#8 彼女は再び走り出す
午後十一時。深夜の県道には、行き交う車も少ない。
明日香はスタンディング姿勢でモールトンを駆り、力の限り加速してゆく。
武生の元に、また電話がかかってきたのだ。
「何分たった!」
明日香は携帯につないだヘッドセットに叫ぶ。
『七分。でも……いい? 無理はしないでね』
「それが無理だっていうんだ! いま松ヶ浜に出たぞ!」
『OK、そこから北上して。局の中継圏としてはその先になるけど、容疑者が通話後に南下したらそこを通過するわ』
「もう逃げられた可能性もある」
言いつつも、明日香は捕捉できると信じていた。
国見美由紀の目的が脅迫と逃走なら、いつまでも市内に留まってはいないだろう。しかし着信地点は地図上をジグザグに動き回り、どこにも出て行こうとしない。
今日の午後、武生の不在中に入った電話は留守録音に切り替わってすぐ切れたが、中継局を確認すると北東部に大きく移動していた。遥野から離れないという前提で見れば、コーナーを背負ったボクサーのようなものだ。西に戻るか、南に降りるか。
明日香は南下してくると踏んでいた。
「武生はそこにいるのか?」
『いるわ』
「じゃあ、見張ってろ。マンションの外もな」
『そっちは係長がスタンバイしてる。いつでも出られるから、見付けたら連絡して』
松ヶ浜という名前の元になった赤松の並木を抜けると、海岸沿いの長い直線道路に入る。昼ならば数百メートルを見通せる海岸道路も、いまは疎らな街路灯だけで闇に沈んでいる。
その先に、小さな灯りが見えた。
『いい? わたしたちの仕事はあくまでも……』
「しッ」
首筋がざわつくような感覚に、明日香は素早くライトを消す。気取られないよう、街路灯から離れた歩道側を選んで進む。薄暗がりに停止したままの車両。ライトは、ひとつ。
「バイク……か」
『なに?』
「見付けた。あいつが美由紀だと思う」
『……ちょ、ちょっと待って明日香、いま係長をそちらに』
「待てるかよ、そんなの」
なにか言いかけた未知香を無視して、腰の携帯を切った。期待と興奮で鼓動が速まる。
明日香は伏せたままフル加速し、着実に距離をつめてゆく。筋肉が躍動し、アドレナリンが噴出する。たとえバイクが相手でも、百メートル以下なら食らい付く自信があった。
残り四百メートル。
来るのは車だと思っているのだろう、まだ相手に反応はない。
三百メートル。
海を眺めている横顔。フルフェイスのヘルメットで、顔まではわからない。
二百メートル。
殺気に触れたように、ライダーが反応する。周囲を見渡し、無音で突進してくる銀の弾丸に気付いた。
そこまで来ると、明日香にも相手の姿が見えるようになる。女性にしては、長身痩躯。身に付けているのは、作業服のようなオフロード用ジャケット。車体もオフロードだが、タイヤとホイルのみオンロード用に履き替えてある。モタードと呼ばれるその種のバイクは、いざ逃げられると意外な難物だった。
距離は百メートルを切り、明日香は相手の動きを見据える。突っ込んでくる銀のロードレーサーを見て、相手は怯まず身構えた。サイドスタンドを払い、わずかにアクセルを煽る。
――間違いない、こいつだッ!
発進すると同時に、リアタイヤが砂を巻き上げる。激しく空転して車体が傾いた。倒れると思った瞬間、青い車体は前輪を軸にクルリと円を描く。
――こいつ、〝乗れてる〟ッ!
意外なほどの操縦技術に、明日香は舌を巻いた。相手の速度が乗るよりも前に、押さえ込んで捕まえるしかない。モールトンを左右に揺らして脚力を全開、距離七十メートルからあ最後の追い込みをかける。
砂の浮いたアスファルトの上で、バイクはグリップを失って尻を振った。その間に追い縋った明日香はバイクに並ぶ。手を伸ばせば届く距離。黒いヘルメットがこちらを向き、ビクッと驚愕した動きを見せる。
「遥野市役所だ、止まれ!」
その声を無視して、ライダーはハンドルに伏せた。リアに荷重をかけて後輪のグリップを取り戻す。制止しようと身を乗り出した明日香は、飛び出した車体に弾かれそうになる。ぶつかれば重量差で到底勝ち目はない。
「ちッ……!」
相手が攻撃の意思を見せるまで、制圧といえども手出しはできない。まして、武器になるものといえば車体に巻いた盗難防止ワイヤーをくらいだ。
「おいッ……止まれ!」
二台はほぼ並んだまま海岸道路を駆け抜けてゆく。道路はその先百メートルほどで緩く左に折れる。明日香は速度を上げ、イン側にモールトンを突っ込ませた。被せようとするバイクを押さえ、車体を振ってアウトに押し返す。孕んだバイクは舗装から外れ、縁石ギリギリでコーナーを抜けた。左右に揺れながら牽制するライト。
斜めにフェイントを押さえ込むと、光は大きく右へ逸れた。
「あ、くそッ!」
振り返るまでもなく、傍らの歩道に入ったのがわかった。車道側に残った明日香には、ガードレールに阻まれてブロックできない。バイクはそのまま歩道を加速してゆく。
「くぅ……ッ!」
全力疾走する自転車を難なく追い越し、バイクはガードレールの切れ目から車道に戻った。必死に漕ぐものの、すでに致命的な距離を開けられている。相手はさらに加速し、跳ね上げた砂埃が視界を塞ぐ。
モールトンの小径タイヤが砂利を踏み、車体が派手に暴れ始める。そこで限界だった。
「待て……国見ィッ!」
ライダーは一度だけ振り返り、コーナーを抜けて速度を上げる。停止した明日香を置き去りにして、テールランプは闇に消えた。
静まり返った海岸道路で、彼女は息を整える。腰で鳴り続ける着信音に、そこでようやく気付いた。
携帯をつなぐと、未知香がホッとした声を出す。
『明日香、無事?』
「無事といえば、無事だ。逃げられたけどな」
『残念。で、ナンバーは?』
「見てられると思うのか、そんなもん」
追跡中の記憶を振り返ってみても、ナンバープレートを見た覚えはない。プレート自体を跳ね上げてあったのかもしれないが、確信は持てなかった。
『バイクって言ったわよね。じゃあ、子供は?』
「いや、相手は一人だった。背格好は未知香とそう変わらない感じだったけど、顔はヘルメットで確認できなかった」
印象だけなら、どうとでも取れる。無理やりにでも制止させて捕まえるべきだったのかもしれない。いまさらながら明日香は悔やんだ。
『とりあえず、手掛かりナシか……』
「そうでもない」
明日香は深呼吸し、額の汗を拭う。
「車種はヤマハのXT660X、色はブルー。かなりマイナーな機種だし、台数もそれほど多くないはずだ。一台ずつ所有者を回れば、見付けるのはそう難しいことじゃない」
免許が取得できるようになったら自分のバイクが欲しい。そう思ってリサーチしていたのが役に立った。
遥か彼方に、揺れるライトが見えた。四灯、車だ。
しばらくすると、対向車線に市役所の公用バンが停まった。君塚が悔しそうな顔で降りてくる。海岸線の北側に回り込んだものの、バイクを押さえることはできなかったらしい。
「しょうがない、仕切り直しだな」
山下警部補の協力もあり、翌日には県警経由で自動二輪の登録リストが回ってきた。
「これで容疑者特定は時間の問題?」
「そう願いたいけどね」
微妙な表情をした君塚からリストを受け取り、明日香はチェックされた項目を指で辿る。
オンロード型のXT660Xは、県内で二十六台が登録されていた。市内には七台、近隣の市町村を合わせても九台。オフロード型のXT660Rは県内に十八台あったが、わざわざ別の型を買ってからオンロード型に改造するとは思えない。とりあえずは除外しても問題なさそうだった。
「あんまり売れてないんだな」
とはいえ所有者は県内全域に散らばっており、そのすべてを確認して回るにはかなりの時間が必要になる。SASの全員が動けるわけでもなく、自分で言い出したからには明日香が調べることになりそうだった。
「そのなかに盗難届けが出ているものが二台ある。一台が市内、色は青だ」
「わかりました。じゃあ、この件はわたしが調べます」
「それにしても……バイクとは思ってなかったわね。だとしたら、子供はどこかに預けてあるってことなのかな」
三人の頭のなかに同じ単語が浮かんだ。
「山下さんの言っていた通り、共犯者がいるってことか」
君塚の言葉に、姉妹は揃ってうなずく。
「明日香ちゃんはバイクの特定、ぼくらは武生さんの交友関係から当たってみよう」
明日香はさっそく自転車置き場からモールトンを引っぱり出し、盗難車輌の所有者宅へ向かう。市の東北部にあるその家までは、急げば一時間以内に到着できるはずだった。
幹線道路に乗る直前、後方確認を行った彼女は視界の隅に見覚えのある車を捉えた。
白いワゴンR。案の定、運転席には大須賀惇一がいた。目深に被った帽子と、鼻まで覆ったマスク。それで変装しているつもりなのだとしたら、彼は思った以上の馬鹿だということになる。
呆れて見つめる明日香の視線に、惇一はギクシャクと顔を背けた。
「……なんなんだ、いったい」
憎しみをぶつけてくるというのなら、まだ理解できる。復讐が目的なら、相手をしてやっても良い。しかし、そういう風でもなさそうだった。彼がなにをしたいのか、いまひとつよくわからない。特に意図はないのかも知れないが、目的もなく尾けているのだとしたら、それはそれで問題な気もした。
後続車からクラクションを鳴らされ、惇一は慌てて車を動かす。
信号が変わり、車は流れ始めた。明日香は前を向き、思い切り自転車を漕ぎ出す。
ただ見かけただけではどうすることもできないし、明日香には構っている暇もない。混雑した市街地でロードレーサーに追い付ける車があるはずもなく、五分後に振り返ったときには、ワゴンRは影も形もなくなっていた。
盗難に遭ったバイクの所有者は市外の大学に通う学生だった。夜まで戻らないという息子に代わって、母親が対応してくれた。
父親は公務員で、母親は専業主婦。さりげなく家族のプロフィールを聞き取った限り、誘拐事件への関与はないようだ。
盗難に気付いたのは一週間ほど前の早朝。車両の特徴は、カウルに貼られた小さなステッカーと、息子の手で交換されたマフラーくらいだという。
「……アブラトリッピ? なんですか、それは?」
「知らないわ、わたしだって。でも、なんだかそういうような名前だったわよ……こんなの」
手振りを見て、それが交換されたというマフラーの銘柄だとわかった。
「それがもー、うるさいのよぉ。エンジンかけるたんびに、ボンボーン! てねえ。わたしも近所迷惑だから止めなさいって言ってたんだけど……」
「はぁ」
あの夜の追跡劇では、車体色以上の特徴を読み取る余裕はなかった。音量が大きかったどうかも、ハッキリとは覚えていない。
盗難届と照らし合わせてみても、特に気になることはなかった。
明日香はリストを見て最寄りの住所に向かう。その所有者は生花店を営む三十代の男性で、車両にはなんの改造されていない状態だった。
「昨夜は家にいたよ。バイクも動かしていないな」
「なるほど。……申し訳ないんですが、音を聞かせていただけますか?」
男性は不思議そうな顔をしながらも庭先でエンジンをかけてくれた。彼女はしばらくその音を聞き、礼を言って生花店を後にする。
市内と近隣市町村の九ヶ所を回り終わった頃には夜になっていた。うち四人には信用できそうなアリバイがあり、三人は車体カラーが黒なので除外、残る一人には会えなかったがバイクは二ヶ月前に事故で廃車になっていた。入院中という本人に訊くまでもないだろう。
自転車を走らせながら、未知香に連絡を入れた。
『おつかれ。どう?』
「自転車で回れる範囲は調べた。いまのところ怪しいのは例の盗難車くらいだな」
『誘拐・脅迫・身分詐称、ひょっとしたら公文書偽造の上に、窃盗も追加か……』
「まだ確定はできないけどな。市外で登録された車両という可能性もある」
しかし、県内全域に調査範囲を広げるには、時間と人手が足りなかった。自転車で回れる距離でもないし、市からも交通費は出ない。昨夜の追跡劇だけではライダーを犯罪者とする根拠はなく、現状で警察に依頼するわけにもいかなかった。
「マフラーを改造していない車両の排気音を確認させてもらったんだけど、正直よくわからん。昨日のはもう少しうるさかったような気もするが、確信はない」
『ふ~ん、なるほどね。じゃあ、ちょっと相手の出方を見てみようか。問題はバイクそのものじゃないんだし、どっちにしろ向こうも……』
「待て、後でかけ直す」
明日香は電話を切ると、街路灯の下にモールトンを停める。
辺りはひと気のない山道。軽くジャンプして身体をほぐし、背後の闇に声をかけた。
「ここなら邪魔は入らないぞ。……出てこい、大須賀惇一」