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その6


 “大人会議”から帰宅した瑞樹と夕紀菜の元に、梨緒菜が入院したという知らせが届き、二人は子どもたちを連れ、急ぎ病院へと向かった。

「梨緒ちゃん!」

 病室に駆け込んだ夕紀菜が、ベッドの上の梨緒菜の顔をそーっと触る。

「大丈夫なの…?」

「大丈夫よ。念のための検査入院だから。ちょっと膝をぶつけただけ」

「でも…車に轢かれそうになったって」涙目の夕紀菜。

「もう。夕紀ちゃん、轢かれたわけじゃないんだし」けらけらと梨緒菜が笑う。

「よいしょっと」

 真里菜が靴を脱いでベッドの上に上がり、梨緒菜の検査着の胸元を両手でつかんで覗き込んだ。

「おっぱいは、ぶじ」

「まりりん、えっちぃ!」梨緒菜が真里菜を抱きしめて、おでこを擦り付ける。


「でもまあ、本当に轢かれずにすんで助かったわ。実はね…いたた、まりりん、そこ触らないで」

 今度は布団の足のほうをめくり、梨緒菜の膝を確認する真里菜。

「あしは、ばんそこ」

「りおちゃん、いたい?」

 大地が覗き込んで、手を伸ばした。絆創膏の上から、そっと膝に触れる。

「うーん。そうね。あざになってたから、触るとちょっと痛……く…ない…?」大地が抑えている足を、じっと見つめる梨緒菜。「あら? 痛みが消えたような…。最近の塗り薬ってすごいのねえ」

「痛いの治ってよかったね、梨緒ちゃん」大地がニッコリ笑う。

「大地が来てくれたからかなあ」

 大地の両頬をそっと包む梨緒菜を、夕紀菜は複雑な表情で見つめる。


「梨緒ちゃん。哲也くんは一緒じゃなかったの?」

「今、先生のところに行ってるの。膝のあざはともかく、ちょっとお疲れ気味だから、人間ドッグに入りなさいって言われちゃって、その手続きと説明を受けに行ってもらってるわ」

「そうか。じゃあ、1日2日はこのまま?」

「うん。2日コースがいいだろうって。金曜日まで休んで、週明けから仕事復活かな」

「帰国してから忙しかったもんなあ。ちょうどいい機会だから、リセットするといいよ。何か不便なことがあったら、夕紀菜でも僕でも、いつでも言って」

「ありがとう。お義兄さん」微笑む梨緒菜。


「そういえば、ママ遅いわね」

「ママなら10分くらい前に来て、哲也と一緒にお医者様のところに行ってるわ」

「え?」梨緒菜を凝視する瑞樹と夕紀菜。

「えーと…二人にして大丈夫なの?」夕紀菜がおそるおそる尋ねる。

「ママは次期総理の後援会を仕切る人間なのよ。病院で揉め事は起こさないわよ。誰がどこで見てるかわからないのに」

「それを先に言ったわけか、梨緒ちゃん。すごい封じ手だね」瑞樹がくすりと笑う。

「そりゃあ、そうだけど、梨緒ちゃん。保先生を人質にするのは…」

「違う違う。ママが自分でそう言って、哲也を連れ去ったの」手を振って否定する梨緒菜。


「誘拐だね」大地が話に割り込んできた。

「私、ちょっと様子見てくるわ」

「まりりんもいく! ひみつのちょうさだもん」ベッドから降りて急いで靴を履く真里菜。

「んもう。二人とも…」

「じゃあ、とりあえず飲み物でも買ってきてくれないか」

 瑞樹が言うと、夕紀菜は真里菜と手をつなぎ、病室の外へ出て行った。

「ごめんね、梨緒ちゃん。周囲がうるさいと、ゆっくり休めないよね」

「いいのよ、お義兄さん。…私も気にはなるけど、この格好で動き回るわけにもいかないし」

「大丈夫だよ。調査は西園寺保探偵事務所のセクシースパイにまかせておけば」

 大地の言葉に、梨緒菜と瑞樹は楽しげに笑った。


  *  *  *


 通常、毎週土曜日にバイオリンのレッスンを受ける龍だったが、近々コンクールがあるということもあり、最近は水曜日もレッスンに通っていた。その日にピアノのレッスンをしている紗由のほうが終わると、急いで学校に龍を迎えに行く日が続いている周子だった。


「ふん、ふふーん、ふふふーん♪」

 隣の部屋でガラス越しにレッスンを見学している紗由が、龍の演奏に合わせてメロディーを口ずさむ。

「上手ねえ、にいさまは」

 周子が言うと、紗由が反論する。

「ちがうよ。すんごく、じょうずなんだよ!」

「そうね。そうだわ」ふふふと笑って、紗由の頭を撫でる周子。

「あ。おわったよ、かあさま。おむかえにいかなくちゃ」

 紗由は椅子から降りると、龍がいる隣の部屋へと駆けて行った。


「にいさま!」紗由が龍にしがみつく。

「今日の演奏、気に入った?」

「うん。すんごく!」紗由がうれしそうに笑う。

「ちょっと、そこで待ってて。先生のお話聞いてから帰るから」

「はい!」

「先生、ありがとうございました」

 頭を下げながら先生のほうへ歩み寄る周子を見ながら、紗由もお行儀よく頭を下げた。


 周子が先生からレッスンの状況に関して説明を受けている間、龍は再度楽譜を眺めていたが、一人の少年が部屋に入ってきて龍に声を掛けた。

「龍くん、ずいぶん上手になったね」

「匠くん!」

 匠というのは、龍のバイオリン教室仲間で、小宮山総理の前の総理、梨本の孫だ。

「ありがとう。けっこう頑張って練習したからね」

「僕も負けないよ」微笑む匠。


「あ、そうだ。翔太がコンクール見に来るって言ってたよ」

「うん。メール来た。でも、龍くんを見に来るっていうより、龍くんを応援に来る紗由ちゃんを見にくるんじゃないのかな」匠がニヤリと笑って鼻をこする。

「同感。…ねえ、そのカフス、きれいだね」

 龍の目に留まったのは、匠のワイシャツの袖口についていた紫の石だった。

「これね、おじいさまからもらったんだ。大事な時に力を発揮できるお守りなんだって」

“何だろう、この反応の仕方…?”龍は、胸ポケットの石が匠のカフスを警戒しているのを感じていた。

「匠くんは優勝候補だもんね」

「おじいさまが応援してくれてるから。僕、頑張るって決めたんだ」匠の声が少し大きくなる。

「おじいさまのこと、大好きなんだね」

「うん」匠は力強く頷いた。


「龍くん。ちょっと来て」

 先生に呼ばれた龍は、「はい」と返事をした。

「お互い頑張ろうね」

 匠は手を振りながら、その場を離れ、ロッカールームへと向かった。


 そして噂の紗由はと言えば、部屋の隅のテーブルに乗っている、おもちゃのピアノに向かって、さっき龍が奏でたメロディーを復唱しながら、それを弾く真似をする。

「ふーん、ふふん、ふふふーん♪」

 その時、紗由の隣に一人の少年がやってきた。

「こんにちは」

「こんにちは!」紗由が明るく挨拶する。

「やっぱり可愛いね、紗由ちゃん。そりゃあ、そうだ。僕のお嫁さんになるんだから」

「あなた、だあれ…?」紗由が少年を不思議そうに見つめる。


「君のお婿さんだよ」

 紗由は彼をじっと見つめた後、困った顔で告げた。

「えーと…ちがいます。さゆのおむこさんは、しょうたくんです」

「違わないよ。君は僕のものなんだ」

「ちがいます」

 何度も言われて腹が立ったのか、紗由は彼を睨みつけた。

「まあ、いいや。じゃあ、“たまいれ”で会おうね」

 少年はそれだけ言うと立ち去った。


  *  *  *


「ママ、あそこにいるよ」

 自動販売機とテーブルや椅子がいくつも置いてある喫茶コーナーの片隅に、和歌菜と哲也の姿を見つけた真里菜は、小さな声で囁いた。

「まあ、本当」

 夕紀菜も囁き声になり、二人で足音をしのばせながら、コーナーの仕切りの植え込み手前のソファーに腰掛け、鉢植えの花の隙間から、そっと二人を見つめる。

 周囲に他の人間がいないせいか、二人の話し声は小さいながらも聞こえてくる。


「1年ぐらい前だったかしら。表向きは民事の弁護士なのに、実は政治家の黒い噂を調査して売買するエージェントの話がうちの週刊誌に載ったの。哲也さんはご存じない?」

「…確かに、そういう記事があったのは覚えています。匿名とは言え、よくそんなインタビューに応じる弁護士がいるものだと驚きましたから」

「梨緒菜と同業者だし、かなり印象に残ったのよ。しかも一ヵ月後に、その弁護士さん、お亡くなりになったのよね」

「自殺でしたね、確か」

「ええ、そう。しかもね、うちの専務…元専務が話してたの。

 そのインタビュー、紹介者を介して、ホテルの一室で、カーテンの向こうで相手が話すという形だったから、記者にも正体がわからなかったらしいんだけど、梨緒菜の事務所の日本支社の弁護士だという噂があったって」

「そうでしたか…」


「梨緒菜は最近かなり疲れている様子だったし、何か面倒な仕事に関わっているんじゃないかと思って心配してたの。そんなときに、こんなことが起きるから、もしかしたら…」和歌菜が哲也をじっと見つめる。「あの子、狙われたんじゃないかと思って」

「狙われた?」

「考え過ぎだとは思うのよ。でもね、何かあるような気がするの…」

「ご心配し過ぎだと思いますよ。確かに、弁護士というのは時に理不尽な逆恨みを買ったりもするでしょうし、100%安全とは言いがたいかもしれませんが」

「事務所の人が見てるの。梨緒菜が小宮山先生の事務所に入っていくところをね。その日は箱根に出張だって言ってたから、人違いだろうと思ってたんだけど、本当に梨緒菜だったんじゃないかしら。

 だから、何か危険な調査でもしてるんじゃないかと思って…だって、小宮山先生の降り方は唐突だったって党内でも評判だし、大体、梨緒菜が何の用があって、小宮山先生のところに行くのかしら」


「事務所には大勢の方がいらっしゃるでしょうから、どなたかの調停を担当されていたとか、何か事務所側からの届け物があったとか…いろいろ考えられます」

「そうよね…そうなんだけど、でも…梨緒菜に何かあったりしたら…」

「大丈夫ですよ。とりあえず、明後日まではここにいるわけですから、外にいるよりは安全です。それと、何でしたら、警護を回すように手配します」

「警護?」

「はい。サイオングループの警備会社のほうから」

「…そうね。お願いしようかしら。…あ、でも、このこと梨緒菜には…」

「承知しております」

「ごめんなさいね。梨緒菜のことで、いろいろ面倒をおかけして」

「いえ。久我様もこれから、保先生の件で慌しくなるでしょうから、お体にお気をつけください」


 二人の話をじーっと聞いていた真里菜は、その内容が全部はわからないなりに、梨緒菜が危ないかもしれないということだけは、わかったようだった。

“おばあちゃま、ねらわれたっていった…”

「ママ。りおちゃん、しんじゃうの?」

「そんなことないわよ、真里菜…」夕紀菜が真里菜の両肩を抑える。

「でも!」

 真里菜の声に驚いて振り向く和歌菜。


「真里菜…! 夕紀菜も何してるの、そんなところで」

「あ、ママ。飲み物を買おうかなって…」

「聞いてたの? 今の話」

「少し聞こえちゃったりも…」

「りおちゃん…」目に涙を浮かべ、走り出す真里菜。

「待って、真里菜! 真里菜!」慌てる夕紀菜。

 哲也は素早く立ち上がり、「僕が」と言うと真里菜を追いかけ、つかまえた。


「大丈夫だよ、真里菜ちゃん」

 泣きじゃくる真里菜を抱き上げた哲也は、あやしながら耳元で囁いた。

「梨緒ちゃんは、大丈夫。真里菜ちゃんも一緒に梨緒ちゃんを守ろう。セクシースパイなんだから、できるだろう?」

「うん…。がんばる」

 真里菜は、震えるように頷きながら、ぎゅっと拳を握りしめた。


  *  *  *


 翔太がいつものように清流の庭掃除をしていると、後ろから同い年くらいの少年が声を掛けた。

「翔太くん」

「はい?」

「偉いね。お家のお手伝い?」

「ありがとうさんです。何か御用でしょうか?」

 客商売モードの翔太は、相手が自分の名前を知っているのを少々怪訝に思いながらも愛想よく答える。

「僕が勝ったら、紗由をもらうよ」

「え?」

 相手をうかがうように、翔太の目が胸元へ行く。

“こいつは前に…”翔太は名古屋のパーティーで見かけた少年を思い出した。


「今、僕には二つの興味があるんだ。一つは君の対戦力。もうひとつは“にいさま”の対戦力だよ」

「わかりやすく説明してください」

「もう少しで、嫌でもわかるよ。それまで元気でね、華織さまの“龍の子”」

 少年は微笑むと、清流の庭から走り去り、玄関正面に停まっていた車に乗り込んだ。


“相手チームの?…紗由ちゃんこと、呼び捨てして失礼やな。にいさまいうのは、龍のことか?”

 翔太は考えながら、灯篭の傍に置いてあったリュックの中からスケッチブックと色鉛筆を取り出し、少年の胸のぴかぴかと、庭の空気の様子を急いでしたためた。


  *  *  *


 病院から会社に戻ると、哲也のもとには華織から連絡があり、退社後、マンションに寄るようにとのことだった。定時を30分ほど過ぎたところで社を出て、急ぎ華織のマンションに出向くと、そこには高橋も来ていた。


「進さん、本当にありがとうございました」改めて丁寧に頭を下げる哲也。

「そんなに何度も頭下げなくてもいいよ」そっけなく答える高橋。

「よかったわ。梨緒ちゃんが無事で。進ちゃん、ありがとう」

「いえ」

「華織さまも、本当にありがとうございます。進さんのガードがなかったら、今頃どうなっていたか…」

「保ちゃんが面倒なことをお願いしたせいなわけだから、弟の不始末はちゃんとフォローしないとね」

「結局、その件を請けている限りは危ないということなのでしょうか」

 極力冷静に尋ねる哲也だが、かすかに語尾が震える。

「そうねえ…まだ何とも言えないわ」

「華織さまは、その相手を、四辻先生を狙った一派とお考えだとのことですが」

「“降りてくる”ときに感じる匂いが、奏人さんのときのと同じなのよね…」華織が、ふと考え込む。


「相手の狙いは何なのでしょう。四辻先生のときは政治的主張が相手に邪魔だったのだろうと思うのですが、小宮山先生は、言わば中継ぎに立てられた無害なタイプとの評判です。わざわざ女性スキャンダルを掘り起こして失脚させなくても…」

 高橋が言うと、華織は静かに微笑んだ。

「保ちゃんを早く表に出したかったんじゃないかしら?」

「ですが、保先生の政治的見解は四辻先生のそれを継がれているというか、元々、似ていらっしゃいました。四辻先生の命を奪って、どうして同じ考えをお持ちの保先生を押し上げるのでしょうか」


「押し上げるのが目的じゃなくて、押し上げた後に落とすのが目的だからでしょうね」

「それは…」絶句する哲也。「最終的な危険は、保様のところにということですか?」

「でも、まだ“詔”はクリアというほどでわないわ。翔太くんのように、“ぴかぴか”として見えるといいんだけど…」

「“落とした”後、何をしたいんでしょう」高橋が尋ねる。

「保ちゃんを落とせば、自分たちの考えに反対するものは勢いをひそめるとでも思っているんでしょうね。おバカさん過ぎて話にならないけど」

「思想的なバカほど、手に負えないものはありませんからね」苦々しげにつぶやく高橋。


「では、梨緒菜を襲ったのも、保先生に対する警告ということなんですか?」

「というより、犯罪予告かしら。今回の外遊の結果次第ってことね、きっと」

「華織さま…」絶句する哲也。

「でも、彼らは私のような“力”を持ち合わせた一派ではないことが救いだわ。彼らが何を仕掛けて来ようと、ディフェンスにかけたら、私に勝る人間はいないもの」華織がにっこり笑う。

「それはそうですが、“力”を持ち合わせた一派、あるいは関係者に協力を持ちかけることも考えられます。

 大隅氏あたりは多くの弾を抱えています。まだ完全に安全というわけではありません」

「大隅さんは政治に興味はないわ。彼がしたいのは、自分が投資した子どもたちの“力”を使った、こっそりとした実験とゲームよ。

 奏人さんのときには、むしろあの一派をけん制したわけだし、彼はむやみやたらと世の中をかき回したいわけじゃないわ」


「子どもたちというのは、先日、名古屋で行われたパーティーの子どもたちですか?」

「そのときの子だけじゃないわ、哲也くん。パーティーはもう、四半世紀行われているのだから」

「では、かなりの人数をもって、華織さまに挑まれるとでも?」

「その可能性はあるわね」

「人数の問題ではないでしょう。要は“力”の総量です」高橋が言う。

「正確に言うなら、“力”の質の総量ね。“力”の強い子がいれば何でもできるというわけでもないし」


「では、パーティーの子どもたち軍団にも、龍さまたちで対応できるということですね」哲也をちらっと見ながら言う高橋。

「さあ。どう転ぶかは、私にもわからなくてよ」

「華織さま。そんな暢気なことをおっしゃっている場合ではございません」

「そんなこと言ったって、今は降りてきてないんだもの。当の保ちゃんも日本にいないし」唇を尖らせる華織。

「だったらお帰りになるまでに策を練らねばということです」

「そんなの、進ちゃんがやってよ」今度は頬を膨らませる華織。


“まったく、この人たちときたら、いつもいつも親子ゲンカみたいだ…”緊張が一瞬緩み、思わず微笑む哲也。

 それも無理はないと哲也は思った。天馬が亡くなり、風馬も姿を消してからというもの、人前では気丈に振舞う華織を支えてきたのは、躍太郎と保、そしてこの高橋だからだ。

 そんなことを考えて、しばし気を逸らした哲也を、鋭く見咎める華織。

「何か言いたいことでもあって?」

「いえ。見慣れた風景でございますから」


「あ、そうだわ、哲也くん。さっき、翔太くんと龍から連絡があったの。どうやら、相手方のリーダーが、紗由と翔太くんのところへ現れたみたい。紗由がご機嫌斜めだったって、龍がこぼしてたわ。翔太くんもその相手のこと、ちょっと感じが悪かったって言ってたし」

「相手方のリーダー…ですか。年齢は?」

「龍と同い年だったはずよ」

「どこの系統の子どもなんですか」

「鷹司本家の子。次男坊のほうね。大隅さんがとりわけ目を掛けていた子よ。名古屋にもいたらしいわ。パーティー自体には参加していなかったようだけど」


「鷹司…あそこは、今はお役御免なのでは」

「だから好き勝手に教育できているのよ。でなければ機関に持って行かれてたわ」

「それはそうですが…周子さまは、このことを? 本家ということは、周子さまの伯父の家。その孫ということですよね。お会いになったこともあるのでは」

「ないと思うわ。彼女が涼ちゃんと婚約して、しばらくして彼女のお父様は兄との関係を断ったようだから。その子が生まれたのは、その直後だし」


「周子さまの父上の動向にも気を配ったほうがよさそうですね」高橋が言う。「彼は高名な弁護士ですし、今回の保様の擁立にも、かなり尽力していると聞きます」

「確か、梨緒菜の事務所と鷹司氏の事務所は、業務提携に向けて準備が進んでいるはずですが」

「勝手にどんどん収縮してくれる感じね。まったく…皆さんどうして、そんなに私たちのところに集まりたがるのかしらねえ」華織が笑い出す。

「それは華織さまが魅力的だからでしょう」

「あら、進ちゃんたら。…はい。これ、ご褒美よ」

 機嫌よくキャンディーを差し出す華織を、むっとした顔で見つめる高橋。

「私は子どもではありません」

「そうやって大人気ないんだから、十分に子どもです」

 華織は高橋の手にキャンディーを握らせると、にっこり微笑み、彼の頭をふんわりと撫でた。


  *  *  *


「ひめ! あねごが、げんきないでござるよ」

 登園してきた紗由に充が言うので、紗由はかばんを自分の棚に入れると、真里菜のところへ駆けて行った。

「まーりりん。おはよう!」

「さゆちゃん…おはよう…」

「どうしたの? にこにこが、なくなってるよ」

「あのね…りおちゃんがね…」そこまで言うと、泣きそうな顔で唇を噛み締める真里菜。

「りおちゃんが、どうかしたの? だいじょうぶ?」

 奏子もやってきて心配そうに尋ねると、真里菜は深刻そうな顔で答えた。

「だめかもしれない…」


「ええっ」奏子が驚いて両手を口に当てる。

「なにがだめなの、まりりん?」紗由が聞く。

「あのね、あのね、おばあちゃまが、てっちゃんとはなしてたの。りおちゃんは、わるいひとにねらわれてるの…」

「それは、いちだいじでござるな…」


「わかった。じゃあ、わるいひと、やっつけよう!」

 紗由はそう言うと、真里菜、奏子、充を教室の隅に呼び寄せ、ヒソヒソ声で話をした。

「きょうは、ようちえんおわったら、けんちゃんのおもちゃばこで、ひみつのへんしゅうさくせんかいぎをしよう」

「へんしゅうさくせんかいぎ?」奏子が首を傾げる。

「あ。そうだ。たまいれのれんしゅうもだ。ぜんぶいっしょに、やるからね」

「ぜんぶいっしょにできるの?」奏子がさらに首を傾げた。


「やるの」紗由がきりっとした表情で3人に言う。「えほんつくって、たまいれのれんしゅうをして、りおちゃんにわるいことするひとを、やっつけるの」

「ほんと? ほんとにできるの?」

 不安げに尋ねる真里菜の手を、紗由がぎゅっと握る。

「できるっておもわないと、なにもできないんだよ。おばあさまが、いってたよ。それに、にいさまたちもいっしょだったら、きっとできるよ」


「華織どのは、おばあさまではなく、おねえさまでござろう?」

「うーん。おばさまじゃないのかなあ」

 紗由が言うと、充が眉間にしわを寄せた。

「ひめ。だめでござるよ、それでは」

「なんで?」

「おばあさまをみたら、おばさまとよべ。おばさまをみたら、おねえさまとよべ。おねえさまをみたら、おじょうさまとよべ。…これが、わがししょうの、おしえでござる」


「ふうん…。しょうたくんが、いったんだ」

 心なしか紗由の目が冷たいのに気づき、充は慌てて話題を逸らした。

「わかなどのは、ごーじゃすなおじょうさまでござる。べるさいゆのばらの、おすかるみたいですからな」

「べるさいゆのばらのおすかる、ってなあに?」紗由が聞く。

「ママが、でぃーぶいでぃーで、みてるであります」

「ふーん…」答えを聞いても、よくわからない紗由。


「それで、りおちゃんはどうなるの? どうやったら、ぜんぶいっしょにできるの?」真里菜が落ち着かない様子になる。

「えーとね…」腕組みをして考える紗由。

「がんばって、さゆちゃん!」奏子がこぶしを握って応援する。

「えほんのなかに、りおちゃんもでてきてもらうの」

「なにかの、やくになるでござるな」

「うん、そう。それで、みんなで、えほんのなかで、わるいやつをやっつけるの。そうしたら、ほんもののりおちゃんに、わるいことするやつも、やっつけられちゃうの」

「そうなんだ。えほんのそとでも、おなじになるんだ…」真里菜が真剣なまなざしで紗由を見つめる。


「それで、たまいれは、どうするでござる?」

「えほんつくってから、やるの?」奏子が聞く。

「うーん。じゃあ、こうしよう。たまいれを、さきにやるの。いれたほうが、えほんのおはなし、すきにつくれるの」

「ををっ。では、たまいれに、どんどんかって、わるいやつをやっつけるおなはしにして、りおなどのを、おたすけもうせばいいでござるな」充が大きく頷いた。

「そうだよ。だから、たまいれのれんしゅうして、おはなしもいろいろ、つくらないと」


「おはなし、いっぱいつくるの?」尋ねる真里菜。

「おやつとおなじだよ。かあさまが、しろがねにいくのやめたら、アビアンのちーずけーきはかえないけど、あかさかにいこうっていえば、あかさかあんの、おだんごがかえるもん。さきに、いろいろかんがえておくんだよ」

「つまり、てきのでかたを、みるでござるな?」

「うん。それ」紗由がくっきりと頷く。


「じゃあ、へんしゅうかいぎを、いっぱいしないといけないね」少し元気な声で言う真里菜。

「そうだよ、まりりん。へんしゅうちょうが、がんばらないとだよ」

「まりりんが、りおなちゃんをたすけるのね」奏子がきらきらした瞳で真里菜の手を握る。

「まりりん、がんばる!」両手を握りしめ、3人を順番に見つめる真里菜。

「そのいきでござる。やっぱり、あねごは、うるさくて、こわくないと、だめでござる」

 充が言うと、真里菜はギロリとにらみ付けた。

「ちょっと。こぶんのくせに、そんなこといって、いいとおもってるの?」

 キックしようと構える真里菜から逃れるように、充が主任のところに駆け出した。

「きゃー。あれー。せんせー!」

「まちなさいよ!」その後を追う真里菜。


「まりりん、げんきになったみたい。よかったね、さゆちゃん」

「うん。でも、これからがたいへんだよ。みんなでがんばらないと」

 紗由は足を大きく広げて腰に手をやると、ウォーミングアップのアキレス腱伸ばしを始めた。


  *  *  *


 再び、華織の元にやってきた哲也が、カバンからDVDケースと書類が入ったファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。

「助かったな。紗由さまが会議会場に社長室を選んでくれて」紅茶をすすりながら、高橋が言う。

「はい。今後とも会場はあそこになりそうですので、“秘密の編集作戦会議”の内容は漏らさず把握できそうです」

「賢児さまは、哲也が華織さまの配下にあるとは思っていないんだろうな」

「…さあ。先日、躍太郎さまと華織さま所有のマンションやビルや住人について聞かれました。“社宅”の存在には薄々気づいているかもしれません。ですが、私の場合は一家で西園寺家の使用人ですから、何とでも理由はつけられます」

「もしかして、進ちゃんが住んでる“ウエスト・ガーデン”のほうも気づいたかしら」華織が口を挟んだ。

「さすがに風馬さま名義のものまでは、お調べにはなってないようですが」


「で、会議のほうはどうだったの?」

「こちらが子どもたちの様子を映したものです。それから、充くんの録音をテキスト化したものが、こちらになります」哲也がファイルを差し出した。

「そう。では、とりあえず拝見しようかしら」

 哲也がDVDを操作すると、華織は食い入るようにそれを見つめた。


  *  *  *


「ねえ、紗由。どうして、ここなの? 賢ちゃんはお仕事中だって、この前も言っただろ?」

 本当は紗由がここで会議をしてくれることを都合がいいと思っている賢児だったが、わざと困った振りをしてみる。

「まほうのシートでみえなくなるから、だいじょうぶだって、このまえも、かなこちゃんがせつめいしたでしょう、けんちゃん?」

「はい…」

 華織のような口調で言う紗由に、嫌そうな顔をしながら返事をする賢児。


「はい。じゃあ、“ひみつのへんしゅうさくせんかいぎ”をはじめますよ。まほうのシートにのってください」

「はーい!」

 真里菜、奏子、充の3人が次々にシートに座り込む。

「あ。にいさまたちが、まだきてない」

「かなこが、おむかえに…」

 立ち上がろうとした奏子を、紗由がむんずと捕まえる。


「いかなくていいよ、かなこちゃん。しゅにんせんせいと、とりももせんせいに、おこられちゃうよ」

「はい…」しょんぼりする奏子。

「にいさま、すぐくるからね、かなこちゃん。じゃあ、それまで、たまいれのれんしゅうをします」

「はい!」

 3人は声を揃えて答えると、通園カバンの中から、それぞれにお手玉を取り出し、目の前に並べた。紗由も同様にする。


「わあ。まりりんのおてだま、おしゃれだねえ」奏子が覗き込む。

「おばあちゃまのスカーフでつくったの」

 どうやらブランドもののスカーフで作られたお手玉のようだ。

「みつるくんのも、すてき」

「そうでござるか、マドモアゼル。これは、かまわぬのてぬぐいで、つくったんでありんす」

 なぜか花魁言葉で話す充のお手玉は、江戸風情な“かまわぬ”模様だ。

「かなこちゃんのは、おはなみたいだね。きれい」

「ママのおしごとのヒラヒラで、つくってもらったの」

 奏子の母、響子はフラワーコーディネーターなので、仕事で使うレースや布など、花以外の素材がいろいろと常備されている。奏子のお手玉は、どうやら奏子の大好きな白いレースと厚手のジョーゼットで作ってもらったもののようだった。


 残るは紗由のお手玉なのだが、3人は顔を見合わせ、言葉を発しかねていた。

「さゆちゃんの…おにぎりに、にてるね」真里菜が恐る恐る言う。

「にてないよ!」ぷーっと頬をふくらませる紗由。

「ご、ごめんなさい」

「ほんものの、おにぎりだよ!」

「え?」

「ひめ。おにぎりなげたら、あかんでござるよ?」

「これは、たまいれのまえに、たべるぶん」紗由はそう言うと、ラップをはがして俵型のおにぎりを、もぐもぐと食べ始めた。「みんなのぶんもあるよ。ツナと、さけと、たらこだよ」

「ありがとう!」

 真里菜がひとつ取ると、奏子と充もおにぎりを手に取り、食べ始めた。


「たまいれって、運動会でやる、あれのことだったか?」玲香の耳元で囁く賢児。

「石を使って何かするのかと…“魂を入れる”とか、そういう意味合いのことかと思ってたんですけど、違うのかもしれませんね」

「それにしても、よく食うな。競技の前にお弁当か」

「お茶でも出したいところですけど、見えない設定なので困りましたね…」

 玲香が考えあぐねていたところに、ドアがノックされ、哲也が現れた。

「失礼します…おや、紗由ちゃん、いらっしゃい」

 哲也がにこやかに声を掛けると、皆が一斉に哲也を凝視した。


「さゆちゃん、たいへん。まほうのシートにのってるのに、みえてるよ…」真里菜が紗由の腕をぎゅっと掴んだ。

「このまえ、ジュースこぼしたのがいけなかったのかなあ…」

 紗由が困った顔になると、玲香が慌てて壁の戸棚から養生用のビニールシートを取り出し、紗由に話しかけた。

「紗由ちゃん。よかったら、こっちの魔法のシートを使って。双子ちゃん用なんだけど、紗由ちゃんに貸してあげるわ」

「ありがとう!」紗由が立ち上がって、玲香からシートを受け取る。

「よかったね、さゆちゃん…」奏子が何度も頷いた。


「紗由ちゃん、今、お茶を持ってきますね。おにぎりだけだと喉がかわくでしょう?」

「ありがとう!」

 玲香は紗由の頭を撫でると、お茶をいれにいった。

 紗由たちはシートから降りるとシートをたたんだ。そして玲香から渡されたシートを、賢児と哲也が一緒に広げていく。

 その間、紗由たちは、賢児たちが打ち合わせスペースにするはずの応接セットのところへ座り、もぐもぐとおにぎりを食べている。玲香がお茶を出すと、それをおいしそうにゴクゴク飲む4人。

「すみませんでした…」

 シートの端を整えながら哲也が謝ると、賢児は言った。

「いや。仕方ないよ。問題は高橋さんが来たとき、どうなるかだな…」


「遅くなりました」ノックと共にドアが開き、高橋が現れた。「失礼いたしますぅ」

「おっと。ぎりぎりセーフか」

 賢児が安心したようにつぶやくと、高橋は不思議そうに首をかしげた。

「あら、紗由ちゃん、皆さん、こんにちわぁ。いつもいつも可愛いわねえ」

「こんにちは!」紗由と真里菜と奏子があいさつをする。

「おかまのこえだ…」充が高橋を見上げる。

「しんこおねえさんだよ。このまえ、みつるくんちにいたでしょう?」紗由が言う。

「この前は、ちゃんとご挨拶できなかったわねえ。充くんは翔ちゃんのお弟子さんよね?」

「はいっ」


「しんこおねえさんはね、しょうたくんの、えのせんせいなんだよ」

「ししょうの、せんせい…」目をまあるくして、充が高橋を見上げた。

「すんごいんだよ。翔太くんのせんせいなんだから。さゆはね、そんけーしてるの」

「いやだ、もう、紗由ちゃんたらっ。うれしいわあ。よろしくねっ、充くん!」充に駆け寄って握手する高橋。「…ところで社長も専務も、こんなところにシートを広げて何をしてるんですか?」高橋が賢児と哲也に尋ねた。

「紗由たちの秘密の編集作戦会議の会場なんです。打ち合わせの邪魔かもしれませんけど、すみません」


「だいじょうぶだよ、しんこちゃん。まほうのシートにのったら、みえなくなって、きこえなくなるから」紗由が言う。

「まあ。すてきなシートねえ。後で、私も乗せてくれる?」

「いいよ。もすこしで、しょうたくんもくるし、ししょうのししょうと、ししょうと、でしで、なかよくしたらいいとおもう」

「ありがとう。じゃあ、後で呼んでね。私はここで、玲香ちゃんたちとお仕事してるから」

「うん。じゃあねえ。…みんな、“ごちそうさま”をしたら、あたらしいシートにのって!」

「はーい!」

 3人は再び紗由の言葉に従い、無事に秘密の編集作戦会議が再開されることになった。


「で、ひめのおてだまは、どれでござる」

「さゆのは、これ」紗由がバッグの中から、ごそごそとお手玉を取り出した。

「えーと…」3人は目の前の物体を見て浮かんだ、“おにぎりに似てる”という言葉を飲み込んだ。

「なにかに、にてるとおもわない?」紗由が3人を眺める。

「お、おにぎり…」真里菜がうつむき加減につぶやく。

「やっぱりぃ?」紗由の顔がパーッと明るくなった。「あのね、おいしそうなおてだまをつくってくださいって、かずえさんにおねがいしたの。ほら、ラップとのりをくるんて、とるとね、おてだまがでてくるんだよ」

 紗由がお手玉の外側をむくようにはずすと、中から白いお手玉が現れた。真ん中には赤い丸がついている。

「ををっ。このあかいのは、うめぼしでござるな」

「すごーい」奏子が両手で口元を押さえる。

「うわあ。さすがは、おやつぶちょうの、かずえさんだねえ」真里菜も感心したように見つめる。


「…何やってんだよ、おふくろのやつ」哲也がぼそりと呟いた。

「素晴らしいです。紗由ちゃんのツボを見事に突いてます」玲香が大きく頷く。

「あはは。すごいや、和江さん。…あ、和江さんというのは、大垣さんのお母さんです。うちのこと一切仕切ってもらってるんですよ」賢児が高橋に説明する。

「まあ、そうなんですか。器用でセンスのあるお母様ですのね。ステキですわ」高橋が哲也に微笑む。

「はあ…」


「…じゃあ、こっちはこっちで作戦会議を始めましょうか」賢児が口火を切る。「 “ミコト姫”の件ですけど、先日お伝えしている通り、ストーリーを新しい作家に練らせたいので、もう少し時間が欲しいんです」

「わかりました。では、こちらはこちらでキャラをいくつか考えておきますわ。ストーリーの筋が決まったところで、はめ込み作業をしていけるよう、いろんなパターンを考えておきます」

「ストーリーとバラバラに進めて、後ではめ込むなんてことができるんですか?」玲香が驚いたように尋ねる。

「玲香さんは、この手のソフトには、ほとんど関わってなかったですよね。うちの場合は、キャラの魅力でストーリーを引っ張るんですよ」哲也が言う。「ある程度の筋が出来ていても、キャラをぶつけると作家がそれに沿って流れを変更していくんです」

「そうなんですか。アートディレクターの力量ということなんですね…」


 玲香は微笑みながらも、内心疑問に思った。

 今まではそれでよかったかもしれない。作家は大人だからだ。だが今回、賢児がストーリを作らせようとしているのは、あそこにいるあの子たちなのだ。はたして、そのやり方は通用するものなのか…。

 いや、でも、あの子達だからこそ、彼の作り出すキャラに触発されて、より適切なストーリーを作り出せるのかもしれない。

 玲香がそう自分に問いかけた時、お腹の子どもたちが玲香の腹を蹴り、目の前がパーッと明るくなった。

「あ…」

「どうした?」

「いえ。いつもの、あれです…大丈夫です」

「いつものあれ、というのは?」哲也が尋ねた。

「ぽんぽんて、お腹を蹴るんです」

「まあ。お子様たちもゲーム作りに参加したいのかしら」高橋がふふふと笑う。


「じゃあ、おてだまがそろったし、たまいれのれんしゅうしよう」紗由が言う。

「でも、かごがないよ」真里菜がキョロキョロと辺りを見回した。

「かご…」腕組みをして考え込む紗由。

「さゆちゃん、がんばって!」

 いつものように、奏子が両手を握りしめて応援すると、紗由はこくんとうなづいた。

「えーと、かごのかわりに、賢ちゃんがたってて、そこにあてよう。みつるくん、たのんできて」

「えー。せっしゃが、いくのお…」露骨に嫌そうな顔をする充。


「何か今、すごく嫌な形で名前を呼ばれたような気がする…」

 充同様、賢児が嫌そうな顔になったとき、ドアを開き翔太が現れた。

「こんにちはあ! あ。進子ちゃんもおる!」

「翔ちゃん、お久しぶり」駆け寄り抱きつく翔太の頭を撫でる高橋。「絵はたくさん描けた?」

「うん。ぎょーさん、描けたで。これ、新作や」翔太がリュックの中からスケッチブックを取り出し広げた。「充が言うてた話に出てくる人たちや」

「“ミコト姫”のお話ね?…まあ、ステキ」高橋がテーブルに広げて、一枚ずつゆっくりとめくっていく。「この妖精たち、可愛いわねえ」


「すごいなあ、翔太くん。これ、全部自分で描いたのかい?」

 哲也に褒められて、にーっと笑う翔太に、充が後ろから抱きついてきた。

「ししょー!」

「おお。充。ほら、見てみ。充の作った話の絵やで。今、先生に添削してもろとるところや」

「マリーとキーナとリオが、かわいいでござる!」スケッチブックを覗き込んだ充が嬉しそうに叫んだ。

「この妖精さんたちは、そういうお名前なの?」

 玲香が尋ねると、充は頷いた。


「もしかして、モデルは久我家の女性陣かな。まりりんと、夕紀ちゃんと、梨緒ちゃん」

「ようわかったな、賢ちゃん」

「だって、ほら、この子は“正義の剣”を持ってて、弁護士っぽいよ。この子はくるくるの巻き毛で、まりりんみたいで、こっちの子は小動物みたいな感じが夕紀ちゃんそっくりだし」

「ようせいのいえは、ちょうさがとくいなんでござるよ」

「小さい体で、あちこち飛び回るのね」高橋が頷いた。

「マリーには、ミーツンという、こぶんのにんじゃがいるであります」


「メモしておかないと、わからなくなっちゃうわね」玲香がくすりと笑う。

「充。俺がこれ描いたときは、大まかな話しか聞いてへんかったけど、細かい話は書いてあるんやろ? それ、賢ちゃんたちにも、見せてやり」

 そう言われて、翔太の陰に隠れてそーっと魔法のシートのほうを見つめる充。

「どないしたん?」

「うわぁ」

 見ると、真里菜が充のほうに向かって、ずんずんと進んでくる。

「みつるくん。ちゃんと、賢ちゃんにおねがいしたの?」

「ま、まだ…」

「しょうがないわねえ。じゃあ、まりりんがおねがいするから」

 真里菜は今度は、賢児に向かって、ずん、ずん、と2歩踏み出した。充はと言えば、その隙を狙い、そーっとシートのほうへ戻っていく。


「賢ちゃん」

「は、はい」

「賢ちゃんには、さいのうがあるとおもうの。そのさいのう、さゆちゃんのために、つかってみませんか?」

「は、はい?」思わず声が裏返る賢児。

「これは、だれにでもできることじゃないの」

「は、はあ…」

「じゃあ、おーけーってことで!」

 真里菜は嬉しそうに、元来たシートへと駆けて行った。それと入れ違いに、充が手提げ袋を抱えて走ってくる。


「ちょ、ちょっと、まりりん!」

「賢ちゃん、何頼まれたんや?」

「まと…」賢児がガックリと肩を落とす。

「まと?」

「たまいれのかごがないから、かわりでござるよ」戻って来た充が説明する。「ひめのごきぼうなのであります」

「しゃあないなあ。俺が紗由ちゃんにちゃんと言ってくるから。安心してや、賢ちゃん」

「あ、ありがとう、翔太」少しほっとしたように笑う賢児。


「あ。その前に、こっちやな。…それか、お話ノートは」

「はい!」

 元気に返事をして、手提げ袋から取り出したノートを翔太に渡す充。

「どれどれ…」しばらくノートをめくっていた翔太が、充をじっと見つめる。「何や、文字が溶けとって、ようわからんなあ」

 翔太がテーブルに置いたノートの文字は、所々にじんだようになっている。

「はい。いっぱい、じをかくと、ねむくなって、よだれになるでありんす。しょきのマドモアゼルがいなかったし…」

「うーん…読めんとこ、もう一度書けるか?」

「かけません! でも、これに、しゃべりました!」今度はICレコーダーを翔太に手渡す充。

「すごいわね、充くん。そのお話、双子ちゃんたちも聞きたがってるんだけど、その器械、ちょっと貸してもらってもいい?」


「えーと、えーと、ひみつのへんしゅうさくせんかいぎにつかうから、えーと…。それに、賢ちゃんと、おはなしのきょうそうだって、ひめがいってたし…」困った顔になる充。

「充くんは、双子ちゃんたちが嫌い?」悲しそうな顔で玲香が聞く。

「きらいじゃないであります。おんなのこちゃんは、せっしゃのよめになるって、ひめのおばあさまがいってたでござるし」

「華織伯母様が?」驚く玲香。

「はい! ひめより、かわいいんでござるよ」にこにこ顔で玲香に擦り寄る充。


「伯母さんが言ったんだ…」

 目が泳ぐ賢児の手を取り、翔太が言う。

「落ち着きや。まだ、ずーっと先の話や。それに、パパが大好きやから、嫁なんぞ行かん言うかもしれへんしな」

「パパが大好き…」

 途端に表情が明るくなる賢児を見ながら、哲也と高橋はチラリと目を合わせ、同じことを考えた。

“涼一さま以上だな…”


「ねえ、充くん。だったら、賢児さまと紗由ちゃんたちとで、競争じゃなくて、協力して絵本を作りましょうって、提案してくれないかしら。…女の子ちゃんも、お婿さんになる人と、お父さんが争ってたら、心配でお嫁さんに行けないと思うの」

「ひめは、せっしゃのいうこと、きかぬでござるよ」困った顔の充。

「よし! 俺が行ってくる。玉入れの的にされるんだからな。それぐらい、飲んでもらわないとな」賢児は意を決したように立ち上がり、紗由のところへと向かった。


「玲ちゃん。社長はもしかして、紗由ちゃんたちにストーリー作らせるつもりだったの?」

「翔太の話を聞いたり、絵を見ている限りでは、充くんの作る話というか、パーツパーツが面白そうだったので、ヒントにしたいっていうことで…」

「いいじゃない、それ! 幾つもエピソードを作って、それを後で組み立てるというやり方、ゲームに合ってるし」うなづく高橋。

「そうですね。子どもたちが作った物語というのも、話題になるかもしれませんしね」哲也も同意した。


「紗由! 大事な話があります」シートの外側から、紗由に語りかける賢児。「“ミコト姫”のお話は、一緒に作ろう。な。そうしよう」

「さゆちゃん、けんちゃんが、なにかいってるよ」真里菜が言う。

「きにしないでいいよ。ごめんね、うるさくて」

「お願いだから、気にしてよ…」涙声でつぶやく賢児。


「あら。交渉以前の問題かしら」

 様子を見ていた玲香が肩をすくめると、翔太が言った。

「しゃあないな。ちぃと、行ってくるわ」

 素早く賢児の横を通り抜け、シートに上ると紗由に言う翔太。

「紗由ちゃん! 緊急事態や。お話は、賢ちゃんたちと一緒に作ることにしたで。皆も、はようこっち来ぃや!」

「はい!」紗由は元気に返事をすると、慌ててリュックを担ぎ、靴を履いた。「まりりん、かなこちゃん、はやく!」

「は、はい」

 二人も慌てて荷物を持ってシートを降り、紗由の後を追って、玲香たちのいるソファーのほうへと走っていく。


 翔太は、残されたシートを手早く畳むと、目をぱちくりさせながら、鶏のように首を動かしている賢児に言った。

「戻って、お話作るで!」

「お、おぉ!」

“何で翔太の言うことは、すぐ聞くんだよ…”

 賢児は口を尖らせながら、ソファーへと戻って行った。


  *  *  *


 一緒に話を作ることになった紗由たちと賢児たちであったが、紗由が先に玉入れの練習をすると言ってきかないので、翔太はとりあえず、そちらを済ませてから話作りをしようと賢児に提案した。

「じゃあ、賢ちゃん、そこにたって」紗由がお手玉を握りながら指示をする。

「翔太。何とかするって言ったじゃないか…」大き目のヒソヒソ声で言う賢児。

「ごめん。タイミング的に、もう無理や。おやつと同じで止められへん」翔太が両手を合わせて頭を下げる。

「えー…」


「遅くなりました」

 その時、龍を先頭に、翼と大地が部屋に入ってきた。

「賢ちゃん、顔がこわーいよーん」大地が体をくねらせながら言う。

「あれは困った時の顔だね」翼がじーっと賢児を見つめた。

「どうしたの、翔太?」龍が尋ねた。

「うん。話作りする前に、玉入れやりたい言うから、そっち先にしよか思うて。それから、話は賢ちゃんたちと一緒に作ることにした」

「翔太。話をいっしょに作るのはいいけど、僕たちはお手玉投げに来たわけじゃないよ。紗由の言うこと、全部きかなくてもいいから」


「にいさま! そういうこというと、さゆ、えほんつくらないよ! おやつたべるよ!」険しい顔で反抗する紗由。

「…もう食べたんだろ? ごはんつぶ付いてる」

 龍が紗由の口元からご飯粒を取ろうとすると、紗由が自分で取って口に入れる。

「おやつ、まだあるもん。たくさん、かくしてあるもん!」

 紗由は頬を膨らますと、巨大スクリーンになっている壁のほうへ駆け出した。その真下のカーペットをめくって、スイッチを押すと、鈍い音と共に目の前の壁が1メートル四方ほど両サイドに開き、一坪ほどのスペースが現れた。

「ほら。さゆ、すこしずつ、はこんだんだもん」自慢げに龍を見上げる紗由。

「わあ。すごーい」すもも組3人が、積み上げられたおやつを覗き込み、目を見張る。

「…しょうがないなあ。ここは賢ちゃんの仕事場なんだぞ」


「いや…そういう問題じゃなくて…ていうか、あの穴、何なの?」驚いて、哲也に尋ねる賢児。

「非常時用の電源と配電盤じゃないかしら。昔、工事してるの見たことありますけど」高橋が答える。

「さすがは創立時メンバー、イマジカの生き字引…」玲香がいたずらっぽく高橋に笑いかける。

「へえ。知らなかったなあ」穴に歩み寄り、まじまじと見つめる賢児。「でも、何で床にスイッチがあるの?」

「セカンドスイッチだと思いますけど。えーと…確か、別のところに主電源があるんじゃなかったかしら…」高橋が記憶をたどるように呟く。


「そうなんですか。後で伯父さんに確認します。ありがとうございます。この裏が配電盤かな」鉄の板をコンコンと叩く賢児。「…紗由、ほら、危ないから出て。おやつも出すよ。まったく、いつの間にこんなに運んだんだよ…」

「いっしょうけんめい、ためたのに…」涙声になる紗由。

「賢児さま。おやつはこのままにしたら、いかがでしょう。非常時の食料代わりになるかもしれませんし」

「…まあ、それでもいいけど」

「でもね、紗由ちゃん。あっちこっちスイッチ押したりしちゃ駄目よ。おやつ入れようとして、閉じ込められちゃったりしたら大変だもの。ここを開ける時は、賢ちゃんか、哲ちゃんか、私が一緒の時ね」

「うん」こくんと頷く紗由。

「じゃあ、全員そろったことだし、お茶でも飲みながら、秘密の編集作戦会議を始めましょうか」

 玲香が言うと、紗由たちはキッチンスペースへ駆けて行った。


  *  *  *


 賢児と玲香は帰宅後、今日の会議の内容について話し合っていた。

「俺、気が急いてるのかな。哲ちゃんと高橋さんがいるのに、不用意な質問、何度もしちゃったよ。“命さま”とか、うっかり言っちゃうし。気をつけないとな。今後も二人は会議にいるわけだし」

「二人は“ミコト姫”のことだと思ったでしょうし、あまり気にしなくても、いいんじゃないでしょうか。きっと、賢児さまが空想好きの子どもたちにペースを合わせて話をして、より細かい内容を引き出そうとしてた…くらいにしか見てないと思います。それに、賢児さまの場合、隠し事をしようとすると、妙に早口になったり、手元が落ち着かなかったりしますから、普通にしていらしたほうがよろしいかと」

「…はい」


「紗由ちゃんが言ってましたよね。お話の中で悪い奴をやっつけて、梨緒ちゃんを助けるんだって。相手チームとの対戦は、玉入れでするんでしょうか」

「紗由はそのつもりのようだけど、そもそも玉入れというのは、やっぱり普通の玉入れじゃないと思うんだけどな。

 龍は今日、お手玉を投げに来たんじゃないって言ってた。あれ、間違いを訂正する時の兄貴と同じ言い方だったよ」

「そう言えば、龍くん、興味がなさそうでしたね」

「でも、紗由はそっちの玉入れをやりたがってたよな」

「すもも組のメンバーさんは、勘違いしてるんでしょうか。今度の運動会の時にもやる種目ですよね。幼稚園で練習してるからなのかもしれません」

「まあ、いくら能力のある子どもたちと言っても、やってることが理路整然としているとは限らないしな」


「では、玉入れはとりあえず、こっちに置いておくこととして…物語のほうですけど、紗由ちゃんは前に、最初と最後は決まってるって言ってたんですけど、今日は高橋部長が聞いても、答えませんでしたよね」

「“敵の出方を見るでござるよ”って充くんが言ってたから、そういうことなのかな」

「大垣さんが“敵はどこにいるの?”って聞きましたよね」

「紗由の答えは、“マエストロのところ”。うーん、大物ってことかな」

「巨匠ですから、何かに長けている人かもしれないですね…紗由ちゃんが知っているような…。考えれば考えるほど、示唆的な内容ですね、充くんの話は」

「じゃあ、もう一度初めから聞いてみるか」

 賢児は、充が録音したICレコーダーのコピーデータを再び再生した。


  *  *  *


「賢ちゃんたち、奥も見たかしら…」

「紗由さまたちがお帰りになった後、玲香さまと二人で丁寧にご覧になってましたが、配電盤の確認までで、奥まで行った様子はございません」

「紗由さまがカーペットをめくった時には、さすがに慌てましたけどね」くすりと笑う高橋。

「紗由ったら本当に油断ならないわ。保ちゃんの書斎といい、賢ちゃんのリビングといい…」

「はい。日に日に華織さまに似ていらっしゃるので、お守りする側としては気苦労が耐えません」

 進に言われた華織は、キッとにらむが、進はまるで意に介さない。

「とりあえず、紗由さまの手に届くスイッチは、わからぬようにしておきましたので」

「まあ、いいわ。見つかったら、見つかったで。むしろ、それはそれで、楽しみな気もするし」

 華織は微笑むと、DVDを見ながら取ったメモを、改めて眺め回した。


  *  *  *


「ねえ、パパ。ちょっと見せてもらいたいものがあるんだけど」

 人間ドッグから戻った梨緒菜が、直哉に例のピアスをした女性が写っている写真を見せてくれるように頼んだ。

「何なんだい。そんな写真…」

“やっぱり、このピアスだ。この横顔の写真だけでは、記事の女性と同一人物かどうかはわからないけど…”

「ピアスのデザインを確認したかったの。変わったデザインのアンティークものを集めてる人がいて、頼まれてるのよ。うちはファッション雑誌メインの会社だから、ツテもいろいろあるんじゃないかって」

「ピアス?」


「うん。ここに写ってた女性のこれ。前に見せてもらったときに、印象に残ってたものだから。この人、連絡取れる?」

「三咲さんか。いや、個人的には連絡先までわからないが、調べれられないこともないだろうな」

「どういうこと?」

「彼女のご主人、神戸のフリージア幼稚園の園長だか会長だか、やってるはずだから」

「フリージアの関係者なんだ…」

「ああ。何年か前に後妻に入ったんだそうだ」

 フリージア幼稚園というのは、真里菜たちが通う青蘭学園幼稚園の姉妹学園だ。

 だが、そんな人物だったら、世間にも顔が知られているだろうし、週刊誌の記事になった時点で騒ぎになるのではないだろうかと、梨緒菜は思った。


「フリージアの園長夫人におさまったというのも、びっくりなんだが、当時は当時で話題の人だったよ。東都新聞社の内定断って、いきなり実家に帰ってしまってね。同窓会にもずっと来てなかったんだが、半年前のときだけ、ひょっこり現れてね。皆でびっくりしたもんだよ。しかもゴージャスな感じにお直ししてて。いやあ、女っていうのは、金をかけると変わるもんだなあ」

「整形してたの?」

「ああ。目がずいぶん大きくなってた。切れ長の目のほうがよかったのになあ…」


「ふーん。お気に入りだったんだ、彼女のこと」梨緒菜が直哉をにらみつける。

「いや、違うよ、違う」慌てる直哉。

「で、ゼミの同窓生だったっけ?」

「校外ゼミみたいなものかな。マスコミ志望者が集まって現役の人の話を聞くという飲み会が定期的にあったんだよ。でも、真里菜の友達の実家が集合場所の居酒屋だったのには驚いたけどな」

 充の祖父がやっている居酒屋「さけみつる」は、その校外ゼミの会場として使われていたのだ。


「言ってたわよねえ。ママたちとそのお店行ったんでしょう?」

「ああ。お店はだいぶ改装されてたが、昔の客の写真なんかもたくさん飾ってあってね。自分の写真を見つけたときは驚いたよ」

「へえ。いいわねえ、そういうの。パパの元カノもたくさん写ってたりして」くすりと笑う梨緒菜。

「そ、そんなことはないぞ…」

 声が小さくなる直哉の顔を見ながら、梨緒菜は自分もその店に行って見ようと考えていた。


  *  *  *


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