オツカレ様
挨拶の力って、すごいな。
社会人になって特に実感した。
面白いのは、朝に会ってもお疲れ様です、帰るときもお疲れ様でした。
何かとお疲れ様を連呼するのだ。
この春学校を卒業して就職した僕は、とにかく自前の明るさと元気が売りだった。
元々体育会系で、体力と気合いには自信を持っていたことが、採用にも影響したみたいだ。
とにかく仕事に関わる人には大きな声で挨拶を交わす。
そうすると、若さと元気をもらえる気がするなんて、好評だった。
そうやって社会人一年生の僕は、挨拶を武器に仕事を積極的に進めていった。
だが、慣れない仕事に疲労が溜まっていく。
そのせいか、定時になると一気にだるさが襲ってきて、とにかく早く帰りたくなる。
「あ、それじゃあお先に失礼します」
挨拶をしつつ、オフィスを出ようとする。
「ご苦労様。仕事は慣れてきた?」
先輩、といっても歳は僕の倍近くあるように見えるベテラン社員が、ねぎらいの言葉をかけてくれる。
僕から見てもうだつの上がらなさそうな白髪交じりのおじさんだが、人のよさそうな感じで公私とも相談に乗ってくれていた。
「ええ、なんとかご迷惑かけないよう、頑張ってます」
「そうかそうか。明日もよろしくね」
「はい、お疲れ様です」
「おっと、はい、ご苦労様」
悪い人ではないのだが、今日はどっと疲れが出た気がした。
その時の先輩の少し戸惑ったような顔が気になったが、疲れた僕にはどうでもいいように思えた。
次の日も、書類の整理やらお得意先への電話やらで時間が過ぎていく。
「あら、今日は残業? 大変ねえ」
総務のお姉さんが優しげな声をかけてくれる。
それなりの歳らしいが、僕よりそう離れて見えないくらい若々しい。
スーツの着こなしもなかなかにしてオシャレで、オフィスに華を添えてくれている。
毎年新入社員が次々と辞めていくとかで、僕のことも気にかけてくれるようだった。
「ええ、請求書をまとめないと間に合わないので、これだけ片付けたら帰ります」
「あんまり無理をしないでね」
「はい、お疲れ様です」
「あ、ええ。お先にね」
綺麗な女性との会話は楽しいはずなのだが、疲れが溜まっているせいかその会話が弾まない。
早く書類をまとめて、僕も帰らなくては。
日増しに疲労が溜まっていく。
「おやあ新人君、大丈夫かい?」
会社の会長が珍しく僕に声をかける。
定年はとっくに過ぎているが経営者には関係ない。息子に社長のイスを譲った後も、院政を敷いているらしく発言権はかなりのものらしい。
「目の下にクマがあるじゃないか。きちんと食べて寝ているかね?」
そんなお偉いさんの会長も、新入社員の僕へ気さくに話しかけてくれる。
「はいっ、大丈夫です! まだ学生気分が抜けていないなんて思われないように、精一杯頑張ります!」
「気合い十分なのはいいが、社会人は身体が資本だからね、無理は禁物だよ」
優しい言葉をかけられて、思わず目が潤む。
「は、はい、ありがとうございます」
「何かあったらすぐに言いなさいな。私に直接は無理でも、上司や先輩に行ってくれればよくしてくれるだろう」
「はい、それはもう、僕……私に親切にしてくださる方ばかりで、ありがたいです」
「そうかそうか。うん、それでは早く仕事を覚えて、一人前の戦力となるよう期待しているよ」
「ありがとうございます! 頑張ります!」
「うんうん、若いっていいね」
会長はそう言うと、僕の机から離れていく。
「ありがとうございました、お疲れ様です」
「ああ。お疲れ……」
テンションが上がっているはずなのだが、緊張したせいかとても疲れた。
今日は熱い湯船につかって、ゆっくりしよう。
セキュリティカードをかざしてオフィスを出たところで、営業をやっている二年上の先輩がいた。
「お、これから帰りか」
「ええ。先輩は直帰しなかったんですか?」
「ちょっと見積もりやり直さなきゃならなくてな。それを片付けなきゃなんなくてさ」
「そうですか、それは大変でしたね」
「まあな。で、最近どうだ体調は。あんまりよくなさそうだけど」
やつれた顔を見られたからかそれとも僕の声のトーンからなのか、流石は営業の先輩だ。僕の疲れも見抜かれているような気がして少し背筋が寒くなった。
「それじゃ、僕は帰りますので。お疲れ……」
「待った」
先輩の声は、低く落ち着いたものだったが、抗えない力強さがあった。
「君今、オツカレサマ、と言おうとしたな」
「え、あ、はい。社会人になったら、よく使うっていうんで」
「それ、社内では絶対に使うな。いいな、判ったか」
そう言うと、営業の先輩は辺りを見回しながら、オフィスに入っていった。
「なんだろ、何かいけないことでも言ったかな」
それとも先輩お得意の冗談のつもりなのか。挨拶にこだわりがあるような会社でもないと思ったが。
「それにしても、疲れたなあ……」
コンビニでおにぎりを買い、部屋に帰ってからそれを食べる。
食欲がわかないからか、弁当ですら重たく感じられた。
そのうちゼリー飲料で食事の代わりになってしまうのかな。
そんな一抹の不安を抱えながらも、風呂を沸かし始めた。
軽めの酒でも飲んで寝ちゃうかな。
うとうととした世界。
これは夢? なんだか現実味がないから、多分そうなんだろうな。
「……」
誰かが僕に囁く。
なんだ? なにが言いたいんだ?
「オツカレサマ、オツカレサマ、オツカレサマ」
うなされて目が覚めると、既に朝になっていた。
目覚ましが鳴る五分前だった。
「なんだ、あと五分は寝られたのにな……」
それにしても、あの夢は何だったんだろうか。
先輩に変なことを言われて、気にしていたのかもしれない。
「うわっ、すごい寝汗」
ぐっしょり濡れた寝間着を脱ぎ、ふと脱衣所で鏡を見た時、そこに映った見覚えのない顔に視線が釘付けになる。
「だ、誰だ、お前……」
僕の言葉と同じ動きを、鏡の中の男もしていた。
ところどころ抜けた髪は真っ白で、荒れてよれよれになっていた。
目は落ちくぼんでクマができて、砂漠のように乾燥した肌は土気色になっている。
病的に赤い口の中から舌が見え隠れするが、そこにあったはずのものがなかった。
「お前、歯、歯が、ない……」
歯茎はやせ細り、前歯が数本見当たらなかった。
鏡に手を当てようとすると、僕のぼやけた視界の中に僕の腕が入ってくる。
老人のような、皺だらけの乾いた腕。
「!」
声にならない悲鳴を上げたと思ったが、ただしわがれた音が喉から漏れるだけだった。
鏡に映った姿は、僕のそれだった。
なぜかは解らないが、そうとしか思えないし、そう思うことが自然だと感じた。
だが、一夜にして数十年も経ってしまったかのような、そんなことってありうるのか。
取るものも取り敢えず、僕は会社に向かう。
僕の記憶が確かなら、昨日あのへんなことを言った営業の先輩は、この不思議な出来事について何か知っているかもしれない。
誰も信じてはくれないだろうが、何かのヒントはあるはずだ。
走っているつもりが、ちっとも前に進まない。
肺が熱くなり、息が苦しい。
体力自慢の僕が、こんなにも走ることに苦労するなんて思ってもみなかった。
なんとか会社に着くと、外回りに行こうとしていた営業の先輩が見えた。
「先輩!」
声がかすれて、自分のものとは思えない音だった。
「え、どちらさまですか? 申し訳ありませんが、後輩にあなたのような方は……」
「先輩、僕です、新入社員の」
「あ、ああ! 君か! 本当に君なのか!」
先輩の驚く顔の前に、僕の写真付きの社員証を見せる。
「この社員証は、確かに……、それに、面影もある……。本当に君なのか」
化け物でも見るような顔をして、だがそれでも営業の先輩は僕の手を引いて会社から離れる。
「ここではなんだ、ちょっとこの先の公園へ行こう。そこで話をしようか」
先輩に促されるまま、僕は手を引かれてついていった。
公園のベンチに座る。
息はだいぶ収まったようだが、まだ笛のような音が喉から漏れるような気がした。
「ほら、これでも飲んで落ち着けよ」
先輩が冷たい缶コーヒーを渡してくれる。
皺だらけの指に力が入らずあくせくしているところを見かねて、先輩が缶の口を開けてくれた。
「すいません」
折角開けてもらった缶コーヒーに口を付けず、その冷たさを両方の手のひらで感じていた。
「まさか本当にこんなことが起こるとはな」
「何か、何か知っているんですか」
「俺も入社三年目だから詳しくは知らないけど、うちの会社にはある噂があってな」
「噂、ですか」
「ああ。俺も君のこの姿を見るまでは信じるも何もなかったけどな、本当のことだと確信したよ」
「いったいどういうことですか」
先輩の目が、真剣みを帯びて僕を見据える。
「いいか、笑うなよ」
先輩の言葉に気圧されて、僕はうなずくしかできなかった。
「うちの会社には、妖怪が棲んでいるっていう話だ」
突拍子もないことを聞いて、以前の僕だったら一笑に付したかもしれない。
だが、今の僕の状況から、それも荒唐無稽な話ではないと思えた。
「会社に、オツカレ様という妖怪がいて、みんなに若さと元気を与えるという福の神のような存在らしいんだ」
「でも、僕は逆に若さを失って……」
「そう、オツカレ様が君に何かをしたんじゃなくて、君がオツカレ様なんだよ」
「え、何を……」
「君は会社の中で、お疲れ様です、と連呼していたんじゃないのか」
「え、あ、はい。挨拶なので」
「それだよ」
何の事だ。意味が解らない。
「君は常々、おつかれさまです、と言っていた。そして、会社に棲む何者かが君をオツカレ様と認識した。
君が、自分からオツカレ様です、自分がオツカレ様です、と公言していたようなものだと考えたのかもしれない」
先輩は何を言っているんだ。
「でも僕はそんな若さを与えるなんて……」
「なあ、君が入社してから、総務のおばさんがどんどん綺麗になってきたと思わなかったか。
同僚は、社長は、会長は。
会長なんて一世紀近く生きているが、今の会長はせいぜい定年過ぎたくらいの歳にしか見えないだろう」
「そ、そうかもしれませんが……」
「君はオツカレ様として、会社に認識されてしまったんだよ。
だから君の若さと元気を、会社の人間に分け与えてしまったんだ」
「まさか、そんな」
「新入社員が入っても入ってもいなくなるって不思議だと思っていたんだけど、きっとそう、きっとそうなんだよ」
「じゃあ、僕は、僕はいったいどうしたら……」
「判らない。済まないが、俺も噂を耳にした程度だったから、そこまでは判らないんだ」
「そんな……。僕は、僕は……」
僕はひからびてしわくちゃになった手で、ひからびてしわくちゃな顔を覆った。
そんな僕でも、涙は枯れていなかった。
今年も新しい社員が入ってくる。
若くて元気な新入社員だ。
「じゃあ、僕は先に帰るから、後よろしくね」
「はい、お疲れ様です!」
僕は新人社員の挨拶から、若さと活力をもらったような気がした。
ほんの少しの、後ろめたさと引き換えに。
挨拶の力って、すごいな。




