は必要ないわ」
「へぇー賢いんですね」
なら尚更、学校に通わない理由が見つからない。考えれば考えるほど、思考が迷宮に入っていく。
「もう、直接聞くしかないんじゃないですか?」
「もちろんよ。けどね、彼女が本当のことを話すとは限らないわ」
「……嘘をつく理由ってありますかね?」
「無いように思えても、それを信じすぎるのは危険よ。あったことの他人のことは疑ってかかるくらいがちょうどいいわ」
郡さんはポニーテールに手をかけて、ゴムを締め直した。鉢巻を締め直すようなものだろうか。
「今から一つの仮説を話すわ。そして、あなたにはやってもらいたいことがあるの」
未来ほど不確定なものはない。僕たちにとっては、この瞬間が世界の全てであり、たった数分先のことすら知りようがない。
だから僕は、異世界転生を否定しない。僕ができないことは、全人類にとってできないことはでないからだ。
どれだけ考えても『知らない』『わかるはずがない』それを僕は『知っている』。
ありとあらゆる可能性を否定せず、肯定もしない。するべきではない。
この日、僕の価値観は大きく動くことになる。
異世界転生を目指す、たった一人の少女。その少女は未来を知っていた。
僕にとっては不確定な異世界の存在よりも、実在するその少女の方がよっぽど不思議に思えたのだ。




