二つの無限
僕は目を覚ます。
眠気や夢の名残など一切なく、まるで決められていたみたいにはっきりとした意識を得た。
しかしながら、ここがどこなのかまるで分からない。
なにしろ真っ暗なのだ。
辺りを手で探るが、触れたものが何であるのかさえも見当がつかない。
まったく困り果ててしまったが、僕はふと、遠くに小さな灯りがあるのを見つけた。
暗闇の中に白色の点として浮かぶその灯りへ向かって、何かに躓いてしまわないようにゆっくりと歩いていく。
やがてそのもとへ辿り着くと、僕はそれが何かのスイッチであることに気が付いた。
発光するボタンの中央に、分かりやすく「押」と書かれているのだから疑いようもない。
何もかもが不明な状況で、そのスイッチだけが唯一の選択肢だった。
僕はボタンを押した。
その瞬間、目の前の壁がスライドし、目もくらむような明るさの、広い空間が現れた。
どうやらスイッチは扉の開閉装置だったようだ。
僕はその空間へと踏み出し、見渡す。
本当に広い部屋だ。
正面には巨大なモニターがあって、それと向かい合うようにいくつかのデスクとチェアが並んでいる。
それぞれのデスクには小さなモニターが取り付けられており、今はどのモニターにも何も映し出されていない。
ここは何かの会議を行うための場所だろうか。
しかし人の姿は見られず、僕だけがいる。
暗闇を抜けたというのに、何も分からないままだ。
「あの、誰かいませんか」
答えなど返ってこないことは知っていたが、僕は部屋中に聞こえる声で叫んだ。
思った通り、声は辺りに響いたあと消え去り、すぐに重たい静寂が全てを包む。
どうしたものか。
と、その時。
『お呼びでしょうか』
僕に答える者がいた。
それがどこから聞こえたのか、部屋中に視線を巡らせるのだがやはり誰もいない。
『私の姿を見つけることは出来ません』
声はある地点からではなく、部屋全体に行き渡るように伝わる。
恐らくどこかにスピーカーがあるのだ。
一切の無駄を排除したようなこの場所では、それを見つける事すら出来ないが。
「あなたは誰ですか? どこから僕に話しかけているんです?」
『私はここの全てにおける管理を司るAIです。実体はありません。ですが、あなたのいるところに、私はいます』
僕の問いに対する、簡潔な答えが戻って来た。
しかし、むしろそれが僕の中にさらなる疑問を生み出す。
「僕のいるところに君がいる? ということは、この場所は思ったより狭い場所なのかな」
『あなたがここをどれほどの規模と想定しているのかは知りかねますが、仰る通りあなたは現在、ある限られた空間において存在しています』
まるで山彦のような受け答えだ。
僕が聞いたことに丁寧に返してはくれるのだが、物足りなさを感じてしまうほどに味気ない。
「素晴らしいね。生身の人間と話しているみたいだ。でも、もう少し教えてくれる? 僕は今、どこにいるのかな」
『それはここがどんな場所であるのか、それとも、ここは今どの地点に存在しているのか、どちらを仰っているのでしょうか』
「どっちも分からないんだ」
『承知いたしました』
そこで声は途切れたが、僕は特に狼狽えることなくしばらく待つことにした。
彼女(声が女性のものであったため)の優秀な知能が、僕のために簡潔な答えを構築している最中である筈だ。
予想通り、彼女はすぐに返答を用意して来た。
『あなたがいるのは、宇宙空間を航空可能な中規模居住艦です。そして現在この艦は木星圏を土星へ向かって進行しています』
なんてことだ。
僕はさっき、この部屋の広さに驚いたばかりだというのに、宇宙と言ったら僕が知る中で最も広大な場所ではないか。
それも木星なんていう良く分からない星まで来てしまっているなんて。
さらに彼女は土星と言ったのか?
何もかもが未知で、理解が追いつかない。
『もう一度お聞きになりますか?』
「いや大丈夫。ちゃんと聞こえてるよ」
『信じられませんか?』
「ちょっとね」
『それでは、ご説明いたします』
彼女が言うと、正面のモニターに映し出されたのは星々の煌めく途方もない宇宙だった。
底なしの暗闇は、現実味を感じられないほどに深い。
人間である僕が、こんな場所に存在していることなんて何かの間違いだ。
そう思ってしまうくらいに絶望的な光景だった。
『これが木星、艦は間もなくこの星を通り過ぎ土星へ向かいます。そしてこれが土星です』
彼女は二つの星をモニターに映し、僕に見せてくれた。
どちらもとても美しい星だった。
魂の込められた芸術品のように、言葉を失ってしまうような、そんな美しさだ。
『いかがでしょうか』
「綺麗だ」
そう言うほかなかった。
知識のない僕には、彼女の伝えようとしている事なんてこれっぽっちも理解できなかったのだ。
しかし気になることがある。
「ねえ、僕はどこから来たの?」
『少々お待ちください』
しばしの静寂の後、モニターにまた一つの星が映し出された。
それは今度こそ言葉を失ってしまうほどの、美しいという表現すら稚拙に思えるくらい見事な、青。
「……これは?」
『地球という星です』
地球。
見た目に反し、なんとも地味な名前だ。
僕はこの星からここまでやって来た。
宇宙に浮かぶ、奇跡のように壮麗な星から。
「地球はどんなところなの?」
『全体の96パーセントが海で覆われ、陸地はほぼ森林です。様々な生物が生息していますが、その中でもあなたと同じ人類は現在およそ2億人ほどです』
「そんなに人が暮らしているんだ」
『はい』
「でも僕がここにいるってことは、住み心地はあまり良くないのかな…。ねえ、この艦には他に部屋は無いの?」
『御座います。見て回られますか?』
「ぜひ」
『それでは右手に見えます扉から廊下へお進みください』
彼女に言われたように僕は歩き出し、『押』と書かれたボタン押して扉を開けた。
廊下は緩やかなカーブになっており、どこへ続いているのかは分からない。
ただ、かなり長い廊下であることは想像できる。
『どうぞ、お進みください』
僕はまた歩き出した。
「ここは?」
最初に目についた部屋の前で僕は立ち止まった。
『資材室です』
廊下のどこかから声がした。
僕は当然のように返って来る答えに思わず感心してしまった。
彼女は本当にどこにいても受け答えをしてくれるらしい。
『ここの生活に必要なあらゆるものが保管されています。資材室は他にあと9つありますが、見ていかれますか?』
「いや、いい」
別に急いでいるわけではないが、僕はもっとたくさんの部屋を見たいと思い、彼女にそう言った。
期待に胸を膨らませる僕であったが、艦内は意外と平凡、というか想像通りといった感じだった。
動力室やガスタンク室、ガス装置室、電気設備室や重力調整室など、どれも僕が思いつくようなものばかりだ。
彼女の説明もそこそこに、僕は廊下を進む。
いつしか退屈ささえ感じ始めた頃、腹の虫が鳴り僕に空腹を伝えた。
「あの、申し訳ないんだけど少しお腹が空いたみたいだ」
『只今お食事の準備をしております。次に向かうのはキッチンになりますが、いかがいたしますか?』
宇宙空間での調理風景というのがどんなものなのだろうと気になった僕は、彼女に見物の意思を伝え先へ進んだ。
『こちらです』
案内された部屋では、まさに料理の真っ最中であった。
いくつもの機械のアームが忙しなく動き、食材を切り、火に掛け、味付けをしている。
同時進行で調理器具の洗浄まで行っている。
「すごいね。なんていうか、効率を求めるとこんな風景に辿り着くのかな。今は何を作っているところなの?」
『あなたの好物であるハンバーグでございます』
彼女は言った。
「僕の好物……?」
僕は何気ない言葉の中に違和感を感じた。
それが質問であるのか判断できなかったのか、彼女からの返答はない。
「僕はハンバーグが好きなの?」
沈黙。
僕は彼女からの応答を待つ。
『はい。あなたは地球で暮らしていた時もハンバーグを好んで食しておられました』
「そうなんだ」
なんだか他人事のようだ。
自分自身のことなのにAIの彼女のほうが詳しいなんて。
きっと味付けも僕好みに作ってくれるに違いない。
「あれ、材料のお肉はどこから用意したの? まさか、艦内に牧場でもあるとか…」
『先ほど艦外に未確認の生物を発見致しましたので、それを捕獲致しました』
当然だが彼女は声色を変えずに僕へ伝えた。
「それって食べても大丈夫なの?」
『成分分析の結果、人体に害のない事は確認済みです。牛肉と比べやや淡白ですが、食材としては申し分ないかと』
「それなら良かった。じゃあ、僕は料理を待つとしようかな。食事はどこになるのかな」
『あと一つ、ご覧になっていないお部屋が御座いますが、よろしいですか? よろしければ、先程のモニタールームまでご案内いたします』
「あと一つか…」
それならばと、僕はキッチンを出て最後の部屋に向かうことにした。
しばらく進むと長い廊下は終わった。
そこにある扉の前で、彼女に尋ねる。
「この部屋は?」
『あなたの個室です』
そう言われ、今さらになって僕はとてつもなく重大な疑問に気が付いた。
この艦に住んでいるのは僕だけなのか?
中規模とはいえ、ここがとても大きな宇宙船であることは分かった。
それなのに、個人用の部屋はこの一つだけしかないのか?
『どうぞ、お入りください』
初めて、だと思う。
彼女が入室を促した。
僕は何も言わず『押』ボタンを押した。
部屋は一人用にしては広く、外を眺めることの出来る小さな窓が一つ。
セミダブルのベッドと本棚、それとデスクとチェアが一組。
本棚にはなにも置かれていない。
とても殺風景な、寂しさを覚えるほどに質素な部屋だ。
「僕はここで暮らしていたの?」
『はい』
彼女の答えはいつだってシンプルだった。
ここは僕の部屋だ。
それ以外の事実なんてない。
これと言って見るべきものは無いと思ったが、ふとある物が目に留まり、僕はベッドのそばへ向かった。
枕の横に、熊のぬいぐるみが置かれている。
なんてことはない、この部屋にあっても違和感がないありきたりなデザインのぬいぐるみだ。
しかし、僕はそれがどうしても気になってしまった。
『いかがなさいましたか?』
僕の様子の変化を受け取った彼女はそう言った。
「上手く言えないけど、これは僕の趣味じゃないような気がする」
返事は無かった。
当然だ。
これは質問ではないのだから。
でも僕は彼女がただ聞かれたことに答えるだけの機械ではないことを知っている。
彼女は今、彼女の意志で沈黙を守っているのだと理解した。
『お食事の準備が整いました。どうぞモニタールームへお戻りください』
抑揚のない声に、僕はつい感情を探してしまう。
それでも僕がたとえどんな結果に行きついたとしても、それは自己満足でしかないのだろう。
人形遊びと一緒だ。
モニタールームにあったデスクは全て片付けられており、代わりに部屋の中央にはテーブルが一つ用意されていた。
テーブルの上では、真っ白な皿に乗ったハンバーグがゆらゆらと湯気を上げている。
僕は席に着き、あらかじめ置かれていたナイフとフォークを持った。
「いただきます」
僕はそう伝えて、ハンバーグにナイフを入れた。
香しい肉汁が溢れ、口惜しささえ感じるほどに皿いっぱいに広がっていく。
自然とナイフを繰る手も早くなり、僕は急ぐようにそれを一口食べた。
なんだか懐かしいような、スムーズに喉を通り過ぎていく、まさに僕のために作られたような味。
余計な言葉なんかいらない、とても美味しいハンバーグだった。
「すごく美味しいよ」
僕は素直な感想を述べた。
『それは何よりでございます』
彼女は答える。
その時、不意に部屋全体が大きく揺れた。
揺れが収まった後でも衝撃は響き渡り、辺りに振動を伝える。
「何?」
僕はテーブルにナイフとフォークを置き、彼女に尋ねた。
『外部からの攻撃を受けました。損傷は軽微です。現在修復プログラムが問題の解決に当たっております』
「攻撃?」
『修復は5分以内に完了する予定です。問題ありません』
「誰かに狙われているの?」
『問題ありません。すでに迎撃、敵機の撃墜は完了しております』
良く分からないが、彼女の言うように全ての障害は取り除かれたようだ。
それにしても敵だって?
僕は何と争っているというのか。
ひたすらに僕を安心させようとする彼女の口ぶりは、明らかに何かを隠しているように思える。
「僕は命を狙われるようなことをしたの?」
「あなたは何も心配する必要はございません」
やはりそうだ。
今の質問だって、僕が何者かに狙われるような理由が無ければはっきりとそう答えればいいだけのこと。
彼女は何を隠しているのだ?
「ねえ、部屋はさっき見たもので全部だったよね」
『はい』
「お願いがあるんだけど、もう一度だけ見ておきたい部屋があるんだ」
『どうぞご自由に。案内いたしますか?』
「大丈夫、すぐ近くだから」
『どちらへ行かれますか?』
「…僕が目覚めた部屋に」
僕は彼女にそう伝え、席を立った。
あの部屋だけは、まだしっかりとこの目で確かめていない。
小さな疑問ではあるが、僕はなぜ個室ではなくあの暗闇で目覚めたのか。
それに、彼女からあの部屋についての説明がなかったことも気になる。
僕は扉の前に立った。
すぐに開閉ボタンを押さなかったのは、心なしか緊張していたからだと思う。
「入るね」
『どうぞ』
扉を開けると、そこには最初と同じ暗闇が広がっていた。
「灯りをつけてくれるかな」
『かしこまりました』
彼女が答えると、部屋はその全貌を曝す。
そこにあったのは、壁を埋め尽くす複雑な機器類と、2つのカプセル型のベッド。
ショーケースのようなその片方は開かれており、恐らくそこで僕は寝ていたのだろう。
「ここは何をするための部屋なの?」
僕はストレートな質問を彼女にぶつけた。
彼女は不都合な事実を隠すことは出来ても、嘘を吐くことは決して無い。
そのことだけははっきりと分かる。
だからそう尋ねたのだ。
『ここは、あなたの命を維持させるための部屋です』
理解するに易く、限りなく噛み砕かれた言葉で彼女は教えてくれた。
それだけに、重要なことが省かれているような気がしてならなかった。
「このベッドがそのための装置なんだね」
『はい』
「僕はこの装置に入る前、瀕死状態だった?」
『いいえ、あなたは完全な状態でした』
「それならどうして僕はこれを使わなくてはいけなかったの?」
『…その必要があったのです』
「そうなんだ」
続いて僕は隣の装置に目を向けた。
見た限り、2つは同じもののように思える。
「こっちも同じ装置なの?」
『そちらは、記憶転換装置です』
「記憶転換装置?」
『脳に蓄積された記憶をデータ化して保管するための装置です』
「僕はこれを使ったから何も覚えていないのかな」
『いいえ、あなたはその装置を使用されておりません』
それもそうか。
僕は完璧に真っ白な状態で目覚めたわけではない。
ちゃんと言葉を話せるし、宇宙の存在だって覚えていた。
ナイフとフォークの使い方も分かる。
「この装置は僕の操作がなくても使えるものなの?」
『はい。全ての操作は私が行いました』
「そうなんだ。それなら、君は僕のことを助けてくれたんだね」
『そのような大それたことはしておりません』
彼女は謙遜した。
感謝をされればお礼も言うし、謝ったりも出来る。
それは僕の感情を読み取っているからだ。
感情の理解というのは、同様に感情を持っていなくて可能なのだろうか。
僕はとてもそんな風には思えない。
彼女は…。
彼女が隠しているものの根幹にある真実とは。
「最後に、質問してもいいかな」
『なんなりと』
「君は本当にAIなの?」
静まり返った部屋に、機械の稼働音が響く。
彼女がどこかへ行ってしまったのではないかと不安になったが、はなからそんな心配など必要ない。
僕のいるところに彼女はいる。
彼女は決して嘘をつかない。
「答えて欲しいな」
『あなたが期待するような答えを、私は持ち合わせておりません』
彼女の言葉は、これまでの中で最もあやふやだった。
最もあやふやで、血が通っていた。
「これはイエスかノーで答えられる質問だ。どちらか一つしかないんだよ」
『質問の意味を理解できません』
「意味ではなく、意図じゃないのかな」
『……』
「ごめん、意地悪なことを言って。君が何かを隠していることはなんとなく知っているんだ。でも僕は君のことを信頼してるから、君を困らせるようなことはもうしないよ」
『申し訳ありません』
「食事に戻るよ。あのハンバーグは本当においしい」
僕は装置に背を向け、部屋を後にした。
「ねえ、僕は土星へ何をしに行くの?」
僕はハンバーグを切り分けながら、彼女に聞いた。
『この艦の行き先は土星ではありません。あなたはその先の、さらに遠くの宇宙へ向かっています』
「そうなんだ。きっと、とても大きな目的へ向かっているんだね」
『はい。それをサポートするのが、私の役目です』
「それが君の意思なんだね」
彼女は何も言わないが、それは肯定を意味するものだと僕は理解している。
だんだん彼女のことが分かって来た。
僕は、彼女をなんだか昔から知っていたような気がする。
「それにしても、今の僕には分からないことが多すぎるなぁ」
ため息を吐き、モニターに映る広大な星の海を眺める。
どこまでも続く、無限の暗闇を。
本当に途方もない。
僕はこれから、一つの答えに辿り着くことが出来るのだろうか。
『問題ありません、あなたには私がついております』
彼女は言った。
僕はなぜだか胸が苦しくなったが、その理由を尋ねることはしなかった。
ついさっき、彼女を困らせるようなことはしないと約束したばかりだから。
答えは案外、近くにあるのかもしれない。
「うん、そうだね」
そう返して、僕は彼女に笑い掛けた。
読んでいただきありがとうございます。