第1話 新たなる始まり
月明かりによって幻想的に照らされた平原の中に、13歳ほどの一人の少女が立っている。夜に溶け込むような美しい黒髪と黒い目を併せ持ち、一見すればどこか育ちの良さを感じさせるような、非常に整った顔立ちだ。しかし視線を下に移せばその華奢な体を包み込むように荒布を纏っており、浮浪者か旅人といったイメージを抱かせる。
「いやー、ここはやっぱり落ち着くなぁ!」
鈴を転がしたような美しい声ではあるが、その口調はどこか男を思わせるものだ。それもそのはず、彼女を操作しているのは男なのだから。月明かりに照らされた幻想的な平野も、星が瞬く夜空も、平原を照らす月も、そしてこの少女も虚構、すなわち0と1で作られたものに過ぎない。
LaDO≪Light and Dark Online≫。
天使と悪魔を主体としたオープンワールド型のVRMMORPGであり、少女が存在しているゲームの名前だ。多種多様の種族、多種多様の職業と自由度の高さが売りとして作られたこのゲームは瞬く間に人気となった。分身体の自由度も非常に高いものであり、この少女はある意味男の理想の形ともいえる。
「やっぱりすげーよなー。ゲームだけど夜空もリアルと変わらないし」
美しい夜空を見ようと、平原に大の字で横になった少女が呟く。大きく大の字に開かれた手足によって、荒布に隠されていた体が露わになった。白を基調とし、ところどころに金糸で刺繍が施された高貴さを感じさせる衣服を着込んでおり、小柄な体躯に釣り合わない豊かな双丘が衣服を押し上げている。
「なんだかんだで5年か。長かったような短かったような…… 最初はあんなへたくそだったのに、今ではトッププレイヤーとして有名になっているんだもんなぁ」
サービス開始から5年。男────佐藤雄二は、今ではLaDOをプレイしている者で知らない者などいないであろうほどには有名になった。当然ながらそこまでには並々ならぬ努力と投資があった。ランキング上位のプレイヤーの動画を見ては動きを真似て、PvP戦でこてんぱんにされてはどこがいけなかったのかというフィードバックを欠かさず行ったのだ。
その研鑽の果てにあるのが今の姿である。全てのクラスのクラスレベルもカンストさせ、武器や防具も一通り揃えた。いや、全てのクラスというのは語弊がある。LaDOにはPvP大会で優勝しなければ解放されないクラスが2つあるが、優勝したところで解放されるのは1度きりで、さらにどちらか1つだけを選択する仕組みなのだ。つまりどんなプレイヤーでも1つのクラスは触ることが出来ないようになっている。
「このクラスとも長い付き合いだよな」
少女のクラスは『七罪の統制者』。PvP大会で優勝しなければ獲得できないクラスの1つであり、魔法職を代表するクラスだ。獲得の難易度に見合うだけの性能を誇り、使いこなせればかなりのアドバンテージを齎すことが出来る。
「おっ、丁度いいところに」
少女が立ち上がったタイミングでモンスターが現れ、ゆっくりと近づいてくる。一見すれば紅く禍々しい鋭い爪を持った漆黒の熊。この熊はジェノサイド・ベアというLv70と中々の高レベルモンスターであり、全体的に高ステータスを持った強敵だ。……適正レベル帯での話だが。
「≪憤怒の炎≫」
少女は突進してくる熊に向けて右手を翳し、魔法を唱える。すると手のひらから禍々しい、赤みがかった黒炎が弾丸の如く熊へと飛んでいく。
直撃と同時に爆音が木霊する。
熊の上あたりに31512という表記が浮かび、熊が消滅した。熊の体力が15000程度のため、かなり過剰な威力であることが分かる。だがそれも当然だ。少女のレベル自体カンストのLv100、クラスレベルもまたカンストのLv100なのだから。さらにそこに装備などの補正がなされているため、非常に高い火力を実現できているのだ。
「この頭悪い高火力、大好き」
酩酊しているかのような口調で感想を述べる。それは今の結果を見てなのか、はたまたそれを実現させるために積み上げてきた努力が実っているからなのか。
「さすがはメア。ずっとこいつでやり続けてきた甲斐が……うっ?」
雄二が自分のアバターを自画自賛していると、急に世界が回り始めた。混乱という状態異常はこのゲームにも存在してはいるものの、世界が回っていると感じるほど強烈なエフェクトはない。
「なんだなんだ? 状態異常かなんかか? 知らないぞこんなの」
そんなことを言っている間にもどんどん眩暈のような感覚は強くなっていく。唐突な未知の現象を前に、雄二の心に不安と焦燥が湧きだしてくる。
「くっ。こうなったらゲームの強制終りょ……」
空しくも、ここで雄二の意識は黒く塗りつぶされた。
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「うぐっ。ここは?」
雄二が意識を取り戻し、辺りを見渡せば木々が乱立しているのが目に飛び込んできた。
「木々? 森か? 俺がいたのは平野だぞ。しかも夜の」
見上げればそこには太陽があり、大地を照らそうと燦燦と輝いている。雲も青々とした空を漂っており、現実ともゲームとも言えるような環境。
「新手の転移トラップか何かか? とりあえずメニューを…… っ! 開けない!?」
いつもの感覚でメニューを開こうとしても何の反応もない。
「なら強制終了は…… 出来ない? どうすれば……」
頭の中が真っ白になっていくのを彼は感じ取った。メニューを開けなければ運営との連絡も取れないし、いざというときの強制終了さえできなければゲームから抜け出すことも出来ない。そしてここが現実かと問われればそれは断じて否である。雄二がこのゲームを開始した場所は自分の家であり、森の中ではないのだから。
「落ち着け、落ち着け。今ここで一番しちゃいけないのは錯乱することだ」
ここでふと彼は気づく。自分は自分のアバターであるメアを操作している時に気を失ったのだ。そこまではまだいい。だが先程から下腹部に虚無感を感じているのだ。具体的に言えば、男になければならない”あるもの”が消失している感覚。
「いやいやいや、待て待て。女性アバターなんだからあるわけないだろ! ははは!」
必死に現実……らしきものから目をそらす。ゲームではありえない、風が頬を撫でる感覚なんて感じないと。アバターと感覚を共有するなんてありえないのだから下腹部から伝わる虚無感なんて感じないと。
「いやマジで待って。なんでこんなに感覚が鮮烈なの? ゲームでしょここ? 頬を抓ってやれば痛みなんて……」
頬を抓ると鈍い痛みが走る。LaDOといった意識をゲームに没入させるVRゲームにおいては法律によって五感への刺激がかなり厳しく制限されている。ゲームに限らず、VR全般において痛みは感じないよう設定されているのだ。にも関わらず痛みを感じるとなると、ここはゲームではないということの何よりの証左になってしまう。
そこまで考えをまとめたところで、ふとある言葉が彼の頭をよぎっていく。
これ、やばいんじゃない? と────
「とりあえず動くか。一応現実と仮定して、慎重に行かなければ」
ここでうだうだしていても始まらないと思った彼は行動に移る。
「まずは身体チェックだ。体は完全にメアだな。アクセサリは……効果を発揮しているのか分からないが装備している。服装もゲームの時と同じ。体を動かしても……違和感なし。元から自分の体だったみたいだ」
まんまゲームの時と同じだな、と呟きつつも更に軽く走ったり体を触ったりなどして違和感などを探っていくと、視線が真下で固定された。そこには年不相応の大きな胸。
「……ここのチェックもしないとな! なんかあったら不味いし!」
誰に向けた自己弁護なのかも分からないまま、彼は両手で胸を触る。軽く揉んでみればマシュマロのような柔らかさの中にもしっかりとしたハリを感じることができ、まさに男を魅了する感触。
「あっこれ……止まらなくなる……じゃない! 馬鹿か俺は! こんな緊急事態に!」
もしかしたらこれは命の危機なのかもしれないのに、と心の中で自分を戒めつつ、彼は邪念を振り払うように魔法の使い方について模索し始める。すると頭の中に魔法の扱い方が浮かんできた。それは”いつも通り”魔法を使うにはこうすればいい、とでも言うかのように。
「魔法の扱い方を何故か知ってるぞ? 能力の使い方もだ。メアの体になったからか? とりあえず≪ウォーターボール≫」
だとしたら好都合だな、と思いつつ練習も兼ねて彼は魔法を唱えた。使ったのは≪ウォーターボール≫。最初期の水属性攻撃魔法であり、試射にはうってつけの魔法である。
放った半径1mほどの水球はなかなかの速度で直進していく。ぶつかった木を破砕しながらだが。
「うーん。威力がちょっと高い気もするけど、まあ大丈夫だな! にしても、ゲームと同じように魔法が使えるとは。ダメ元だったんだがなぁ」
その後も彼は自分の身体能力の確認をしっかりと行っていった。ゲームの頃の能力が引き継がれているのか、現実の自分と比較にならない、いや比較など到底できないほど高い能力を誇っていることが分かった。
「帰れるか分からないし、当面はメアとして生きていかなきゃな。まあ、メアになれたのは少し嬉しいかな」
これに関しては彼自身、嬉しいと思う反面もあった。女性ではあるがメアは自分のアバターにして憧れの存在でもあったから。ゲームの世界とはいえ、そこではいわばスーパースターのような存在であり、そしてその地位に恥じないだけの実力を兼ね備えている、そんな子供のころ夢見たヒーローみたいな存在になれたから。そこでふとある考えが頭をよぎる。
「だったら、帰る必要なんてあるのか?」
微かな逡巡。現実に帰れば確かに安全だろう。しかしそれでいいのか? せっかく憧れの存在になれたのに、また無力な自分になるのか、と。
「いや、この世界がどういう世界なのかすら知らないんだ。まずやらなきゃいけないことはこの世界の調査だろう」
親も逝去し、親友と言える存在もいないのだ。帰ることができなかったらできなかったで未練はない。だがこの世界について何も知らないというのもまた事実。まずはこの世界を見て回ってみようと彼は結論付けた。
一歩踏み出す。これまで何気なく聞いてきた土を踏む音も今だけは鮮烈に感じる。心の中にあるのは不安と未知への恐怖、そしてこんな状況であっても湧き上がってくる、冒険に出るかのような期待。それらを胸に彼は決心した。
「とりあえず踏み出すか、新しい自分で」
これが、”彼女”の新しい門出の瞬間であった────