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その1


 伊勢での集まりがあった後、西園寺家での定例お茶会は、子どもたちへの“命”教育と同時に、親たちへの周知の場と、様変わりしていた。

 もちろん、紗由たちにとっては、探偵事務所の集まりのついでに、“おばあさま”が皆にいろいろおしゃべりしているぐらいの認識しかなかったのではあるが。


 華織からの一通りの経過報告と今後の予定が通知された後は、通常通りのお茶会になり、三人娘、その兄たちと翔太、母親同士と玲香と澪、父親同士と賢児と風馬と誠、そして華織夫妻と保といった具合に別れて、話に花を咲かせていた。


「みなさん、たいせつな、はっぴょうがあります!」ソファーの上に紗由が立ち上がった。

「とっても、だいじなはっぴょうですので、よーくきいてくださいね」奏子がその横で言う。


「何が始まるんだ?」

 何か感じ取るところがあったのか、賢児が幾分いぶかしげに、玲香のほうへ近づいて寄り添った。

「賢ちゃんと玲香ちゃんのあかちゃんの、なまえをはっぴょうします!」さらに大きな声で一同に告げる真里菜。

「え…?」動揺する賢児。


「えーと、かなこのなまえは、おじいちゃまのなまえから、かんじをひとつもらってつけました。あかちゃんは、3にんのだいじな子なので、3にんのなまえをひとつずつで、つけることにしました」奏子が説明する。

「それでは、はっぴょうします!」元気に叫ぶ真里菜。

「ふたごちゃんの、おんなのこからです!」紗由も手を挙げる。


 紗由を真ん中に、3人が横一列に並ぶ。

「“まりな”の“ま”!」

「“さゆ”の“さ”!」

「“かなこ”の“か”!」

「“ま・さ・か”ちゃんです!」

 両手を挙げる紗由に、真里菜と奏子が拍手する。


「え…?」眉間にしわを寄せる賢児。


「つぎは、おとこのこです」

 神妙な顔になる紗由の左右で、真里菜と奏子が場所を入れ替わった。

「“よつじ”の“よ”!」

「“さいおんじ”の“さ”!」

「“くが”の“く”!」

「“よ・さ・く”くんです!…ふう」満足げに溜め息をつく紗由。


「えーと…」賢児の目が泳ぐ。


「よかったねえ。おなまえ、きまったねえ」

 紗由がニコニコ顔で言うと、真里菜と奏子も大きく頷いた。

「よかったね」

「うん。よかったよね」


「親父…賢児が泣きそうになってるぞ。何とかしてやれよ」保に近づいてきた涼一が耳元で囁く。

「何とかって言われてもなあ…」

「こういう時は、親父がびしーっと言わなきゃダメだろ?」

「おまえが自分で言えばいいだろ」

「紗由が俺の言うことをきくと思うか? 親父は孫の名前が“まさか”と“与作”になってもいいのか?」

「確かにそれは、ちょっとなあ…」

 保は溜め息をつくと、紗由たちのところへ歩いて行った。


「紗由…真里菜ちゃんと奏子ちゃんもだけど、お名前、考えてくれてありがとうね」保が3人に言う。

「どうしたしましてえ!」声を揃える3人。

「…いや、あの、非常に有難いんだけどね、きっと賢児や玲香さんも、自分の子どもたちの名前を自分たちで考えたいと思うんだよ。だから、二人に考えさせてあげたらどうだろうねえ…」

「…さゆたち、いっしょうけんめい、かんがえたのに…」

 みるみるうちに、3人の目に涙が浮かぶ。

「あ、いや、3人がしてくれたことを否定しているわけじゃないんだ。ただね…その、何て言うか…」


「じいじなんか、じいじなんか…もう、いっぴょういれてあげないもん…」

 ひっくひっくと、しゃくりあげる紗由。もとから“一票”はまだ持ち合わせていないのであるが。

「いや、あの、一票はいいんだがね、ほら、賢児と玲香さんの赤ちゃんだろ。名前は彼らと相談して決めないと…。ほら、紗由だって、紗由と翔太くんの子どもの名前を、他の人が決めちゃったら、どう思うかな?」

「もう決まってるもん。“みこと”ちゃんだもん」


「ど、どういうことだ? 何で名前まで、もう決まってるんだ?」慌てて周子を振り返る涼一。

「何でって…決めたいと思ったから、決めたんでしょうね」周子が淡々と答えた。


「じゃあ、“みこと”ちゃんを他の名前にするって、他の人に言われたらどうする?」

「さゆと、しょうたくんの、とうひょうで、きめる!」

「紗由…だから、それは、自分たちで決めるってことだろ? 賢児たちも自分たちで決めたいと思うんだ」

「ちがうもん。ふたごちゃんは、みんなできめるんだもん。みんなのあかちゃんだもん。みんながまってるんだもん」

「でも、決めたのは紗由たち3人だろ?」

「ちがうもん。みんなだもん」

 再びしゃくりあげ、大声で泣きだす紗由に、保は深く溜め息をつくと、もう勘弁してくれと言わんばかりに涼一のほうを見た。


「しょうがないわね。ちょっと行ってくるわ」

 周子が紗由に近づこうとしたとき、翔太が意を決したように紗由に歩み寄り、言った。

「なあ、紗由ちゃん。その名前、俺のクワガタにもらわれへんやろか?」

「クワガタ? さっきのしゃしんの?」手で涙を拭きながら、翔太を見上げる紗由。

「そうや。弥生ちゃんに買うてもろた、あのクワガタのツガイや。さっき約束したやろ。二人の子にするって」

「うん」

「玲ちゃんちの子は、まだ生まれるのは先や。うちの子たちのほうが、名前先やと思わへんか?」

「うーん…」

「二人の子やで。ええ名前あげな、あかん思わんか?」


「うーん、うーん…」

 考え込む紗由に、奏子が言う。

「さゆちゃん。かなこ、そっちがさきだとおもう。だって、もううまれてるんだもん」

「そうだよね。はやくしないと、おなまえ、ないままだよね」真里菜も同意する。

「わかった。じゃあ、“まさか”ちゃんと“よさく”ちゃんは、クワガタちゃんたちのおなまえにする」こっくり頷く紗由。

「おおきになあ」翔太が紗由をぎゅっと抱きしめる。「それでこそ、俺の紗由ちゃんや」


「俺の…?」

 険しい目で見つめる涼一に、周子が小さい声で言う。

「涼一さん、ここは我慢して。甥と姪の名前が“与作”と“まさか”になってもいいの?」

「…わかったよ。でも、俺のって…ぎゅって…」

「誰かさんのように4人と同時進行より…いいでしょ」

 周子が搾り出すような低い声で囁くと、涼一は神妙な顔でうつむいた。


  *  *  *


 翔太は、3人娘の兄たちのところへ戻ると、小さく溜め息をついた。

「翔太くーん、ごめんな。名前付けようって言い出したの、きっと真里菜だよ。僕のカメにも勝手にフランソワって名前付けてたもん…」真里菜の兄の大地が謝る。

「いや…」

「翔太くん、ごめんね。皆の一文字ずつ取ろうって言い出したの、きっと奏子だ。皆で分けるの好きなんだよ、奏子は」奏子の兄の翼がぺこんと頭を下げる。

「いや、そんな…」

「翔太、ごめん。“まさか”と“与作”で最終決定したのは、きっと紗由だよ」龍も溜め息混じりに謝罪する。


「うん、まあなあ…」

「さっき話してたばかりなのににゃあ、クワガタの名前」大地が気の毒そうに翔太を覗き込んだ。

「そうだよね。ヘラクレスとアンドロメダっていう、カッコイイ名前にしたのに…」翼も言う。

「しゃあないわ。賢ちゃんの泣きそうな顔見たら、ほおっておかれへんやん。それに、清流の皆も楽しみにしてる子たちなんやで。妙な名前付けられへんわ。皆のせいじゃないんやから、気にせんといてや」


「あ。いいこと思いついたにょ!」大地が叫ぶ。

「何?」

 龍が聞くと、大地はにんまり笑って答えた。

「“まさか”と“よさく”は本名で、もっと普通の名前をあだ名にすればいいんだじょ。真里菜を“まりりん”て呼ぶのと同じ」

「なるほどねえ」翼が頷く。

「そうやな。じゃあ、“マーサ”と“ヨッシー”あたりにしとこか」

「いいね、それ。大地くんて、頭悪そうに見えるけど、けっこう頭いいよね」翼が感心したように言う。

「ほっめらっれたぁ。ひゅーっ!」その辺を踊りまわる大地。


「翼。油断しないほうがいいよ。大地は、けっこうじゃなくて、本当に頭がいい。普段はあんなだけどね。それに、まりりんをお嫁さんにしたら、お兄さんになるんだし」

「あ…うん…」

 気まずそうに下を向く翼に、翔太が声を掛ける。

「大丈夫や。大地くんは気がええし、瑞樹はんも、ゆるいやん。俺なんか、今から、めっちゃ見張られてる感じやで…」

「ごめんな、翔太。とうさまは、紗由のことになると、とにかくダメなんだよ」

「でも、それを言ったら、うちのパパだってそうだよ。奏子のお婿さんは大変だって、ママがいっつも言ってる」

「はあ…」

 踊りまわる大地を見つめながら、3人は深く溜め息をついた。


  *  *  *


 久しぶりに高橋進の部屋で飲み会をすることになった加奈子と塩谷は、加奈子が手料理を、塩谷がとっておきの酒を持ち寄り、高橋の部屋を訪れていた。

「いやーん、加奈ちゃん。今日も、美味しそうなお料理ばかりねえ」

 高橋が、加奈子が持参したタッパーを開いて、うれしそうに叫ぶ。

「進子ちゃんにはかないませんわ。まるで、フレンチレストラン来たみたい」

 加奈子がテーブルの上にすでに用意されていた料理を眺め回し、溜め息をつく。

「うーん。進子ちゃんと言い、加奈子と言い、今日は来てないけど高橋もさ、料理上手な人間ばかりって、俺の人徳だよな、やっぱり」

「ないない、それはないわ」高橋が苦々しげに言う。


「料理のみならず、進子ちゃんの部屋って、いつ来てもきれいよねえ。いかにも、“ウエスト・ガーデン”なんていう、おしゃれなマンションの一室っていう感じ」加奈子が姑のように窓の桟をチェックする。

「ほんとだよ。進子ちゃん、家政婦とか向いてそうだよな」部屋を見回す塩谷。

「あのね、汚いところにいたら、美しいものは生み出せないの。塩ちゃんちみたいなところにいたら、体にコケが生えて来ちゃうわ」高橋が顔をしかめる。


「へーんだ。最近はすごーくキレイだもんね。加奈が掃除してくれるし」

 得意げに言う塩谷の頭を、加奈子がゴツンと殴る。

「私も体にコケが生えてくるのがイヤなだけよ」

「ちょっと。二人とも遅れてない? コケは今や、CO2削減の救世主って言われてるアイテムなんだぜ」

「勝手にエコやっててちょうだい」加奈子が塩谷を睨む。


「そうそう、以前は皆で塩ちゃんちに行くと、玲ちゃんが目の前にあるものを、どんどんゴミ袋に入れてっちゃったわよねえ」思い出した高橋が、ぷっと笑う。

「あれ、西園寺家でも、やってるのかな」

「社長は自宅は散らかさないらしいわよ」加奈子が言う。

「へえ、そうなんだ」

「“おもちゃ”は全部社長室にあるから、自宅で散らかしようがないみたい。そのおもちゃも玲ちゃんがせっせと片付けるようだし」くすりと笑う加奈子。

「確かにねえ。専務さん、言ってたもの。玲ちゃんが来てから、社長室を片付ける手間が省けて大助かりだって」

「掃除しながら、部屋の戸棚とか、あちこちいじってると、いろんなものが出てきて、本当におもちゃ箱みたいらしいわよ、あの部屋。ほら、玲ちゃんて、仕掛けとかカラクリとか、その手のもの好きじゃない。リモコンであちこち開くたびに大喜びしてたみたい」


「いーなー。あの部屋に展示してある製品、けっこうレアもの揃いなんだよなあ。俺も社長秘書になればよかった…」

「あんたがなるぐらいなら、あたしがなるわよっ」高橋が塩谷をキッと睨む。

「進子ちゃん、まだ社長のこと諦めてないの?」ニヤリと笑う塩谷。

「諦めるも諦めないも、賢児さまはあたしの永遠の王子様なの。玲ちゃんなら、まあ、いいかしらって感じなだけ」プイと横を向く高橋。

「あー、ごめん、ごめん。そのうち、きっといい人見つかるから。…ねえ、専務なんか、どう? 二枚目で仕事ができて、あの年齢で専務だし」

「そうねえ…考えとくわ。ふふ」悪い気はしないという様子で高橋が頷く。


「専務って、絵里先輩と付き合ってるって噂もあったけど…」

「ああ、あった、あった。だいぶ前だよな。でも、いつの間にかその噂、立ち消えちゃったしな」塩谷が言う。

「絵里ちゃんが、他の人とデートしてるの目撃されたからじゃなあい?」

「絵里先輩は、どっちも否定してたし、もう会社を離れちゃったけどね」

「専務も、昇格して以来、会社と賢児さまにすべてを捧げてますって感じだしな。進子ちゃんが入る隙はないかもな」

「でも、ああいう人に限って、電撃結婚したりするのよねえ…」


「出た。オカマの勘。高橋と社長のこともバッチリ当てたもんな」

「まあ、ずーっとお世話になってる人だし、幸せになって欲しいわよね」

「じゃあ、専務の幸せを祈念して、乾杯と行くか!」

 塩谷が持ってきた特上のシャンパンを開けると、高橋がすかさずグラスを3つ差し出す。

「そうね。じゃあ、乾杯!」

 グラスを高く上げる高橋。塩谷と加奈子もそれに続く。


「ねえ、ハサミか何かある? 玲ちゃんからの差し入れのこれ、巻き付けてあるテープが取りづらいんだけど…」

ビニールを引っ張りながら悪戦苦闘する加奈子に高橋が言う。

「そこの一番上の引き出しにハサミ入ってるわ」

 言われて引き出しを開けた加奈子の目に最初に入ってきたのは、一本のナイフだった。

「うーん。ナイフでもいいかな」加奈子がそのナイフでビニールテープを切る。

「あ…それ…」高橋がナイフをじっと見つめる。

「どうかした?」


「それ…ね、恩人と初めて出会ったときの記念品なの」

「このナイフが?」

「恩人て?」

 塩谷も興味深そうに聞く。高橋と仲良くしているものの、彼は自分の過去について語ることがほとんどなく、今ひとつ人物像がつかめていなかったりもするからだ。

「…うーん。もう20年以上前の話よ。あたしが道を踏み外しそうになった時に、その人がストッパーになってくれたの」

「へえ…そうなんだ。進子ちゃんて、オカマなこと以外、道を踏み外しそうに見えないけどなあ」

「塩ちゃん…そういうこと言ってると、犯すわよ」

「や、やめて。その体で押さえつけられたら、俺、守りきれないから」

 ぷるぷると塩谷が首を振る。塩谷も177センチと、決して小さいほうではないが、高橋は185センチを超えているマッチョなのだ。


「じゃあ、このナイフ、よくわからないけど大切なものなのね」 加奈子がしみじみとナイフを眺め回す。

「あれ。進子ちゃん、100円玉があるよ」引き出しの中を覗き込んだ塩谷が100円玉を取り出した。

「それも…宝物かしら。幸運のお守り」

「お守りって?」加奈子が尋ねる。

「どうしても決められなかったことがあって、コインを投げたのよ」

「なんか、進子ちゃんらしくない感じね」

「それぐらい大切なことだったのよ。でも、おかげさまで事態はいい形で解決したわ」

「ふーん。じゃあ、大事にしまっておかないとだな」

 塩谷はティッシュを1枚取り出し、100円玉をくるくると包むと、引き出しにそーっと戻した。


「それとねえ、あのお茶碗も宝物よ」

 高橋が白い壁面ボードの一角に飾られた薄い紫の茶碗を指差す。

「何だか高そうなお茶碗ねえ…」加奈子が近づいて右から左からと覗き込んだ。

「そうね。今だったら、一千万ぐらいはするんじゃないかしら」

「一千万!?」声を合わせて驚く塩谷と加奈子。

「…まあ、私のものってわけじゃないわ。お預かりしてるだけ」

「へえ…」何と答えていいのかわからず、ただ頷く二人。


「あ。騙されたわね。うふふ。そーんな高価なもの、うちにあるわけないでしょう? しがないサラリーマンなのよ」

「しーんこちゃーん。驚かせるなよ」

「ばーか。そんなの騙されてて、どうするのよぉ。それより、出産祝い考えておかなくちゃね」

 高橋は、愛おしそうにその茶碗を手に取ると、それ以上に愛おしそうな表情で、塩谷と加奈子を見つめた。


  *  *  *


 賢児と玲香の双子の名前問題が解決したかと思うと、おやつを食べ終わったところで、真里菜が何かを思い出したように、頭の上で、ぱんぱんと手を叩き、一同に注意を促した。

「みなさん! だいじなはっぴょうです。よーくきいてください」


「子どもの名前、第二段とかじゃないよな…」

 不安そうな賢児に玲香がにっこり微笑む。

「まあ、そうなったら、なったでいいじゃありませんか」

「…玲香って、そういうとこ、死んだおふくろに似てるよ。何があっても、まあいいじゃない、神様がせっかくお決めになったことなんだものって言うんだ」

「ふふ。お義母さまに似てるなんて言われると、何かうれしいです」


「かなこちゃんが、“マドモアゼルかなこの、おなやみそうだんしつ”をすることになりました」

 紗由が言うと、奏子は一歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。

「ねえ、さゆちゃん。そうだんしゃは、だれにする?」真里菜が周囲を見回しながら聞く。「あのね、まりりんは、賢ちゃんでどうかなっておもうんだけど」


「え?…俺!?」賢児の表情がくもる。


「うーん。でも、賢ちゃんて、なやみなさそうだよ」

 紗由が難しい顔で言うと、思わず涼一が吹き出し、賢児はそれを睨みながら、むっとした顔になる。

「でもまあ、いいかなあ。…かなこちゃん、どう?」

「じゃあ、賢ちゃんでおねがいします」

「賢ちゃん、こっちきて」

 紗由が呼び出すと、しぶしぶ奏子の前に歩み寄る賢児。


「じゃあ、これから、かなこが賢ちゃんのおなやみをきめますね」賢児の手を取って、にっこり笑う奏子。

「え…?」


「斬新だね。相談者も指名制で、悩みの内容も奏子ちゃんが決めるんだ」

 感心したようにつぶやく瑞樹に、疾人がか細い声でつぶやく。

「あのさ、念のため言っておくけど、うちのクリニック、そういうことしてないから…」

「ま。いいんじゃないの。悩みって、自分が主体的に決めてるって思いがちだけど、意外とそうでもなかったりするじゃない。刷り込みで作られたものだってあるだろうしさ」

 涼一が言うと、疾人がふっと笑う。

「それ、僕のことかい?」

「ああ。そうだよ。おまえの話の早いところ、昔から好きなんだよなあ」

 涼一が言うと、傍らの瑞樹が声を出して笑う。

「二人って、けっこう似てるよね」

「似てないよ!」

 同時に叫ぶ涼一と疾人に、瑞樹はくすりと笑った。


「賢ちゃんの、おなやみは…」奏子が唇をかみしめる。

「がんばって、かなこちゃん」応援する真里菜。

「だいじょうぶだよ。さゆと、まりりんがついてるよ」

「うん」こくりと頷く奏子。「えーと、賢ちゃんのおなやみは、玲香ちゃんのおっぱいです!」

「え?」

 動揺する賢児をじっと見つめながら、奏子はゆっくりと説明し始めた。

「いまは、玲香ちゃんのおっぱいは、賢ちゃんのものですね?」

「は…はい…」答えていいのかどうか、一瞬戸惑うが、結局頷く賢児。

「でも、ふたごちゃんがうまれたら、みぎのおっぱいは、おとこのこちゃんのになって、ひだりのおっぱいは、おんなのこちゃんのになります。賢ちゃんのぶんは、ありません」

「あ、あの…」


「ねえ、これって、けっこう鋭い指摘じゃなあい?」夕紀菜が響子に囁く。

「そうねえ。授乳期って、それどころじゃないものね」

「賢ちゃん、玲香さんに夢中だしねえ。悩んじゃうかもね…。マドモアゼル奏子、侮りがたしだわ」周子が頷きながら二人に同意する。


「たいへんですけど、がんばってください」賢児の手をぎゅっと握って、エールを送る奏子。

「は、はい…」賢児も何となく頷いてしまう。

「では、おわります」

「あ、あの、お悩みを解決してくれないの? 相談室でしょ?」

「おとななんだから、じぶんでかいけつしないとね」

 紗由に言われて泣きそうな顔になる賢児。

「そ、それはそうだけど、そんなこと言ったら、奏子ちゃんのパパの仕事、成り立たないだろ?」


「ねえ、さゆちゃん。賢ちゃんは、かなこのさいしょのそうだんしゃだから、3にんでかいけつしてあげちゃ、だめ?」

「かなこちゃんは、やさしいよね」真里菜が言う。「さゆちゃん。かなこちゃんがいうんだから、きょうりょくしてあげようよ」

「そうだね。じゃあ、かいけつさくをかんがえよう」

 しばらく腕組みをして考え込む3人。

「ねえ、玲香ちゃんのおっぱいを、もういっこ、ふやしたらどうかな」真里菜が言う。

「どうやって、ふやすの?」

「うちのママみたく、おにくをあっちこっちから、あつめるの。ふかふかのやつ、いれたり」


「ちょ、ちょっと、真里菜…!」夕紀菜が慌てる。


「おにくだったら、うちのママのおなかに、いっぱいあるよ。おでかけのときは、ガードルでなくなっちゃうけど、あれ、つかったらどうかなあ」

 奏子が言うと、今度は響子が慌て出した。

「か、奏子…!」


「うーん。でも、あんなおっぱい、3つもあったら、たいへんだね。おようふく、はいんない」紗由が言う。

「そっか…おしゃれじゃなくなっちゃうもんねえ…」真里菜が唇を噛む。「じゃあ、ほかのひとのおっぱい、賢ちゃんにあげればいいかなあ」

「だれの、あげるの?」

 紗由が聞くと奏子が答えた。

「たろうちゃんのは、どうかな?」

「いいね。それがいいね!」紗由が何度も頷いた。


「ええと…」

 眉間にしわを寄せる賢児の後ろに、いつのまにか玲香が寄り添っていた。

「いいんじゃないでしょうか。他の女の人のよりは、太郎ちゃんのほうが」玲香がきっぱりと言い放つ。「絶対に」

「は、はい…」


「じゃあ、たろうちゃんのおっぱいを賢ちゃんにあげますね。がんばってください」奏子が賢児の手をぎゅっと握り、にっこり微笑んだ。

「あ、ありがとうござい…ました」さらに泣きそうな顔で賢児が言う。


「かなこちゃん、すごいね。だいせいこうだね!」真里菜が奏子をぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう。まりりんと、さゆちゃんのおかげだよ」

「かなこちゃんの、じつりょくだよ」紗由が言う。

「つぎのおちゃかいまでに、そうだんしゃのひと、きめないとね」

「あ、あのね。かなこは、さゆちゃんのとうさまが、いいかなっておもうの」

「ふうん。いいよ。じゃあ、つぎはとうさまね」


「えっ…」

 絶句する涼一のもとに周子が近づく。

「楽しみね」

「…何だよ、それ」

「俺のとき、大笑いしてた罰だよ」後ろから賢児が覗き込むようにして言う。

「俺にはおまえのような“高尚な”悩みはないからな。まあ、大体安心だ」

「そうだな。紗由が翔太に夢中で、自分の言うことを全然きかないとか、そんなところだもんな、兄貴の悩みなんて」

「…まあなあ…どうせ、そうだよ…ええ、そうですよ…はあ」珍しく弱気に溜め息をつく涼一。

「あ、あれ?…どうしたのさ、兄貴?」

「涼一さん、すみません。賢児さまったら、もう…」

「いいんですよ。どうせ娘なんて、いつかは嫁に行くんですから…」

 涼一がしょんぼりしていると、紗由が遠くから走ってきた。


「とうさまー!」

 紗由が涼一に、ぎゅっと抱きつく。

「けんきゅうじょのおしごと、しよう!」

 抱っこしてくれと言わんばかりに両手を涼一に向かって振り上げる紗由。

「お仕事か。何を研究するんだ?」涼一が紗由を抱き上げる。

「うーんとね。だっこと、おんぶと、かたぐるまは、どれがいいかをけんきゅうする」

「そうか。よーし、いっぱい研究しようなあ」


 あっという間にご機嫌になってしまった涼一が、紗由を抱っこしたまま、真里菜と奏子のほうに歩いていく。その様子を眺めながら、周子と賢児と玲香の3人は、思わずくすりと笑った。

「3人分の、抱っことおんぶと肩車か。兄貴、全部研究するのかなあ、それ」

「賢児さま、手伝ってさしあげてください。この子達の予行演習も兼ねて」玲香が自分のお腹を撫でながら言う。

「そうだな。じゃあ、行ってくる」

 賢児はにっこりと笑って、玲香のお腹を撫でると、涼一のところに走っていった。


  *  *  *


「結局、今日も聞けなかったな」

 自分たちの部屋に戻った賢児が玲香に言うと、玲香は軽く首をかしげた。

「伯母様には、何かこう、聞こうとすると気をそがれるというか、人がやってきてタイミングがそれてしまったり、ここのところ、そんなことの繰り返しですよね」玲香がソファーに腰を下ろした。

「この前、あの部屋に入った時は、もうダイアリー自体がなくなってたしな」

「ええ。あのダイアリー自体はデジカメで内容を保存しておきましたけど、続きがあると思うんですよね。入っていた封筒についていたダイアリーの角の跡、あれは1冊だけでは、あんなふうにはつかないはずです。あの時は慌てていて見落としてましたけど、画像からすると、きっと、もっと分厚いものが入ってたんです」

「それにしても、玲香の観察力はすごいよな。入っていた封筒までデジカメに撮っておくなんて発想が、まず俺にはないし」

「あの時、封筒を手にとって、何か違和感があったんです。封筒が大きかったってことだったんですね」


「なるほどね。で、もう1冊あるんだとしたら、それは続きなのか、それとも別の物語なのか…」

「別の物語?」

「うん。例えば、俺たちが読んだものの中の、災厄ではない部分は、伯母さんの行った“夢違え”なのかなって、思うんだ」

「“夢違え”…未来の災厄を防ぐために夢を見るという、あれですね」

「伯母さんは基本的に災厄しか受け取らないはずだろう? 幸せなこともたくさん載っていたってことは、その部分は、修正された未来なんじゃないだろうか。だから、もう1冊のほうは、修正前の過去の物語かもしれない」

「でも、それでしたら、四辻先生の件は、なぜあんなことに…」

「“命”自身の未来は修正できないのかもな」

「なるほど…そうですよね、“命”自身のことを修正出来るなら、伯母様は天馬さんを助けたはずですものね」


「でも、もう一冊に関しては、まったく違う考え方もできる」

「どういうことですか?」

「まだ書かれていないかもしれないよ」

「まだ書かれていない!?」

 驚く玲香の視界が、一瞬明るくなる。

「あ…」

「どうした? 具合でも悪いのか?」心配そうに覗き込む賢児。

「…いえ。視界がまた明るくなりました。この子たちが、YESだと言ってるんです、たぶん」


「そうか…」賢児が玲香のお腹を優しく撫でる。「だとしたら、誰が書くんだろうな。もう一冊のノートを」

「華織伯母様、風馬さん…龍くんはまだ早いですよね」

「やっぱり、まだその辺は、世代交代というわけにもいかないんだろうな。伯母さんは、再登板したばかりで、きっと実力的にもトップクラスなんだろうから」

「でも、ああいうダイアリーが将来的にも続いて行くものなのだとしたら、いずれは風馬さんや龍くんが書くわけですよね」

「だろうなあ。あるいは誠さんか…あ、でも彼は壱の命か」

「“幸い”の部分だけでしたら、彼や、将来的には翼くんでも大丈夫ということですよね」

「うーん。あのダイアリーの成立過程がわからないから、何とも言えないなあ」


「いずれにしても、まだ波乱含みですよね。イベントに現れた森本さんとか、紗由ちゃんの態度とか…ダイアリーだけでなく、わからないことがまだありますから」

「そうだよな。伯母さんと伯父さんが伊勢に行っていた、あの頃から、まだよくわかっていないことも、いくつかある。それらを、もう一度洗い直してみようか」

「そうですね。このままで事態が終息するとも思えません。森本さんが、紗由ちゃんに再会を宣言して行ったわけですから…」


「ざっと挙げても、3つはわからないことがある。

 社長室の東側の壁に浮かび上がると親父が言っていた文字。俺たちが調べた限りでは、親父が言ってたのとは、ちょっとニュアンスが違うというか、十文字程度のものしかなかった。親父や伯父さんに聞いても、今社長室にある、それがそうだと言うけれど、多分それは違う」

「そうですよね。お義父さまは、あの時、“夕方、西日が差すと、床に埋め込んだ翡翠細工の陰が東側の壁に浮かび上がる”とおっしゃいました。

 でも、その条件に当てはまるものは見つかりませんでした。確かに文字は、浮かび上がるには浮かび上がりますけど…」


「そして、紗由の言うところの“お祭り”。森本さんの正体も不明だ」

「森本という名前、大隅さんが以前、機関で使っていた偽名と同じですよね」

「機関の関係者だったら、弥生さんは何か知ってないかな」

「そうですね…確認してみたほうがいいかもしれません」

「来週辺り、清流に行くか。こっちの集会は、子どもたちが休みの土・日に設定されてるから、飛呂之さんはなかなか上京できないしなあ。たまには挨拶に行かないと」

「ふふ。父も弥生ちゃんも喜びます、きっと」

「弥生ちゃんて呼んでるの?」

「あ…人前では“お母さん”にしてますけど、鈴ちゃんも私も、何か、いきなり母親と言われても、やっぱりちょっと違和感があって。それで翔太の真似をして、弥生ちゃんて呼んでるんです」


「なるほどね。でもさ、弥生ちゃんは翔太に首っ丈なんだろうなあ。翔太の話を聞いてると、そんな感じがする」

「ええ。それはもう。翔太、翔太って、大変みたいです。奈美ちゃんを上回る勢いみたいで、翔太に貢ぎ合い合戦です」

「翔太、売れっ子ホストみたいだな…」

「まあ、鈴ちゃんが、投げられた手裏剣をはじいているような状態ですね。どうやら、翔太に買ってあげるものには、年間限度額を設けたようです」


「あはは。鈴音さんらしいなあ、それ。合理的でいい。でも、奈美ちゃんと弥生ちゃん、揉めたりしてないの?」

「それはないみたいです。貢ぎ合いバトルはあるにせよ、二人には共通の目的がありますから」

「共通の目的?」

「はい。紗由ちゃんを、翔太のお嫁さんにもらうことです。二人とも、紗由ちゃんのことが、それはもう、お気に入りなので」

「はは。そうか。なるほどね」


「それに、母親の心構えというものが、ずっと離れていたせいで、弥生ちゃんには今いちわからないというか、不安な部分があるらしくて、それを奈美ちゃんに相談しているようです。それで二人はけっこう仲良しなんです」

「へえ。そうなんだ。まあ、二人が仲良くしてくれるに越したことはないよな」

「ええ。じゃあ、今度の週末、清流に行ってみましょう」

 玲香と賢児は、ゆっくりと玲香のお腹を撫でた。


  *  *  *


 飛呂之と復縁してから弥生は、東京のアトリエとプレタポルテショップを部下に任せ、清流の近く、旅館を一望できる小高い丘の上に新たにオートクチュール用にアトリエを立ち上げ、昼はそちらで仕事をしていた。

 30代以上のマダムを中心として人気の“マダム花津”は、静岡に拠点を移しても、その人気に衰えはなく、オートクチュール仲間のマダムたちが静岡のアトリエを訪れつつ、清流旅館に泊まるという“遠出”が一種の流行になっていたりもした。


「玲ちゃん! 賢児さんも…いらっしゃい。どうしたの? こっちに来てくれるなんて」

「うん…お仕事の邪魔してごめんね。ちょっと先にこっちに寄ってみたの」

「すみません、お義母さん」

「そんな…うれしいわ。もう少しで切り上げて、戻ろうと思っていたところだったし」賢児に“おかあさん”と呼ばれ、頬を紅潮させる弥生。

「実は今日、清流より先にこちらに寄らせてもらったのは、お義母さんに聞きたいことがあったからなんです」

「聞きたいこと?…清流では聞けないような?」一瞬、弥生の顔色が曇った。「何かしら…」


「名古屋のパーティーにいた、久我さんの会社の専務さん、日下部さんと一緒にいたカメラマンの人覚えてる?」

「ええ…」

「お義母さんは、以前にもあの人、森本さんに会ったことはありますか?」

「いいえ。ありません。ただ…」

「ただ、なあに?」

「彼は、わざと紗由ちゃんや、まりりんを怒らせたのかしらって、ちょっと思ったわ」

「どうして、そんなふうに思ったの?」

「そうすれば、私が動くと踏んだのかと思って」難しい顔になる弥生。


「お義母さんを動かすというのは、玲香や翔太に近づかせるということですか?」

「ええ…大隅が私へのお詫び代わりに、玲ちゃんや翔ちゃんと話をする機会を作ってくれたのかと思ったの。森本っていう名前、大隅一派が潜入先で偽名として使うものだから。一種の暗号みたいなものなのよ。

 もう少しわかりにくくしている場合が多かったようだけど、その名前は潮時みたいなことも言ってたし、今も使っているかどうかはわからないわ。あの人がどうかしたの?」

「実は、先日イマジカで行ったイベント会場に現れて、紗由に“また会おう”みたいなことを言って、姿を消したんです。紗由が彼を“悪い人”と認定しているものですから、ちょっと気になりまして」


「日下部さんには確認されたの?」

「実は日下部さん、あの時点で社長派と常務派の抗争の真っ只中にいたようで、まりりんや夕紀菜ちゃんの報告を受けて怒った社長が、地方の支社へ飛ばしちゃったみたいなんですよ。

 その後、常務について退職。で、彼が連れてきたフリーカメラマンの森本さんも、事実上切られたようです」

「つまり、行方がわからないってことなの」玲香が言う。

「そう…じゃあ、大隅に私のほうから確認してみるわ。まあ、知ってたところで話すとは思えないけど」弥生がふっと笑う。


「大隅さんて元々、何を考えているのかわからないところあるわよね」

「だから賢児さんの真っ直ぐさが大好きみたい」何かを思い出したかのように、くすりと笑う弥生。

「…うーん。あんまり褒められている気はしないけど、ありがたいことなのかな、やっぱり。だいぶ出資してくれてる相手だし」

「仕事に関する評価は、素直に受け止めていいと思うわ。その部分で嘘をつく人じゃないから」

「じゃあ、それ以外の部分は?」

「それ以外?」玲香を見つめる弥生。

「加奈ちゃんを探し出しての一連の流れで、大隅さんは華織伯母様に収束宣言なさったようだけど、森本さんのこともあるし、終わったようには思えないの」


 玲香の言葉に、弥生は小さく溜め息をつくと、しばし考え込んだ。

「彼の最終目標が本当に華織さんと一致しているなら、事態は収束したと見ていいんでしょうけど、そんなに簡単に一致するぐらいなら、とっくの昔に大隅のほうから交渉の場を設けていたでしょうね…」

「じゃあ、お義母さんは、大隅さんがまだ何か考えていると?」賢児が心配そうに尋ねる。


「大隅ももう70過ぎたわ。自分が生きているうちに、今まで考えてきたことを大成させたいはず。加奈子さんを総帥にするのは、志半ばという形になってしまったけど、彼の考えていたのはそれだけじゃないでしょうし…」

「他にも何か計画があるの?」

「私も詳細まではわからないけど、名古屋のパーティーも計画の一環だと言っていたわ。あの時は、加奈子さんを探し出すための足がかりというか、状況を打破するために必要な“命”や“宿”の関係者を集める口実にしたんだと思っていたんだけど…」


「違うの?」

「もちろん、そういう目的もあったと思うのよ。でもね、あの手のパーティー、子どもを集めたものって、考えてみたら5年に一度のペースでこれまでも開いてきたのよ。テーマはその時によって違うけど」

「5年に一度…じゃあ、参加した子どもの数もそれなりになりますね」

「ええ、そうね。私が知っているだけでも、25年前からだから、6回ね。呼ばれた子どもの数も、200人近いでしょうね」

「じゃあ、最初のパーティーに出ていた子たちって、もう30歳前後ということよね…」

「そうね。最初に私が参加したパーティーには、鈴ちゃんくらいの子がたくさんいたわ」弥生が寂しそうにうつむく。


「すみません、お義母さん。辛いことを思い出させてしまって…」賢児もうつむく。

「あ、いいえ。私は華織さんのおかげで、こうして清流に戻れて、皆と一緒に幸せに暮らせてるんですもの。玲ちゃんも、賢児さんのようないい方にもらっていただけて、本当に感謝しています」弥生は深々と頭を下げた。

「あの、玲香と子どもたちのことは、僕がしっかりと守っていきますから、お義母さんは安心して、清流で暮らしてください」

「ありがとう、賢児さん…」

 涙ぐむ弥生に、玲香がハンカチを差し出す。

「弥生ちゃ……お母さん。清流のこと、お願いね」

「玲ちゃん…」

 玲香が弥生を優しく抱きしめると、弥生は玲香を強く抱き返した。


  *  *  *


「あら、お帰りなさい。玲ちゃんたちも一緒だったの?」

 清流に戻った3人に鈴音が声を掛ける。

「うん。“マダム花津”の仕事場見学に行ってたの」

「いいところでしょう。アトリエって言うより別荘みたいよね。…あ、そうそう、紗由ちゃんの着物届いてるわよ」鈴音が弥生を見る。

「あら、思ったより早かったのね。ありがとう」弥生がいそいそと自分の部屋へ向かった。


「紗由ちゃんの着物って?」

「おかみの練習着や」

 翔太がサッカーのユニフォームで居間に入ってきた。

「翔太ぁ。久しぶり!」翔太を抱きしめる玲香。

「先週、会うたやん」

 ちょっと、ツンデレ気味に翔太が答えると、それにはまったくおかまいなしに、玲香はもう一度翔太を抱きしめる。

「ふふ。まりりんちゃんみたいね。そういう答え方。紗由ちゃんには、しちゃだめよ。泣いちゃうから」

「そないなこと、しいへんわ。好きなおなごを泣かせるなんぞ、ニッポン男児のすることやあらへん」翔太がキリっとした表情で言う。

「あら。同じクラスの美咲ちゃんとか、一年上の葵ちゃんとか、町内会の京香ちゃんは、どうするつもりなの、この先。ん?」ちらりと翔太を見る鈴音。


「翔ちゃん!…何なのそれ?…紗由ちゃん以外に、そんなにガールフレンドがいるの?」

 紗由の着物が入った箱を抱えて居間に戻って来た弥生が、居間の入り口に仁王立ちしている。

「え?…いや、その…静岡は静岡で、かわええおなごがおる言うか…」口ごもる翔太。

「すごいな、翔太。羨ましいっていうか…」

 賢児が思わずつぶやくと、玲香が賢児の前に回り、涙目になる。

「賢児さまは、そういうの、うらやましいんですか…?」

「そ、そういう意味じゃないよ。違う、違うから。俺には玲香だけだから」

 賢児が自分の胸を掴んだ玲香の手をはずし、玲香を抱きしめた。

「だって俺、翔太みたいにモテたことないから…それで、ちょっとうらやましいなって…」


 賢児の“モテたことない”という言葉に、一同が眉間にしわを寄せるが、翔太がまるで、その場にいる弥生、鈴音、玲香の意見を代表するかのように言う。

「何や、それ。賢ちゃんがモテんわけ、ないやろ。

 去年、俺の愛しの加奈ちゃんが、バレンタインの前後えらい困ってたで。社長室にチョコ持って押しかけようとして、セキュリティに引っ掛かりよるおなごとか、総務に社長の自宅住所教えろ言うてくるおなごとか、ぎょうさんおったて」

「だって義理チョコだろ?」賢児が笑う。「OLさんて、大変だよなあ。去年も周子さんが言ってたよ。3000円はするだろうっていうチョコがたくさんあったってさ。

 まあ、こっちも、もっとお給料あげられるように、経営頑張らなくちゃって、励みにはなったけど、何か申し訳なくて…あ、でもね、周子さんが“3倍返し”っていうのに見合うお返しを選んでくれたんだ。助かったよ」


 ニコニコ顔の賢児に、一同が内心溜め息をつく。

「今年は私が選びました。結婚したのに数が減らないって、加奈ちゃんが感心してました」玲香が不機嫌そうに言う。

「頑張れっていうエールなんだろうなあ。うちの社員は、男女問わず優しい人間ばかりでありがたいよ」

“そうじゃなくて…”

 一同は思ったが、それは口に出さずにおいた。


「あの…賢児さんのほうは、それでいいとして、翔ちゃんは、どうしてそんなに女の子がいるの? 紗由ちゃんに知られたら、どうするの? 紗由ちゃんに嫌われたら、どうするの?」

 弥生が翔太ににじりよると、鈴音がその腕をつかんだ。

「無理よ、弥生ちゃん。八方美人は家系だから。おじいちゃんなんて、何人オンナがいたことか…知らないわけじゃないでしょう」

「それはそうだけど…まさか、飛呂之さんも…?」


 弥生が涙目になっていたところに、光彦がやってきた。

「賢児さん、玲ちゃん、お帰り」

「義兄さん、ただいま!」

 妙な空気を刷新しようと、玲香が必要以上に明るく答える。

「義父さんも、車回したら、すぐ来るから」

「どちらかにお出かけだったんですか?」

 同じく話題を逸らそうとして賢児が尋ねる。

「うん。お義母さんへのプレゼ…あ、ええと、まあ、お義父さんが来てからね。…えーと、何かあったの?」

 光彦から逆に質問された賢児が、苦笑いしながら首をかしげて顔を背けた。


「あのね、光彦さん。翔ちゃんが大変なの…どうしましょう、紗由ちゃんがお嫁さんに来てくれなくなったら、どうしましょう」ハンカチを握りしめて目に涙を浮かべる弥生

「え?…なんだ翔太、おまえ、また女増やしたのかぁ?」

 明るく笑い飛ばす光彦だったが、この空気でそういう発言をしたのが逆効果だったのに気づいて、下を向く。

「いや、えーと、まあ、翔太は一年生だしなあ。ははは」意味のないフォローで、その場を取り繕う光彦。

「そ、そうですよねえ。一年生ですもんねえ」

 賢児がさらに無駄なフォローをしたところに、飛呂之が大きな包みを抱えて現れた。


「やあ、賢児くん、玲香、お帰り」

「ただいま、父さん…その包み、何?」話題を逸らそうと、やっきになる玲香。

「うん。いや。まあ。その。何だな」

「お義母さんにだよ」にっこり笑う光彦。

「…あ、いや、ほら、今日は結婚記念日というか…」

「飛呂之さん!」泣きながら飛呂之にしがみつく弥生。「じゃあ、違うのね? 翔ちゃんみたいに、たくさん女がいたりしないのね?」

「え?」


「何でさっきから俺が悪者やねん!」たまりかねた翔太が反論する。「俺の大事な人は紗由ちゃんだけや。普通のガールフレンドと嫁はんはちゃうわ。嫁はんは紗由ちゃんや!」

「そうね、翔ちゃん。何人も女の子がいるなんて、いけないわ。だいたい、涼一さんに知られたら、どうするつもりだったの?」弥生が翔太をにらみつける。

「いや、兄貴は人のこと言えないっていうか…」賢児が助け舟を出す。

「それとこれは別なんじゃないのかい。娘の父親という立場と、男という立場は、二枚舌だったりするものだよ。…いや、私は違うがね」弥生のほうを気にしながら飛呂之が言う。


「…はい! 整理しますね」若干いらだち気味に言う玲香。「翔太は紗由ちゃんをお嫁さんにしたいのね?」

「もちろん、そや」力強くうなづく翔太。

「それには、涼一さんの許可が要る。そして涼一さんは、紗由ちゃんのオトコ関係には、めっぽう厳しい。たとえ紗由ちゃんがどんなに翔太を好きでも、自分のことを棚にあげてでも、翔太に他のオンナがいるなんて知れたら、その場で……アウト」玲香がゆっくりと低い声で繰り返す。「いい? その場で…アウトなのよ」

「れ、玲ちゃん、その顔、怖い…」後ずさる翔太。


「涼一さんは絶対に許さないと思うわ…」さらに翔太を追い詰める玲香。「ねえ、みんな?」

 一同を見回す玲香に、一瞬、皆が体をのけぞらせる。

「今から心象を悪くしたら致命的よ。それに紗由ちゃん、最近かなり勘がよくなっているっていうか、能力が増してきてると思うの。翔太の周囲の女の気配なんて、もう悟っているかもしれないわ…」

「“命”の力が、どこまでそういうことを察するのに役立つのかはわかりませんけど、確かに紗由の力は強くなっていると思います。龍がそう言ってましたから」賢児が頷く。


「…ああ、それは、まずいな。翔太、紗由ちゃんだけにしておけ」光彦が言う。「涼一さんに知られて、紗由ちゃんと会えなくなる前に、事を収めないとな」

「うん…」翔太もしぶしぶ頷いた。「…でも、加奈ちゃんはええやろ?」

「そうね。加奈ちゃんならいいわよ。どうせ、もうすぐ人妻だし」にっこり微笑む玲香。

「え!?」驚く翔太。

「年内には塩ちゃんと結婚すると思うわ」

「まあ、そうなの? お祝いしなくちゃねえ」

 嬉しそうに身を乗り出す鈴音の横で、翔太ががっくりと肩を落とす。

「俺の加奈ちゃんが…」


「ねえ、ところでプレゼントの中身は何なの?」

 元はといえば、自分の言葉がきっかけで皆が揉めていたというのに、あっさりと話題を変える鈴音。

「開けてもいい?」

「ああ」

 飛呂之が頷くと、いそいそと包みを開ける弥生。

「結婚式や! 皆がおるで!」真っ先に声を上げる翔太。

「父さんと母さんの結婚式なのね…」鈴音が驚いてまじまじと見つめる。

 包みの中身は、家族のフィギアセットだった。

 そのシチュエーションは、飛呂之と弥生の結婚式で、弥生が白無垢に身を包んでいる。そして、弦子や、鈴音夫妻と翔太、玲香夫妻の姿もある。

「あ。俺もいる」

 うれしそうな賢児に光彦が言う。

「よくできてると思わないかい。ほら、玲ちゃんのお腹、急遽、ちょっとだけ膨らませてもらったんだ」


「…ありがとう、飛呂之さん」ぽろぽろと涙を流す弥生。

「いろいろ考えたんだけどな、弥生は身につけるものは自分で作れるし、もう少し違った形で記念になるものがいいかなと思ったんだよ」飛呂之が少し照れたように言う。

「お父さん、すごーい。見直したわ」玲香も感心した様子だ。

「旅館組合の知人が、副業でフィギア作家をしてるんだよ。それでお願いしたんだ」

「嬉しいわ。本当に家族になれたみたいで、嬉しい…」

 鈴音がハンカチを弥生に渡す。

「何言ってるのよ。一緒に暮らし始めた時点で、家族再開ってことでしょう」

「だって、鈴ちゃんや弦子ちゃんには苦労掛けたし…」


「機関に狙われて皆が危険な目にあうより、ずっといいに決まってるじゃないの」

「鈴ちゃん…」さらに泣き続ける弥生。

「よし! じゃあ今日は目いっぱい腕を振るいますから」

 にっこり笑う光彦に、飛呂之が頷き返す。

「久しぶりに、弥生に清流盛りを食べさせてやりたいな」

「おとん! 俺も手伝うで!」

「よし。じゃあ、準備にかかるぞ」

 光彦は翔太の手を取り、板場へと向かった。


  *  *  *


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