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#6 彼女は過去を振り返る

 翌日、授業を終えた明日香は病院へ向かった。

 約束しているのだから行かなければいけないし、春奈に会うことにも抵抗はない。しかし、いざ病院を目の前にすると足取りは着実に重くなっていった。


「……大丈夫、大丈夫だ……」


 歩きながらため息を押し殺し、進むたび不安をねじ伏せる。理由もなく萎縮する自分を叱り付け、なにも怖れるものはないのだと、何度も言い聞かせた。

 精神的な拒否反応は昨日より薄くなっているが、それでもまだ抵抗はあった。薬剤と消毒液の入り混じった空気。鼻の奥がつんとして、金気臭いような感覚が甦る。明日香は病院の前庭で足を止め、小さく深呼吸をくり返した。


「……大丈夫、大丈夫……」


 唱える言葉は繰り返しすぎて、すでに意味を失っていた。傍から見ると滑稽な姿なんだろうと頭ではわかっていたが、それでも湧き上がる怯えはどうしようもない。

 苦悶の表情で身構えていた彼女が意を決するより早く、耳元で鋭い声が上がった。


「オイそこの不審者、動くな!」


「……うひゃァッ!」


 驚いて振り返ると、春奈が笑いを堪えながら立っていた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、手には文庫本。どうやら散歩の途中らしい。


「なにしてんの、そんなとこで」


「あ、いや……あの……準備運動?」


 しどろもどろになる明日香に、春奈はクスクスと笑い出す。それを見て、明日香も少しだけ救われた気分になった。

 昨日の張り詰めていたような表情が消えると、春奈はずいぶんと幼く見えた。笑顔は意外なほど無垢で、最初の印象よりもずっと可愛らしい。


「なんの準備よ。病院を襲う気?」


 右手の甲で口を押さえ、笑いながら眉を寄せるのはクセのようだ。

 左腕で胸を抱く仕草は、どこかで警戒を解いていないのか、それとも身体を庇う習性か……。

 ふと気付き、こんなところでまで相手を観察している自分に呆れる。


「明日香ちゃんさ、病院嫌いでしょ」


 単刀直入に訊かれ、明日香はぎこちなく笑う。

 それは、質問ではなかった。嫌がっているのは、誰が見ても明らかなのだろう。


「……ああ、嫌いだな」


「やっぱりね。まあ、好きな人も少ないと思うけど」


「好きとか嫌いとかいう以前に、他人の見舞いになど来たことがないんで、どうしていいかもわからない」


「身体が丈夫な人はだいたいそうだよね。自分が病院に縁がないから、この雰囲気に拒否反応を……」


「いや、そうではないんだ。本当に。見舞いに来たことがないというのは、健康だったという意味ではない」


 ん? と軽く眉を上げる春奈に、明日香は困った顔で笑う。


「ない、のだが……」


 冷静さを保とうとして、不自然なほど堅い口調になった。意識するほどに悪化することがわかっていたので、無言のままベンチに腰を下ろした。その強張った笑顔を覗き込み、春奈はニッと笑う。

 明日香が動揺する姿を見て、明らかに面白がっていた。


「ヘンなの」


 どういう顔をしていいのかわからず、明日香は曖昧に笑う。


「……変か。前回もそう言われたな。まあ、そうかもしれない。なにがどう変なのかまではよくわからないけど」


 そう言いながら、抱えていた花束を振った。


「とりあえず、ヒマワリは小さいのにしてみた」


 昨日より小さいとはいえ、相変わらず巨大な〝花束〟を差し出され、春奈は宙を見上げて息を吐いた。


「だ~か~ら、サイズの問題じゃないんだってば」


「うん? ヒマワリは嫌いか?」


 わずかな逡巡があった。彼女は目を逸らしてつぶやく。


「そうね。だって、鬱陶しいもの。無駄に大きくて、無駄に明るくて」


「そんなこと言うなよ。ここの名産だったんだぞ?」


「……知らない。名産って、どこで?」


「いま工場跡があるあたりだ。遥野が市になる前は、見渡す限りのヒマワリ畑だったらしい」


「じゃあ、もう無いんじゃない」


「作ればいい。そのうち一面のヒマワリ畑にしてやるさ」


「無理無理、どこにそんな土地があるの。あの工場跡だって、どうせ買い取り先が決まってるんでしょ?」


 見渡す限り、一面の向日葵。

 その言葉とイメージが脳裏に浮かび、その明るさ美しさ華やかさが、明日香の心に淡い影を落とす。自分が夢見ていたような、あまりにも眩しい〝外〟の世界。

 背を向けた春奈の髪が揺れ、うなじが覗いた。ほとんど日に当たることのないそれは透けるように白く、触れると壊れそうなほど細い。


 ――ずっとこんなところにいるのだから、無理もないな。


 病院の敷地内はきれいに整備されているが、その分だけ息苦しさが増すような気がした。そこを歩く患者の足は道を選んでいないし、目も景色を追っていない。毎日同じルートを、同じ時間をかけて回っているだけだ。それは散歩というより、なにかの宗教的儀式に近い。


「やれるさ。何千本でも何万本でも。ホラ、この種だけだって百や二百は植えられる」


 振り向かない春奈の背中に向かって、それでも明日香は語りかける。目の前にある背中が、どこかで見た光景とつながる。


 ある夜、突然いなくなった友人。なにも知らされないまま空き部屋になった病室。未知香が生まれて初めて、本気で好きになった少年。


「いつか見せてやる。昔と同じ、それ以上のヒマワリ畑を……」


「……きっと、わたしが死んじゃう方が早いわ」


「そんなことを簡単に言うな!」


 鋭く発せられた声に、春奈の身体が思わずビクッと震える。

 気まずい沈黙の後、春奈は顔だけ向き直った。睨み付けるような彼女の視線を、明日香はまっすぐに受け止める。


「冗談でもそんなことを言わないでくれ、頼むから。お前の気持ちがわかるとは言わない。傷を癒せるとか、痛みを忘れさせることができるとも思わない。でも……」


「……」


「でも、もう少しこの街にいて欲しいんだ。もう少し我慢して、もう少しだけ時間をくれたら、きっと……きっと春奈が幸せに過ごせるような、良い街にしてみせるから」


 二人の間に重い空気が広がり、明日香は心のなかで自分を呪う。なんとか雰囲気を取り戻そうにも、もはや話題を探せばいいという状況ではなくなってしまっていた。


「大怪我でも、したことあるの?」


 顔を背けたままの春奈が、ぽつりと言った。


「え?」


「健康だったわけじゃないって、さっき」


 春奈と向き合い、わずかに目を泳がせる。話しかけてきてくれたことは嬉しかったが、それはあまり話したい話題ではなかった。


「話したくないなら、いいけど」


 明日香は小さく深呼吸して、選択の余地はないと諦める。


「むかし……春奈と同じくらいの頃、わたしも病弱だったんだ。だから、見舞われる側の経験しかない。見舞いに来たことがないというのは、そういう意味だ」


 春奈は気の抜けた顔で首をかしげた。

 笑うところのような気はするが、それにしては面白くない。そんな表情だった。


「病弱……?」


「いまのわたししか知らない人間は、誰も信じないな。春奈と同じような、胸の病気だったんだ。小学校は卒業できないだろうと、医者に言われていた……らしい」


「らしい、って」


「わたしには、知らされなかった」


 春奈は笑みを消し、ただ小さくうなずいた。

 それがどういう状況なのか、そして知らされないその本人がどんな気分なのか、いまの彼女にはわかりすぎるほどにわかっているのだろう。


「未知香ちゃんには?」


「聞かされていたのかどうかはわからない。ただ、あいつは……」


 ……言い淀む。遠くを見る目になる。その先に見える朧気な景色を、明日香は鈍い痛みとともに見つめた。

 周囲を漂う花と薬剤の匂いが、いまでも記憶のなかでつながっていた。


 病室の壁、白いカーテン。静かな声。窓際には花。色とりどりに咲き乱れ、花瓶に刺さったまま枯れて死ぬ花。虫酸が走る。重く淀んだ日々のなかで、ちりちりと心を刺す焦燥。

 わずかな芳香が鼻の奥に甦った。記憶のなかで消毒液の匂いと混ざるそれは、未知香の発する甘い香りだった。

 汗と埃と草と日差しと、彼女の生きる〝外〟の匂い。明日香にはあまりにも遠い……胸がつまるような、生命の匂い。


「あいつは察したんだろう、きっと。ある日突然、一人だけでわたしの病室に来て、言ったんだ。……〝さよなら〟と」


 最初、明日香はなにを言われたのかわからなかった。

 身体は固定され、投薬と疲労で五感も鈍って、世界はうっすらとした霧のような非現実感に包まれている。姉がどこかへ行くのか、自分がどこかへ移されるのか、混乱して訊き返すと、未知香は冷えた眼のままで唇の端を歪め、笑った。


 ――違う。あいつは、〝嗤った〟のだ。


「わたしはどこにも行かないわ。明日香が、逝っちゃうんだって」


 薄暗がりの、狭い病室。カーテンが、ふわりと舞った。埃臭い春の匂いが、細く開けた窓から忍び込む。


「明日香、嘘つきだね」


 長い沈黙の後、姉の声が聞こえた。朧気な影と、熱い息遣いが近付く。触れるほどの距離に立った未知香の身体からは、なぜか煮えたぎるような怒りと憎しみが噴き出していた。


「なんの……はなしだ?」


「お祖父ちゃんの町を守るんじゃなかったの? 一緒に働くんじゃなかったの?」


「ああ、そのことか。いまは……動けないから、しょうがないだろう、ずっと……病院から出してもらえないんだから」


「諦めたの。もうやらないんだ」


「やりたいとは思う、けど……いまは、無理だ。……でも、いつか……」


 視界の隅で、未知香がつぶやく。最初は聞き取れないほど、小さな声で。


「いつかって……いつ? 来週? 来月? 来年? ねえいつよ、病気が治ってから? お婆さんになってから? それとも生まれ変わってから?」


「……未知、香……」


「この町のために働く? 人のために頑張る? そんなの無理よね、もう。だって、明日香は心のなかでは諦めてるんだもん」


「無理じゃ……ない。諦めても……いない。やってみせるよ。もう少し……待ってくれれば」


「待ってたって無駄だわ、できるわけないじゃない。自分の身体も治せないくせに!」


 悲鳴に似た叫び声を残して、未知香が病室を出てゆく。彼女の蹴倒した椅子が音を立てて転がった。


 ――なぜだろう。その倒れた椅子の音だけが、何度でも記憶のなかに甦る。


 バシン、となにかを叩き付けた音で、明日香は我に返った。

 記憶のなかで倒れた椅子を探し、無意識のうちに周囲を見渡す。椅子はなく、病室も消えていた。ベンチの前に、投げられた本が転がっている。 


「未知香ちゃん、最低!」


 顔を上げると、春奈が頬を真っ赤にして怒っているのが見えた。目に涙を滲ませた少女の姿に、明日香は思わず当時の自分を重ねる。


「そんな無神経な言い方すること無いじゃない、酷いよ」


「あ……ああ、そうだな。わたしもそう思った。なんて酷いことを言うんだって」


「哀しかったでしょ、そんなこと言われて?」


 明日香は、曖昧な笑みを浮かべた。言うべきなのかどうか、迷う。やがて顔を上げ、きっぱりと首を振った。


「いや。哀しくはなかった」


 まったく、哀しいとは感じなかった。そのとき感じたのは、哀しみではない。

 それは、怒りだった。全身が震えるほどの凄まじい憤怒。


「ただ、未知香を憎んだ」


 そのとき、明日香は心のなかで復讐を誓った。

 無神経な言葉で傷付け嘲笑った姉を殴り倒してやると。高慢な笑みを浮かべたあの唇を叩き潰し、踏みにじってやると。彼女はその怒りを糧に身体と心を鍛え上げ、誰にも負けない人間になろうとした。なにものにも負けない鋼鉄のような自分を、作ろうとした。


 ……そして。


「理由がどうであれ、そのときからわたしは変わったんだ。あいつの言葉で一念発起したわたしは驚異的な回復を始め、見ての通りの丈夫な身体になった」


 少なくとも、結果としては。明日香は心のなかで呪詛の言葉をつぶやく。


 ――ここまでお前の手の内か。恨むぞ、未知香。


「でも……だからってそんな簡単には……」


 そう、そんなに簡単な話ではなかった。気合と情熱だけで回復するくらいなら、誰も長期療養などしない。明日香が歩んできた回復への道のりは、常に汗と涙と鼻水と悲鳴と唸り声を撒き散らしながらの長く暗く無様で惨めなものだった。


「最初は歩くところから、だったな。それでさえ大変だった。意地になって廊下に出ては、発作や体力切れでひっくり返ってね。わたしより看護士さんの方が大変だったくらいだ」


 最初は医師もまだリハビリには早いと止めていたが、何度言っても聞かない明日香に呆れて条件を出した。せめて無茶をせず適切な指導を受けること。要するに、監視役を置けということだった。


「トレーナーからリハビリのメニューを組んでもらって、少しずつ距離と時間を伸ばした。なかなか目に見える結果は出なかったけど、筋肉を付けて、肺活量を上げて、体力と抵抗力で病状の安定をはかった。やがて日常生活に不安がなくなると、負荷をかけて、速度を上げて……」


 一年半ほどすると、明日香はトレーニングを兼ねた外出の許可を得るまでになった。夢にまで見た、外の世界。その恐怖と不安は、いまでも覚えている。


「病状の再発もなかったわけじゃない。でも、体力がつくとそれは対処できるレベルに収まった。気が張っていたからなのかも知れないけど」


 こっそり抜け出して、格闘技を習いに行ったこともある。歩くのがせいいっぱいの状態ではさすがに追い返されたが、そのとき門を叩いた道場には退院後ずっと通うことになる。


「体力付けるのはわかるけど、なんでそこで格闘技?」


 首をかしげる春奈に、明日香はニヤリと笑って拳を突き上げる。


「もちろん、未知香の鼻面を叩き潰すためだ」


「回復にはそれだけの執念が必要だってことね。ヒナっちも災難だわ」


 春奈は呆れたように肩をすくめた。


「ヒナっちの鼻は潰れてなかったと思うけど、やらなかったの? それとも、返り討ちに遭った?」


「ある意味では、そうだ」


「え?」


「未知香は……あいつは、わたしがここで闘病生活を送っている間、物凄い勢いで勉強していたそうだ。勉強が好きだったかどうかは知らない、言わないからな。でも、なにかに怒り狂ったように勉強し続けた。実の親にさえ、頭がおかしくなったんじゃないかと思われるほどにだ。その目的がなんだったのか、わたしにはわからない。その結果あいつが得たものは、膨大な量の知識と技術と資格と賞状とコネクション。そして、いまのわれわれがある」


 春奈は、納得しきれない顔で見つめる。


「それが、あいつのやり方だったんだ」


「やり方……って?」


「甘えないし、甘やかさない。能力を認めれば容赦なく重荷を背負わすし、弱音を吐くヤツは突き放す。ずっとそうだ。嫌いだったよ。あいつのことは大嫌いだった。媚びない、怖れない、驕らない、腐らない。確かにあいつは強いよ。義務も責任も全部ひとりで背負って、平気な顔して笑っている。問題なのは、それが誰にでもできると思っていることだ」


「いまでも嫌いなの、未知香ちゃんのこと」


「未知香のしたことは許せないし、いまでも憎んでる。でも……それと同じ位の強さで、心のどこかでは未知香を慕っているんだ。認めて欲しいと思っているし、失望させることを怖れている」


 春奈は困った顔で首を振る。明日香の感情を理解できないのだ。しかしそれは、彼女自身もまた理解できないでいる感情だった。


「わたしが退院して家に帰ったとき、未知香は笑ったんだ。冷笑じゃなく、嘲笑じゃなく、初めて心の底から嬉しそうに、手放しで大喜びしてわたしを迎えてくれた。そして、力いっぱい抱き締めて、〝お帰り〟って、言った」


 振り上げた拳も行き場を無くして、憎しみも怒りも、どこかへ消えてしまった。

 明日香が生きることができたのは、未知香のおかげだ。それは間違いない。しかし、生きる力のすべてを憎しみと復讐で培ってきた彼女は、急に人生の目的を失ってしまった。


「わたしは、どうすれば良かったんだろう。未知香はあの時のことをなにも言わない。恩も売らないし、言い訳もしない。でも、わたしにはそれが耐えられないんだ。いっそ同じように罵ってくれたらいいのに」


「だって……だって、お姉ちゃんでしょ? わたしには姉妹がいないからよくわからないけど、そんなに大袈裟に考えなくったって」


「本当の、姉妹じゃない」


「え?」


「未知香とは、血のつながりはないんだ。あいつは朝比奈の人間で、わたしは拾われただけだ」


「拾われた、って」


「文字通りの意味だよ。生まれたときは名字も名前も違った。ずっと病院で育ったような死にかけの幼児だったんだよ。母親が逃げ、父親もいなくなって、わたしは物心つく前にひとりになっていた」


 明日香は自分の両親を覚えていない。自分の家も家庭も知らない。白い壁と白い服、病院の箱庭だけが幼い日の記憶だった。

 なにより身近な物だったはずの、洗剤と薬品と消毒液の匂い。それをなぜいま息苦しいと感じるのかはわからない。


「胸の病気の原因は、遥野工業地帯の環境汚染が原因だった……少なくとも、その可能性があった。朝比奈家は身寄りのないわたしを養子に迎えた。そんなことをする必要は、まったくなかったんだけどな。明日香という名前は、そのときに付けられた」


 語ったのは真実だったが、彼女は重要な部分を省いた。それを知ってしまったら、春奈との関係が壊れるのが確実だと思ったから。そんな自分を心のなかで蔑む。


 設楽美咲。

 それが生まれたときに付けられていた名前だった。父親の名は、設楽宏道。外の世界に出た彼女は自分の過去を調べ上げた。自分の戻るべきところがどこかにあるのではないかと、儚い夢を抱いて。

 それが夢どころか悪夢でしかないとわかったとき、明日香は自分に刻まれた呪いを心の奥深くにしまい込んだ。


「だから……」


 呆然とした表情で見上げる春奈に、明日香は苦い気分で笑う。


「……だから、いまでもあいつとはどこか打ち解けられない。それに、病院も苦手だ」


「やっぱり。この前聞いた〝入院してた知り合い〟って……明日香ちゃんのことだったんだ」


 明日香はうつむいままでうなずく。

 淀んでいたものを吐き出したことで気持ちは楽になったが、それと同時に自分を支えていたなにかを失ったような気もした。


「春奈、わたしはきっとお前と楽しいおしゃべりはできない。病院が好きなふりも、当たり前のお見舞いも。しかし、それは〝気持ちがわからない〟からじゃない」


 ヒマワリだって、本当は好きなわけではなかった。すぐに萎びてゆく生花の束を、見るのが耐えられないだけだ。


「そっか、てっきりわたし……」


 歪んだ声のトーンに振り返ると、春奈は宙に目を泳がしていた。

 眉間に皺を寄せ、なにかを考えているようにも見えるが、表情がひどく曇っている。


「春奈……? どうした、気分でも」


「未知香ちゃんと廊下で喋ってて、仲良くなったって言ったでしょ」


「ああ、最初に会ったときか」


「嘘なの」


「……?」


「検査の後、病室に戻りたくなくて屋上に上がったら、変な犬が吠えるみたいな声が聞こえたの。ま、それ自体は別に珍しくないんだけど」


 怪訝そうに眉を上げる明日香に、春奈は笑いながら指を振る。


「ホントに結構あるのよ。知らない? カップルがヘンなことしてたりとか、痴話喧嘩とか殴り合いとかもね。でも、誰かが発作を起こしてるってコトもあるんで……それで、こっそり見に行ったら」


 春奈の表情が、スッと陰る。


「そしたら、シーツの陰でね、大きなお姉ちゃんが子供みたいに大泣きしてた。涙と鼻水垂れ流して、壁をゴンゴン叩きながらね。バカみたいでしょ?」


 まだ幼児でしかなかった春奈には落ち着かせようにもなす術はなく、ただ背中をさすってやることしかできなかった。嗚咽と泣き声で言葉は要領を得ず、未知香はただうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。


「同じ、言葉?」


「そう、〝しゅかぁ、しゅかぁ〟って、ずっとね。そのときはなんて言ってるのかもわからなかったけど」


 明日香には、信じられなかった。姉が感情を抑えきれないなどということも、彼女が誰かになぐさめられているさまも。


「ねえ、明日香ちゃん」


 真っ直ぐに見つめる春奈と目が合った。彼女自身が泣きそうな顔で、ゆっくりと首を振る。


「未知香ちゃんて、そんなに強くないよ。全然、強くなんかない。……ね、三年前の春って、それが明日香ちゃんの病室に行った時じゃない? だって、あのとき彼女がずっと繰り返してたの……」


 春菜は笑う。ようやく謎が解けたというように。


「あなたの名前だったんだもの」

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