#7 彼女は悪意に取り巻かれる
君塚と未知香が遥野署を訪ねると、山下は書類仕事の真っ最中だった。
手が放せないので上がってくれと言われ、二人は指示された四階の小会議室に向かう。
またなにか事件があったらしく、署内の空気は張りつめていた。地方都市のイメージとは違い、遥野の犯罪率自体はそれほど低いものではない。
ドアをノックすると、書類を見ていた山下が顔を上げる。抱えている事件のものらしいファイルが目の前に積み上げてあった。
「お、ご苦労さん」
「お忙しいところすみません」
頭を下げる二人に向かってパタパタと手で扇ぎ、山下は人懐っこい笑みを浮かべる。身長百八十センチ、体重0・1トンという巨漢で、昔は柔道で県内に敵なしだったという猛者だ。いまは心も身体もずいぶんと丸くなったようだが、ときおり見せる鋭い視線とクロワッサンのように丸まった耳がただものではないことを示している。
「いやいや、こっちが手伝いをお願いしたんだからね。で、どうなの未知香ちゃん。その後、なんかわかった?」
「わかったこともあるのですが……ひとつ情報を得るたびに、真相がわからなくなっているところです」
「ほぉ……?」
向かい合わせに座った未知香は、現在までに判明した事実と状況を説明する。
脅迫電話の発信された場所と、その動き。武生から聞いた美由紀のプロフィールと、新たに得られた――というよりも、失われた――事実。美由紀の素性については、ほぼ白紙状態になってしまったこと。
君塚は武生たちの通っていた大学に問い合わせ、理恵子と、その恋人だった佐藤の現住所を調べてもらっていた。二人とも最後に登録された連絡先には住んでおらず、転居先も不明。
理恵子は武生と戸籍上の婚姻関係にあるし、佐藤の住民票は実家から移動されていなかったため、公的書類から足取りを追うこともできなかった。
実家に連絡したところ、双方とも電話は不通。担当する町役場からは先ほど、理恵子・佐藤のどちらも両親はすでに死去しているとの結果が伝えられてきていた。
しばらく真顔で聞いていた山下は、話し終わった未知香たちの顔を見て苦笑した。
「ご苦労さん。さすが〝朝比奈組〟の叩き上げだ、そこまで調べられたら大したもんだよ」
なぐさめであることは未知香にもわかったが、それでも少し救われた気分になる。
山下は頬杖をつき、未知香たちの出した地図と書類を覗き込んだ。じっと見据えるその表情は鋭く、ふだん未知香には見せない〝刑事の顔〟になっている。
「なにか気付かれたことでも?」
「これ……本当にひとりでやってるのかな」
山下は地図の上を指先で辿る。電話の発信場所を記入した線は、市内をネズミ花火のように迷走していた。
「この動きは、ふつうじゃないよね。もっと大きく逃げればいいのに、こちらがどう出るか見ようとしてる。単独犯ってのはもう少し臆病だし、慎重になるもんだけど」
「共犯者……ですか」
君塚は感心したように言うが、その先が続かない。未知香も答えに窮していた。所在どころか素性もわからない相手では、交友関係など洗えるはずもない。
「こういう場合、やっぱり男ですかね?」
「利害が絡むとしたら同性というのもありうるけど、基本的にはイロ……情夫じゃないかな」
「じょうふ、ですか」
未知香は、時代がかったその言葉に口を押さえる。
「そうやって笑うけどね、未知香ちゃん。〝金と女を洗え〟ってのは、いまでも捜査の基本なんだよ。追われる立場になると、誰でもすがる物が欲しくなるんだって」
「なるほど」
君塚は腕組みをして唸る。
「それにしても、やっぱりこれ単純な夫婦喧嘩じゃ済まなそうだな」
「山下さん、ところでこの美由紀って人……扱いとしてはもう犯罪者になるんですか?」
「……なるといえば、なるね」
「武生さんが被害を認めなくても?」
「脅迫してるのは事実なんだし、営利目的である以上、誘拐も親告罪としては扱われない。親族間の問題ならともかく、それも無理があるだろ」
山下の口調は柔らかかったが、現場で叩き上げられた人間特有の厳しさがあった。武生が告訴状や被害届けを出そうと出すまいと、また容疑者がどういう人間であろうと、国見美由紀はすでに警察から追われる身になのだ。
「ただ、いまから犯罪者になるというより、もうなにかの犯罪に関与してるんじゃないかって感じはするな」
「どういうことです?」
「いいヤツだろうが悪いヤツだろうが、ある一線を越える前の人間には、もう少しなんというか……躊躇が見えるもんなんだよ。こいつの、迷いの無さはちょっと気になる」
「もう戻れないトコまで来ている、ってことですか?」
「さあ。単にそういう性格ってこともないわけじゃない。詳しいことは調べてみないとね」
未知香は思いつめた顔で山下を見る。
「その場合、子供はどうなるんでしょう。母親が犯罪者になってしまったらその子は」
「行政の方で保護することはできるし、それ以前に、情状酌量の余地があるかもしれない。まだなにもわからない状態なんだ、いまから悪い想像はやめておこう」
「……はい」
「週明けにはウチも動けるようになると思うから、未知香ちゃんたちはあまり無茶をしないでくれよ」
山下はそう言って笑った。
署を出た未知香は、明日香に連絡を入れる。まだ病院にいるらしく、〝電波の届かない場所にいるか、電源が入っていない〟という音声が流れた。
駐車場から車を回した君塚が、未知香の前に停める。
「明日香ちゃん、まだ走り回ってるの?」
「今日は、わたしの代わりにお見舞いに行ってもらってるんです」
「病院、か」
未知香は携帯をしまい、助手席に乗り込む。
「そう、病院。明日香の拒否反応もわからなくはないけど、この仕事をしている限り避けては通れないでしょう? 少しは慣れてもらわないと」
「厳しいな」
未知香は苦笑しただけで、その話題を終える。
「それより、共犯者がいるとしたら話はずいぶん変わってきますよね?」
「そうだねえ。〝風変わりな夫婦喧嘩〟ではなく、今度は本当の〝計画的犯罪〟ってことになるから……」
「警察の仕事?」
「無論、そういうことになる。いずれにせよ週明けまでだ。できる限りのことはするさ」
市役所に着くと、君塚は公用バンを裏の職員駐車場に入れた。庁舎の陰になる一番奥、桜の木の下がSAS係の駐車スペースになっている。そう言うと優雅なように聞こえるが、実際には毛虫と花びらが貼り付くため非常に嫌がられるポジションだった。
「ん?」
君塚の声に未知香が顔を上げると、駐車スペースに数人の中年の女性たちが集まっていた。
クラクションを鳴らしてもどこうとせず、偉そうに立ち塞がったまま指で降りるように促す。明日香は君塚と顔を見合わせ、ため息をついて車から降りた。
「先に行って、ぼくが相手するから」
行こうとする明日香を制して、女性たちがぐるりと包囲する。君塚が口を開くより先に、彼女たちは高らかに宣言した。
「ちょっと待って。われわれは、公務員削減を目指す市民グループ〝ゆりのき会〟です」
「ご苦労様です、頑張ってください。急いでいるのでこれで」
「先日、市民を脅迫したそうですね」
歩き去ろうとした未知香の動きが、ピタリと止まった。思い当たる節は……ないこともない。というよりも、多すぎて特定できなかった。
「噂では暴力も振るったとか」
「なにか誤解されているようですが……」
「生活環境課のSAS係、でしょ? なにかと問題の多い部署だと聞いてますわ」
「市民の皆様のお役に立てるよう、日々頑張っております」
「よくもまあ、いけしゃあしゃあと言えるわね。あなたたちの存在そのものが、市民の迷惑だという人もいるわよ?」
ムッとして言い返そうとする未知香を、君塚が押し留める。
「ご用があれば、わたしがうかがいます」
「あなたが責任者?」
君塚の差し出した〝SAS係長〟の名刺を女性の一人が受け取り、不快そうに一瞥する。
「じゃあ、聞きたいんですけどね。あなたたち〝非公式スタッフ〟の予算は、いったいどこから出ているんですか?」
止めようとする君塚の手を軽く払って、未知香が前に出た。
「少なくとも、皆様の税金からではないですね。備品から公用バンまで自腹で、制服もお古ですから」
戦意に満ちた未知香の笑顔に、女性たちは一斉に噛みつく。
「まあ、嘘ばっかり。あなたたちがいるだけで市民の血税が浪費されているんですよ」
「調べられてボロが出るようなことは、言わない方が良いわよ? 現に、償却済み車輌の払い下げに関する帳簿操作疑惑、被服費・飲食費・光熱費・交通費の不正流用疑惑、叩けば埃が出ることくらいわかってるんですからね」
「資料室を潰して事務所に使っていることも問題です。そのコストだって税金から出ているんでしょう?」
「地域環境の保全というなら、まずあなたたちから消えてもらうべきなんです」
未知香の顔から徐々に表情が消える。
「ご自由にお調べください。資料は生活環境課にあります。それと、わたしたちは〝非公式スタッフ〟ではなく、〝学生ボランティア〟です」
「まあ、学生を働かせてるの? 児童福祉課にも行った方が良いわね」
「その〝自腹〟と偉そうに言う資金が、どこから出てるのかも疑問ですけどね」
「……まあ、裏でどこかとつながってるんでしょうけど」
未知香は場違いに明るい笑い声を上げた。それが未知香の〝切れそうになったとき〟だと知っている君塚は、さりげなく横に立って腕を押さえる。
顔を見ると案の定、眼だけが全然笑っていない。
「とんでもない、どこにもつながってなどいませんよ。ですから、生活環境課まで問い合わせていただければ、活動記録と実行予算はすべて揃っております」
「そもそも、SAS係などという存在自体が疑問なんです。元はといえば、初代市長の作った殺し屋部隊だそうじゃないですか」
「とんでもない誤解です。わたしたちは誰も殺してなどいません」
――いまのところは。
厚化粧で吠える面々を前に、未知香は必死で笑顔を保つ。早くもこめかみが引きつりはじめていた。理想と効率を旨とする彼女は、生産性のない行為には我慢ができないのだ。
「市民の皆様にお困りのことがあれば、それを穏便かつ迅速に解決しているだけです」
「せいぜい空々しい嘘を並べてるといいわ」
吐き捨てるように言って女性たちが立ち去ると、君塚が未知香の肩を叩く。
「気にしない気にしない、あんな人たちばかりじゃないよ」
「そう願いたいですね」
市庁舎へ戻るまでの間に、未知香は気分を切り替える。明日香がここにいなかったことが、唯一の救いだと思った。
明日香が病院を出たときには、すでに日が傾いていた。
通りに出た彼女は、ふと視線を感じて足を止める。周囲を見渡すと、撫で回されるような感覚は揺らいで消えた。確認した限りでは、それらしい人影はない。
「気のせい……じゃないよな」
病院に向かう途中でも首筋にくすぐったいような感覚はあったが、それは緊張感から来るものなのだと思っていた。
明日香は病院前の通りを渡り、歩道をゆっくりと歩く。視線が来る方向を探り、それと反対側に道を折れた。曲がると同時に足を速め、すぐ近くにある建物の陰に隠れる。自分でも考えすぎだとは思うが、気のせいだとしたらそれに越したことはない。身を隠したまま待つと、目の前を軽自動車が通り過ぎた。白のワゴンR。知り合いではない。
目標を見失ったのに気付いたのか、車はすぐに停まった。運転席では、男がキョロキョロと頭を振っている。
明日香は助手席側に回り、運転席からの死角に入った。
車内を確認するが、運転者の他には誰も乗っていない。他人に危害を加えるような武器や道具も見当たらなかった。視線を感じたのか、サイドミラーに目をやった男がビクンと痙攣した。おそるおそる振り返った彼は、明日香を驚愕の表情で見つめる。
「……やっぱりお前か、大須賀惇一」
三秒以上も固まっていた惇一は、慌てて前を向き車を発進させる。タイヤを鳴らして走り去る車を見送り、明日香はため息をついた。
胸の奥に広がる重苦しい感情。怒りと哀しみと憤りと諦めが混じり合ったそれは、過去に何度も味わってきたものだ。
彼女は叫び出しそうになる自分に、しょせん報われない仕事なのだと言い聞かせる。
「でも……あながち誤解でもないんですよね」
そう唐突に問われ、君塚はモニターから顔を上げた。
「え……なにが?」
「さっきの、オバさんたちの話です。過去にSASが行った活動の報告書を見たとき、時期的に抜けている部分や辻褄の合わない数字があった。まあ、部外者が見てもわからないとは思いますけど」
未知香の機嫌は直っていたが、視線は真っ直ぐ君塚に向けられている。
それは、嘘やごまかしは許さないという静かな意思表示だった。
「ずっと現場に出ていれば、どういう活動にどれくらいのコストと時間、それに人員が必要なのかくらい、わかるようになりますからね。初期のSASが行っていた活動は、規模に対してあまりにもそれが少なすぎる」
「うん……まあね。市にはお金がなかったから」
「それが隠蔽の理由になりますか?」
未知香は静かに笑う。
「殺し屋部隊だったかどうかはともかく、かなり多くの非正規活動を行っていたんじゃないでしょうか。今後、われわれがSASとして行動を共にするとお考えなのであれば、係長ご自身から本当のところをお聞きしたいんです」
君塚は苦笑し、降参したというように両手を上げる。
「OK、じゃあとりあえず……ぼくの知っている限りの話をしよう」
君塚は書類棚の前に立ち、現在から十五年前までのファイルを指す。雑多な面倒ごとが多く、書類は膨大な量になっている。
「ここまでは、いまの未知香ちゃんたちがやってきた仕事と同じだ」
二十五年前までのファイル。そこから急に書類の分量が減る。
「このへんは、いろいろと圧力があって自由に動けなかった時期。庁内の再編が行われて、うちの所属も生活環境課に変わった。それと同時に、SASを解体するという話も何度となく出たらしい」
そして、三十五年前。
「気になってるのは、このあたりだろ?」
未知香は黙ってうなずく。棚に刺さっているのは、ほんの数冊。設立当初から十年ほどは、活動記録を残したファイルがほとんど存在しない。
「最初、SASが創設された当時はいまのような穏当な部署じゃなかった。公害対策と法務、強制執行の専門家を集めた、非公式な実働部隊だった。それは本当のプロ集団で、総勢四十名近い人員がフル稼働していたんだ」
「え? でも、当時の財政ではそんな……」
「あり得ないよな。町から市になった頃の遥野は、それまでの中心産業だった工業を規制したせいで有形無形の膨大な負債を抱えていた。企業は撤退、産業は皆無、政治家もそっぽを向いて、カネなんて一文もない。しかし、もっとあり得ないことに予算は市長のポケットマネーから賄われていたんだ」
「祖父の……?」
「そう、だから……実行予算は〝少なかった〟んじゃなく、〝無かった〟んだ。活動も隠蔽されていたんではなく、市政から半ば独立して行われていた。連絡先が市役所で、トップが市長だったというだけでね」
歴代市長の写真は、この部屋にも額装されて並んでいた。未知香たちの祖父である初代市長、朝比奈鋼重郎も、入り口に最も近い場所で静かな笑みを浮かべている。
「賭けだったんだよ。それも、かなり分の悪い賭けだった。結果的にSASの活動は実を結び、環境汚染も市民の健康被害も激減したけどね」
その結果としていくつもの企業といくつもの人生が破滅へと追いやられ、市長はそんな男の一人、設楽宏道によって刺殺された。
皮肉なことに、それは現在も〝殺し屋部隊〟と中傷を受け続けるSASの活動で失われた唯一の人命だった。
全員一丸となって目を見張るような成果を上げた彼らについて、未知香を含めた市民のほとんどが実情を知らないでいる。実際の活動は町史にも残らず、公式記録にもない。ただ噂で漏れ聞こえた話ばかりが喧伝されるために、一部では妙なイメージだけが一人歩きしてゆく。
「探すとしたら、ここではなく祖父の書斎?」
「いや、たぶん書類は残っていないと思う」
君塚は未知香を見た。
「ぼくは朝比奈市長に直接お会いしたことはなかったけど、過去のSAS職員から話には聞いている。〝君たちの活動はけっして表に出ることはないし、そうするべきでもない〟……配属された人たちは、市長からそのように言われたそうだ」
実際の勤務に就いた彼らは、その言葉の意味を痛感したという。
目的のためには越権行為など日常茶飯事、脅迫や買収などほとんど犯罪のようなことまで行った。そうせざるを得なかったのだ。誰にも評価されない汚れ仕事だったが、不満を漏らす者はいなかった。彼らは評価されないことこそ、最大の評価だと考えていた。
「それがSASの……〝われわれ〟のルーツだ」
君塚はそう言って、冴えない笑みを浮かべた。