二人の旅 その四
数日後、二人の姿は北の街に在った。うっすらと、遠く茶色い山肌の頂上近くに粉砂糖のような雪化粧がなされていた。
景色のよい静かな所で小さな温泉旅館に泊まったりしながら、ブラブラと気ままな旅である。
最初はひどく不安がっていた女も今はのんびりと、かつての様子を取り戻しつつあった。
今も仲居の手伝いをしながら、まるで旧友のように仲良く談笑している。
旅館ではたいがい、ご夫婦ですか?と聞かれた。
その都度二人は笑って首を振り、兄妹ですと応えた。二人の自然な仕草に誰一人違和感を抱くものはなかった。
実際二人は仲のよい兄と妹のようであった。
部屋で二人きりの時は畳に寝転んでお茶をすすりながら雑誌を読んだりテレビを見たりしていた。
観光地を散策する時も、気軽に手を繋いで笑ったり感嘆のため息を漏らしたり、名物のお菓子を半分こにして食べてみたり売店のおばさんに記念撮影をしてもらったりしていた。
そこには疲れた恋だの不倫だの心中だの、ましてや強盗の逃亡者などとといった気配は少しも見られなかった。
ただ、見る人が見れば感ずるかもしれぬ、無邪気ににも似た深い深い虚無的な明るい呑気さだけが在った。
仲良い兄妹のように呑気な二人は全く気楽に、旅を続けた。女はあまり人混みを好まぬようだったので、もっぱら人気の少ない小さな温泉のある場所を転々としていた。
厳しさと清々しさとが渾然とした自然の山々の側に静かに暮らす、ひなびた古い温泉の湯気に包まれて過ごす緩やかな時間が何よりの贅沢なのだった。
いつまでも、こうして暮らしてゆけたなら。
二人の心の片隅にあったその願いは、叶わぬ事を覚っていたからこその願いであった。
金の問題ではない。
強いて言うならば、時の流れ、とでも言えばよいのであろうか。
哀しいかな、人はいつまでも根無し草のようにさまよい続けてはいられないものなのである。
二人には、帰る場所はなかった。
車の後部座席に無造作に置かれたスーパーの袋がただ不気味に沈黙していた。
あの山へ登ろうよ。ある日女は言った。
旅館の窓から見ているだけではつまらない。あの山の上の方が白くなっている境目の所が見てみたいと。
ふと見ると、窓の外、二人の宿から割りとすぐ近くに、ちょこんと小さな山とも呼べぬ山が一丁前にその山頂辺りを白く染めて、澄ました顔をしていた。
流石に山の空気は麓の町よりもずっと冷たく、親切に整備されていた遊歩道とはいえ体力のない二人には険しい道のりであった。
白い息を吐きながら、無言で二人小さな山に登り、黒い土と白い雪とがまだらになってきて、少しずつ白い面積が増してくる。
二人の他には誰も居らぬ。
大袈裟でなく、まるでこの山の神というのか主というのか、そんな大きなものの居候になっているかのような、敬虔な気持ちさえ抱かざるを得なかった。
見下ろすと、すでに小さな町はミニチュア玩具のセットのようにこぢんまりと落ち着いていて、至る所から沸き上がる温泉の湯気ばかりが生き物のように薄く白くモクモクと立ち上っている。
人の背丈の何倍もある大きな木々の続く、果てなく限りなき自然の中に二人立ち尽くしていた。小さな山といえども、そこには確かに人や文明を拒むかのような深山幽谷のおもむきがあった。
先をゆく女はある場所で立ち止まり、くるりと彼の方へと振り向いた。
彼は顔を上げて、女の顔をみた。
彼をじっと見つめる女の目はうっすらと涙ぐんでいた。
警察に行こう。やっぱり、いけない事をしたまま、いつまでもこんな時間を過ごしていてはいけないよ。ね、ねぇ。
私はもう充分。
今まで何をやってもバカにされて怒られて、学校も仕事も何一つうまくいかなくて辛くて。気が付けば歳ばかり重ねちゃってさ。
やっと貴方と会えて本当に幸せだった。楽しかった。
でも、だからこそ辛かった。いつか罪の報いが来ると、ずっと不安だった。
こんな私に優しくしてくれて、図々しいかも知れないけれど、最後のお願いです。
一緒に、警察に行こう?
女の声は緊張に震えていて、その息はどこまでも白かった。
君は悪くないよ。悪いのは俺だけなんだよ。
女の涙を直視できずに目を逸らしたまま彼は呟いた。
そんな事ないよ。
女は自身を励ますように声を張り上げた。
もしも何十年でも罪を償えるなら、二人で精一杯に償ってゆこうよ。
もしも、死刑になるなら、それで構わない。二人で死刑になろうよ。
どちらにせよ、このままじゃどこにも行けないよ。
歩みださなけりゃいけないんだよ。
何十年かかっても、もしも罪が償えたなら、その時もし貴方がいてくれたなら、また一緒に過ごしたいです。ごめんなさい。でも、それが私のただ一つの希望なんです。
女は一息に言い切ると、荒い息のまま彼を見つめ続けていた。
それきり二人無言で立ち尽くしていた。
山頂から降りてくる冷たい風が二人の頬に柔らかな雪礫を運んできた。
その夜更け、二人の姿は古びた交番の前に在った。
いつまでも交番の前で立ち尽くしている二人に、駐在は戸を開けて様子を見た。
無言で手を繋いで微笑している二人がいた。
駐在は何かを察したのか、寒いから中へ入りなさいと手招きしながら言って二人をストーブの暖かな場所に招き入れ熱いお茶を淹れてくれた。
まぁまぁ何でよ?何でそんな事をしたのさ?
駐在の優しい声に、しばし沈黙の時が流れた。
ストーブの上に置かれたヤカンがコトコトと音をたてている。
ややあって、彼はゆっくりと駐在の顔を見上げて短く口を開いた。
わかりません、でも間違えたとは思いません。
そう呟いたきり、彼はまた深く沈黙した。
外には暗闇のなか、粉雪混じりの冷たい風が吹き荒れている。
大丈夫だよ、と慰めるように女は彼の手を握ったままいつまでも放さなかった。
二人の旅は今、緩やかに終着駅に辿り着こうとしていた。