二人の旅 その二
どれ程時間が過ぎただろう。一時の混雑も過ぎ去り、人気もまばらなフードコートに賑やかな十人程の集団がワイワイ騒がしく入ってきた。
ちらと見た感じから、近くの老人達のサークルらしい。男女とも血色も良く声が大きい。スポーツでもしてきたのだろうか、長袖をまくりあげているのも居る。勝ったの負けたの成績がどうのとひどく楽しげに騒いでいるのも居る。
連中が彼らの座るテーブル近くに席を陣取ろうと、どやどや押し寄せてきた時、一人の男の肘が女の丸い背中にぶつかった。
男の持っていた紙コップが揺れて、端から水が零れた。
女の膝に、その幾らかが垂れて、茶色いチノパンに小さなシミができた。
彼はとっさに男を見上げた。男はそれまでの仲間内と話す楽しげな顔をすっと引っ込めて、まるで醜悪とでもいいたくなるような形相になって彼と女を交互に無言で睨み付けてきた。余程怖かったのだろうか、振り返った女は何か言いかけたまま無言で目を伏せてしゅんとしてしまった。
彼は言うべき言葉を思い付けぬまま、困惑と不快と入り交じった目で男の顔をじっと見上げていた。
何だよ、文句があるのか。一層大きな声で、不機嫌そうなしみとシワに満ちた面持ちで、舌打ち混じりに彼に言い、汚いものでも見てしまったかのようにふんと目を逸らしてさっさとテーブルに向かい、再び仲間同士にこやかにはしゃいで談笑をし始めた。
今の出来事など、まるで覚えていないかのように心底愉快そうな顔付きだった。
気の強い人間なら、ちょっと待てよ、等と何か一言かますのかも知れない。けれども二人はそうではなかった。
彼は何も言えず、やはり最前の女のように男から目を逸らし、俯いてコップの水を見つめるしかなかった。
惨めであった。卑屈な自身がひどく惨めであった。
近くに座った老人達は、酒でも飲んできたかのように先程までより更に賑やかにはしゃぎだした。
勝ったの負けたの、金がどうだの、男がどうだ女がどうだのと、どぎつい悪口と自慢話ばかりをしている。合いの手を入れる老婆の甲高い歓声と相まって、彼の不快指数を嫌が応にも上昇させていった。
女はさっきの男が余程恐ろしかったのだろうか、身を縮め、しゅんと俯いたまま、何も喋らない。
貯金が銀行に幾らある。どこそこの株も沢山持っている。でも最後に安心なのは現なまだよ。現金、タンス預金。安心感が違うんだよ。俺は毎日仏壇の下の引出しを寝る前に開けて、現なまを拝んでいるんだ。神仏なんかよりも、よっぽど有難いよ。五千万、いや六千万だったかな。もっとかな。ちゃんと数えてないから忘れちまったよ。
また自慢話か。
次から次へと延々続く本当か嘘かわからない自慢話に、彼はいい加減にうんざりしていた。しかもその声は、どうもさっきの男である。
取り巻きの老婆どもが、キャアキャア興奮している。凄い。羨ましい。私にもそのお金を拝ませて。私も私も。佐藤さんの御利益ありそうね。
苛立ちながら、あの調子に乗った男の名は佐藤というのか、ふーん、いかにもな苗字だ、と思った。何故か佐藤という苗字にあまりいい奴がいなかった彼にとって、近くにふんぞり返って座る佐藤が悪の権化のように思われてならなかった。
やがて老人達の煩さに、彼も疲れはててきた。
女はさっきから俯いたまま、不安げな視線をテーブルにずっと投げかけ続けている。
そろそろ行こうか。
惣菜も安くなる頃だろう。
落ち込んでいる女を促し、お盆を持って立ち上がる。椅子を元通りにして、お皿の返却口に丼を置く。
金が無ければね、あんな風になっちまうんだ。惨めになっちまうんだ。みっともない連中だよね。あんなになったらおしまいだよ。
フードコートから出る時に、わざとらしい佐藤の声が聞こえた。
あはは、本当。嫌だわ。取り巻きの老婆達のお追従が低い笑い声と共に二人の背中に振り撒かれていた。
何を言われても仕方がない、か。実際に惨めな姿なんだからなぁ。
怒りを覚える内心を自嘲しつつも、足が重く震えるのを堪えられなかった。
女は未だしょげたまま、彼の後ろをうなだれたまま、とぼとぼとついて歩いていく。
元気出しなよ。美味しいものでも食べよう。
俯いたままの女の肩を軽く擦りながら、幼い子供を慰めるように彼は呟いた。
女は軽く頷いたきり、何も言わなかった。
時間も時間であり、食料品売り場は大分人気もなくなりつつあった。まばらな買い物客の合間を縫うように、魚やら肉やらを宣伝する威勢のよい音声が空しくリピートされていた。
二人は俯きがちにその宣伝の声を通り抜け、半額の惣菜コーナーへ向かう。
女は少し元気を取り戻したのだろうか、何があるかな何があるかなと、歌うように呟いていた。
切り替え早いなぁ…。
半ば呆れつつも、安堵していた。
女が塞ぎこんでいると、その悲しげな姿形と心とが彼自身にまで辛く伝染してくるような感覚に苛まれてしまうのだ。
俺が女を虐めて泣かせた訳じゃない。
幾ら自己弁護を繰り返しても、やはりしょんぼりした女の哀れな姿は見たくなかったのだ。
控え目だが落ち込みを脱け出したらしい女の丸い背中を、父親のように暖かい気持ちで見つめながら、半額の惣菜を三つ四つ詰めたビニール袋を持って外に出る。
暖かな空調の効いた店内から出ると、一気に冷たい風が二人を襲い出すのであった。季節は確かに冬へと移ろいつつあったのだ。
寒いね。
女の呟きに彼は無言で頷いた。
二人は口数も少なく、丘の上の駐車場までぼんやりと歩いた。
やはり田舎は星が綺麗である。
見上げる星達の儚い光の合間を縫うように遠く一筋、無機質な街灯が続いている。
孤独な闇夜への道筋を指し示すかのように続いている。